濱ちゃのロッカールーム
濱ちゃとSHADO
THE MAN OF SHADO / ラスト
ボーイスカウト / ファイアーマン
/ 「宇部沈」名物アナ
/ アニメを作る / 酒癖 / 戦うセンセイ
/ シャカシャカ / お約束 / 人間関係
/ 創ちゃん戦慄の日
/ 青天の霹靂 / 事例研究 / そして、宴会が始まる
/ 新生活が・・・始まらない!
/ 冬の終わり、冬の始まり
SHADOを作ったのが庵ちゃんで、現在のSHADOのスタイルを作ったのがN氏であるなら、そのバックボーンを体現したのが濱ちゃである。
自然を愛し、科学を愛し、人の空想力を愛す姿勢はメンバー各人に何らかの形で貫かれている。
漠然としたそれらを集約すると濱ちゃがその理想にもっとも近い。
ただし、濱ちゃ自身はその理想すらこえてしまうほど、超人的な人物で遊びにしろ仕事にしろ研究にしろ人の倍は努力して全力を尽くしてしまう。
その有り様を一言で現せば「THE MAN OF SHADO」と言えるだろう。
同名の映画はブルース・ウィリスが派手にドンパチするのであるが、濱ちゃは単なるボーイスカウト出身者である。
それもボーイスカウトのまま大人になった雰囲気がある。
これはもちろんキャンプや野営をするときに遺憾なく発揮される。
SHADOメンバーの多くが得意とする天体観測では野営技術は避けて通れぬ必修科目であるが、尋常ならない手際を見せたのもN氏と濱ちゃである。
聞けば両名ともボーイスカウト引退後もOBとして指導していたらしい。
キャンプで幾度も披露してくれたのだが、N氏は最新のキャンプ用具にもてあそばれ、一方で濱ちゃは最悪の状況でもサバイバル技術でみんなを助けてくれた。
濱ちゃのボーイスカウト技でもっとも得意だったのはテント設営よりむしろ火の扱いだった。
ファイアーマンとまで呼ばれ、爪の火から原子の火まで詳しい人物である。
キャンプでかまどの火を絶やすことは、料理方のひんしゅくの元である。
最近の着火材は優秀だが、昔のキャンプは薪と炭に頼っていたのでかまどの風の取り入れ口や着火の手順などのコツは、実地で覚えないと身に付くものではない。
濱ちゃはこの「かまど組み」と「点火」が得意であった。かまどの火ができれば、キャンプファイヤーまでは何とかなる。
が、野営の焚火はいささか勝手が違う。
特に、冬場の野営は焚火が生命線である。
熾火を作れる太い木を軸にして六時間以上の火を保持しなければならない。
薪の見積もりと軸になる木の確保を誤れば、明け方には凍えることになる。
この点、濱ちゃの手順は鮮やかで、まず破綻をきたすことがない。
2000年の正月は濱ちゃが不在でベーが立て直してくれるまで四苦八苦する羽目になった。「生」の火と違って電気の火は勝手が違うらしい。
濱ちゃは某高校の天文同好会初代会長を務めたが、その初めての文化祭で簡易プラネタリウムを上映する予定であり準備に余念がなかったのだが、ぐるぐる巻きにした電源コードが突如煙を吐きショートしてしまい後始末に奔走していた。
次の年もフィルム映写機でフィルムを焼ききったらしい。
どちらもボーイスカウトには無縁の火ではあるが、濱ちゃにしては油断と言えるだろう。
HAAが中心となって作った実写作品が「宇部沈没」である。
この作品、フィルム代をけちってアフレコはカセットテープで採ったため現在では無声映画になってしまった。
濱ちゃはこの作品で重要なキャラを演じている。
この作品のインターミッション的なギャグでアナウンサーが繰り返し登場する。
元は宇部のローカル局の真面目なアナウンサーが、地震で受信施設が壊れたためにすべてアナウンサーのライブになってしまい、ハチャメチャになっていく様子が描かれている。
