N氏のロッカールーム
N氏とSHADO
N氏登場 / 瞬間芸の炸裂 / 交渉しませう / ぐるぐる / 0.1トン
/ 四輪トラウマ / 潜り込む / 修羅の街
/ 凍れる春 / TAD'S GALLERY / お仕事
/ 八岐之大蛇の逆襲 / 七回忌
N氏の登場は前述したが、インパクトが強過ぎるものだった。
「私、商業高校のN氏と申しますが、友人から本日ここで観測会が催されると聞いて、訪ねてまいりました。 よろしければご一緒願いませんでしょうか。」
と、深夜の真っ暗な墓場のど真ん中で、明かりを消した自転車をカラカラと押しながらのたまわったのである。
闇に目を凝らすと、何だか大きなものが、のしのしと近づいてくるのだった。
既に体重は80kgを超えていたとおもう。
天体観測の会場に礼儀正しく初登場しようとした彼の誠意は立派である。
しかし、その場に居合わせた人間にその誠意が伝わったかどうかは疑問である。
では、N氏に闇観を知らせた友人とは誰か?
それこそが、SHADOの元始会員の面々である。
そして、N氏自体もSHADOの元始会員なのである。
N氏は行動の人である。
思い付いたら体(0.1トン)がまず動く。
体を張った瞬間芸は彼の十八番とするとこである。
出っ張った腹を利用して、ヘソにマッチの軸を包んだアルミホイルを詰め「波動砲発射!」と、火を点けたら火傷してしまった。
結果を想像するよりも先に体は動くらしい。
ところが、酒が入ると理路整然と森羅万象の話を始めることもあり、瞬間芸=宴会芸とは言いかねる。
捨て身の瞬間芸「イデオンソード」とか、鼻に電球を突っ込み取れなくなったり、腹にCDを挟んで見せたり、瞬間接着剤を腹に挟んでこぼしたり・・・。
瞬間だけの芸ならともかく、披露宴のビデオに向かってビールを一気飲みしてゲップを記録したりする。普通の生活でもそれなりに冗談である。
上向きに寝ていると自分の腹の重さで呼吸が苦しくなり目が覚めたりする。
太り過ぎて自分のナニが腹に埋没しそうになり、男女交際にはダイエットが必要だと言いはじめる。
背中がかゆくても自分では手が出ない。
バイクのタイヤの減りが人の倍だといって不思議がる。(体重が倍だもの)メンバーの私生活を派手に侵害しても、「仕方がねぇ」で済んでいるは、この憎めない行動にも一因がある。
交渉しませう
SHADOでN氏は事務局の業務をしていた。
これはPAF出品作品の取りまとめ、独自上映会の会場交渉、作品貸出し等の渉外を指すと考えてよい。
ツーカーの間ならこれらの交渉はあっさり終わるのだが、初めてのケースだとか前例がない場合だと話がややこしい。
通常は双方の妥協案をひねり出すのだが、N氏は違う。
切り口を変え、見方を変え、表現を変え相手を納得させてしまう。
納得した後で、よくよく考えるとN氏の初案通りになってたりするのである。
例をあげると記録者の結婚披露パーティーはN氏に一切を仕切って頂いたのだが、ホテル側には単なるパーティーとして通してしまった。
これは結婚披露パーティーとすると単価が跳ね上がるからである。
しかも、パーティーにおける役務分担は身内に有無を言わさず割振ってしまう。
N氏及び関係者には汗顔のいたりであるが、心より感謝している。この交渉を身内に対してやるときは、かなり手を抜く。
「な、いいだろ、いいじゃないか、やるだろ、な、な。」
と、押し通してしまう。
このパターンにはまると、諦めざるをえない。
SHADO内部の外のメンバーに振れる場合はまだいいが、指名事項ともなると快く引受けた方が身のためである。
この格好の標的になったのは、シンヤとスエであろう。
涙なくしては語れない目にあっている。(笑い涙か?)これはおそらく、日常の業務でもそうであったろう。
