2006.01.01 無思想の発見
養老孟司 筑摩書房 ちくま新書569

 著者自らわかりづらいといっているが、確かにバカの壁と比べる
とわかりにくくなっている(もっとも、バカの壁がわかりやすいか
というと、そうとは思わない人も多いだろうけれど)。なぜわかり
にくいのかというと、さらに思想的な傾向を深めているからだ。無
思想の思想という禅問答のような話である(実際、禅の話もでてく
るのであるが)。しかし、よく読めば、かなり図式的な説明になっ
ていて、わかりやすいといえばわかりやすいのだ。
 日本人には思想がないとよく言われる。では、無思想とは何か。
無思想とは世間のことだという。日本人は多くの人が自分は無思想
だと思っているが、それは日本人が世間の中に住んでいるからだと
いう。世間の中、他者との日常的で現実的な関係の中にいる場合、
思想をもっていなくても用がたりる。用が足りると思っているから
あえて思想などという面倒くさいものを持とうとしない。日本人が
無思想でいられるのも現実(世間)がうまく機能しているからとい
うことだ。へたに思想などによって生きていると、現実が変化した
ときにうまく適応できない場合もある。
 思想とは、自分という存在を中心した観念的なものである。物理
的な人間なんてものは日々変わっている。日々自分が同じものであ
ると思えるのは意識のおかげであり、意識が自己の同一性を維持し
ているからにすぎない。日々変わらない意識、自己という観念的な
ものを実在として意識するところに西欧的なものの考え方の特徴が
ある。
 日本人の場合、俺、僕、私など一人称が何通りもあるというよう
なことからも推察されるように、自分という観念はそれほど強くな
い。自分を意識せず、むしろ世間の中におかれた自分として発想し
ていくのが普通である。当然、自己の観念から派生する思想などと
は無縁ということになる。日本の場合は今までは、世間がそれなり
に機能していた。ところが、最近では世間自体が弱体化している。
かといって、西欧のような個を基本とした思想的な土台もない。そ
こが日本の問題だ。
 その意味で「無思想(世間)」と「思想」は対立的なものではな
く補完的なものだという。世間が強い日本のようなところでは思想
が育たず、世間が弱い欧米では思想を強化する必要に迫られる。
 どちらのシステムがいいか悪いかという問題ではない。これまで
それぞれの条件にあったシステムを発達させてきたというだけのこ
とだ。ただ、日本においては世間が弱体化しているし、欧米では思
想が先行して、原理主義がはびこるようになった。
 無思想であることは悪いことではなく、むしろポジティブにとら
えるべき面がある。無思想とは数学における「0の発見」のような
ものだ。0の発見によって数字の計算が非常に楽にできるようにな
った。無思想も0と同様、生活を楽にするひとつのしかけみたいな
もの。無思想であることによって、現実生活がよりスムーズに行わ
れるなら、それを活用すればいいじゃないか。
 無思想は無意識ということにも繋がる。意識的な世界より、無意
識の世界のほうが全体性を保持しているともいえる。へたに意識的
に動くのは危険である、生理的なリズムに合わせて生きたほうがよ
い場合も多い。ない頭を絞るより、生物学的な歴史の中で獲得して
きた適応性にまかせたほうがいい場合もある。睡眠とはそのために
あるのかもしれない。
 そして、日本人の場合、無思想のルーツとして、仏教がいくぶん
なりと役割を果たしていること。仏教における「空」の考え方のよ
うなものが、なんらかの形で日本人の精神の中に流れているといっ
てもよい。それが八百万の神を認めるということでもある。さらに
ルーツをたどれば、日本の風土の多様性というものが、そうした発
想をささえている。砂漠の地で原理主義的な宗教が発達するのに対
し、四季折々の風景のある日本では、原理主義的な発想は生まれに
くい。逆に自然神をうやまう汎神論的な考え方が優勢になり、それ
が仏教、禅の思想を中国など以上に受け入れる素地となった。
 原理主義的な世界は、意識の世界ということがいえる。意識の特
徴は、人間が認識しうるいくつかの前提の上で、理論を組み立て、
その中の正当性のみを主張する点だ。実際は、意識の俎上にのって
こないさまざまな前提が存在する。そうしたすべてを包含したうえ
で判断するほど人間の頭は高等ではない。よって、どこかしらで全
体性を担保する必要がある。それができるのが自然である。自然の
多様性は、論理の網からこぼれた諸々なものを掬いあげる。感覚や
情緒の世界、無思想の思想、日本人は、これを世界に広めていくべ
きであろう。
 意識は同じものを処理し、感覚は違うものを処理する。意識でき
処理できる同質のものだけを扱うことは危険である。常に異質のも
のからなる感覚の世界を無視してはいけない。どこかで意識が暴走
するのを抑える必要がある。かつて花田清輝がいったように感覚と
概念、具象と抽象の間の往復を常に行う精神の運動が必要とされる
所以である。