このアナウンサーが濱ちゃの役どころであったのだが、あっと驚くハイテンションな名演技を見せてくれた。もっとも後日、この役を恥じ密かにオリジナルのフィルムにはさみを入れたとか入れなかったとか。
濱ちゃのPAF(プライベート・アニメーション・フェスティバル)用アニメ作品の制作に立ち会ったことがある。
毎度のことだが忙しい身分なので、セルアニメも紙アニメも書いている暇がない。
そこで考えたのが、「その場でアニメ」である。
現在であればパソコン上で絵を描き、直接絵を少しずつ触りながらひとコマづつ撮影していくところであるが、濱ちゃが当時そんなお坊っちゃまな機械を持っているはずもない。
そこで紙にクレヨンを重ね塗りして一番上を黒で塗り、この黒を削って絵を書いていくのである。
絵を動かすときには、動かすところを黒で塗りなおし、動いた絵を改めて描くのである。
描く、コマを撮る、塗る、描く、コマを撮る、塗る、描く、コマを撮る、塗る、描く、コマを撮る、塗る、描く・・・と続けて仕上げるのである。
問題はPAFの制作時期が真夏で、しかもこの描き方は撮影用のライトの下でやらねばならず、髪は焦がすは、汗だくになるは、と大変な制作になってしまった。さて、現像から上がったフィルムを見ると・・・暗い。
露出がアンダーなのか、色調が悪かったのかわからないが、暗くなってしまった。
ついでにBGMのアフレコもマイナー調の暗めの曲を付けてしまった。
こうして汗と涙の結晶として出来上がった木の葉が舞い落ちる様子を描いた10秒ほどの作品はちゃんとPAFで上映されたが、残念ながらほとんど観客に感銘を与えることができなかった。
「磨りガラスで透過光にすれば良かったのか」などと反省していたが、シリーズ化にはならなかった。
「弘法も木から落ちる」といったところである。
SHADOでは濱ちゃとの飲みを楽しみにする人間は多い。
生真面目な中にあっけらかんとした雰囲気になるので安心して飲めるのである。
多少飲んでも部外者には彼が酔っていることが分かりにくい。
従って、逸話が多いのも確かである。学生時分の飲みは何かと無理が多い。
エタノール試薬一級が登場することもある。
さすがにとことんまでやると濱ちゃでも怪しくなる。
下宿と反対方向に帰って行くこともあるし、千鳥足のまねをして本当に転けたりもする。
彼の酔いの兆候はSHADOの宴会ではよく分かる。
昔のSHADO宴会は撤収を容易にするために、袋物や缶詰を肴にすることが多かった。
宴が進むと酔いに比例してごみが発生することになるが、たとえ宴たけなわであろうとも、彼はこのごみが許せないのである。
やわら、酔った勢いで、弟の「べー」共々片付を始めてしまう。
別に、宴会の終了を告げるわけではない。
SHADOの宴会の習慣のようなものである。
かなり酒が入っていても片付けるので下手をする躓いたりして、片付けながら散らかすこともあった。
さらに酒が入ると、自白癖が始まる。
事実の一端を彼に問いかけると、必要があるのかと思える事までしゃべってしまうのである。
このしゃべってしまった事をさらに突っ込むと、どんどん自白してしまうのである。
オーバーアクションに状況を説明する事もあるので、体をあちこちぶつける事もある。宴会が終わって事件を発見する事もある。
ある宴会が終わって帰途についたところ、自宅の近所で火事を発見してしまった。
誠実な彼は119番し市民としての義務をはたしたが・・・・翌日の新聞には第一発見者の大学生A君になっていた。
断じておくが、焚き火の達人である彼は火の恐ろしさを熟知しているので、失火などという愚行はおかさない。
