マッシャ−ブルム峰 バルトロ氷河よりマッシャ−ブルム(7,821m)

 インダス・ロードを行く

 ラワ−ルピンディからスカルド迄は飛行機で行くことが出来れば、時間的にも費用の点でも有利なのであるが、この空路はインダスの谷に沿って、周りの山々よりも低いところを飛ぶ、まさに曲芸飛行である。 ラワ−ルピンディ市内がどんなに澄んだ青空であっても、山奥に雲のカケラ1つでもあるとノーフライトであるという。 おまけにスカルド飛行場は標高2,500mもの高さにあるので、離着陸の安全を期するためには、定員40人の双発F・フレンドシップに乗客15人しか乗せられない。 私達がPIAオフィスに出向くと、スカルド線は10日以上も欠航して乗客及び貨物が相当数たまっており、この先毎日飛べるとしても(毎日飛べることはあり得ないのだが)、私達が乗れるのは2週間後になり、荷物は更に1週間後位になるだろう、と係員は真面目顔で説明してくれた。 しからばチャーターは出来ないかと、ひやかし半分(あとの半分は勿論本気)に訊ねると、機材が不足しているので不可能であるとの返事であった。 私達は何時乗れるのか判らない飛行機を待つことは出来ないので、陸路を利用することに決めたが、このことは計画の段階でも予測していたことであった。

 ラワ−ルピンディからギルギット迄はトラックを使い、そこから先はジープに乗り換えるのである。 6月1日早朝出発の予定でいたがチャーターしたトラックは待てど暮せど姿を見せない。 電話で催促すると、クラッチの調子が悪いので修理しもうすぐ来るとの返事である。 このやりとりを何回したことか・・・ とうとう日が暮れてしまった午後7時、トラックはゴトゴト猛烈な音を響かせながらホテルの庭に入って来た。 当地ではすべてのことがスローモーで半日や1日の遅れなど日常茶飯事なのである。 イライラしても始まらない、郷に入れば郷に従えと自ら慰めジッとこらえる。

 兎に角トラックはインダス河を目指し走り出した。 私達は全員荷物の上乗りである。 満月の夜風はヒンヤリと心地良い、差し入れのブランデーをかたむけながら前途を思うとき、つい口笛が出る。 ポプラ並木にさしかかると車の排気音は鈴のような金属音を反響させる。 空気が非常に乾燥しているためであろう。

ギルギットEXP R.ピンディ/ギルギット急行便

 トラックは峠にあえぎ、丸1日掛けてインダス河畔に到着した。 インダス河には板張りの吊橋が架けられており、車は超低速で渡る。 両岸には警備隊の建物があり、通過する車はすべてチェックされる。 写真撮影は厳禁とのこと。 橋は重要な軍事施設なのである。 ここから先スカルド迄はインダス河に沿って走るのだが、絶壁を削り或いはコの字型にくりぬいて作られた道路は大型車がやっとすれ違える程度の幅で勿論未舗装、眼下はドロドロの濁流である。 所々に転落したトラックの残骸が見える、運転手のハンドルさばきにすべてを任せながらも何時でも飛び降りられるように身構える、長く暑い4日間であった。

インダスの谷 インダスの谷(左側のジープロードを行く)

 途中、私達のトラックはデフレンシャル・ギヤからシャフトが抜ける故障を起こしたため、隊員だけは軍のトラックに便乗させて貰い、埃と日焼けで真っ黒になった顔に目だけをギョロつかせ、中継地であるギルギットに到着した。

 私達はギルギットに近い軍のキャンプで大変なもてなしを受けた。 一つには日本が友好国であるのと(但し、日本がどこにある国か知る人はいなかった)、また一つには私達の連絡将校がキャンプ司令官より上位であったためであろう。 この国の北部主要道路には大量の道路建設隊(軍隊)が駐屯しており、中国人技術者も多数見ることが出来た。 近い将来には不老長寿の国として有名なフンザを経由し、中国にぬける道路が出来るということであった。 ここ、カシミールの帰属をめぐりパキスタンはインドと小競り合いを続けているが、中国はパキスタンを支持しているようで、同地の振興のためかなりの援助をしている。 キャンプで見たトラック、ジープはすべて中国製であった。

