仏教文化学概論
(仏教と異文化の出合い)
 インドで成立した当初は哲学的で抽象的な仏教でしたが、浄土教として中国に伝えられた頃には、私たちの素朴な願いにこたえる教えとなっていました。例えば阿弥陀仏の救済によって「極楽浄土で永遠の命を得る」ということ自体が諸行無常という仏教の根本原理と矛盾します。それは諸文化・宗教の要素が加わることによって仏教が変容した結果です。その変容に大きく関わったのがシルクロードです。シルクロードは「絹の道」という名が示すように東西を結ぶ交易路でありますが、同時に様々な文化が伝播した道でもあります。仏教はそれらの中でも代表的なものでした。しかし、仏教が伝播する以前にはゾロアスター教が栄え、また仏教伝播とほぼ同時期にはネストリウス派キリスト教・マニ教、それ以後にはイスラムといった諸宗教が伝えられたことも忘れてはなりません。
 浄土教はこれら諸宗教の中でも歴史的に先行するゾロアスター教と何らかの関連を持つと考えられてきました。阿弥陀仏の誓願(阿弥陀仏が仏になる前に、将来このような仏になろうと決意して建てた誓い)の中に、
   「念仏をとなえたならば・・・・極楽に迎え入れる」
という表現があります。ここにはゾロアスター教を介して旧約・新約聖書さらにはコーランへと流れる契約宗教的要素が含まれています。浄土教がキリスト教と外見的に似ているのも恐らくはそのような歴史的事情があったからだと考えられます。また幾らかの例外を除いて、中央アジアの仏教徒が急速にイスラム化したのも、その地域の精神的基盤に契約思想が保存されていたからです。言い換えればその地域を通過した仏教も必然的に契約思想の洗礼を受けたと考えるべきでしょう。その典型として先に挙げた浄土教を想定できると思います。日本浄土教に大きな影響を及ぼした来迎思想(臨終に際して阿弥陀仏が極楽から迎えに来ること)も「最後の審判」が個人の臨終に繰り上げられたものと解釈することができます。 
 それでは浄土教は絶対的神による救済を説くこれらの教えと同じなのか?また、シルクロードの東の終着点である日本ではその問題をどのように解決し受容したのか?仏教が変容しながらも仏教であり続けたのは、様々な要素を取り入れるのと同時にその本質を保つことができたからです。このような観点から、仏教東漸に関連して中央アジアでどのような交渉があったのかを考えてみたいと思います。
【授業の計画】
はじめに  仏教文化学の意義
1. タジキスタン調査報告
2. 三大世界宗教について(風土の三類型)
     モンスーン・砂漠・牧場と宗教的理念の特徴
3. 輪廻思想と最後の審判(宗教と死屍観)
     死屍観に見る宗教理念、土葬・風葬・火葬
4. バラモン教と六師(転変説と積聚説) 
5. 縁起(此縁性と相依相待性)
     大乗仏教の「空」思想への道
6. 仏教と異文化の出会い
     アレキサンドロスの東征・カニシカのインド統治
7. 『ミリンダ王の問い』(五蘊仮和合説)
     阿毘達磨仏教の分析的「空」理解・五蘊、十二処、十八界
8. 浄土教とゾロアスター教(契約宗教)
9. 初期大乗経典と『バガヴァットギータ』
     『法華経』が説く永遠の仏陀・久遠実成釈迦牟尼
10. 唯識思想とサーンキャ哲学(識転変)
11. 如来蔵思想とグノーシス(客塵煩悩)
12. 密教とヒンドゥーイズム・他

【成績評価の方法】前期末レポート、後期末試験で80%、出席状況で20%、以上を総合して評価します。なお、総授業回数の3分の1を越えて欠席した場合、単位認定は受けられません。(めやすとして、通年では8回以上欠席した場合、試験を受けても評価できません。)
はじめに :  仏教文化学の意義
 石田茂作監修「仏教考古学講座」第一巻総説の冒頭、監修者自身によって「仏教考古学の概念」と題した論文が掲げられています。その中に仏教考古学の定義が簡明に記されています。

 「仏教的遺跡・遺物を通して古代仏教を考えることが仏教考古学である」

 この定義と前後する文中にもあるように、経典を含めた文献資料によって残されたものは一部の人々、例えば文字を書くことのできた特定の階級によって残されたものであって、それ以外の大多数の人々が信仰していた庶民仏教の実態を完全に反映しているとはいえません。もし、文献学のみで仏教を研究しようとするのであればそれは

 「山脈の頂上を縦走するもので、山麓の仏教にはほとんど触れていない」

 ことになります。
 一般大衆によって支持された裾野部分の仏教を探るためには文献以外の遺跡・文物をも研究対象とすることが必要となってきます。すなわち、仏教文献に現れてこない部分を補完することで初めて見えてくる部分もあるということに留意しなければならないのです。
 このことは仏教文化学の定義としてもまったく同じことが言えると思います。仏教を一つの文化現象として見たとき、異思想との交渉がより重要な要素として再認識されることになります。特に大乗仏教の展開においては、仏教内部のみの変化のみでは理解できないことが多くあったと考えられます。
 ただし、忘れてならないこととして、それらの方法が客観的評価に耐えうるものでなければならないことは勿論のことであります。最終的な解釈は人によって異なるとしても、誰でも同じ条件のもとであれば同じ結果が得られること、それが研究における最低の条件だろうと思います。
1. タジキスタン調査報告

 中央アジアの考古学的研究は旧ソビエト連邦主導の下で行われてきました。東西冷戦の状況下、その学術的成果が完全に西側諸国に伝わっていたとはいえません。さらには、ソ連邦崩壊後の政治的混乱や内戦によって、海外の研究者が容易に調査を実施できない状況が続いてきました。近年、漸く安定に向かいつつある中、この地域における調査・研究は新たな資料を提供するものとして期待されます。

  殊に、タジキスタンはガンダーラ地域とインド外世界を結ぶ要衝の地であした。アレキサンダー大王によって最北端のアレキサンドリアが建設され、紀元前1、2世紀頃はギリシャ系の国バクトリアの勢力範囲にありました。その後、紀元後1世紀頃には、クシャーン族が現在のウズベキスタン地域からガンダーラに進入しました。クシャーン朝のカニシカ王は仏教を保護し、仏像もその頃に初めて作られたと考えられています。
 クシャーン朝が滅亡して後、タジキスタン西部を故地とするソグド商人がシルクロード交易で活躍しました。クシャーン族と同様、ソグド族もイラン系の民族であり、ゾロアスター教から転じて大乗仏教を擁護したことで知られています。歴史的に、仏教文化がヘレニズム文化、イラン文化と出合った場所が中央アジアでした。

ガンダーラ・中央アジア周辺の民族・文化の歴史的交渉
 釈迦滅後(B.C.383/486 PAli B.C. 544)から大乗仏教興起(A.D.1C)の約500年間に、ガンダーラ・西トルキスタン地域は2度に亘って他民族による侵攻・統治の元にあった。
アレキサンドロス大王の東方遠征(Alexandros V 在位B.C.336-323)    
(1) アレキサンドロス大王:マケドニア王フィリッポスUの子。20歳で即位、ギリシアを支配し、ペルシア王ダレイオスVの軍をイッソスの戦いで破り、シリア・エジプト・ペルシアを征服、さらにインドに攻め入った後、33歳の時にスサで急逝。王によってギリシア文化ははるか東方に伝播。アレキサンダー大王とも。(B.C.356〜323)
 東方遠征の名目:ギリシアへ侵入したアケメネス朝ペルシアへの報復
イッソスの戦い(B.C.333) 、アルベラ・ガウガメラの戦い(B.C.331) で勝利。
 ■シリア・エジプト・を占領、首都のペルセポリスを焼討ち、この時ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』も焼失したとされる。アケメネス朝ペルシアは滅亡。
さらに東方 ⇒ パルティア、バクトリア、ソグディアナ、インド(B.C.326)へ。

(2) アレキサンドロス大王の事跡
1. 占領した大領域内にアレクサンドリア市を建設・ギリシア人居留地
   タジキスタン:ホジェント(Khojend)は最北のアレクサンドリア
2. ヘレニズム(Hellenismギリシア風)文化の浸透促進
(3) 大王死後の占領区でのディアドコイ(diadokoi 後継者)の争い
  ⇒ 錯綜した抗争の末、B.C.3C後半には3国が並立。
@アンティゴノス朝マケドニア(Antigonos) = 本国ギリシアと小アジアの一部
 Aプトレマイオス朝エジプト(Ptolemaios)= エジプト
 Bセレウコス朝シリア(Seleuchos) = 小アジアの過半とその東の広大な地域
(4) 特にセレウコス朝シリア(B.C.312-B.C.63)下のイラン高原
   都市化政策=都市建設とギリシア人の移住入植 ⇒ 
                   やがて弱体化 ⇒ 分離独立
 @バクトリア王国(Bactria B.C.255?-B.C.139)アム川上流が本拠地
  マウリヤ朝の衰退に乗じて、インダス川流域のインド北西部に進出
  西のパルティアと北のスキタイ系遊牧民に圧迫されて弱体化。
  B.C.139トハラ人(スキタイ系遊牧民、中国で言う「大夏」か)によって滅亡
  ⇒ ギリシア系王国であったため、ヘレニズム文化が栄えた
  ⇒ 後世のクシャーン朝下でガンダーラ文化を生み出す素地となる
 Aパルティア王国(Parthia B.C.248?-A.D.226)カスピ海南東パルティア
  イラン系遊牧民パルニ族のアルサケス(Arsakes 在位B.C.250?-B.C.248?)が独立(中国では、この建国の祖に因んで「安息」と呼んだ)
  ミトラダテス1世(Mithradates 在位B.C.171-B.C.138)の時、最盛期・最大領土
  (東はクシャーン朝、西はペルシア湾。東西交易の内陸・海上の両要所)
  ティグリス川畔のクテシフォン(Ctesiphon)を首都と定める。
  ローマと対峙。ペルシア湾頭辺りで、両国は一進一退。次第に衰退。
  226A.D.ササン朝ペルシアによって滅ぼされる。
(5) クシャーン(KuSANa)朝インドの成立
 ■インドのマウルヤ帝国崩壊後、中央アジア方面から異民族が西北インドへ侵入
 @上記バクトリア王国のギリシア人は、本国の領土を失うとパンジャーブ地方へ
  例:B.C.150頃、メナンドロス(Menandros インド名 Milinda)の仏教改宗
    "Milinda-panha" (『ミリンダ王の問い』⇒『那先比丘経』)
 AB.C.1世紀、中央アジア系遊牧民サカ族(Saka インドスキタイ族)の侵入
 B上記パルティア族の侵入
 C1世紀後半、イラン系クシャーン族(「貴霜」)が中央アジアから侵入
中央アジア系匈奴に追われた大月氏は、紀元前130年頃バクトリアを占拠したが、その支配下にあったトカラ族の五翕侯(きゆうこう)の1人、貴霜は、紀元前後頃に大月氏にとってかわり、他の四翕侯を支配してクシャーン王朝を創設。始祖クジューラ=カドフィセースはインダス河以西の地を支配、ヴィマ=カドフィセースはサカスターナ、アラコシア、西部インドを併合。
 カニシカ(KaniSka)王(在位130?-155?、別説78?-103?)の時、最盛期
■プルシャプラ(Purushapura現在のペシャーワル)に都し、
  ガンガー河(ガンジス河)の中流、ヴィンドヤ山脈、カーティアーワール半島、
  カシュガル、ヤルカンド、ホータンからアラル海にいたる地域を支配
 漢とローマを結ぶ交易路の中間を抑えて、経済的に発展。仏教を保護。
  ⇒ ガンダーラ文化、仏像の製作、仏典の文字記録、大乗仏教の興起
 5世紀末、エフタル族の攻撃により滅亡

出土文物に見る諸文化

タジキスタン国立博物館収蔵品
 多種多様な文化が混在していたことを証明
ヘレニズム:象牙装飾品、円柱柱頭、ギリシア神話の神々
ゾロアスター教:拝火台、ミヒル神像、オスワリ(納骨容器)
ヒンドゥーイズム:シヴァ神像
仏教:涅槃仏、菩薩像、供養者壁画

2. 三大世界宗教について(風土の三類型)
 風土と宗教の関係
 中央アジアの文化的背景を考えるとき、そこに三つの類型的文化が混在していたことに気が付きます。これらの文化・思想の特徴は、それぞれが成立した場所、すなわち風土と関連するものだとも言えます。
 風土とは普通にはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称をいいます。それは単純な自然だけではなく、人間社会の存在を前提とし、人間の生活を根本的に限定するとともに人間による限定をうけつつ歴史的に形成されていく自然環境を指しています。この風土は地域により国によってそれぞれの特性を持っています。風土的な自覚は他国との接触から始まる歴史的自覚にともなって発達するものであります。日本では『風土記』がこうした自覚から成立したといえます。また、中国の最初の歴史書である『史記』における国土の記述はいっそう明白な自覚を示しています。また、七世紀に西域を経てインドに学んだ玄奘三蔵の『大唐西域記』にもその見方が現われています。

 『大唐西域記』第一巻
「夫人有剛柔異性。言音不同。斯則?風土之氣。亦習俗之致也。若其山川物之異。風俗性類之差。」
「それは人の性格も厳しい者や柔和な者があり、話す言葉も違っている。これはまさに風土の気質に関わっている。また、習俗のなすところである。もしくはその自然環境の差が風俗の違いとなっている。」

と記している。当時の人々にとって、自然環境は現代と違ってはるかに大きな影響力をもっていたと考えられます。
 一方西欧の場合はイオニアの哲学者ヘロドトスの "Historia" に地理学的記述があり、諸外国に向けられた広範な風土的自覚が見いだされます。しかし、ヘロドトス以降地理学的研究は歴史から独立した学問となり、中世末から近世初めにかけて、地理学は自然科学的な研究となり、風土性の自覚は失われました。
 その後、18世紀ドイツの哲学者ヘルダーは自然科学的であった地理学を再び歴史的自覚に結びつけました。風土の現象は単なる自然現象ではなく、人間の生の表現であり、民族の風俗や生活の様式や物の考え方、感じ方が全面に露出している。ヘルダーはそのような見地からそれぞれの民族の個性的形成を風土の側から鋭くとらえようとしました。和辻哲郎の著作『風土−人間学的考察』(1935)も、そのような見地に立つものです。