ましてや放火のような手の掛かる事をする暇があったら、彼は学校で実験をしている。SHADOのメンバーの多くは取材拒否をしているあるスナックで酒の何たるかを教えてもらった。
昔はバーボンで魚を食べ、カクテルをたしなみ、ジュークボックスをBGMに蘊蓄を聞いていた。
現在はあっと驚く日本酒の「スナック」である。
こんな店に通った仲間でも濱ちゃは舌が効く方なので、次々に美味い酒を楽しんでいった。
大学の先生の生計というのは、学会や学生に押し潰されそうになるので、束の間の贅沢だったはずである。
しかし、いい酒には特徴があり、いい酒を飲むと悪い酒が分かるようになるのである。
そして、「生活が落とせなくなる」のである。
現在では、学会に海外にまで出かける事になり、生活苦の末、飲みに出かける回数は減ったようだが、酒の質だけは落とせずにいる。(店に通っているメンバーに共通した病気だな、これは。)
濱ちゃはいつもいろんなモノと戦っている。
本人は普通に暮らしているつもりでも、はたから見れば臨戦体制である。
中学生とも戦い、高校生とも戦い、短大生とも戦い、大学生、大学院生とも戦う。
時間とも戦い、貧乏神とも戦い、グラインダーにすら戦いを挑む。
もちろん連戦連勝にはならず、グラインダーでけがをしたりする。
いずれも誠実に研究を続ける姿勢の現れでが、自分に厳しく人に優しいので毎度ニコニコと世の不条理に身を投じていく。にこにこしているのでストレスが無いかというと、そうはいかない。
一頃、十二指腸を病んだ。
医者に行くと、原因物質の摂取を止められた。
「煙草はだめ、コーヒーもだめ。」と言われ、誠実な彼は言われたとおり好きな煙草とコーヒーをあっさり止めてしまった。
もっとも、指摘されなかった紅茶と酒は今でもたしなんでいる。
原因物質には違いないと思うのだが、「恐くて医者にきけない」そうである。
かくて、彼は紅茶と酒に非常に詳しくなった。
濱ちゃはてきぱきとことをこなす。
思考する時間を確保するために、無意識に無駄な時間を限りなく圧縮しようとするらしい。以前、マスター、スイケンと濱ちゃが釣堀に行ったとき、本来ならのどかな日和を楽しむはずが、野戦部隊さながらになった。
スイケンは釣り人であるからせっせと釣り上げる。
マスターは料理人であるから、片端から料理していく。
濱ちゃはボーイスカウト出身だから、どんどん段取りをつける。
気が付いたら即時撤収の状態になっていた。濱ちゃは電脳廃人であるから、秋葉原や日本橋に寄るチャンスがあると必ず脚を向ける。
秋葉原なんかはマークする店は10店近いと思うのだが、たとえ2時間程度しか時間が無くても全部周る。
普通、無理である。
無理を可能にするのが、濱ちゃの脚である。
大体地元の人間の2倍速で歩き回る。
走るがごときスピードで競歩するのである。食事だって2倍速である。
マスターは濱ちゃに賄い飯を提供するが、常に挑戦的なメニューが登場する。
量が多かったり、辛口だったり、熱々だったりしても「大丈夫」といって5分で食べてしまう。
丼物なら2分で片付ける。
昔、クイック1という1分でできるカップ麺があったが、困ったことに、できるスピードは倍速でも、のびるスピードも倍速だった。
が、彼ならおそらく大丈夫である。濱ちゃが行動する様を観察するとを「シャカシャカ」と形容するとピッタリである。
その彼が矛盾するのが、通勤距離である。
中学教師と高校教師をしていた頃の通勤距離は60km、短大講師時代が35km、大学助手の時代も40km近い。
移動中は何もしていないと思う。
彼のことだから一所懸命運転しているはずである。