マスコミ関係の前線にいたのだから、取材には不可欠な要素といえる。
ワイドショーじゃないのだから、快く取材を引受けてもらう必要がある。
神戸の震災の写真取材はその最たるもので、被災者と同じ視線で救急救援救助活動をしながらオフローダーで移動し、記録を撮っていった。
震災の報道を見て憤りを感じた方々も多いと思うが、こういうジャーナリストもいるのである。
講談社の紙面を飾ったのは単なる結果としての写真で、その写真が人々に訴えかけるものがあったとすれば、それは現場を見た写真ではなく、現場に居た人間の写真だったからに他ならない。
ぐるぐる
N氏は、人間というのは酒が入ると陽気になるものだと決めている。
したがって、場が盛り上がらないと酒の量が足りないのだと判断する。
そこで、あの手この手で酒を飲ますのだが、その傑作が「ぐるぐる」である。年に一度の宴会ともなると、員数は20人にもなる。
これを個別に酒を勧めると大変非効率で、さらには自分が真っ先に酔いつぶれる可能性が高い。
ある宴会で、タンカレー(ジン)のボトルを手にして彼はゲームを思い付いた。
「ルーレットをしよう!」
ルールは単純で、ボトルをテーブルの上で水平にルーレットのようにグルグル回し、ボトルの口が指した人間は酒を飲まなければならない、というものである。
早速、まだジンが残っているタンカレーのボトルを回そうとするN氏を、「濱チャ」と「シャー」が「もったいない!」と慌てて制止した。
本意は、いい酒をかき混ぜるようなことはやめろ、ということだったのだが、N氏は単に酒が惜しいのならと解釈して、残りのタンカレーを一気に飲んでしまった。
ちなみにタンカレーは何を飲み食いしても「旨い!」というN氏に、黙って一気飲みされていい酒ではない。
そうして、最初のボトルが回った。
ディーラーはもちろんN氏である。
この時の被害者は神さんだった。
最初の2杯はいい日本酒を振る舞ったのだが、3杯目は惜しいので一般市販酒に切り替えた。
日本酒の苦手なカミカワシは3杯目のあまりの不味さに顔をしかめ、N氏を大変喜ばせた。
しかも、このルーレットは飲みたい人間に限って、なぜか当たらなかったのである。翌年も、この「ぐるぐる」と命名されたルーレットは、行われた。
飲まない人間に優先的に飲ますことができるのなら、N氏の要求にピッタリだからである。
ところが、どうやらN氏はバッカスの怒りに触れたらしい。
この年、ボトルの口はことごとくN氏を指し、N氏自身が酔いつぶれてしまったのであった。
(横幅が広いN氏がディーラーを務めること自体が無茶であると指摘された。ルーレットの目の1/6以上の投影面積をN氏が占領していたのである。)現在も正月の宴会に「ぐるぐる」は敢行されるが、ほんの数回にとどめている。
確かに趣向としては面白いが、危険遊戯であることがはっきりしたからである。
0.1トン
先にも述べたようにN氏の体重は100kgを超える。
これをめぐって様々な悲喜劇があっただろうことは容易に想像できる。
エンゲル係数を酒とジャンクフードにつぎ込んだ結果だが本人は意に介していない。
周囲から「トド」と言われても無視し続けていた。無視できなくなった要因に、海外取材があったと思う。
N氏は英語ができなかったのだが、開き直ると昔覚えの航空管制英語でしのいでしまった。
彼はスーパークロスなどの取材をする日本人としたは、ちょっとした有名人だったと思う。
海外でもジャンクフードを食い散らかし、特にチョコバーがお気に入りであったところから、現地では「ミスターチョコバー」と呼ばれていたらしい。
もっとも、通常は「TAD」と呼ばれていた。
が、「TAD」=「トド」に聞こえるのである。
N氏はここで驚異の開き直りを見せる。
何と自分を「アザラシ」と渾名したのである。