 人間の存在は歴史的・風土的なる特殊構造を持っている。この特殊性は風土の有限性による風土的類型によって顕著に示される。もとよりこの風土は歴史的風土であるゆえに、風土の類型は同時に歴史の類型である。自分はモンスーン地域における人間の存在の仕方を「モンスーン的」と名づけた。我々の国民もその特殊な存在の仕方においてはまさにモンスーン的である。すなわち受容的・忍従的である。 抜粋

彼はハイデガー『存在と時間』(1927)が時間の視界から我々存在の意味を分析したことに触発されました。そして時間性と共に空間性が人間の根源的な存在構造の一つであることに注目し、実存論的立場から人間存在の風土的構造を解明しようとしました。具体的な風土は単なる自然科学的対象ではなく人間存在が己を客体化する契機である。人間は風土において自己を了解するのであり、風土の型は自己の了解の型である。このような立場から彼は三つの風土の類型−モンスーン(東アジア沿岸一帯)、砂漠(アラビア、アフリカ)および牧場(ヨーロッパ)−とその特性を挙げ、それらが各地域の人間構造を特色づけているとしました。また、その類型とともに宗教的傾向についても比較検討がなされています。後にステップとアメリカ的風土という二つの類型が加えられましたが、ここでは、宗教の起源を考える上で示唆に富む三類型について概観します。ただし環境決定論に陥る危険性についても留意しておく必要があるでしょう。
モンスーン
 比較的に温暖で雨期をはさんで天候が循環していきます。その中で成立する宗教は、循環的な性格を持つことになります。時として猛威をふるい時として豊穣をもたらす自然の中には多様の神々が存在します。例えば『リグ・ヴェーダ』の自然賛歌は豊かな自然の恵みをたたえるものです。また、多くの生命と共存する中で衆生という概念が成立します。ヒンズー教の輪廻思想は一切衆生を循環的な存在として見なすところから出発するものです。仏教の縁起説も循環的な性格をもっていると言えます。

砂漠 
 これに対して常に乾燥した砂漠の苛烈な環境からは、唯一絶対の神格のみが存在するという思想が育まれます。砂漠おいて人間は個人として生きることができません。部族全体への忠実、全体意志への服従は、砂漠的人間にとって不可欠です。しかしまた同時に、全体的行動は人間個人の運命を左右します。この部族全体性の内には神的な力が生きている、この力によって部族の存在と生育が可能となる、という信仰が神の出発点であります。したがって、それは神を中心とし、神の意志のままに生きねばならないとする考え方です。「十戒」の第一「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない」には一神教が標榜されています。そのような中では神の姿を人間と同レベルのものとして具現化することなど認められるはずがありません。また偶像を作ることは神の創造の領域を侵すことにもなります。偶像は一切否定されるべきものなのです。
牧場
 これらの二つの類型と異なって、牧場のもつ従順な風土は人間の精神活動を妨げることがありません。人と自然とは同等に相対し、合理的判断の範囲内で生きていくことができます。自然が猛威を振るわないところでは、自然は合理的な姿をとって現れてきます。例えばヨーロッパの樹木の姿は笠形の松と鉛筆形の糸杉に代表されるといいます。従順な自然の中では幹や枝の生育は理想的な均等さで進みます。そこには植物学で説く通りの規則正しい枝の張り方が認められるというのです。コンピューター・グラフィックでよく見かける樹木の模式図を思い浮かべてみれば良くわかると思います。一本の幹から適当な長さの部分で特定の角度で2本に枝分かれさせる。この式を繰り返していくとフラクタルな図形が出来上がります。特定の式を設定することで、それは笠形になったり鉛筆形になります。このように人間が頭の中で描いたのと同じ形が自然界に存在するわけです。このような風土の中で、自然の内に合理的なる規則を見出しつつ自然と融合するというようなギリシャ思想の特性が生ずることになります。そこでは神も人と同じような感情豊なものとして描かれることになります。ギリシャ・ローマで様々な神の姿が彫刻されましたが、それは人間の姿を写実的に表現したものに他なりません。仏像造像の起源がガンダーラあるいはマトゥラーであるのかという問題は簡単に決着がつくとも思えませんが、しかしギリシャ文化の影響が強かったガンダーラ地域で盛んに仏像が作られたということは偶然ではなかったと考えられます。
 さて、西欧思想の二大源流としてヘブライズム(キリスト教思想)とヘレニズム(ギリシャ思想)がありますが、これは先に挙げた砂漠地帯と牧場地帯の風土において成立したものと言えます。ヘレニズムは、人間のもつ自然の本性を肯定的にとらえ、理性に信頼をおいた楽天的な合理主義を基本としています。したがって、世界を成り立たせている原理や人間のあり方は理性の力で探求できると考えます。また、社会の掟は人間相互の約束によって定められたものと捉えられます。一方、ヘブライズムでは神中心の考え方に立ち、神の意志のままに生きることを人間の義務と考えます。人間の能力には限界があり、究極的な真理は把握できないとし、人間は神の掟に従わねばならないという立場に立ちます。ヘブライズムとはキリスト教成立当時、イスラエル人の呼称であったヘブライ人に由来します。このヘブライ人という名は「渡ってきた者」の意味で、ユーフラテス川の彼方の砂漠的風土からきたことを示しています。この二つの思潮は相反する特徴を持っており、前者のヘレニズムが汎神論であるのに対して後者のヘブライズムは一神論であります。近代西欧思想はこの矛盾する二つの思潮が融合することで成り立っています。遺伝子操作で今までになかった生物を作り上げてしまうのも、神から生き物を管理するべき神の似姿として創造されたという一面と、合理的精神で自然を左右できるという一面を兼ね備えているからだと言えます。

仏教と風土の三類型
 仏教東漸という歴史的現象を考えるうえで以上に述べてきたような風土の三類型とそこで育まれる宗教の特性を理解しておくことは重要なことだと考えます。釈尊に始まる仏教がモンスーン・砂漠・牧場の三類型と出会うことで密教・浄土教・アビダルマ(その延長として唯識の)仏教という変容を遂げたと考えられるからです。 紀元前6〜5世紀の釈尊成道による仏教成立から紀元後7世紀前後の密教化、そしてその後のヒンドゥー教への吸収・消滅に至るまで、もっとも長い期間にわたって仏教に影響を与えたのはモンスーンの風土であります。次に紀元3世紀のアレキサンダー東征にともなうギリシャ・バクトリア国成立以後のギリシャ文化の影響は牧場的風土との出会いと見ることができます。また、クシャーン朝時期のゾロアスター教の影響は砂漠的風土との出会いであったと言えるのです。そこで次に仏教と三類型の風土で成立した思想・宗教との出会いをそれぞれ個別に検討することにします。

バラモン教と六師外道(転変説と積聚説)仏教成立の背景にある二大思潮
 釈尊が在世していた紀元前5世紀から4世紀の古代インドには、唯心論と唯物論の対決という点で現代思想と一致するものがありました。古代インドの思想と現代の思想との間には、もしその思想の発達段階というものがあるとすれば、大きな差があるのかもしれません。しかし、その両思想の原型ともいうべき基本的定義は既に古代インドにあっても確立していたと見てよいでしょう。例えば、唯物論の「精神的・心的なものよりも物質的なもののはうが根源的であり、第一次的である」という原則は、現代文明、特に自然科学の基本的立場であります。一方、「心(精神)は非物体的なもの、物体から区別しうる独自なものである」という唯心論の原則は自然科学を主流とする現代思想の中では一見マイナーな立場のように思われますが、古代インドの思想にあっては伝統的立場にありました。物質である肉体を離れて精神が解放されるという主張は、現代においてはオカルトや超常現象という形をとって現れています。また臨死体験の特徴である肉体からの精神遊離もその典型であるといえます。唯心論は、形を変えながらも現代にまで根強い影響力を及ぼしている思想だといえるでしょう。釈尊の「さとり」はこれら二つの対立する思想である唯心論・唯物論の両者を越えたところにあるのです。釈尊在世当時にはすでにこの二大思潮が存在していました。「心」優位の立場をとるものは転変説(てんぺんせつ)、「物」優位の立場をとるものは積聚説(しゃくじゅうせつ)と呼ばれていました。輪廻転生は前者の転変説であり、その成立した背景には、釈尊以前のインドの社会的情勢があったと考えられます。
 後にインド社会の上位階級を形成するアーリヤ民族は本来、中央アジアに住む遊牧人種でしたが、紀元前16〜13世紀頃、インダス河上流のパンジャーブ地方に侵入しました。すでに鉄器時代の文化をもっていたアーリヤ民族は先住民族を征服し、次第に農耕生活へ移行していきました。この時代にリグ・ヴェーダが作られます。これは自然の恵みに感謝する賛歌であり、祭式に際して、諸神を祭場に招請して賛歌をとなえたことに始まります。さらに紀元前11〜9世紀にはガンジス河上流に移動しますが、この時代にリグ・ヴェーダにつづいてサーマ、ヤジュール、さらにはアタルヴァ・ヴェーダが作られます。また、それらの付属文書として、ブラーフマナ、ウパニシャッド等も次第に形成されていきました。
 その後、紀元前6〜5世紀頃、アーリヤ民族はガンジス河中流地域に定住するようになりますが、その時代には、社会的には司祭階級であるバラモンが指導的地位にあり、バラモンを最上層とする四姓(ししょう)の階級制度=カーストを作り上げました。四姓とは、

 (1)司祭者(ブラーフマナ・婆羅門ばらもん) =祭式・宗教の権利の独占
 (2)王族(クシャトリヤ・刹帝利せつていり)  =政治・軍事の権力を掌握
 (3)庶民(ヴァイシャ・吠舎べいしゃ)    =農業や商工業に従事
 (4)隷民(シュードラ・首陀羅しゅだら)   =被征服者である先住民族

の四階級であります。祭式を司る司祭者は、人間の幸・不幸をも支配する神に等しい者として、社会の頂点に位置しました。このようにして階級的・身分的な区別が成立し、職業も代々世襲となって分化し、社会組織は固定化しました。輪廻転生を主張することは、この制度を正当化し保っていくうえで充分な効果があったと考えられます。
 バラモンが生まれながらに尊く、しかも代々世襲として存続していくためには、他のカーストとは異なった何ものかが必要とされたでしょう。ウパニシャッドは常に変化することなく、過去・現在・未来を通して独自性を維持する実体的なもの=我(アートマン)を想定し、それがカルマン(業)によって束縛されることによって来世の境涯が決定すると定義することでこれに答えました。

*ウパニシャッド 〔梵〕Upanisad 古代インドの一群の哲学書である。サンスクリットで書かれており、Upa-ni-sad(近くに坐す)は師弟が互いに対坐して伝授する「秘密の教義」を意味し、ふつう『奥義書』と訳される。現在200余種が伝えられ、そのうち主要なもの十数種は古代ウパニシャッドと総称され、成立年代は600B.C.から300ごろである。これ以後十数世紀にいたるまで継続作製されたものを後期(新)ウパニシャッドと称する。ヴェーダ文献の最後の部分を形成し、それぞれ四ヴェーダのいずれかに属し、インド正統バラモン思想の源としてその後の哲学、宗教思想の根幹、典拠となっている。個々のウパニシャッドは統一した思想を同一の作者、一定の形式のもとに叙述したものではなく、長い年月の間に結集、補整されたものと思われる。一面ではヴェーダの祭式万能主義に対する反発とも解され、そのためにやがて仏教の興起を促すべき思想的契機ともなったといわれる理由でもある。したがってそのなかには新旧雑多な思想がまじっており、全体としての統一をも欠いているが、その編纂はバラモンの手で行われたことは疑いない。全体を貫く根本思想は、万有の根本原理を探求し、大宇宙の本体であるブラフマン(梵)と個人の本質であるアートマン(我)が一体であることを説く梵我一如の思想である。しかもこの根本原理より一切の万物が一定の順序のもとに発生し、その思索、瞑想に徹すべき当体としての人間の生命はカルマン(業)に従って輪廻の道を繰り返すが、人は禅定(ぜんじょう)苦行によって透徹した梵我一如の真理の認識に到達する。これによって死後輪廻の境涯を解脱し、常住不滅の梵(ブラフマ・ローカ brahma loka 梵界)に住することができるとした。                           平凡社『哲学事典』p.140 より
 ウパニシャッドのうち、古いものの成立は紀元前6世紀頃と考えられていますが、その時期は仏教の興起と近いので、両者の間の密接な関係が考えられますが、それを立証するのに充分な根拠は明らかにできません。しかし、仏教がウパニシャッドの思想を前提としている事は明らかです。仏教の無我思想は必然的にウパニシャッドのアートマン説を予想しており、カルマン(業)、輪廻、解脱の思想にも共通しているものがあります。導入部分で挙げた六道輪廻はバラモンが作り上げた現世の階級が現実を越えた世界にまで及んでいったものともいえるでしょう。ウパニシャッドの輪廻転生は人間社会の階級差別を正当化するものでした。六道輪廻はその範囲を生き物の存在形態全てに拡大したのです。それは命ある者全てを衆生(しゅじょう)とみなし、しかもお互いが例外なく輪廻のサイクルの中にあることを示しています。
 一方、積聚説の成立には上記のバラモン階級に対抗する新興勢力の台頭が関わっていたとされています。釈尊が出世された頃、ガンジス河中流地域は、農業生産の増大・商工業の発達などにより、貨幣経済が発達し人口が集中化して、各地に多数の都市が形成されました。そして、これらの都市を拠点に成立した新興国家が、次第に隣接する群小国家を併合していきました。当時、インドにはコーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサなど十六の大国があり、その大半はガンジス河中流地域に位置していました。
 このような国家の発展によって国王の権力は急速に増大しました。また経済的発展にともない、すべてが経済的価値によって評価され、財産を多く所有する者(長者)が、出身の階級に関係なく社会的な尊敬を得ました。国王や長者が社会的に大きな勢力をもつようになるにしたがって、バラモン中心の階級制度は崩壊し、新たに王族を中心とした階級制度が確立していきました。また、社会の変動に対応して、自由な革新思想が生まれ、新しい精神的指導者の集団が台頭してきます。これがバラモンに対立する沙門(シュラマナ=努める人・苦行者)であります。バラモンは、昔ながらの呪術・祭祀をつかさどる形式的な存在にすぎず、人々の思想や信仰を指導していく力を失っていました。このようなバラモンにあきたらず、自ら宗教的問題を解決しようとして道を求めた革新的思想家が沙門でありました。彼らは出家してバラモンの社会から離脱し、沙門の集団をつくって独自の社会を建設しました。古代のバラモンたちが血統の純粋を主張して、カーストの最高地位を確立したのに対して、沙門たちは階級や身分の差別を問わず、だれでも出家し入団することが認められていました。沙門たちは、各地を遍歴しながら修行し、一般民衆に教えを説き、その布施を受けて生活しました。この沙門の思想的立場は、バラモンをしのぎつつあった新興勢力である国王や長者たちに受け入れられていったのです。釈尊の時代、沙門たちによって多くの新しい思想が説かれました。仏教では六十二種類の思想を、またジャイナ教では三百六十三人の論争家がいたと伝えています。これらの中でも「六師外道」(「外道」とは、仏教の側から仏教以外の思想あるいは思想家を指す言葉)と呼ばれる、六人の代表的な思想家がいたことは有名であります。
 * 六師外道(ろくしげどう) 古代インド仏陀時代における、一般自由思想界の6人の代表者。(1)サンジャヤ・ベーラプッタ、(2)アジタ・ケーサンバリン、(3)マッカリ・ゴーサーラ、
(4)プーラナ・カッサパ、(5)パクダ・カッチャーヤナ、(6)ニガンタ・ナータプッタ
(1)は懐疑論者で修定主義をとる。(2)は唯物論、快楽説で順世派の先駆。(3)は宿命論者、(4)は無道徳論者、(5)は唯物論的7要素説の論者で、・・・(1)は学説不明確ゆえ別として、他はすべて唯物論もしくは唯物論的であり、積聚説(しゃくじゅうせつ)の立場に立つ。・・・六師はいずれもヴェーダの権威を否認し、バラモン教に反抗した。新興都市の王侯貴族、豪族の政治的経済的援助下に活動した。                      平凡社『哲学事典』p.1517
 彼らがどのような教えを説いていたかを詳しく知ることは困難ですが、漢訳仏典(『涅槃経』)の中には断片的にそのことについて述べているものもあります。例えば、「父親殺害という行為によって地獄に生まれるか」という問題(王舎城の悲劇)について、

