はじめに

 本文は、’74に筆者が勤務するNKKK社内報に発表した文章を一部手直して再構成したものであります。

 カラコルム山脈は中央アジア、パミール高原付近から南東に走る大山脈で、全長約500km、幅約80km、世界第2位の高峰K2(8,611m)をはじめ8,000m級の峰4つ、7,000m級のもの50余を有します。 カラコルムとは「黒い砂」の意。

 

ブロードピーク ブロードピーク(バルトロ氷河より)

 出発準備

 私が所属するクラブ、市川山岳会にパキスタン政府からのカラコルム登山許可書が届いた。 3年前から毎年申請を繰返し、その都度不許可になっていたカラコルム、今年も何の音沙汰もなく半分諦め掛けた4月下旬、やっと許可されたとの連絡を受けた。 当初、私たちは71年に調査隊を出し、頂上直下迄迫ったK12峰(7,468m)が許可されたものと疑いもなく思い込んだ。 しかし許可書をよく読むと「日本K12遠征隊に対しブロードピークの登山を許可する」と書かれていた。 中国との国境間近に位置するため、誰もが許可されないであろうと思っていたジャイアント・ブロードピーク(8,047m)が許可されたのであった。

 頂上アタックを、天候が一番安定すると考えられる7月下旬に予定し逆算すると、5月20日頃には全員羽田を発たなければならない。 はたして2週間程度の期間で8,000m峰遠征の準備が可能かどうか討議を重ねたが、結果GOのサインが出された。 最終的な人選がなされ、目がまわるほどの忙しい毎日が始まった。 行動予定、予算、装備、食料等計画すべての練り直しである。 私達の会には、日頃から装備、食料等を研究するグループがあり、又、これまでに何回も遠征隊を出した経験もあるので、準備も順調にはかどり、5月13日には約1トンの荷物を羽田に持ち込むことが出来た。 5月21日には荷物の通関及び輸送手配のためO君、I君の2名を先発させ、25日にはパキスタン政府との折衝のため隊長、副隊長の2名が出発し、残る4名は現地状況をにらみ、28日出発と決めた。

 猛暑の中で

 5月29日 ラワ−ルピンディ

 パキスタン航空(PIA)DC10のエンジントラブルのため出発が半日遅れ、29日未明羽田を発った。 初めての海外遠征、英語もまともに話せない4名では心細い限りである。 カラチでの入国手続、通関そしてラワ−ルピンディへの接続便の手配等どうするのか、一応経験者に聞いてきたものゝ、やはり不安であった。 飛行機は現地時間午後3時、ムッとする暑さのカラチへ到着した。 日本語混じりの英語(?)をふりかざし、入国手続、通関を済ませ、次は接続便のブッキングである。 カウンターでは今日の残る2便はすべて満席であると断られたが事務所の責任者らしい女史にPIA国際線の遅れにより予約便に乗れなかったこと、今日中にはどうしてもラワ−ルピンディに行かなければならないことをなんとか伝え、ようやくブッキングすることが出来た。 ラワ−ルピンディへはジェット機で2時間の飛行である。 眼下には赤茶けた荒地が果てしなく続き、やがて夕暮れのラワ−ルピンディ(イスラマバード国際空港)に到着した。 空港には隊長以下4名が迎えに来ておりホッとする。 副隊長のNさんは英語はペラペラ、その上現地公用語のウルドゥ語まで話せるのだ、空港の係官と何やら楽しそうに話しているのを聞いているだけで嬉しくなる。 この夜は全隊員の集結を祝い、豪華な晩餐となった。

 5月30日 ラワ−ルピンディ 

 40度近い猛暑の中で、忙しい一日が始まる。 日本からの荷物は時間的な関係で空輸せざるを得なかった為、輸送費も莫大となった。 そこで私達は食料、装備等可能な限り現地調達の主義で臨んだのである。 早速リスト片手にラジャバザールへトンガ(乗用2輪馬車)を走らせた。 フルーツ缶詰、ドライフルーツ、乾電池等これから先の町では大量に購入出来ないと思われる物資を買い入れ、ホテルへ運び込んだ。 私達のホテルは当地では一流のフラッシュマン・ホテルである。 広い敷地の中にブロック造りの平屋の建物が点々と配置されている。 冷房は無いけれど、高い天井には大きな扇風機が低いウナリをあげている。 少しはしのぎやすい広い部屋である。 午後からは、1個28kgに調整しながらのパッキングで一日の仕事は終了した。 パキスタンは回教(イスラム教)徒の国であり、回教では富者は貧者に施しをするのが当然であるという。 大多数の生活は極度に貧しく、中央政府の係官までが何かにつけて食事等タカリに来る。 私達とてかなりの無理をし、借金をして来たのであるが、遠征隊はすべて金持ちと思い込んでいるらしい。

 5月31日 ラワ−ルピンディ

 今日は朝から外務省での打合せ会である。 通常は観光省で行われるそうであるが、私達の目標とする山が国境間近にあるため特に外務省へ呼ばれたもので、国防省、外務省、観光省の係官から諸種の注意を受けた。 その席で今後我々と行動を共にする連絡将校のジャべ−ド・ラティーフ大尉(28才)を紹介された。 これで政府機関との折衝はすべて終わりこちら側の都合次第で何時でも出発出来ることゝなった。 午後からは放送局に行き気象通報の交渉をする者、統制品である砂糖の購入許可を貰いに行く者、連絡将校の食料を買出しに行く者とに別れ、私はホテルに残り会計整理に追われた。 この夜は、豆電球に飾られたホテルの庭で1組の結婚式が行われ、夜遅くまで賑やかであった。 この国ではこの種の席でも酒は無縁であり、ミルクティーで陽気に歌い、そして踊る。

 6月1日 ラワ−ルピンディ

 パキスタンではドルをルピーに交換するのは簡単であるが、その逆はまったく不可能である。 工業力はまだまだ弱く街中を走る自動車はすべて輸入車(日本製、英国製が主)である。 それも10年以上使用していると思われるボロ車で、メーター類は動かず、クラクションも満足なものは少ない。 輸出は農産物が主であり、綿、米、小麦等である。 外貨は極度に不足しているようで、3年前にはヤミ交換屋がいたそうであるが、今はその姿を見ることが出来なかった。 この日は9時に銀行に出向き、3,000ドル(約90万円)をルピーに交換した。 奥地では50ルピー、100ルピーの高額紙幣は通用しない(つり銭が取れないため受取らない)ため、必要とする3万ルピーはすべて10ルピー、5ルピー、1ルピー札で揃えなければならず、それらは小型リュック一杯の量となった。これから先、肌身離さず持ち歩かなければならないと思うと、少々ウンザリする。 サラリーマンの平均月収300ルピー(約30ドル)程度のこの国で、3,000ドルもの両替をすると、いやが上にも人目に立ち、ジロジロ見られるのは気持ちのいいものではない。ルピー札をギッシリ詰めたショルダーバッグを抱え込み、カービン銃を構えた門番の横を走るように通り抜け、待たせておいたタクシーに飛び乗った。

                                                     (つづく)

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