彼はミッション車に乗るが、シフトノブが擦りへってテカテカになっていたのが、妙に印象的だった。いかにも人生を最短距離で歩いているようだが、自分の信条に触れるところは譲らないので、信念を持って遠回りしたりする。
このあたりが何とも「味がある奴」なのである。
人の美徳の一つに「約束を守る」ことがある。
濱ちゃは誠実な人間だから、もちろん約束には厳しい。
人の約束に厳しい人はいくらもいるが、自分に対して厳しいのは立派である。
もっとも、時間に追われる昨今では、約束にはやや遅れ気味であるが、やむを得ない。濱ちゃは特に「自分の口から出ることに嘘があってはならない」としている。
自分が指導した陽電子砲の理論などは庵ちゃんに事細かにリポートしていた。
将来に関することでも、可能性があることは断言せずに保留する。
一度、「濱ちゃは結婚しないのか?」という話になった時の回答は、「その気がないといえば嘘になる。」というものであった。
きわめて率直な回答であるが、極めて慎重な言い回しである。
読み解くのに一拍必要な、公務員のような発言だが、彼は公務員である。
そういう性格であるから、皆は彼を詰問して追い詰めるのは危険だと知っている。
「分かった」と言ったが最後、どんな理不尽な約束でも守ってしまうのだ。どうやら、服装にもお約束があるらしい。
シャツは第一ボタンまできっちり止める。
目的に合致しない限り、トレパンをはかない。
胸のポケットには必ず筆記用具が入っている。
そのくせ、書き留めることがあると、ペンを探したりする。
と、いうことは、濱ちゃの癖は使った筆記用具は胸に差すことではあるまいか?
胸のポケットいっぱいにペンが入っているのは、そこいら辺のペンを片端から回収しているだけではないかといえる。
さきにも触れたが、濱ちゃは人に好かれる。
さらには人付き合いもいいので、ことある毎に様々な場所に引きずり出される。
では女性にも、もてるのではないか?
その通りであるが、本人はその自覚がないし、むしろ避けて通っている。
高校の先生だったときは大変である。
バレンタインデーなんかは、胃が痛かったのではあるまいか。
それでも、一介の教師としての立場を何とか保った。
「カボチャ畑」と唱えれば、授業だって平気になった。濱ちゃと一緒に女性に会うときは、そのストレスが伝わってくる。
話しかけるべき相手は、あくまで相手の女性であるべきなのに、同行者の男性と女性を半々に見ながら話を始めるのである。
女性に対しては失礼なことであるが、彼としては精一杯の努力をしているのである。
メンバーの中で三バカというと濱ちゃ、サム、創ちゃんであろうか。
昔からつるんで遊んでいた。
大学を卒業して創ちゃんはしばらく学校に残っていた関係で、そんなに合っていられなかった時期に、フェイントをかけてサムはさっさと結婚してしまった。
ぶつぶつと口では文句を言いながら、披露宴に出た二人の受難の日々は実はこれからだった。サムが子供をつれて二人の実家に遊びに行くにである。
サムが帰った後の家族の態度が彼らを傷つけた。
かわいかった、孫はいい、の言葉にプレッシャーを感じない独身がどれだけいるだろう。あいにく、無い袖が振れない二人はサムに子連れで遊びにこないように頼むしかなかった。
月日が流れるのは早いもので、あれから十数年経った。
いいかげんに、と強力な縁談が持ち込まれたのだが、濱ちゃは異常に慌てた。
慌てた事情が、平成10年の成人の日に明らかになった。
この日を指定して、スイケンから我らが喫茶店に招集がかかったのである。
スイケンの寿の発表か、と、ぞろぞろ出かけると、寿はなんと濱ちゃであった。
創ちゃんは明らかに動揺し、煙草は落とすは足元は怪しくなるはの状態である。創ちゃんの来世は濱ちゃ、濱ちゃの来世は創ちゃんとふざけあっていたのに、濱ちゃが抜けてしまう。