プーラナ・カッサパ:実際に地獄に行ってそれを見、現世に帰ってきて報告した者はだれもいない。悪い行いもないし、その報いもない。善い行いもないし、その報いもない。
アジタ・ケーサンバリン:地獄・餓鬼を見た者はいない。人間と動物のただ二つの在り方しかない。しかも、この二つの存在は因果関係で決まるものでもない。因果関係が成り立たない以上、善悪もない。
パグダ・カッチャーヤナ:もし、存在が常に変わらないものであるならば、殺すという行為自体が成り立たない。また、存在が常に変わるものであるならば、殺すという行為は最初から意味を失ってしまう。

 と答えています。全体に実証的姿勢が認められ、 プーラナ・カッサパはカルマン(業)とその報いとの関連を否定、後の二人は現実の存在はすべて何らかの要素が結合したものとする説(積聚説しゃくじゅうせつ)で、死後にはもとの要素に分解するだけだと説きました。これらはアートマンによって輪廻転生が起こるというバラモン教の転変説(てんぺんせつ)に対抗するものだったのです。
 ただし、サンジャヤ・ベーラプッタは明らかに懐疑論者でした。彼は「来世があるのか」という問いに対して「もしわたしが来世ありと考えたら、来世はあると答えるだろう。しかしわたしはそう考えず。そうだとも考えず。それとべつにも考えず。そうでないとも考えず。そうでないというわけでもないとも考えない。」と答えたといいます。このことから、鰻のようにぬらぬらしてとらえがたい議論をする者とよばれ、また確定的知識を与えないことから無知論ともいいました。これはインド哲学史上最初の形而上学的問題に対する判断中止の思想であります。彼は一方的判断が論争を生じさせ、解脱の妨げになると考えていました。
 実践の面では、六師の中で アジタ・ケーサンバリンとパグダ・カッチャーヤナは快楽論を主張していましたが、実践手段としては苦行を中心としていました。これはバラモン教が一般的に修定(しゅうじょう)を実践していたことに相対しています。

仏教の立場(縁起説)
 以上の二大思潮に対して釈尊の教えは何れの思潮にも依らない。このことを端的に示しているのが「毒矢の喩え」であります。
 釈尊の弟子の中にマールンキャ・プッタという人がいました。この人は、釈尊が形而上学的問題については答を出さなかったことに対して不満を持っていました。それがどのような問題であったかというと、
 「世界と我は常住なのか、無常なのか」「世界と我は有限なのか、無限なのか」
 「仏陀は死後、有るのか無いのか」「命(霊魂)と身体(肉体)は一つか、別か」
 などといったような、当時のインド思想界で盛んに議論されていた問題でした。先に挙げた転変説と積集説はそれぞれ明確に対立する立場であります。仏教外の思想家たちは釈尊に対しても、このような問題についての議論を仕掛けてきたのです。それは仏教が転変説に立つのか積集説に立つのかを明らかにするように迫ったものだともいえるでしょう。
 釈尊はそれに対して「無記」「捨置記」という形、つまり答えないという仕方で答えました。しかし、マールンキャ・プッタはそのような答えでは納得できませんでした。そこである時、彼はそれらの問題について釈尊に直接質問し、もし、満足できない答えだったら釈尊の許を離れようと決心しました。彼の質問を聞いた釈尊は、その心中を察して、一つの比喩を説きました。
 ある人が何者かに矢で射られたとせよ。その矢には毒が塗られていて、すぐに矢を抜いて治療しなければならない。ところが、射られた人は愚かにも次のように主張する。
 「私はまず、矢を射た者が誰であるかを知りたい。・・・それが判るまでは、矢を抜いてはならない。・・・また、この矢を射た弓が何でできているかを知りたい。それが判るまでは、矢を抜いてはならない。・・・また、この矢が何でできているか、どのような種類の羽が使われているか、・・・誰が作ったのかを知りたい。それが判るまでは、矢を抜いてはならない。」
とうとう、この人はその答えを聞き終えることなく命を落としてしまった。
 この比喩を挙げた後、釈尊は形而上学的問題についても同じであること、そして、より重要なことは、苦悩を引き起こしている我執を取り除くこと、つまり悟りに至ることであると説いたのです。
 以上に述べた形而上学的問題は、経典によって十四問であったり、十問であったりします。一般に十四難(じゅうしなん)、あるいは十四無記(じゅうしむき)と呼ばれています。無記とは無記答の意味で、釈尊が仏教以外の思想家からの問いに答えを与えなかったことを指しています。したがって、十四難とは仏教以外の思想家が釈尊にむかって十四の問題を提出して非難したことをさします。
 この十四ないしは十の問題に対して世尊が答えを与えなかったのは、それが仏教の問題領域でないことを示すと同時に、それに答えることによって仏教の中心点を曖昧にする恐れがあることを示しています。この態度は六師外道の中でも懐疑論者として知られていたサンジャヤ・ベーラプッタと共通するものと考えられます。サンジャヤは一方的判断は論争を生じ、解脱の妨げとなるとみていたようです。釈尊の形而上学的問題についての判断停止もそれと同じような立場であったと言えます。また、釈尊の場合にはより積極的意義があったとも考えられます。すなわち、「縁起の法」自体が、その何れの立場をも否定するものであったといえるのです。
 「毒矢の喩え」は、世界や我の常無常、世界や我の有限無限、死後の霊魂の有無、肉体と霊魂の一異が明らかになったとしても、それは釈尊が説いた解脱や涅槃とは何ら関係がなく、無意味であることを示しています。これは必ずしも哲学的思索を拒否するものではありませんが、しかし、仏教がどういう立場で問題を考えているかという基本姿勢を示しています。それは悟りに到ること、成仏という実践を根本とするものであり、それに関係ない観念的な論議は戯論(けろん)として強く退けるのです。
釈尊の縁起説
 「縁起の法」について、現在では二つの解釈がなされています。「相依相待の縁起」と「此縁性の縁起」です。まず、南伝大蔵経典から引用してみましょう。
 
かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、ウルヴェーラー(優楼比螺)のネーランジャラー(尼連禅)河のほとり、菩提樹のもとにあって、はじめて正覚を成じたもうた。そこで、釈尊は、ひとたび結跏趺坐したまま、七日のあいだ、解脱のたのしみを享けつつ坐しておられた。そして、七日をすぎてのち、釈尊は、その定坐より起ち、夜の後分のころ、つぎのように順次にまた逆次に、よく縁起の法を思いめぐらした。「これがあれば、これがある。これが生ずれば、これが生ずる。これがなければ、これがない。これが滅すれば、これが滅する。すなわち、無明に縁って行がある。行に縁って識がある。識に縁って名色がある。名色に縁って六入がある。六入に縁って触がある。触に縁って受がある。受に縁って愛がある。愛に縁って取がある。取に縁って有がある。有に縁って生がある。生に縁って老死・憂・悲・苦・悩・絶望がある。この苦の集積のおこりは、かくのごとくである。またあますところなく、無明を滅しつくすことによって行が滅する。行がなくなれば識がなくなる。識がなくなれば名色がなくなる。名色がなくなれば六入がなくなる。六入がなくなれば触がなくなる。触がなくなれば受がなくなる。受がなくなれば愛がなくなる。愛がなくなれば取がなくなる。取がなくなれば有がなくなる。有がなくなれば生がなくなる。生がなくなれば老死・憂・悲・苦・悩・絶望がなくなる。この苦の集積の滅は、かくのごとくである」と。
その時、世尊は、その成果を知って、つぎのように、たかまる思いを偈に託して謳いたもうた。
「まことに熱意をこめて思惟する聖者に
かの万法のあきらかとなれるとき
あたかも天日の天地を照らすがごとく
悪魔の軍を破りてそそり立てり。」
    南伝 小部経典 自説経(ウダーナ)一、一―三 菩提品
ここには後の時代に整理されて二つの縁起として説かれるものが一体として示されています。一つは
  此れ有る故に彼有り 此れ起こる故に彼起こる。
  此れ無き故に彼無く 此れ滅する故に彼滅す。
という「相依相待の縁起pratItya-samutpAda」です。「此れ」と「彼れ」がかかわり合うことによってはじめて成り立つことを、空間「有・無」と時間「起・滅」の両面から説くものです。互いに関係し合うことによってはじめて成り立つ以上、「此れ」「彼れ」には、我々が執着するような実体はない。関係が変化すれば次の瞬間には失われるものが「此れ」「彼れ」であります。両者は入れ替えが可能であり、可逆的関係にあります。
 もう一つは、十二因縁(じゅうにいんねん idappaccayata)です。現実の人生の苦悩の根元を追究し、その根元を断つことによって、苦悩を滅するための十二の条件を系列化したものです。仏教の基本的考えの一つで、〈十二縁起(えんぎ)〉〈十二支縁起〉などともいう。@無明(むみよう)、A行(ぎよう)(潜在的形成力)、B識(しき)(識別作用)、C名色(みようしき)(名称と形態)、D六処(ろくしよ)(六入ろくにゆう、六つの領域=眼・耳・鼻・舌・身・意の六感官)、E触(そく)(接触)、F受(じゆ)(感受作用)、G愛(あい)(渇愛・妄執)、H取(しゆ)(執着)、I有(う)(生存)、J生(しょう)(生まれること)、K老死(ろうし)(老い死にゆくこと)の十二をいいます。この縁起観では此縁性が基本となっています。此縁性とはidappaccayata「此れによって起こる」ことであり、十二支の中で直接前後する項目の間だけでその関係が成り立っています。また、一方向への非可逆的関係です。引用した小部経典でも順次に逆次に一つずつ生起をたどってその原因を明らかにしていることがわかります。
 後の説一切有部の教義や唯識教義の基本的立場はこの後者の縁起に依っていることを理解しておかねばなりません。
 例えば、深浦正文博士の『唯識学研究』上巻・教史論の凡例には以下のように示されています。
「縁起の語すなわち原語のpratItya-samutpAdaについてであるが、これは『阿含』経典等の根本仏教においては、多く両者の相依相成という相関関係の意味にもちいられているが、唯識でいうところの頼耶縁起等のそれは、いわゆる因縁生起という生成過程に名指されてきたのである」
 このことを明確に区別しておかないと混乱を生ずることになります。龍樹の「空」思想や天台教義の「諸法即実相」華厳経義の「法界縁起」などは前者の縁起観「相依相待の縁起pratItya-samutpAda」に基本を置いています。
【註】この二系統の縁起観は現代でも論争の焦点となっている。袴谷憲昭『本覚思想批判』、松本史朗『縁起と空・如来蔵思想批判』は十二支縁起こそが釈尊の本来の教えであると主張するのに対し、三枝充悳『縁起の思想』の反論は「相依相待の縁起pratItya-samutpAda」側に立つものと言える。
 