トドよりマシで、自分の美意識に許容できるところが「アザラシ」だったのではあるまいか。
確かに、「オットセイ」といったら張り倒されるとこである。真剣にダイエットしようとした時期も何度かある。
医者に脅かされ、血糖値を気にし、自分でチェックする試薬を試したところ陽性の反応が出た。
彼はショックを受け一日に何度も、血糖値を計って、「さっきは出なかった」「今度は出た」と騒いで、ダイエットの方法を知り合いに尋ねはじめた。
しかし長続きしなかったのは、試薬とは用法を守らないと正しい結果が出ないと指摘されたためである。
彼の試薬の使い方はでたらめに近かったのである。
四輪トラウマ
N氏はメカメカしたものが好きである。
これは飛行機から変形合体ロボまでもカバーする。
ところが実際に油にまみれて機械いじりをすることは得意ではない。
指が太ったため、器用さが損なわれたこともあるが、本来機械工には向いていないんじゃないかと想像される。
なぜなら、機械いじりが好きな人間は、麻疹のように四輪にはまるのだが、N氏は四輪の免許を持たないのである。
仕事の都合もあって何度か四輪の免許を取ろうと決意するのだが、必ず挫折するのである。
N氏は起きているうちは何かに熱中していたい性質なので、二輪に比較し漫然とした移動手段になる四輪が合わないのは仕方ないことかもしれない。
従って、四輪で移動するときにはN氏は助手席に座らざるを得ず、しかも目の前にあるいかにもメカメカしたものを触ってはならないと言い渡されることになるのである。
結局、退屈すると運転手にちょっかいをかけることになる。
突然、ハンドルを掴み、激しく揺すったりする。
何度かこの攻撃で運転者の関心を引くことに成功した。
しかしN氏はある日からこの攻撃を「危険だから」中止することになった。シャーの車で瀬戸内から日本海まで遊びに行ったとき、例によってN氏はシャーのハンドルを掴んだ。
ところがシャーは逆にハンドルから手を放してしまったのである。
今や同乗者全員の命を握る羽目になったN氏はシャーにハンドルを代わるように懇願した。
人心地のついたN氏は「死を恐れぬ輩が・・・。」とぶつぶつ言っていたがこの台詞も本末転倒である。N氏はスポーツカーも苦手である。
言ってることと違い怖がりだ、ということもあるが、最大の原因はシートに嵌まったら車から降りるのが大変だからである。
二輪を愛する人は多いが、二輪しか愛せない人もいるということも認めざるをえない。
N氏は興味がわくと突撃するたちである。
テレビ局であろうが、海外取材であろうが、大物作家であろうがあの憎めない性格と有無を言わせぬ弁舌で巨体を潜り込ませてしまう。
ただ、それだけでは飢えてしまうので(本当か?)ちゃんと仕事にしてしまう。
学生当時のDAICONにしてもいつの間にか仕事にしていたし、一旦できた人脈は大切にし、何と「八岐之大蛇の逆襲」に主演したりする。
友人も非常に大切にする。
気が付くとN氏の私物が部屋に置かれるようになり、そのうち彼の名刺の連絡事務所に電話番号が書かれてたりする。
自衛隊にだって潜り込むし、演習地で二輪部隊の写真を撮ってポスター用に提供したりする。
深夜の酒屋に潜り込んでFAXを打ったりもする。
二輪ラリーのスタッフに潜り込んでチェック要員としてやぶ蚊と格闘したりもする。
実に神出鬼没である。
彼のリストに載ってしまった人物は真夜中に自分のまわりで物音がするときは、ゴキブリか泥棒かN氏か確認する習慣がつくという。そして彼の突撃ぶりが顕著に出たのがあの震災のときである。
1995年1月17日早朝、N氏の寝入りばなにそれは来た。
0.1トンの体重なぞ紙にも等しく突き上げる衝撃。
何が起こったのか混乱したまま情報を集めるが、神戸が大変らしいとしか分からない。
ともかく、器材をまとめバイクに積むと神戸に向かう。