 ギルギットの町は三方を岩山に囲まれたオアシスで避暑地として有名である。 ここには6月6日から8日迄の3日間滞在したが、朝夕には露も降り、ホテルの庭にはリンゴが色づいている。 大変過ごしよい地である。 ここでは、ドラム1本の灯油を購入し、その他若干の食料等を買い足しただけで、仕事らしい仕事もなく、しばしの休日をポロ見物などで楽しんだ。

ポロゲーム ポロ・ゲーム(ギルギット・ポロスタジアム)

 この町では日本を知っている者も多く、私達が日本人とわかると「オイコラ」と呼び止められたりもする。 聞いてみると終戦後2〜3年日本に住んでいたとか、熱海を知っているとか、大切そうに旧日本軍の軍票を見せる者までおり、私達を驚かせた。

 6月9日 私達は4台のジープに分乗しスカルドへ向け出発した。 インダス沿いの断崖の急坂を、時には砂漠の中に並べられた石でかすかにそれと判る砂道を進む、先行車の舞い上げるホコリでたちまち睫毛まで真っ白になった。 パキスタン人は概して厚い信仰心を持っているが、それは奥地の人々ほど強くなるようで、ジープの運転手も午後6時になると突然仕事を放り出し、道路に正座してお祈りを始める。 カラチ育ちの連絡将校に、君は祈らないのか?と聞いてみたが、笑うだけで何も答えなかった。彼は何事にも『Oh My God』を連発するのであるが、これは彼の口癖で、私達は『へーんな信者!!』と言い、笑いあった。

スカルド・ロード 石造りの茶屋で休憩(スカルド・ロード)

 翌朝、インダスの谷が明るく開けてきたところのオアシス、スカルドの町に到着した。 サッパラ湖からの澄んだ水が町の中を流れ、ポプラ、アプリコットの樹々がよく繁っている静かな涼しい町である。 小さな町ながらスカルドは、バルチスタン地区の政治、経済、軍事の中心となっている。 私達は、ガバメント・レストハウスに落ち着き、早速シャワーでホコリを流した。

 ここでハイ・ポーターを2名、コックを1名雇う予定であるが、私達が到着すると間もなく数人の男が志願してきた。 現金収入の少ない土地では、こちらが黙っていても人は集まってくる。 採用難の日本では考えられないことである。 彼らは皆、○○遠征隊、××学術調査隊のポーター、あるいはコックとして有能であったという証明書を持って売込みに来るが、この証明書を信用してはいけない。 これら証明書は数ルピーで売買されているからである。 事実20才そこそこの若者が15年前のそれを平気で見せたりする。

 私達は体格から見て強そうな3名を選び雇うこととした。 賃金はベース・キャンプ迄は1日15ルピー(約450円)、1キャンプ上がる毎に2ルピー増しである。 回教徒の国では、モハメッドとかハサンとかフセインとか同じ名前の者が多く、私達が雇ったハイ・ポーターは2人共フセインだという。 そこで区別する必要から夫々にアダ名をつけ呼ぶこととした。 年上の方が「ハゲ」(頭髪がややウスイ)で、若い方は「チョビ」(ヒゲをはやしている)である。 3人には明朝出発すると伝え、今日は引取らせた。

 夕刻には明日ダッソ−迄行く5台のジープが荷物を積込みに来た。 ここ迄で行動予定に5日の遅れであるが、この国ではしごく順調と思わなければならない。 明日からはインダス河とも別れ、ブラルド河沿いに山の生活が始まる。

                                                    (つづく)

     <TOPへ戻る>          <カラコルム1へ戻る>          <次へ>