十二支縁起は生成過程という中に多くの法(要素)を認め、また時間的観念を導入しています。これが後の説一切有部の学説(五蘊・十二処・十八界や三世両重の因縁)に直接関わっていきます。
 古代インドにおいて積聚(集)説は伝統的バラモン教に対抗する革新的な思想として王侯・長者を中心に受け入れられていました。この積聚(集)説がヘレニズムの合理的・分析的な思索と出合い、仏教へ影響を及ぼしていきました。釈尊が悟った「縁起の法」から導き出される「無我」を理知的に論証していこうと試みたのがアビダルマ仏教です。その代表的部派である説一切有部はヘレニズムの影響を強く受けたガンダーラ地域で勢力を拡大し、中央アジアにも伝播していきます。中央アジアに見られる有翼供養人図像の分布と説一切有部の伝播とは並行していますが、それは翼がなければ飛べないというアビダルマ仏教の合理的精神を反映しています。
 アビダルマ仏教を代表する部派に説一切有部がありますが、そのの教義を考える上で興味深い資料がインドとギリシャの交渉を題材とした"Milindapanha"『ミリンダ王の問い』です。

仏教とヘレニズム
 インドとギリシャとの交渉はアレクサンドロス大王のインド侵略(BC.327年)という形で直接行われ、大王の西方帰還後にも西北インドは一時ギリシャ人の軍事的制圧下にありました。しかし、チャンドラグプタ(マウリヤ王朝の創始者)がギリシャの軍事的勢力を撃退してインドを統一したため、ギリシャ系諸王の政治的支配は一時インド外の西方地域に退きます。当時、インドより西の諸地域はシリアのセレウコス王の王朝が統治していましたが、BC.3世紀中葉にその重要な二つの地方、バクトリアとパルティアが独立します。バクトリアはオクサス河とインダス河との中間の北アフガニスタン地域にあって、インドのマウリヤ帝国とはヒンズークシュ山脈で隔てられていました。そのバクトリア王の中でもインド側の記録に多く登場するのがメナンドロス (Menandros)です。
 彼は西紀前2世紀後半に西北インドを支配しました。『ミリンダ王の問い』はそのバクトリア王メナンドロス(ギリシャ名Menandros、インド名ミリンダ、Milinda)が仏教の僧であるナーガセーナNagasenaと対談し、仏教真理について質問し、教えを受けるという対話の形式で描かれています。その意味で『ミリンダ王の問い』にはギリシャ(ヘレニズム文化)と仏教の交渉が取り上げられているのです。その中の一節を次に引用してみましょう。
『大王よ、もしもあなたが車でやってきたのであるなら、何が車であるかをわたしに告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車なのですか?』
『尊者よ、そうではありません』
『軸(じく)が車なのですか?』    − 中略 −
『しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛(くびき)・輻(や)・鞭が車なのですか?』
『尊者よ、そうではありません』
『しからば、大王よ、轅・軸・輪・車体・車棒・軛・輻・鞭の外に車があるのですか?』
『尊者よ、そうではありません』
『大王よ、わたくしはあなたに幾度も問うてみましたが、車を見出し得ませんでした。大王よ車とはことばにすぎないのでしょうか?しからば、そこに存する車は何ものなのですか?大王よ、あなたは「車は存在しない」といって、真実ならざる虚言を語ったのです。』     − 中略 −
『尊者ナーガセーナよ。わたしは虚言を語っているのではありません。轅に縁って、軸に縁って、輪に縁って、車体に縁って、車棒に縁って、「車」という名称・呼称・仮名・通称・名前が起こるのです』
『大王よ、あなたは車を正しく理解されました。大王よ、それと同様に、わたしにとっても、髪に縁って、身毛に縁って、− 中略 − 脳に縁って、かたちに縁って、感受作用に縁って、表象作用に縁って、形成作用に縁って、識別作用に縁って、「ナーガセーナ」という名称・呼称・仮名・通称・単なる名が起こるのであります。しかしながら勝義においては、ここに人格的固体は存在しないのです。大王よ、ヴァジラー比丘尼が、尊き師(ブッダ)の面前でこの詩句をとなえました、
 「たとえば、部分の集まりによって
  "車"という言葉があるように、
  そのように五つの構成要素の存在するとき、
  "生けるもの"という呼称がある」と』    
 ここに示される見方は「析空観(しゃっくうがん)」と呼ばれるものです。「我」を分析的に観ることで「我」を構成する要素に分解し、「我」そのものには何ら実体的ものがないことを論証しようとするものです。この立場はすでに釈尊が最初に悟ったとされる十二支縁起において現われていたものでした。五蘊(五つの要素)と十二支縁起とを比較すると、無明、行(行蘊)、識(識蘊)、名色(色蘊)、六処、触、受(受蘊)、愛、取、有、生、老死、のように共通するものが見られます。想蘊に相当するものが明確には示すことができませんが、それは五蘊(五つの要素)と十二支縁起の各要素の境界が複雑に入り組んでいたためと思われます。引用文中の「五蘊仮和合」や同じく説一切有部の教義である「五位七十五法」も基本的にはこの「析空観」の立場に立つものです。
 無表色を除いた色法は変壊(へんね 変化して壊滅する)と質礙(ぜつげ一定の空間を占めて互いにさまたげ合う)の性質を持っており、分析していくと極微(ごくみ)というそれ以上分解できない単位になります。以上は外的・物質的要素です。
 次の、心王と心所は内的・精神的要素についての分析です。心王(一法)は感受する対象に応じて六識となります。例えば、眼根によって色境を感受する場合、心王は眼識として働いています。
 心所法は単独で生起せず、心王と相応して起こるので相応法とも呼びます。大きな特徴として、善・悪・無記という倫理的価値を附加し、現世の苦しみや次の境涯における迷・悟の要因となります。
 不相応法は「非色非心不相応行法」と呼ばれるように、有為法の中で、色法・心王・心所に分類されなかったものを指します。有為法とは縁起によって生起した法のことです。
 無為法は縁起によって生滅するものではなく、真理として存在する法で、悟りもここに分類されます。
 以上の七十五法の中から無為法を除いた七十二法が要素となって万物が構成されており、それぞれの法が生滅することで変化が起こるとします。その変化は電光掲示板の発光体が明滅して文字を画面に流すのと同じように、法自体は過去・現在・未来に亘って存在すると考えました。これを「三世実有法体恒有」説と呼びます。五位七十五法以外に三科(五蘊・十二処・十八界)が知られていますが、いずれも無我を論証するための分類法です。
「三世実有法体恒有」説で示された時間論の他に、説一切有部では、十二支縁起の中で過去・現在・未来の三世にわたる時間論も展開していきました。無明・行、を過去の因、識から有までを現在の果であり、同時に未来に対する因、生、老死を未来の果とみて胎生学的に解釈しようとしたのです。無明は迷いの根本であり、行は無明から次の識を起こす働きであります。識は受胎の初めの一念=瞬間です。名色は母胎の中で心の働きと身体とが発育する段階。六処は六つの感官が備わって、母胎から出ようとしている段階。触は2から3歳ごろで、苦楽を識別することはないが、物に触れる段階であると見ます。受は6から7歳ごろで苦楽を識別して感受できるようになる段階です。愛は14から15歳以後、欲がわいてきて苦を避け楽を求めたいと思う段階です。取は自分の欲するものに執着すること。有=(生存)は愛・取の段階とともに未来の果が定まる段階。さらに生・老死は未来の果というように見ます。三世と二重の因果関係になっているので、三世両重の因果といいますが、ここにも分析的解釈が現れているといえるでしょう。
大乗仏教の「空」思想 
 一方、このような部派仏教の「析空観」に対して大乗仏教では「体空観(たいくうがん)」の立場をとります。部分に分解するのではなく、そのもの全体を空と見るのです。この「体空観」は大乗仏教運動の中から生まれてきました。大乗仏教の開顕者と言われる龍樹(NAgArjuna 150-250)は「空」という説き方で「縁起の法」を表現しました。龍樹は、「空」を説く『根本中論』の冒頭、

 「生ずることなく滅することなく、
  断ならず常ならず、
  一ならず異ならず、
  来ることなく去ることなき、
  よく諸々の戯論を寂滅せしめる縁起を説きたまえる正覚者、
  諸々の説者中の最勝なるかの仏にわれは礼したてまつる。」

 と示しています。特に、前半部分は
 「不生不滅 不断不常 不一不異 不来不去」のように、「不」が八度繰り返されていることから、「八不(はっぷ)の偈」とも呼ばれています。
 「縁起の法」は「彼あるゆえに此あり」という彼と此の相関性によってあらゆるものは成立していることを示すものでした。龍樹はこの「相依相待の縁起」を無我の立場から示したと言えます。八不の偈は八という数に意味があるのではありません。重要なのはその数が偶数であること、つまり対立する概念が同時に否定されているという点にあります。さらにその矛盾対立は、「何が生じ、かつ滅するのか。」「何が断絶し、かつ常住なのか。」というように、ある同一主体の上で論じられているのです。明らかにこれは論理的矛盾です。
 論理学の基本的原理に矛盾律があります。記号論理学では
   〜(p∧〜p)と示され、
 西洋古典論理学では「AがBであると同時にBでないということはあり得ない」と定義されています。龍樹の八不の偈は、この「A」という固定的主体を根底から覆すところから出発しているのです。ものを部分に分解して「空」を論証するという方法(析空観)には依然として対象を眺めている自我の立場が残されています。その眺めている自我自身を「空」にしていくべきだと主張します。それはもちろん、「A」が「相依相待」によって成り立っているという「縁起の法」に基づいています。したがって八不の偈は、「AはBである」あるいは「AはBでない」という判断=分別(ふんべつ= 梵語 ヴィカルパ)が、「A」は固定的主体を持つという妄執から起こる誤謬・戯論(けろん = 梵語 プラパンチャ)であることを示しているのであります。この分別を捨てた状態を指して無分別智と呼び、「空」の具体的あり方が示されていきます。

 また、般若思想を要約したとされている『般若心経』には、
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄 不増不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無限界。乃至無意識界。無無明。亦無無明盡。
乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。菩提薩 。依般若波羅蜜多故。心無 礙。無 礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。故知若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒。是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虚故。説若波羅蜜多咒。
即説咒日掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶 般若心経
とあります。有名な「色即是空 空即是色」は単に「色」について批判しているのではなく、五つの要素全てが空であると説いています。それは説一切有部の学説を意識しているといってよいでしょう。
 さて、大乗仏教が説く無分別智に到達する行として、布施波羅蜜・忍辱波羅蜜・持戒波羅蜜・禅定波羅蜜・精進波羅蜜・智慧波羅蜜からなる六波羅蜜が説かれました。例えば、六つの修行の第一番目、布施波羅蜜は能施者(布施をする者)・所施者(布施を受ける者)・施物の三者が清浄でなければ成立しません。三者が我執によって汚されていないことが清浄の意味なのです。つまり、この行を実践する者は、布施という行為を通して、我執を捨てていくのです。以下の、忍辱・持戒・禅定・精進・智慧も我執を捨てていく過程に他なりません。それらによって、悟りを求める者「菩薩」は無分別智に到達するのです。
 さて、一旦無分別智に到達すると同時に、仏は他の衆生への働きかけを行わねばなりません。悟りに達した者は、現実界に苦しむ衆生があるかぎり、救済の手を休めることはできないのです。もし、救済を怠れば、自分と他者とを分別したこととなり、悟りそのものが壊れてしまうことになります。禅定仏と説法仏、静かに悟りをかみしめる仏と説法を展開していく仏、この両者はいずれか一方だけで成立するものではありません。無分別智に立った仏は、そのまま慈悲による救済に進むものであり、分け隔てない救済は、そのまま無分別の智慧に裏付けられていなければならないのです。。山口益博士の『動仏と静仏』には、そのような禅定仏と説法仏のあり方が述べられています。先に述べた釈尊の梵天勧請もまさに禅定仏から説法仏へ展開していく様を象徴しています。
 初期大乗経典に現われる阿弥陀仏もそのような過程で具体化した仏であります。阿弥陀仏は法蔵という名の修行者が六波羅蜜の行を完成させ、悟りを得た姿であると説かれます。修行を始めるにあたって法蔵は四十八にもわたる誓を建てました。言葉を越えた「さとり」を具体的に表現しようとしたのです。その経緯そのものが、無相の智慧が有相として具体的姿を取っていく過程であるといえるでしょう。その誓願の中に、
 「設い我仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽してわが国に生まれんと欲し、乃至十念せんに、もし生まれずんば正覚を取らじ。唯、五逆と正法を誹謗せんをば除かん」 『仏説無量寿経』第十八願
とあります。「もし衆生が私の浄土に生まれたいと思って念仏を称え、浄土に生まれることができなかったならば、私自身も悟りには到るまい。」(「若不生者、不取正覚」)という誓願には、仏の無分別智が余すことなく示されています。この阿弥陀仏の無分別智を具体的にあらわしたのが、阿弥陀仏座像と阿弥陀仏立像(立撮即行の阿弥陀像)であります。禅定仏としての坐像と衆生救済への活動を展開している立像の両者は互いに別々に存在するのではありません。無分別智に至った阿弥陀仏の救済は布施行の形をとって実践されます。すなわち、本来は個々人が修行によって獲得すべき功徳を無条件に布施するという方法を取るのです。この阿弥陀仏の働きを「他力」と呼びます。その救いのあり方には「三輪清浄」が見られます。つまり、仏=施者・衆生=受者・施物=さとり、と置き換えてみると布施波羅蜜と同じ関係が成り立っているのです。仏の救済行為はその仏の布施行としてとらえ直すことができます。

衆生救済は「布施」行の一環として成立した必然的結果だと言えるでしょう。その必然性の中では、念仏を称える者であればを救おうという条件さえも問題とならないはずです。
 ところが、阿弥陀仏の救済は表面的には契約の形を取っているように見えます。先に挙げた第十八願文の前半部分をもう一度詳しく検討してみると、
 「(心を至して、信受して、浄土に生まれたいと願い、念仏を唱えたならば、)  →浄土に迎え入れる。(ただし五逆罪を犯した者と仏法を誹る者は除く)」
 この文の当面の意味からすれば、( )内の部分は条件文として救いの対象を限定していることになります。