サム一族の攻撃だけで大変なのに、濱ちゃ一族まで攻撃してくると、お見合いをせざるをえない所まで追い込まれるに違いない。
濱ちゃのことだから、結婚式場に乱入してくる女性はいないだろうが、追い詰められた創ちゃんが乱入するかもしれない。
聞くところによると、濱ちゃと彼女の付き合いは丸二年になるそうである。
忙しい、忙しいといいながら、よくまあ周囲を謀ったものである。
そういえば、この頃こぎれいにしていたし、スイケンがニヤニヤしていた。(スイケンがニヤニヤしているのはいつものことか?)本格的にアプローチが始まったのが97年の6月で、発表が98年の1月15日、2月1日に結納で、3月15日に挙式というのは、どうも慌ただしい。
まあ、「2ヶ月前までには寿通知をしましょう」というのは、貧しいメンバー間の了解事項であるから、条件は満たしているのだが、3月にならないと新居も決まらないというのは尋常ではない。地方では、恋愛結婚でも見合いと同じ段取りを踏む。
従って、正式には仲人が釣書(履歴書)を持って両家を往復し、親族顔合わせの日取りを決める。
親族顔合わせは見合いに当るわけだ。
再び、仲人は両家を往復し、「如何」と問い、再び顔合わせをする。
これが済酒の儀である。
またも、仲人が両家を往復し、結納の日取りを決め、結納当日は新郎宅で結納の品々を預かり、新婦宅に赴く。
新婦宅で結納返しを受け取り新郎宅に赴き、新婦宅に報告する。
新婦宅では輿入れの祝いの宴を張り、親族に報告する。
挙式当日、新婦は近所に挨拶し、仲人の先導で新郎宅に赴き、華燭の典を張るのである。
抜けがあるかもしれないが、大体こんなところである。今回、到底こんなことはやってられないので、失礼にならないところはとことん端折った。
こんなに慌ただしくなったのは、オメデタが原因である。
濱ちゃのオメデタだったらメンバー全員、気を失いかねないが、新婦の妹さんが、6月にオメデタで、ジューンブライトが封じられてしまい、祝い事を前倒しにしたのである。前倒しになって、倒れそうになっているのは濱ちゃの方である。
「論文を書いて、ペーパーを用意して、学会の準備が・・・」と、日頃から叫んでいるのに、結婚の一連の支度を、結納込みで2ヶ月でやる羽目になったのである。どうなることかと思ったら、どうも余裕ありげである。
実は、忙しくなる要因が幾つか抜けているのである。
まず、住む家が決まっていないので、買い物の騒動をしなくてよい。
次に、当面新婚旅行がないので旅支度をしなくてよい。
さらに、披露宴の段取りを相談しようにも、新婦はフランス旅行中である。(^_^;)
旅行の方が結婚より先に決まっていたので、旅行に出かけてしまったのだそうだ。気は焦るのにすることがないので、いつものように実験をし、庵ちゃんがテレビに出てたと騒ぎ、馬鹿話に興じているので、嵐に前の静けさを思わせる。
何しろ、このメンバーで、しかも濱ちゃの結婚式である。
結婚とは人生の交通事故だそうだが、メンバーは事故の経緯を知らされていないのである。
さて、乏しい情報の中から今回の事例を整理してみたい。
話の発端は、1996年末に遡る。
両人ともクリスマスコンパの数合わせに引っ張られてきたらしい。
二度めは年が明けてからである。
やはり、コンパの数合わせにたまたま引っ張られたのだが、偶然が二度続けばそのあとに必然が続いても不思議ではない。
濱ちゃにしては希有なことに電話番号を交換した。
ところがさすが濱ちゃで、そのままにしていたらしい。
周囲の人間は、そんなことをすると女の子は泣くぞ、と説得し連絡をとらせた。
運がいいのか悪いのか6月が彼女の誕生日で、その日に合うことになった。
