ああ、大和にしあらましかば、 今神無月、 うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を、 あかつき露に髪ぬれて、往きこそかよへ、 斑鳩(いかるが)へ。平群(へぐり)のおほ野高草の 黄金の海とゆらゆる日、 塵居の窓のうは白み日ざしの淡(あは)に、 いにし代の珍(うづ)の御経(みきょう)の黄金文字、 百済(くだら)緒琴に、斎ひ瓮(いほひべ)に、彩画(だみえ)の壁に 見ぞ恍(ほ)くる柱がくれのたたずまひ、 常花(とこばな)かざす芸の宮、斎殿(いみどの)深に、 焚きくゆる香ぞ、さながらの八塩折(やしおおり) 美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、 さこそは酔はめ。 [ああ大和にしあらましかば]より ああ、大和では今10月--- 木の葉が散りだした神々の山の森の小径を、朝露に髪を濡らしながら、 歩いて斑鳩へ行こう。平群の野原のすすきは黄金色の海となり、 その上には太陽がゆらゆらと揺れているだろう。 窓越しに差し込む薄い日射しの下で、古代の珍しい経典の黄金文字、 百済伝来の琴、斎檀の酒器、そして壁面の仏画、 柱越しで、それらのたたずまいに見とれたいものだ。 飾り花の絶えない学問所や斎殿の奥深くでは、 焚き込められた薫香が、まるで瓶から流れ出る芳醇な美酒の香りのようだ。 さあ、その香りに酔おうではないか。 [Tad 意訳] 高校生の頃この詩を読んだが、実のところ、さっぱり訳が分からなかったことを想い出す。ただ、泣菫という彼の名前の響きが好きで、この詩はずっと頭の片隅に残っていた。最近になり、奈良の地に何度となく足を運び、繰り返しこの詩を読みだしてから、泣菫が何を言おうとしていたかが判ったような気がする。 薄田泣菫。明治10年に岡山県で生まれた。中学を2年で中退した後、ほとんど独学で英語を勉強し、20才の時すでに英国人キーツの詩集を片時もはなさず、読み耽ったという。 泣菫は、島崎藤村や国木田独歩らが文語体と七五調を基礎にして創り上げた日本の近代詩の詩形を、蒲原有明や三木露風らと共に、完璧といえる形式美にまで高めたのである。上に引用した詩には、一見何の韻律もないようであるが、実は見事に七五調で構成されている。ちなみに、この詩は泣菫が28才の時、「中学世界」に発表したものという。 泣菫はこの詩の中で、かつて斑鳩の里に隆盛を極めた壮大な仏教文化の中に自らを置いて、先人と共に白鳳・天平時代のロマンを高らかに歌い上げているのであろう。そして、これは同時に、彼自身の詩に対するロマンの賛歌でもあったに違いない。 当時、泣菫は文学志望の青年たちの渇仰の眼差しをあび、この長編の詩を諳んじて高唱する若者が多かった。三好達治もその一人であったという。 高塔(あららぎ)や九輪(くりん)の錆に入日かげ、 花に照り添ふ夕ながめ、 さながら緇衣(しい)の裾ながに地に曳きはえし、 そのかみの学生(がくじょう)めきし浮歩(うけあゆ)み、--- ああ大和にしあらましかば、 今日神無月日のゆふべ、 聖(ひじり)ごころの暫しをも、 知らましを、身に。 [1997年11月記] |