 五逆−殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血の行為を指す。これらは功徳に逆らう行為であるため、五逆と呼ばれ、この行為をなす者は、死後無間地獄に堕ちるために無間業とも名付けられる。
しかし、その後半の
 「そのような者たちが浄土に生まれないならば、→自身も悟りに至らない。」という部分には「空」の無二智の働きが示されています。
 前半の契約条項と後半の「空」無二智の働きは内容上矛盾します。この矛盾を解決しようと努力したのが浄土教の祖師たちであったと考えられます。親鸞もその中の一人でした。「心をこめて、信じて、浄土に生れたいと願う」ことが契約条件ではないと読むことで解決を図ろうとしたのです。逆に言えば、そのような解釈がなされねばならなかったこと自体に、本来的な矛盾の存在が示されていると考えられます。

仏教の東漸(西域の人々と仏教)
 さきに阿弥陀仏の救済が表面的には契約関係のように見えながら、その本質においては大乗仏教の空思想に基づく無二智の働きに依っていることを見てきました。このような二面性はどのような過程で形成されてきたのでしょうか。そこで次に、西域の人々と仏教の関連について考えてみたいと思います。
 西域の人々の存在を抜きにして仏教を、特に浄土教を語ることはできません。紀元前後に北西インド、すなわちガンダーラ地域を支配したのは中央アジアの遊牧騎馬民族であった。彼等の文化は浄土教成立に深くかかわっていたと考えられます。さらに、インドに興った仏教が中国を経て日本に伝わるためにも、西域の人々の働きが不可欠でありました。いわば、インド仏教から中国仏教への橋渡しをつとめたのがガンダーラを含めた西域の人たちだったのです。仏教は、この西域を通る時二つの道によって伝播しました。一つは天山山脈の南麓を通る西域北道、もう一つは崑崙山脈の北麓を通る西域南道で、いずれも点々と存在するオアシスを通る道です。この西域南北両道について考えるとき、その砂漠的風土的に留意することは無意味ではないと思われます。
 現在の中央アジアはイスラーム圏に含まれますが、以前は仏教が伝来した道でもありました。シルクロードに残された多くの仏教遺跡がそれを示しています。しかし、仏教伝来よりももっと以前にはゾロアスター教が広まっていました。
 紀元前後に北西インドすなわちガンダーラ地域を制圧したクシャーン王朝の国教はゾロアスター教であったと考えられています。もともとイラン系の遊牧騎馬民族であったクシャーン朝は、カニシカ王の時代にはインドと中央アジアにまたがる広大な国を形成していました。

クシャーン朝 [s:KuSANa]貴霜(きそう)と音写。匈奴に追われた大月氏は、紀元前130年頃バクトリアを占拠した。しかし、その支配下にあった都貨邏族の五翕侯(きゆうこう)の1人であった貴霜は、紀元前後頃に大月氏にとってかわり、他の四翕侯を支配してクシャーン朝を創設した。始祖クジューラ=カドフィセースはインダス河以西の地を支配し、ヴィマ=カドフィセースはサカスターナ・アラコシア・西部インドを併合した。カニシカ王はプルシャプラ(現在のペシャーワル)に都し、ガンガー河(ガンジス河)の中流、ヴィンドヤ山脈、カーティアーワール半島、カシュガル、ヤルカンド、ホータンからアラル海にいたる地域を支配した。カニシカ、フヴィシカ、ヴァースデーヴァの仏教への寄進行為は顕著であった。ペルシアのササン朝シャープール1世(在位240-272)に滅ぼされた。        『岩波仏教事典』

カニシカ王[s:KaniSka] イラン系クシャーン王朝の3代目の王。迦膩色迦と音写される。おそらく紀元後2世紀頃(一説に,在位129-152頃),中央アジアと北インドを支配し、その領内ではイラン・インド・ギリシア=ローマなどのさまざまの文化が融合し、仏教など諸宗教が栄えた。いわゆるガンダーラ美術の隆盛もこの治世の前後とされる。王は仏法を保護し、その治下にヴァスミトラ(Vasumitra)らの高僧によるいわゆる第4回仏典結集が行われたとされるが、これが史実か否かは明らかではない。 『岩波仏教事典』

 そのクシャーン朝コインには歴代の王カニシカやフヴィシカの立像が刻まれているますが、その姿はほぼ共通しています。長い外套を着、左手に槍を持ち、右手は拝火祭壇上に差し伸べた形を取っています。裏面にはギリシャやインドの神々、あるいは仏陀の姿が刻まれています。ただし、それらの神々と並んで必ず印章が刻印されています。この印章は表面の歴代王の像ともいっしょに刻まれているが、拝火祭壇が描かれた図では見あたりません。

 【クシャーン朝コイン図】
 クシャーン朝に先行するグレコ・バクトリア王国のコインや後代のササン朝ペルシャの凹刻宝石にも良く似た印章が用いられているのがわかります。
 【ペルシア凹刻宝石図】
 歴史的に見てグレコ・バクトリア王国は紀元前2〜1世紀、ササン朝ペルシャは紀元後3〜7世紀、クシャーン朝はその中間に位置します。したがって、先に挙げた印章がよく似た特徴を示すのは、これらの国に共通する文化を象徴しているからだと考えられます。クシャーン朝とササン朝ペルシャの国教はゾロアスター教でした。印章はゾロアスター教で用いられた拝火壇を図案化したものと考えられます。したがって、クシャーン朝コイン表面のように具体的な拝火壇が刻まれている場合、重複するために印章を刻印しなかったものと考えられます。
 これらのコインの裏面にはギリシャやインドの神々と共に印章が刻まれています。それはあくまでもゾロアスター教という国教のもとでそれらの神々への信仰も許されていたことを示すものと考えられます。そして現存する最古の阿弥陀仏銘はフヴィシカの時代に作られています。このクシャーン朝の時代には西域南道も充分に機能していました。時代的にはかなり後になるが、西域南道のホータンで得られた仏教文献(コータン・サカ語文献)には、仏教用語を表すために『アヴェスター』の言葉が借用されていることがわかっています。
 浄土教の中には本来の大乗仏教と異質の思想が含まれています。現在の学説では、そのような異質な思想がインド内の思想に起因するのか、あるいはそれ以外の思想、主にゾロアスター教に起因するのか、決着がついているわけではありません。また、インド・イラン語族という言語学的分類が示すように、インドとイランの文化自体が近接した関係にある。その異質な要素がもともと両文化に共通のものであり、いずれか一方に起因すると考えること自体が無理なのかもしれません。しかし、阿弥陀仏の信仰がガンダーラ地域、そしてクシャーン朝という時代に成立したとされることを重視すれば、ゾロアスター教との関連を無視することはできないでしょう。『アヴェスター』の中に見られる唱名・契約・光明土・無限の寿命・フラワシ(祖霊)の来臨という概念は、浄土教の思想と多くの点で符合するからです。

ゾロアスター教(Zoroastrianism)
 ゾロアスター教とはゾロアスター(Zoroaster)がイラン北東部で創唱した宗教です。その主神アフラ・マズダの名を採ってマズダ教、またその聖火を護持する儀礼の特質によって拝火教とも呼ばれています。中国においては[示+天]教(けんきょう)の名で知られていました。ゾロアスターの活躍時期については紀元前二千年紀中頃から前7〜前6世紀にわたる諸説があって、定説が得られないのが実情であります。
 イスラムによるイラン征服(7世紀前半)までイラン国教の地位を占め、その聖典はアヴェスターと呼ばれています。聖典の言語・アヴェスター語の表記から見て、ゾロアスターはザラスシュトラ(Zarathushtra)に近い音であったと推定されています。その聖職者はマグMagu(中世語形でモウベドMowbed)あるいはマギMagiと呼ばれた。西欧ではそれがマジック(magic)の語源となったことからもうかがわれるように神秘的魔術を使うものと考えられていたようです。
このゾロアスター教に関連する文献としてはアヴェスター(AvestA)と、それの後裔文学である中世ペルシャ語(またはパフラヴィー PahlavI 語)文献との二つに大別できる。そして、後者をさらに細分すると、アヴェスターの直接的な訳註、すなわちザンド Zand と、それ以外のものとに分けられます。このアヴェスターという語は中世ペルシャ語形アパスターク ApastAk、アヴィスターグ?A?ist???などの崩れた近世ペルシャ語形で、その古代語形はついに伝わっていない。しかし、アヴェスターはゾロアスター教徒の聖典として古来伝持されて今日に至っており、ゾロアスター教の研究にも貴重な素材を提供している。また西域南道のコータン・サカ語文献等の研究が近来急速に進展し、インド・イラン研究の範囲が一段と拡大されていますが、このような研究のメーン・ラインがアヴェスターとヴェーダ文献の比較検討であることは依然として変わっていないようである。
 言語学者のメイエ(A. Meillet)が指摘したように、インド・ヨーロッパ語諸派の中で、インド・イラン語派ほど完璧な一致を示す語派はほかにみられない。その最古層では、インド語・イラン語の話し手は、まだお互いの言語でコミュニケーション可能であったと考えられているのである。このことは、イラン語派最古の言語資料であるゾロアスター教聖典『アヴェスター』の古層部分の解明が、インド・アーリア語の最古の文献『リグ・ヴェーダ』に基づいてなされてきたことが、この間の事情をよく物語っている。このインド語とイラン語両派の最古のテキストに関する限り、メイエの表現を借りれば、音韻上または語形上の対応規則を当てはめることによって、『アヴェスター』の1節を『リグ・ヴェーダ』の1節に、ほぼ正しく転換すること、また、その逆が可能なのである。
 【アフラマズダー図】
 また、言語学的によく知られた現象としてヴェーダのデーヴァとアシュラがアヴェスターのダエーワとアフラに対応していることを挙げることができる。これはインド・イラン語族において共通する超人的存在であった二つの神格が、それぞれの民族の中で善悪の価値が逆転したものと考えられている。インド神話ではミトラ(Mitra)とヴァルナ(VaruNa)はアスラ族に属し、ミトラが昼天をヴァルナが夜天を司るものとされていた。人格的姿で表現されることは少なく、昼夜を通して天空から人々を監視し、審判を下すものとして畏敬されていた。一方、デーヴァ(天部)の代表であるインドラ(帝釈天)は軍神・雷神であり、暴飲暴食を好む極めて人間的姿で描かれる。
アフラ・マズダーはインド神話の中のヴァルナに相当する神格が絶対的神の地位に着いたものと考えられている。それは後に述べるイランにおけるミスラ(ミトラ)がアフラ・マズダと同等の神格として信仰されたという点からも窺い知ることができる。

 アヴェスターの歴史はあまり明瞭ではなく、今日わかっている最古の史実は、マーニー(216-277 AD.)の時代に文字で書かれたゾロアスター教のテキストがあったということだけである。それより遡ることとして、推定の域を出ないが、かなり確実とみられることは、マーニーの言及しているテキストがアルサケス朝代(BC.224-226AD.)にアラム文字を用いて編集されたテキストと関連するものである、ということである。アルサケスとはイラン系遊牧民パルニの族長 Arsakes の名に由来するパルティアの王朝名で、中国の『史記』大宛伝には安息の音訳で記載されている。このアルサケス朝本は部数も二、三通で、一般の使用に供するものでなく、大王の宝蔵に収めるのが目的であたようで、したがって口承伝持が依然として権威視されていたと考えられる。これからさらに遡ると、ゾロアスター教徒の伝承をどのように受けとめるかという問題になるだろう。その伝承にもいくつかの流れがあって細部では一致を欠くものの、大筋によると、ゾロアスター自身は直接自身で執筆はしなかったが弟子があとで書きとめたものがあった(このことはマーニーも伝えている)とするものである。しかし、マケドニアのアレクサンドロス大王がペルセポリス王宮を焼いたとき(BC.330)、その聖典も運命を共にした、と伝えられている。マーニー以後のアヴェスターの歴史については年代を正確に決定することは困難ではあるが、一連の大きな出来事がつづいた。すなわち、決定的編集が行われて二十一巻本が成立した、アヴェスター文字を創案して従来の不完全な記法を改め、母音や子音を正確に写すことを試みた、中世ペルシャ語をもって訳註の事業が行われ上記のザンドが成立した、などが挙げられる。

現存のアヴェスター
Yasna(ヤスナ)=神事書(大祭儀で読誦)
Visp-rat(ウィスプ・ラト)=神事書補遺
VIdEvdAt(ウィーデーウダート)=除魔法書
YaSt(ヤシュト)=頌神攘災招福書
Xvartak ApastAk(小部アヴェスター)=小讃歌、小祈祷書

このアヴェスターの構成内容は『ヴェーダ』と良く似ており、ヤスナとヤジュルの語源がそれぞれ√yas、√yaj(祭る)という他動詞から派生しているところにも両者の共通性を見ることができる。

ヴェーダ[s:Veda]〈吠陀〉と音写。アーリヤ人の伝えたインド最古の聖典群の名称。〈知識〉を意味するが、神の啓示と信ぜられ、バラモン(婆羅門)教徒の精神生活上の権威となっている。成立は、ほぼ紀元前12世紀より紀元前3世紀に至る。祭式に参加する祭官の職能に従って4種(リグ,サーマ,ヤジュル,アタルヴァ)に分かれる。・・・リグヴェーダ(Rgveda)が最も重要で、神々への讃歌の中にインド宗教思想の淵源をみる。アタルヴァヴェーダ(Atharvaveda)は呪法をはじめとする民間信仰を伝え、サーマヴェーダ(SAmaveda)は音楽史上重要であり、ヤジュルヴェーダ(Yajurveda)は祭式の実態を伝えている。                    『岩波仏教事典』

ゾロアスター教の歴史
ゾロアスター教は歴史的・教義的に以下の3段階に分けることができる。
(1)アヴェスター中のガーサー(アヴェスター中でも古層に含まれる)に見られる創始者自身の教説
(2)アヴェスターの残余部分(新層アヴェスターとも呼ばれ、ガーサーに比較して新しい文体で書かれる)に出るインド・イラン共通時代の神々が復権する段階
(3)中世ペルシャ語(パフラビー語)文献に記述されている教義で、創始者の精神への復古が見られる。
これを大きく(1)と(2)(3)の二つに区別して、前者をザラスシュトラの教え、後者をゾロアスター教と呼ぶことができる。以下、それぞれについて概観することにしたい。