渋滞を抜けると破壊された道に当たり、さらに進むと想像を絶する神戸があった。
死がこれほどあふれている世界を彼でも見たことはなかった。
全てが記録すべきことであり、それゆえに記録することすら忘れそうになる修羅の街。
寝食を忘れてするべきことのあまりに多い三日間の後、彼の持ち帰ったフィルムは地獄のわずかな断片を切り取ってきたに過ぎないが、交通の途絶した西側の貴重な記録であった。
実は正面から取材に挑んだマスコミは火災の発生した地区の東側でしか活動ができなかったのだ。
現場では常にタフな彼も、持ち込んだ非常用のレーションで食いつないだ三日間で心身共に憔悴した。発売された写真雑誌はそれまでの報道では伝えられなかった凄惨な状況を撮った彼の写真で誌面の半数までもがうめられることになった。
彼の母は一般誌に名前が出て心から喜んでくれた。
彼も母にようやく認められて喜んでいた。その母が急死したのは、改めて震災特集号が発売される直前だった。
それは病死ではあったがあまりに急であった。
その正月に母をあちこち連れまわり、母が喜んでいた事が彼も嬉しかった。
彼は僅か数年で父母ともに失ったことになる。
いきなり総てを奪い去る数多くの死を見た彼は、もし自分が消えれば自分の仕事も消散してしまうことに気付き愕然とする。
万一のときは自分の形ある仕事は改めて世に問うてほしい、と実姉に願ったのは、こういう心情による。そんな陰も見せずに仕事をこなす彼に大きな仕事が回ってくるようになる。
ラリー・レイド in モンゴル
極めて規模の大きなこの大会のスタッフに彼は選ばれた。
ようやく、混沌たる彼の過去が一本の大きな道へつながる。
そのキックオフの集まりの後、その総てがアスファルトに砕け散った。実姉の元にようやく連絡が届いたときはすでに覚悟が必要な状況だった。
鼠径部にバイクのハンドルが突き刺さり、ショック症状も起こしていた。
翌日、全国を駆け回った知らせにみな耳を疑った。
1995年6月1日、翌日が35才の誕生日であった。シンヤの友人代表の挨拶の最中、見渡すとその仕事関係、交友関係の人脈の広さを改めて確認することになった。
棺を担ぐ段では実に多くの人の手が差し出された。
棺は彼を愛した人々の手で軽くなった。
予感がしたのか不意な一言なのか「個展を開く」という言葉が遺言になってしまった。
プロモータ役になられたN氏の実姉の呼びかけで、大阪の新梅田スカイビルで遺作展が開かれた。
手弁当で集まったのは大阪の仕事関連を中心に職種も雑多にわたる。
資料デザイン関係は東京のシンヤが引き受けた。
宇部からは展示当日に濱ちゃとシャーがヘルプに入った。
国内外の取材写真、掲載雑誌、パンフレット、幅広い仕事をこなすために用意した様々な名刺、愛用の器材等々が会場全面を埋めつくした。
ヘルプに出かけたメンバーは体したもんだねぇ、と感心して帰ってきたが、事はそこにとどまらなかったのだ。大阪でどんなにコツコツ仕事をしても、N氏が宇部に帰ってくるのはオフであるので、そこら辺のプータロと区別がつかない。
従って、地元でN氏の仕事を紹介してこそ意義がある、とのプロモータの発案で一周忌を機会に宇部展を開くことになった。
地元でやるとなると大阪のようにプロのボランティアは期待できないのでSHADOのメンバーで仕切ることになる。
その実、フルタニ兄のコーディネートとスエの馬力仕事が頼りで、残りのメンバーは手先仕事と職人の真似事をするのが精一杯である。
会場での展示作業に比較して準備作業は長い。
幸い、N氏の実家が会場に近かったので、展示品の確認と手配は助かった。
とはいえ、展示作業は難航し、会場間際まで作業が続いた。
大阪での展示品のほかに愛用のバイクや庵ちゃんや淳っちゃんの色紙も用意した。遺作展の入場者は200名を数え、少しでも多くの方々にN氏の仕事を見てもらう事ができたと思う。