プレゼントを強要されたのも同じである。
以後6ヶ月何があったかは、記録者は知らない。
濱ちゃが彼女の気配すらさせなかったのは確かである。
もし気配があれば、誰かが指摘し、それに対して濱ちゃは自白を始めたはずである。
ともあれ、1997年11月には今回のドタバタが発生する素地はできていたらしい。
で、年を越して新年の挨拶に彼女の家に行ったとき、結婚はいつだという話になり、あわてた濱ちゃは「お嬢さんを下さい」とその場で申し入れたのだそうだ。
問題はこの時まだ、プロポーズをしていなかったのである。
彼女は立場がない。濱ちゃはあくまで主導権は自分にある、と言いはっている。
話半分には聞いておこう。先日、1997年はじめにあったときの写真を見たが、あの濱ちゃが彼女に寄り添っているのである。
それも実にうれしそうに。
この写真が公表できないのは、一説にはあまりにらしくない写真であるからということだが、真実は意外なところにあり、この写真で濱ちゃのセーターから襟が片方しか出ていないのである。
これは確実に濱ちゃの美的感覚に反している。
本項は削除せざるをえなくなったのだが、濱ちゃの人徳で披露宴と二次会には本当に懐かしいメンバーがそろった。
二次会は我らが喫茶店で「茶話会」だったのだが、飲み助ばかりでは実にちぐはぐである。
かくて、濱ちゃの新生活が始まるはずだったのだが、そう思いどおりにはいかない。
今回は特に「泥棒を捕まえてから縄を綯う」状態だったのである。(誰が泥棒だ?)まず、結婚式に前後して決まるはずだった公営住宅に外れた。
次の応募は月が変ったあとなので、「さまよえる新婚夫婦」になってしまった。
だから、独身時代と同様に我らが喫茶店で夕食を取っているかといえば、そうもいかないらしい。
ほとんど行方不明状態である。新居が決まり引っ越したのは、実にゴールデンウィークのことだった。
あくまで引っ越しであって入居ではない。
体制が整う頃には「義和団の55日」の記録を塗り替えるのではあるまいか?
温泉の隣にあるペンション作りの新居(3LDK22坪で家賃5万円しない)に冷やかしに行ける日を我々は楽しみにしているのだが。「次は新婚旅行だ!」
濱ちゃはようやく新婚旅行の計画に着手した。
実現は夏になりそうである。
ヨーロッパ手作り(というより濱ちゃの執念深い調査による「活き造り」というべきか・・・)新婚旅行も終わり新居の紹介もすみ、ひたすら遠距離通勤と研究生活を積み上げる日々が始まった。
当然、我らが喫茶店に登場する間隔も開いてきた頃正月を迎えた。
仲間の正月は忙しい。
除夜の鐘を聞くと御来光や新年会で元旦は大変である。
濱ちゃは例年のように海岸で火の守りをして、宴会の会場で奥さんを接待していた。
この頃、気になる咳をしていた。
「風邪が腹にきて長引いている」とは言っていたが、いわゆる空咳である。
この後、店に来る間隔が大幅にあき、皆は新婚さんは大変だなぁ、と思っていた。この年の2月に雪が降ったとき、ベーがバイクで衆人の前で転倒し骨折してしまった。
この入院中、見舞いに言ったマスターは思いがけないことを聞かされた。
濱ちゃが胃がんで入院中だというのである。
胃がん自体は治癒率が上がっているが、患部が狭く深かったため、がん細胞を腹部にばらまく結果になっていた。
濱ちゃは直前の10月に人間ドックに入っていたにもかかわらず、である。
この入院直後、ある知らせが関係者を困惑させた。
奥さんのご懐妊である。以下にその闘病生活を記す。
1999年1月1日 宴会 1月17日 Mailにて在職中を確認。 2月25日 入院 3月*日 手術
開腹時に腹水が若干あり、検査の結果がん細胞が見られたとのこと。