(1) ザラスシュトラの教え
世界は相反する根源的な二霊、スパンタ・マンユ(聖霊)とアンラ・マンユ(破壊霊)の闘争の中にあり、各人は自由意志でその両霊のいずれかを選択し、善と悪、光明と暗黒の戦いに身を投ずことになる。この選択において個々人と神との間に契約が交わされると考えられた。その教義には強い終末論的色彩があり、「最後の審判」という形でユダヤ教をはじめとする後の契約宗教へ影響を与えていった。
この善悪の戦いにおいて最高神アフラ・マズダと信徒を助けるものに、創始者の死後、アムシャ・スパンタ(不死者にして聖なるもの)と呼ばれる七神格(陪神)が付加されていった。すなわち@スプンタ・マンユ(聖霊)、Aウォフ・マナフ(善思)、Bアールマティ(随心)、Cアシャ(天則あるいは正義)、Dクシャスラ(王国)、Eハルワタート(完全)、Fアムルタート(不滅)があり、この中のスプンタ・マンユはアフラ・マズダと同一視されることもあり、アフラ・マズダー自身がその代わりとなる場合もあった。
 これらの神格は物質世界にそれぞれ火、水、大地などの特定の庇護物を有しており、信徒は特にこの三要素を汚すことを避け、拝火教の通称が示すように独特の祭祀形式や鳥葬・風葬のためのダクマ(沈黙の塔)を発展させていった。
ザラスシュトラの教説はその当時のインド・イラン共通の多神教崇拝からアフラ・マズダを最高神とする倫理的一神教に統合しようとするものだった考えられている。
 それではザラスシュトラの教えはどのようなものだったのか、以下に引用する。


ガーサ ヤスナ第二十八章
1.スプンタ・マンユのこの御助けを、マズダーよ、[御身たち]すべての方々にわたくしは、うやうやしく手をのばし、天則に従い、行動をもって、まず第一に懇願いたします、[すなわち]ウォフ・マナフの意志と牛の魂とを、わたくしが満足させうるところの[行動]をもってです。
2.マズダー・アフラよ、善思をもって御身たちをつつみまいらせようとするわたくしに、天則に従って授けてください、有象の[世界]と心霊の[世界]となる両世界の恩典を--その[恩典]によって[御身さまが]助力者たちを楽土におき給うことのできんためです。
3.アールマティが王国を不壊に栄えさせてゆくのもウォフ・マナフと始めなきマズダー・アフラとのおんためですが、この御身たちを天則に従い讃頌しようとするわたくしのもとへ、呼び声に応じて、御身たちは助けに来て下さい。
4.ウォフ・マナフと一体になって魂を覚醒させようと心に銘記しまたマズダー・アフラの[くだし給う]、行為の報応を知悉しているものとして、わたくしは力ありまた能くなしうるかぎり、どこまでも、アシャを求めることにおいて教化をおいてまいりましょう。
5.アシャよ、御身を、献身者としてわたくしは、果たして見奉るでしょうか--[また]ウォフ・マナフを、そして王座を、最も強きアフラ=マズダーの高諾を[も見奉るでしょうか]。
[あらゆるもののうちにて]最大なる[その高諾]へと、この祈呪によって、舌をもって、われらは仇なすやからを改宗させたいのです。
6.ウォフ・マナフとともに御身は来てください。[そして]天則に従って授けてください、永劫の授けものを――
まことに崇高なみことばをもって、マズダーよ、力強い御助力を、ザラスシュトラ[なるわたくし]にです。
ガーサ ヤスナ第三十章
1.では、わたしは説こう、願い求めているものたちよ、すくなくとも穎悟者にとって銘記さるべきことを ――――
それはアフラにたいする称讃と善思の祈りと、さらには[それを]よく銘記しているものにより天則に従って観見され、かつ光明とともなるところの歓喜とである。
2.耳をもって御身たちは聞けよ最勝のことを、明らかな心をもって御身たちは見よ[最勝のことを][それは]ひとりひとりが自分自身のためにする、選取決定に関する二種信条のことで、[それというのも]重大な走行に先立ち、それに[われわれを]目ざめしめんためです。
3.では、睡眠を通して双生児としてあらわれた、かの始元のニ霊についてであるが、両者は、心意と言語と行為において、より正善なるものと邪悪なものとであった。そして、両者のあいだに、正見者たちは正しく区別をつけたが、邪見者どもはそうではなかった。
4.して、これら両霊が相会したとき、彼らが定めたのは、第一[の世界]には生と生存不能とであるが、しかし、終末にある境涯は、不義者どもには最悪なるも義者には最勝なるウォフ・マナフがあるということであった。
5.これら両霊のうち、不義なる方は極悪事の実行を選取したが、最も堅固なる蓋天を着ていて最勝なるスプンタ・マンユの方は天則を[選取し]、真実なる行為をもってアフラ=マズダーをすすんで満足させようとするものどももまた[そうであった]。
6.これら両者のあいだに、ダエーワらもまた正しく区別をつけなかった、それは、まよわしが彼らの談合しているところへ取りついたからで、そのため彼らは最悪のアカ・マナフを選取し、やがてアエーシュマのもとに馳せ集いおったが、そやつ(アエーシュマ)は[邪義なる]人々がよってもって世を毒するところのものなのである。

(2) アヴェスターの残余部分 アヴェスターのヤショト書に見られるようなインド・イラン共通時代の神々(ミスラ、アナーヒター等)がゾロアスター教のパンテオンの中に復活する。二十一章から成るヤショト書は内容的にも変化に富んでおり、各章毎に対象とする神格が異なる上に古体ヤショトとよばれる諸章は、ヴェーダ文献との比較研究や、イランの前ゾロアスター的形態を探求するのに重要な資料を提供するものとして注目されてきた。

(3) 中世ペルシャ語(パフラビー語)文献に記述されている教義 西暦222年アルダシールTの即位から651年にわたるササン朝ペルシャにおいてはゾロアスター教が国教として信奉されていた。このササン朝期に確立した二元論的教義ではアフラ・マズダ(中世語形オフルマズド)はスパンタ・マンユと同一視され、直接アフリマン(アンラ・マンユの中世語形)と対決することになった。この結果、両者をともに超越する根本原理としてズルバーン(時)を定立する。いわゆるズルバーン教が勢力を得ていった。
 これらの3段階の中でインド・イラン共通の神々が復権する時代は、先に挙げたクシャーン朝と重なる。ヤショト書に現れる神々はアフラ・マズダーを助ける者として示され、時としてそれに取って代わるほどの信仰を獲得していった。クシャーン朝のコインにギリシャ・インド等の神々が取り入れられ、宗教的に寛容な状況が現れた背景にはそのようなゾロアスター教のパンテオン化があったと考えられる。それらの神々の中のでも特に優勢であったのがミスラ(ミトラ)神であった。ヤショト書から関連する部分を引用すると、

ミフル・ヤシュト第一節2
「ミスラを欺く悪漢は、全ての国を破壊する、スピターマ(ザラスシュトラ)よ、 
 彼は百人の罪人と同じほどに義者を害する者なり。契約を破るべからず、
 スピターマよ、それが邪悪な者と結んだものであろうと、信仰を同じにする義者とのものであろうと破ってはならぬ、
なぜなら契約は不義者、義者のいずれのためにも存するのであるからだ。」
ミフル・ヤシュト第一節5
「我らに来たり給え、助力せんが為に。我らに来たり給え、安んぜんが為に。
 我らに来たり給え、支援せんが為に。我らに来たり給え、恵みの為に。
 我らに来たり給え、療治の為に。我らに来たり給え、勝利の為に。
 我らに来たり給え、好き生の為に。我らに来たり給え、義を持つことの為に。
 強く、勝利に輝き、祭らるべき者、
 全ての具象世界のために、欺かれざる者、ミスラ、広き牧地の主。」
ミフル・ヤシュト第十三節55
「もし、人間にして、他のヤザタを祭儀にて名を唱えて祭る如く、祭儀にて我が名を唱えて我を祭るならば、我は、義なる人の許に、その者の寿命ある間近づき、己自らの輝かしい不滅の生において、規則正しく来るであろう。」 
 ここで説かれる神の王国は楽土であり光明土であり、歓喜の国であって、病・苦・死等からの完全な救済が与えられる場所として示されている。その救済の条件の一つとして挙げられるのが、名を唱えることである。また、ミスラと契約を結んだ者は、義者(善)不義者(悪)の区別なく救われることが示されている。さらには、第十三節には、契約を守った人=義なるひとに対して、臨終に際して来迎があるかのような表現さえも見うけられる。このミスラを信奉していた人々が仏教を受容したとすれば、ミスラの特性を備えたような仏陀を望んだと考えられよう。クシャーン朝の宗教的背景を考えれば、当然そのような状況があったと考えられる。
 そのような状況下での仏教受容のあり方は、異教の神が仏教に帰依したと表現するとができるだろう。仏教では悟りを開けば誰でも仏になることができると説く。異教の神であっても成仏できるのである。自分たちの信奉する神がその独自の性格を保ったまま仏となった、そう考えることで人々はそれまで信奉してきた神を捨てることなく仏教に帰依することができたと考えられる。
阿弥陀仏は悟りを開く前は法蔵菩薩と呼ばれていた。その法蔵菩薩はある国の王であり、師匠である世自在王仏に出会って王位を捨て悟りを求めることとなったとされている。この世自在王の名前(LokeCvara)も実は世間(loka)と(ICvara)自在から成ると見るのが一般的であるが、観自在という解釈も成り立つように思われる。現象世界において自在に我々を観察し、審判を与える者を意味しているとも考えられるのである。法蔵菩薩の仏教帰依、そこに釈尊の生涯を重ねて見ているとも考えられるが、しかし、ある民衆の信仰を集めていた神の姿を象徴的に表現したものとみることもできると思うのである。

初期浄土経典について
 中国への仏教初伝が何時であったのかは明確ではない。ただ経典の漢訳に関しては、後漢の末期の第十一代桓帝(132〜 169 AD.)の頃に来朝した安息国(パルティア)の安世高(あんせいこう)と、第十二代霊帝(156〜 189 AD.)の頃に活躍した月氏国(クシャーン)の支婁迦讖(しるかせん)によって最初に行われた。この二つの国はゾロアスター教が大きな勢力を持っていた地域である。安世高は『四諦経』『八正道経』『安般守意経あんぱんしゅい-』等の主に部派仏教経典(34部40巻)を訳出し、支婁迦讖は『道行般若経』『般舟三昧経はんじゅざんまい-』『首楞厳経しゅりょうごん-』等の大乗経典(13部27巻)を訳出している。これは安息国では部派仏教が、月氏国では大乗仏教が主流をなしていたことを示している。
 後者の支婁迦讖は月氏(支)国:クシャーン朝と関係深い翻訳僧であり、支讖訳『般舟三昧経』は阿弥陀仏の名前が初めて現れる経典として知られている。また香川教授の研究によれば、これまで支謙訳とされてきた『大阿弥陀経』もその訳語の特徴から見て支婁迦讖訳ではないかと考えられている。支婁迦讖は月氏国の人で、支讖とも言う。仏法を信じ戒律を守って精進し、多くの経典を諷誦した。仏法を広めようと志して、後漢桓帝の時代末に洛陽に来て霊帝の光和中平の間において諸経を訳出したと伝えられている。その名前については支が月支の支であり、婁迦讖はloka-raksha(m.人民の保護者・王)のことだと考えられている。支讖訳としては、道行般若経、三巻般舟三昧経、一巻般舟三昧経、[人+屯]眞陀羅所問如来三昧経、阿闍世王経、遺日摩尼宝経、文殊師利問菩薩署経、兜沙経、阿門仏国経、内蔵百宝経、雑譬喩経、無量清浄平等覚経の十二部が現存しているが、この中、一巻般舟三昧経、雑譬喩経、無量清浄平等覚経の三部は他の訳者によるものと考えられている。
 支婁迦讖が訳したこれらの経典がどのような文字や言語で書かれていたかということについて明確な証拠は残されていない。それは中国訳経史の特色として、翻訳がすんでしまえば原典は破棄されたとい点があるからである。焼き捨てたか地中に埋めてしまったか、正確なところは伝わっていませんが原点が保存されていないということだけは確かなことのようである。しかし、クシャーン朝が紀元1〜2世紀にガンダーラ地域で繁栄したことから考えて、言語は西北インド語・ガーンダーリーであって、文字はカローシュティー文字であった可能性がある。
 このガーンダーリーが仏教史において重要な意義をもつのは、浄土教との関連においてである。浄土教の展開史を見ると、浄土教の本質にかかわる「阿弥陀仏」「無量寿と無量光」「本願」「極楽」「浄土」などの問題について検討した場合、それらのすべてはインド北西部における展開を示唆している。特に「極楽」(Skt. Sukhavati )は、初期の段階ではガーンダーリーの語形で仏典に記されたものと考えられている。
 すなわち(カッコ内の数字は、西暦で示した漢訳の年次を記す)、
『般舟三昧経』(179) 須摩提
『仏説大阿弥陀経』(178〜189) 須摩題
『無量清浄平等覚経』(258) 須摩提、須阿提
『慧印三昧経』(223〜253) 須呵摩提
『仏説無量寿経』(421) 安楽
『方広般泥 経』(269) 須摩提
『菩薩受斎経』(280〜312) 須訶摩持
『三曼陀跋陀羅菩薩経』(313〜316) 須訶摩提
『阿弥陀経』(402) 極楽
『如来智印経』(420〜479) 極楽
『無量寿如来会』(706〜713) 極楽
『大乗無量荘厳経』(991) 極楽
 これらの例を検討すると、「極楽」という訳語が5世紀以後に固定したこと、また、その訳語が初めて現れる『阿弥陀経』の訳者・鳩摩羅什(Kumarajiva)の例に従っていることがわかる。それ以前においてはもっぱら音写によっており、須摩提、須摩題、須呵摩提、あるいは須訶摩提と記されている。これらの音写から考えられる原音はSuhamadiで、ガーンダーリーでのSkt.Sukhavatiの転訛音であると見られている。また、阿弥陀仏が初めて現れる『般舟三昧経』における字音をみると、事例が僅少であるために断言はできないが、ガーンダーリーの痕跡と思われるものがいくらかあると見られている。これらの事実から、4世紀以前における浄土経典は言語としてはガーンダーリーで書かれていたものと推定できる。
 大阿弥陀経が平等覚経に先行するものとすれば、後者は前者の校訂版として作成されたものとも解釈できる。大阿弥陀経の音写による阿弥陀は、平等覚経の意訳である無量清浄と対応するはずである。この他に阿弥陀が彌陀で訳されたところが4箇所あり
  阿彌陀[仏]/乙丙丁/年寿(真聖全@p.158,13行)
  [阿]彌陀仏/乙丙丁/(真聖全@p.145,13行)
  彌陀仏(真聖全@p.162,6行)
  彌陀仏(真聖全@p.179,14行) 
  彌陀仏(真聖全@p.182,9行)
 以上のような音韻上の研究に加えて現在様々な事実が明らかとなってきている。例えば、経典写本の新たな発見もその事実の一つである。1931年のギルギット写本の発見以来大規模な写本の発見は報告されていなかった。
 しかし、1990年代のアフガン内戦は世界の古写本市場に膨大なアフガニスタンおよびパキスタン出土文献の流入という結果をもたらしている。これらの写本類の大部分は欧米の研究機関あるいはコレクターに引き取られつつある。その一例として、数年前にアフガニスタンのバーミヤン渓谷北部の洞窟で大量の仏教写本が発見された。その中にはカローシュティー文字で書き写されたガーンダーリーによる『大般涅槃経(Mahaparinirvanasutra)』(2世紀)あるいはクシャーナ文字で書写された『八千頌般若経(Astasahasrika Prajnaparamita)』(2世紀〜3世紀)の断簡があったと報告されている。2世紀前後という時代はインドにおける般若経の成立とそう遠く離れていない。前者は仏陀最後の旅を描いた小乗涅槃経であるが、後者は大乗経典である。これは初期大乗経典が最初から梵語で書かれていたのではなく、それに先立って俗語の般若経がインドに存在していた直接の証拠と言う事ができるのである。さきに述べた初期浄土経典である支婁迦讖訳の『般舟三昧経』『大阿弥陀経』もほぼ同時期・同地域で成立していたものと考えられる。それは第三期にあったゾロアスター教と仏教の交渉という点で理解すべきものであったと考えられるのである。光明無量の阿弥陀仏や浄土という世界の特徴は多分にイラン的思想の影響を含んだものと見ることが出来るのである。
 以上、初期大乗経典成立と砂漠的宗教の関係について概観してきたが、ゾロアスター教から派生したと考えられている宗教、ミトラ教とマニ教についても若干触れておきたい。
 【ミトラ神像図】