BACK OFF等関連雑誌の告知もあり、はるばる来場された方々もいた。
その中には墓参を申し出られた方もあり心から感謝申し上げたい。
当日にはシンヤも間に合い、創ちゃんがお願いした受付けのお嬢さんらとも和気あいあいと歓談をすることができた。
小石川さんや庵ちゃんなどのスペシャルゲストにも感謝しきりである。1996年6月の遺作展でSHADOが久々に表舞台に立った。
ネットで情報を交換し、パソコンで原稿、キャプション、データベースを作ったりと様々なことを学んだ。
来場者がたまたま庵ちゃんを見つけ騒ぎになったことで、エヴァのムーブメントを知り事もできた。
こんな縁を作ったのもN氏のお陰といえる。F9共々、永き旅に出た彼の影は我々の内で決して薄くはない。
そう、0.1トンぐらいの重みがある。
N氏の仕事は航空ライター、SFライター、俳優、放送作家、本の編集、カメラマン等々広範にわたっていたが、晩年は二輪ライター兼カメラマンに落ち着きつつあった。
ところがゼネプロ時代は、怪しいパワー炸裂する仕事も数多く手がけている。SF物をプロのライターが手がけるとなかなかリアリティあふれる文章に仕上がる。
百聞は一件にしかず。こちらをご覧いただきたい。
N氏は放送作家なども手がけていた関係でテレビなどにも時々出ていた。
映像的に残っているものとなると「八岐之大蛇の逆襲」に止どめを刺す。
「怪傑のーてんき」の後ろ姿なんて役もあったが、こちらは現行では流通していないし、「宇部沈没」は主役の一人ではあるがプライベートフィルムである。
八岐之大蛇の逆襲ではなんと堂々の主役である。
「日本沈没」の田所博士にあたる役どころになる。
1985年12月に16ミリのフィルム作品として完成したこの作品はビデオやLDで世に出ている。
そして21世紀になりついにDVDで再登場した。
2000年の時を経て復活した八岐之大蛇は宇宙人が地球侵略のために送りこんだマンマシンインターフェースを備えた巨大ロボットだった!
軽率なマスコミと敵の出現に狂喜する自衛隊と伝説の具現化に右往左往する博士(永山竜叶)とマンマシンインターフェースに繋がれ宇宙人に攻撃を懇願される少女をコミカルにだが当時第一級の特撮を用いて迫力ある映像で描く。簡単な解説を書くとこんなものだが若き赤井監督、樋口特撮監督による作品はセミプロの域をはるかにこえており、特に特撮ファンを魅了するものがある。
この作品ができた前後にSHADOでは出雲ブームがおこり「ヤマタノオロチの逆襲」というツアーを行ったが本作とは全く無関係である。
平成13年5月27日にN氏の自宅で七回忌の法要が営まれた。
お経を上げてくださった僧侶は長らく京都にお勤めで、京都での学生時代にN氏の保証人になってくださった方である。
N氏に縁がある方なので読経の前にN氏の話しが続いた。
末、黒ちゃん、ゴマ、マスターと記録者がこれに応じたのだが「死んで良く言われる人は多いが、死んでまで悪口を言われ、その上ちゃんと法事に友人が集まるヤツは何なんだ?」ということに至った。
記録者の意見としては「借金だけはしていないから」としたのであるが・・・。法事が主目的であるが「メモリアルルーム」のお披露目も行われた。
何しろ遺作展を開くほどの物量の遺品があるのでいっそギャラリーにしてしまったのである。
もっとも恐るべき量のゴミの方は処理されているので、生前の自室からは想像できないほど片づいている。
愛読書、カメラ等の愛用の機材、掲載雑誌、著作はいうに及ばずなんとバイクまで置いてある。
N氏の姉上にお願いすれば見学が可能であるが、ガイナックス、SSERやうちのメンバーなどの関係者程度にしか分からない世界ともいえる。