つまり、破れたリンパ腫があったと考えられ、どこに転移してもおかしくない。
ただし、開腹時に目に見えるリンパ腫はすべて除去してある。
背中側に関しては手術時に直接見ることができないのでCTで追跡することになる。3月*日 マスターがべー(骨折)を見舞って、濱ちゃの顛末が発覚。 4月4日(日) 新居に奥さんと外出しようとして途中で挫折。 4月5日(月) 抗がん剤治療開始、適性を見るものらしい。
24時間4週間点滴が続く。4月11日(日) 一食3分で食べてたのに一食1時間以上一日6食。
急ぐと苦しいうえに食後に熱がでるので、体力づくりの散歩の時間がとりにくい。
当面は胃(?)が落着くのと、帰宅する体力をつけるのが目標。4月17日(土) 学生がお見舞い。その頃、濱ちゃは掃除で廊下に追い出されていた。
傷口をかばおうと、自然に猫背になるのでかみさんに注意されていた。4月20日(火) 夕食時期になると元気が無い。
何しろ夕食の分量だと食べるのに1時間の休憩をはさんで3時間もかかる。
特に鯛やささ身のように繊維がしっかりした動物性蛋白は強敵である。4月23日(金) まだ活字を読む集中力が出ない。 4月27日(火) 今日から普通食。
いきなり肉ジャガに忌避品目の椎茸と糸こんにゃくが入っていた。5月3、4、5日 黄金週間で一時帰宅。
一回目の抗がん剤の点滴終了。5月5日(水) 奥さんの実家から帰院の途中、久々に奥さん同伴で店に登場。
雑炊の椎茸をよけながら40分かけて食べる。
この際、民間療法も併用を検討するとのこと。
忌避食物は消化が悪い、熱い、冷たい、低カロリー、刺激物と実に面倒くさい。
医者は「胃を切ってこんなに食う奴も珍しい」とほめて(?)いたとか。5月7日(金) CT検査でリンパ腫の縮小を確認。
ただし、抗がん剤により白血球が減少しているため、一時退院が決まる。5月8、9日 退院準備ならびに家族会議で外出。
当面、通院の都合があるので、どこに住むのかが主な議題。5月10日(月) 新居で静養開始。
抗酸化酵素の摂取開始。5月19日(水) 通院後、夫妻で店に登場。
一時間かけてランチを食べる。
血液検査の数値はいたって良好。
見た目にも調子はよさそうだが、猫背がクセになっている。5月23日(日) 消化器官が細いので、消化が悪いものがつかえると非常に苦しい。
(腸捻転と同じ状態)
具体的には週3日程度、勤務地にある病院で一時間程度の点滴を行う。6月1日(火) 仮復職。
二日の出勤で体力不足を痛感。
横になってばかりで歩いていなかったので尻の筋肉が落ちた。
そのため、円座も愛用。
通いで抗がん剤治療。6月13日(日) 月、水、金が点滴で他は経口投与。
ただでも食事に難渋しているのに、経口投与であるため食欲不振。
新聞を買いに行くのと草むしりが主要な運動なので運動不足。
もっとも摂取カロリーも減っているのでバランスするところまで体重は落ちざるをえない。
体重が落ちた様子は顔を見たらわからないが、足、尻、背中の筋肉は落ちたらしい。
特に背中の筋肉が落ちると睡眠不足になるのでエアーマットを借りてきた。6月14日(月) 再出勤 7月5日(月) 現在、二日行って一日休む状態。
体重は60kgを切り、ようやく顔痩せしてきた。7月19日(月) 一日6食ても平常時の半分の量にしかならない。 8月1日(日) 現在体重56kg。顔つきが学生当時に戻った。
投薬もあるので結構きつく、先週はお休み。
筋肉が細くなって、何事も辛い。8月15日(日) 盆は実家で静養。 8月22日(日) 医者が驚いたことに抗がん剤を2ヶ月入れても白血球が減らない。
(奥さんの食事の効果?自宅静養の効果?抗酸化剤の効果?)