ミトラ教:(Mitraism):古代ペルシャの宗教。ミスラ神はインド・イラン民族間に元来天空を司る神として紀元前三世紀ごろ信奉され、漸次太陽神、光明神、万物豊穣を司る神として崇拝の対象とされていた。先に述べたように、インド・ヴェーダ神話の太陽神ミトラがこのミスラ神に比べられ、インド・イラン共同時代(アーリヤ人インド侵入以前)にすでに共通の太陽神として信仰されたものらしく、印欧比較言語学上においても好個の題材とされてきた。しかし、教義・信仰の内容においてはむしろゾロアスター教の直流ともいうべきものであり、アヴェスターにもアフラ・マズダに属する重要な神格として挙げられている。
ミトラ教ではミトラが善神マズダ(光明)と悪神アンラ・マイニュ(暗黒)の中間に介在して邪悪迷妄の折伏を司ると信ぜられ、ゾロアスター教と軌を一にした同工異曲の点も多く、後に派生するマニ教の母体ともなったとも考えられている。その教義上の特色は、平等観に立脚し、万民無差別に聖餐にあずかることによって同一の復活に到達することを説き、罪業を浄化し、現世の苦悩を超越して到達すべき来世の存在を教えている。善悪二元の闘争を実相とする現世も世界の終末によってその闘争に終止符を打ち、ミトラ神の降来によって善者の復活不死、悪神の死滅が約束されるとしている。洗礼儀式、聖餐(聖牛を共餐)、秘密儀軌などをふくみ、キリスト教類似の諸儀式との関連性が比較研究されている。
 2世紀頃がミトラ教の全盛期でローマ帝国の支持を受けてヨーロッパにさかんに宣伝され、世界宗教にまで発展しようとする勢いを示したが、キリスト教の台頭などにより4世紀頃には衰亡の一路を辿り、教徒はキリスト教、マニ教などに改宗するにいたった。最近の報告によると、破壊されたバーミヤン大仏の天井部分に描かれていた壁画はミトラ神であったと考えられている。それはイラン系の人々によって伝えられたものと推測できよう。

マニ教:Manichaeism 従来、古代ペルシャのゾロアスター教を母体として派生した宗教とされてきた。ゾラアスター教の衰微傾向(AD.1C頃)、ミトラ教の西漸、キリスト教の未発展の間隙を縫って、マニMani,Manes,Manichaeus(215-276)によって創唱された宗教である。簡明な教義と礼拝方式、峻厳な義務と道徳戒律をゾロアスター教に準拠した二元論にもとづいて説き、現象の帰一する善悪の根源をつねに明暗に対比させている。最上神としての光明は愛、信、誠、敬、智、順、識、覚、秘、察の十徳によって具現され、暗黒はその対極として説かれた。すなわち明暗混沌の現実世界は宗教的真理と神の志向によって光明の世界への到達を予定されており、地上においてその最大の救済者として派遣されたものがマニであるとされている。この教理を身につけるために信徒は個に内在する明因を育成することに専念し、三封(肉食飲酒の厳禁・悪行の禁慎・情欲の離脱)と十戒を遵法厳守しなければならないと説く。とくに菜食、斎戒、祈祷(日に4度)が日常宗務としてこの教徒の特色をなしていた。この個に内在する明因を認めるところに後述するグノーシスの立場が示されている。

 【マニ光仏像図】

中央アジア一帯にもっとも盛んで、その勢力は西はローマ帝国(AD.4C初頭)、東はインド、中国に及んだ。ローマ・カトリック教会は脅威を感じ、布教禁令を発した(AD.4C末以来)が、マニ教はそのような弾圧にもかかわらず13世紀にいたるまで勢力を保持した。地理的事情からいって、マニ教がキリスト教・仏教の要素を多分に導入摂取したことはほぼ確実で「キリスト教を加味したゾロアスター教」の異名で呼ばれていたゆえんでもある。中国には5世紀後半に伝わったとされている。
 しかし、最近のマニ教研究によってグノーシスとの関連が指摘されるようになった。グノーシス(gnosis)とはギリシア語で知識を意味している。紀元1世紀から2世紀にかけての時期にローマをはじめギリシャ文化の及んだ中近東一帯に流行した宗教思想である。今日残された資料のほとんどがキリスト教教父のものであることから、一般にキリスト教の異端派とされてきたが、1945年以降エジプトのナグ・ハマディの文献の発見などにより、その背景はもっと広く、ユダヤ・イラン・バビロニア・エジプトその他の東洋の宗教思想とギリシャ哲学的思考の混合したシンクレティズムであることが一層明白となった。それは人間と世界、世界と神の二元的断絶を認めつつ、絶対的始源としての神からより下級の神を分出させてこれを世界の創造者とし、一方人間の救済を神の自己救済として宇宙論的体系を構成している。グノーシスは世界にとらわれた内的人間を解き放って神の国に戻す救済と考えられている。キリストも地上に下ってグノーシスをもたらすものと見なされていた。このようなグノーシスの考え方に対してキリスト教は、宗教を形而上学的認識のひくい段階で非合理的な方法で行われる民衆の形而上学であると判断し、キリストの神性を認めるがイエスの人格を忘れる傾向があると非難し、異端として糾弾した。
 
 グノーシス神話は主として宇宙や人間の創造物語を扱っている。既成の概念に対する逆転あるいは拒絶の意図が示される。例えば『旧約聖書』創世記のエデンの園では、蛇は誘惑者であり創造神は法的正義をもってこれに対立しているが、グノーシスの一派ではそれを解釈し直して、蛇こそ人間に智慧を授けた恩恵者であり、創造神の正体は抑圧者であるとしている。グノーシス神話はユダヤ教、キリスト教、ギリシア神話、プラトン主義などから素材を取り入れ解釈し直すことが多いとされている。
 このようなグノーシスの二元論はプトレマイオス天文学の基礎をなすローマ帝国起源の宇宙観を基本としている。外側から内側へ向けて、至高界・神>星辰界>月下界>地上世界の階層構造を持ち、内側から外側に行くほど神的影響力が増す。これは倒立した宇宙樹という表現で喩えられる宇宙観である。人間を含めた宇宙万物の根源は天空にあって、宇宙の万物はそれが下方へ向かって伸びる樹木の枝葉に見立てられている。天空の中間層が星辰界で、七惑星天と恒星天から成り立ち、秩序・善が支配するコスモスである。これに対して、地上世界は無秩序・悪が支配するカオス(混沌)である。しかし、グノーシスにおいては、星辰界も完全なものではなくカオスを含むものとされている。
 【グノーシスの宇宙観図】
 人間は本来神の内にあったが何らかの偶然によって地上に転落し、身体の中に閉じ込められて[自己]と異質の物質世界に投げ出されている。これは人間にとって非本来的姿であり、魂の[無知][迷い][眠り][酔い][忘却]の状態であると考える。しかし、ある日、自己本来の姿について知識(グノーシス)が与えられると、人間は覚醒するとされている。ここに知識の啓示者の意義があるとしているのである。魂は身体を脱却し、神のもとへの帰還の旅を続け、敵対する星辰界の領域をも通過して、やがて至高神のうちに入って再び神となる。この過程には、神の充足の段階>充足が破れ神性が世界内に拡散・展開する段階>神性が帰還・収束して再充足がなる段階があり、正反合の流れが見られる。イランではマニ教が後期グノーシスを代表すると考えられている。教会組織を積極的に採用し、4世紀末までにはやがて世界宗教となりうるほどの進展を示していた。中国にも伝播し、特に中央アジアのトルファンに移動した部分は13世紀ころまで存続していた。
キリスト教との摩擦 人間の魂は被造物ではなく、神と同質であるとする点で人間は本性上救われているということとなり、改めてキリストの救済を必要としない(ことにもなりかねない)。また、人間の身体が卑しい被造物であると考えるため、キリストの身体性を否定する仮現説(ドケティズム)をとることにもなる。
マニ教の世界観
 世界には三期があると説き、初際、中際、後際と名付けられた。大きく分けると、初際は明暗両界の対立と混乱の開始、中際は混合の完了、後際は分離の開始と暗界の消滅に相当する。明暗両界は永劫から対立的に存在しており、初際においては互いに上下に位置して交じり合うことはなかったとされる。明界には明尊・光明楽土の王と呼ばれる神を中心に諸尊眷属がいた。明尊には多くの別称があり、「偉大の父」「光明の父」「永劫の時(ZarvAn)とも呼ばれていた。暗界にも大魔・原魔・サタン(漢訳では魔王・貪魔・怨食魔王)がいて、それはゾロアスター教のアーリマン(Ahriman)に相当していた。暗界の混乱と無秩序が(カオス)が明界の静寂を破り、暗界の眷属が両界の境界線を侵して明界に侵入し、闘争が開始されたと説く。中際において、明尊は原人を召喚して暗界の侵入を防ごうとした。この原人は明界の五要素(気・風・力・水・火)によって武装し、暗界軍と戦ったが、結果的には敗れてしまう。そのために、五要素は暗界に併合されて、暗界の五要素に取り込まれてしまうことになった。ここに両要素が混合してしまい、明界が暗界の中に取り込まれてしまうという事態が現出したと説くのである。一時的な暗闇・混沌による支配の期間が中際である。
 後際において、明尊は第二回目の召喚をおこない、三明使を戦闘に投入したとされる。第一使(光の友)は直接に原人の救済に当たり、第二使(大工作者)は明界楽土の再建を担当し、第三使(活霊)は第一使が暗軍に囚われた原人を解放した際に、明界に奪還する役目を担当するとされる。マニ教の開闢説によれば、現実の世界は原人が最初の闘争で奪われた五要素を取り戻すために召喚された第三明使(活霊)によって創り出されたものと考えられている。すなわち、今、我々が住んでいる現実世界は明暗混合の状態であり、明尊によって企てられた移行期間であると見ている。明界の要素は不浄と暗黒を光によって焼き尽くし、ついには永劫の勝利を収めるものとされている。地上の明界の要素が暗黒から解放されると、柱状になって昇天し、月、太陽を経て最高所に達すると考えられていた。これを「栄光の柱」と呼んでいた。
 われわれ人間にもその明界の要素が備わっており、あらゆる暗界からの束縛から解脱させることが説かれた。ここにグノーシスの人間観が強く現れていると言える。
如来蔵教義とグノーシスの類似性
 グノーシスが勢力を伸ばしたのは紀元1〜2世紀、さらに後期グノーシスであるマニ教が広まったのはその後の3世紀以降であった。この時代、地中海地域との交易はクシャーン朝の経済的基盤ともなっていた。したがって、インドより西方世界で展開したグノーシスはインドにもなんらかの影響を与えたと考えられる。仏教思想の中でグノーシスと酷似するものとして如来蔵思想を挙げることができよう。如来蔵とはすべての衆生に具わっているとされる悟りの可能性のことで、仏性とも言う。如来蔵のサンスクリット原語は如来(=仏)と胎(あるいは胎児)の二つの単語から成る複合語であり、「如来を胎に宿すもの」の意味になる。その語は衆生の説明句として説かれ、その出典は『如来蔵経』「一切の衆生は如来を胎に宿している(sarva-sattvAs tathAgata-garbhAH)」という表現である。胎中にあるものは胎児にほかならないので、後に『勝鬘経』などでは,これを〈如来の胎児〉の意にとり、さらに、如来を如来たらしめている本性として法身にほかならず、ただそれが煩悩を纏(まと)っているため、まだ如来のはたらきを発揮出来ない状態にあるもの(在纏位の法身)と解した。
 『勝鬘経』のサンスクリット原典は伝わっていないが、その漢訳として、求那跋陀羅(GuNabhadra)訳の『勝鬘師子吼一乗大方広方便経』(436年訳)とチベット訳が現存する。内容は、波斯匿(Prasenajit)王の娘勝鬘夫人を語り手として、三乗が最終的に一乗に帰すること、常・楽・我・浄の法身、輪廻(りんね)と涅槃(ねはん)など万法の生成の基盤としての如来蔵などを説くものである。漢訳の時期から考えて、3世紀頃にはインドで成立していたものと考えられている。それは後期グノーシスのマニ教とほぼ同時代に位置する。また、その語り手が勝鬘夫人という知識人である点にもグノーシスの特色と合致するように思われる。そこで次に『勝鬘経』如来蔵品から重要な部分を引用してみたい。
 この部分で勝鬘夫人(SrImAlA)は釈尊に対して如来蔵について解説している。