反面、抗がん剤投与は継続され、濱ちゃはグロッキー。8月30日(月) 背中の筋肉が落ち腰痛がきついので勤務地の病院に一時入院。
痛み止めの治療と高カロリー点滴が主な目的。
回復後、新居で静養を継続し、奥さんの実家近くの病院に転院する予定になる。
筋肉が落ちたせいか腹部のしこりが気になるが、医者の指摘はない。
体重53kgはさすがにこたえる。9月12日(日) ペインクリニックで痛みがうまくブロックできず、薬を変えることになる。
一種の筋肉痛ともいえるがかなりきついらしい。10月12日(火) 奥さんの実家近くの病院に転院。
勤務地の病院では夜中に昼寝で目の冴えた老人たちが座談会を開き、よく眠れなかったので個室をもらった。
この後、便秘が実はS字結腸状態に起因することがわかり、絶食の上便秘薬を投与される。
1600kcal/日しか摂取できないうえ、2時間おきにトイレに立つ。
一週間余でせっかく57kgになった体重が54kgにまで落ちた。
便秘はその後めどがついて、流動食が始まり、3000kcal/日近くがんがんカロリーを摂取する。10月24日(日) 寝たままだと血色が悪いが座ってしばらく話していると、顔色が戻ってくる。
が、あまり座っていると筋肉が落ちていて辛くなる。
病室は実に立派な部屋で、食事もうまいらしい。
鯛茶漬けに生野菜を乗っけて食いたいらしいが、どちらも消化に問題があって今は無理。
腹のしこりは大腸上部の直径5cmの癌によるものらしい。
血液検査では他の内臓系には全く異状が無い。
CTで拾えるのは1cm以上なので小腸大腸の絡みは何ともいえないようだ。
癌が縮小するかどうかで今後の手段が変わるようだ。10月26日(火) 第一子誕生 10月30日(土) 検査の後はグロッキーになる。 11月5日(金) 「下血があり輸血を受けた」と本人から店に電話があった。
血液検査の結果、マーカーに弱い陽性がでた。11月13日(金) 会話をする元気はないが、トイレには自力で行く。 11月21日(日) 体調がやや良く、話が若干できたが会話に弱音が見える。
腎臓が不調でむくみがでたため、まもなく抗がん剤投与を一時中断することになる。11月24日(水) 病人が体調が悪いのは当たり前だが、それでも心遣いをしようとする。
体重が57kgに戻る。11月28日(日) 体調がやや良だが顔色が白い。
体重が60kgに戻るが、実は腎臓の不調によるむくみ。
特に足にむくみが強く出ている。
食道から直接栄養を摂取しており、長らく食事らしい食事をしていないためか、和食の話に執着する。12月12日(日) むくみは取れたが体調が悪い。
むくみがあるうちがむしろ体調が良かったらしく、パソコン、プリンター、年賀状ソフトが部屋にに積んであった。
年賀状の宛て名の追加修正をしていたらしい。
腸閉塞が起こりやすいので、経口では食事が取れない。
奥さんが泊まり込みで付き添っている。
ときどき痙攣が出る。
苦しいのか、口が開きっぱなしになり、喉が渇くので氷水をしばしば摂取する。
午後から意識障害が始まる。12月15日(水) 意識混濁ながら眠れなくなる。 12月16日(木) 長男のお宮参りの衣装ができる。
濱ちゃが足と手を動かし、見せろと催促する。12月17日(金) 呼びかけに目で反応するが、喉が渇き声がでない。
誘眠剤の提案もされるが拒否。
輸血が3本用意される。12月18日(土) 痛み止め投与。
眼球で弱く反応する程度。
発熱あり。
顎で呼吸し、時々大きく息をする。
心拍計がつながれているが、アラームはまだセットされていない。
心拍数100、血圧78/34前後。12月20日(月) AM1:30様態急変。脈拍数が減り、血圧が下がる。
AM4:40雪が降る朝、多臓器不全による心停止により永眠。享年39才。その寒い日に行われた葬儀は多くの友人に見守られて行われた。
火葬場で骨を拾った友人も少なくなかった。
我々が再び覚えたこの胸の痛みが癒えるのにどれだけの日々を費やすのか今はまだ判らない。
我々もいずれうつつを辞し、濱ちゃに再びまみえる日が来るのだろうが、その日まで気長に待っていてほしい。
何しろ我々はおそらく濱ちゃの倍はトロイのだから。