 「それゆえ、世尊よ、如来蔵は、(法身と)本質的に結合した、不可分離の、また(さとりの)智慧と切り離せないところの、真実絶対の諸徳性(無為法)にとって、よりどころ、支え、基盤なるものであります。同時に、世尊よ、(法身と)本質的に矛盾し、それから分離し、(さとりの)智慧とは無関係な、迷いの世界の諸性質(有為法)にとってもまた、よりどころ、支え、基盤たるものは如来蔵なのであります。世尊よ、この如来蔵がもし(衆生の内に)ないとすれば、人が苦を厭い、涅槃を望み、憧れ求め、これを得ようと誓うこともないでしょう。それはなぜかといえば、世尊よ、それは、(眼その他の感官による)六種の認識作用と、認識作用され自体(としての心)という、これら七つは瞬間的存在で、一瞬たりとも持続せず、したがって苦を感受することはありませんから、それらのものが、苦を厭い、涅槃を望み、憧れ求め、これを得ようと誓う(主体である)ということは、理にかないません。(これに対し、)世尊よ、如来蔵ははじめも知られず、終わりもなく、不生・不滅性のものですから、苦を感受します。それゆえにこそ、世尊よ、如来蔵は苦を厭い、涅槃を望み、憧れ求め、これを得ようと誓う(ところの主体)なのであります。
(こう言えば、人は、如来蔵とは異教で言う我アートマンと同じではないかと思うかもしれませんが、)世尊よ、如来蔵はけっして、(そのような)実体概念(有身見)に陥った衆生や、(前に述べたような)転倒した見方にとらわれている衆生たち、ないしは(大乗の説く)空の原理について心が混乱し、誤解している衆生たちにとっては、理解の及ぶ領域ではありません。世尊よ、如来蔵は、真実の教えを生み出す根元(法界)(としての如来)の胎児、法身(としての如来)の胎児、世間的価値を超えた絶対的な(如来の)胎児、本性として清浄な胎児であります。
ところで、世尊よ、このような本性として清浄な如来蔵が、偶発的に付着した諸種の煩悩によって汚されているということは、ただ如来だけが知ろしめすところ、われわれの思慮の及ぶところではない、と私は考えます。それはなぜかといえば、世尊よ、善心は瞬間性のもので、したがって煩悩の汚染をうけるということはありません。世尊よ、不善心もまた瞬間性のもので、したがって煩悩の汚染をうけるということはありません。世尊よ、煩悩が心と接触することもなく、心が汚されるということもありません。ここにどうして、世尊よ、不可触性の心が、接触によって汚されることがありえましょうか。しかも、(事実としては、)世尊よ、われわれには多くの煩悩があり、また煩悩によって汚された心があります。しかも、世尊よ、「この心は本性として清浄であるのに、煩悩によって汚されている」といわれている。この意味はまことに了解しがたいことです。世尊よ、この点については、世尊こそが、眼となり、智慧となるかたでいらっしゃいます。世尊こそは、すべての教えの根元であり、世尊こそが支配者であり、世尊こそが教主でいらっしゃいます。」
 そこで、世尊はシュリーマーラー夫人が難解な教義を説明されたのを聞かれて、たいそう喜ばれ(シュリーマーラー夫人に向かい、次のように仰せられ)た。
「夫人よ、そなたの言うとおりである。まったくそのとおりである。本性として清浄な心が(煩悩によって)汚されるということの意味は難解である。夫人よ、まったくこの二つのことは了解しにくい。すなわち、心が本性として清浄であるということも了解しにくいし、しかもその心が汚染されるということもまた了解しにくい。夫人よ、この二つのことを聞いてわかるのは、そなたか、もしくは偉大な教えを身につけた菩薩たちだけである。夫人よ、その他の声聞たち(や独覚たち)はすべて、この二つのことに関しては、(理解の及ぶところではないから、)ただ如来(の言われること)を信ずべきである。」

 後の論書で如来蔵を定義した『究竟一乗宝性論』には、如来蔵経典の諸義を整理して、1)衆生=如来の胎児、2)衆生=如来と同じ本性(真如)を有する者、3)衆生=如来の因(=仏性)を有する者と解説している。1)はさらに、すべての衆生が如来法身に遍満されている意であるとも考えられていた。漢訳の『仏性論』ではこの説について、1)は所摂蔵(衆生は法身により包摂。法身は宇宙大、衆生はその一部)、2)は隠覆蔵(真如法身が衆生内に隠れ潜む)、3)は能摂蔵(衆生は如来の徳性を本来的に具有する)の三蔵としている。
 これらの解釈の中にグノーシスの宇宙観に酷似したものを見ることができる。いやむしろ、時代的・地域的関連性の中で考えると、これはグノーシスが仏教に影響を与えたものと考えるのが妥当なように思われる。衆生は元来「悟り」を内在しているとする如来蔵思想は後に本覚思想へと展開していく。それは、人間の理性に高い価値を認めていたギリシア思想(ヘレニズム)の理知主義に根本的につながるものである。現代の仏教学者の一部に、如来蔵思想ひいては本覚思想は仏教ではないという批判が行われた。
 袴谷憲昭『本覚思想批判』、松本史朗『縁起と空・如来蔵思想批判』は十二支縁起こそが釈尊の本来の教えであると主張する。後に興った中期大乗経典は仏教の本質から離れたものと批判するのである。これらに対して、三枝充悳『縁起の思想』の反論は「相依相待の縁起pratItya-samutpAda」側に立つものと言える。
 しかし、釈尊在世以後の仏教は様々な文化との交流を通して、縁起説という基盤を失うことなく多様に変容してきたものと考えるべきではないだろうか。釈尊が説いた教説のみが仏教であるという定義があるとするなら、後に起こった部派仏教や大乗仏教はすべて仏教ではないということにもなりかねない。かつて、大乗非仏説論争が戦わされた時と同様、仏教の本質的理解ということが問題となるのである。仏教文化学の観点から言えば、多様な変容を遂げたのも仏教の寛容性の現れであり、多様な文化に対応した結果であると言えよう。一神教のもつ非寛容性は最近の国際情勢の中でも大きな問題となっている。そのような情勢の中で今後仏教がいかにあるべきかが問われているのである。


仏教とヒンドゥーイズムの交渉
 先に仏教とヘレニズムとの交渉、仏教とイラン思想との交渉を見てきた。それは単純なものではなく、マニ教の特長にも表されるように複雑に交錯した結果であった。仏教はモンスーンという風土の中で独自の展開を遂げたが、そのモンスーンの中で成立した典型的な宗教がヒンドゥー教である。そこで最後に、仏教とヒンドゥーイズムとの交渉について考察してみたい。ヒンドゥーイズムはブラーフマニズム(バラモン教)が民衆的宗教・思想へと拡大していったもので、釈尊在世時から様々な形で仏教に影響を与えてきた。以下、時代を追って、初期大乗経典への影響、唯識思想への影響、密教への影響という点から概観してみたい。なお密教が栄えた後、インドにおいて仏教はヒンドゥーイズムの中に吸収され、釈尊はヴィシュヌ神の第九番目の化身という位置に取り込まれてしまった。

 初期大乗経典とヒンドゥーイズム(『法華経』と『バガヴァット=ギータ』)
 古代インドの叙事詩に『マハーバーラタ』がある。この一大叙事詩の内容は、親族関係にあるクル100王子とパーンドゥ5王子を中心とするバラタ戦士の遍歴と戦いが中心となって展開する。18章から成っており、戦争譚(6〜9章)を中核として多数の宗教詩(第6巻『バガヴァッドギーター』など)、哲学詩(『モークシャダルマ』など)、教訓詩、神話、伝説(『ナラ王物語』『サーヴィトリー物語』、など)を収めている。補遺「ハリヴァンシャ」を含めると約10万頌から成っている。紀元4世紀頃には現形に近いものとなっていたと考えられており、物語のあるものは仏教を通して日本にも伝わっている。
 この一大叙事詩の中でも『バガヴァッドギーター』は有名で、普通〈神の歌〉と訳され、18章から成っている。その原型の成立時期は紀元前2世紀に溯り、初期大乗経典成立時期よりも2〜3世紀まえに相当する。その粗筋は、パーンドゥの第3王子アルジュナは親族間の戦に臨みながら、戦争悪を反省して戦意を喪失してしまう。彼の戦車の御者となっているヴィシュヌ神の化身クリシュナは、彼に私心を去り、行為の結果を唯一神に委ねて自己の本務に徹すべきであるという行動の形而上学を説く。諸哲学説を折衷し、唯一神への献身・神の恩寵を説き、ヒンドゥー教徒が尊重する聖典となっている。このヒンドゥー教の聖典が『法華経』などの仏教経典に影響を与えたと考えられているのである。
 例えばサンスクリット本『法華経』信解品には『マハーバーラタ』の英雄であるビーシュマの名前が挙げられている。
「いまわれわれは声聞であるが、最高の「さとり」を達成すると宣言するであろう。そして、「さとり」という言葉を世に弘め、それによってわれわれはビーシュマのような声聞となるであろう。」
ただし、漢訳『妙法蓮華経』には
今得無漏 無上大果 我等今者 真是聲聞 
以佛道聲 令一切聞(大正新脩大蔵経・法華華嚴部,T9,p.18c)
「今、無漏の無上の大果を得たり。我らは、今、真にこれ声聞なれば、
 仏道の声をもって 一切を聞かしめん。」
とある。これは漢訳時に固有名詞であるビーシュマが理解できないという理由から削除されたものと考えられる。
 ビーシュマ(BhISma)というのは『バガヴァットギータ(マハーバーラタ)』に登場する英雄の名前で、節度・智慧・勇気・自己の言葉に忠実なことで有名な人物である。
ビーシュマの父シャーンタヌ王は人間の姿をとって現れたガンガー女神に魅せられ、是非自分の妃にと懇願する。女神は自分が誰であるかを一切詮索しないこと、また自分が行う如何なる所業についても咎めないことを条件に妃となることを承諾する。
歳月は流れ、ガンガー妃は八人の子供を産んだ。しかし、彼女は、七人目まで全てガンジス川に投げ込んで殺してしまった。最後の八人目をガンジス川に投げ込もうとした時、シャーンタヌ王はついに我慢できずに制止してしまう。ガンガー妃は王が約束を破ったことを理由に王のもとを去ることを告げ、真の理由を明かす。すなわち、仙人の呪いによって人間界に生まれることになった八人の天人を救うため、ガンガー女神が母となったこと、ガンジス川に投げ込んで殺したのは人間の境涯を早く終わらせるためであったこと、などを告げた。また、八人目の子はガンガー妃が暫く預かり、後に王子として王のもとへ帰すと約束して姿を消してしまう。
それからまた、歳月が流れ王はデーヴァヴラタ王子とガンガー女神に再会する。このデーヴァヴラタ王子が後のビーシュマと呼ばれるようになる。その経緯としては、後にシャーンタヌ王はサッティヤヴァティーという乙女に心を奪われ、彼女を妃にしたいと望む。乙女の父親が提起した結婚の条件、娘の子供に王位を継承させるという難題に頭を痛めていた王を気遣い、デーヴァヴラタ王子は直接交渉を試みた。そして、デーヴァヴラタ王子自身が王位継承権を放棄すると同時に、純潔を保って子孫を残さないと誓いを建てることになる。これに対して、神々は「ビーシュマよ!ビーシュマよ!」と賞賛の声を挙げたという。ビーシュマとは勝れた誓いを建てて、それを成就すること意味するという。シャーンタヌ王とサッティヤヴァティー妃の間に生まれた二番目の息子ヴィチットヴィーリヤの子供がドリタラーシュトラとパーンドゥという王子で前者がクル家、後者がパーンドゥ家となって親族間の闘争を繰り広げていくことになる。
我々がこの個所を理解するにはこのような注釈が必要たなるであろう。しかし仏教梵語で書かれたテキストは読者あるいは聴聞者がその名前について熟知しており、ビーシュマの人徳を思い浮かべることができることを前提としている。このような表現方法は喩例と称されるもので比喩表現の中の一つである。インドでは比喩表現について詳細な分類・定義がなされている。
 さらに『法華経』如来寿量品には、釈迦如来が久遠から存在する仏であり、八十歳で滅度したのは方便であったとする重要な部分がある。サンスクリット文の和訳を以下に引用すると。

思議を越えた、その量もけっして知られることのない幾千コーティ劫もの以前のことであるが、そのとき私はこの最高の菩提を得、(そのときからこのかた)常に私は教えを説いている。
「多くの菩薩たちを励まして、(彼らを)仏陀の知(の立場)へと確立させ、また、多くのコーティ(劫)のあいだ、幾コーティ・ナユタもの多数の衆生たちを(最高の菩提に向けて)成熟させる。
衆生たちを教化するために(巧みな)方便を説き、涅槃の境地をあらわしてみせるが、しかし、私はそのとき(実際には)涅槃するのでなく、まさにここにおいて教えを説き明かしている。
私は自分に加える神秘の力によってここにいるが、また、すべての衆生にも同じく(神秘の力を加えているので)、倒錯せる理解力をもつ愚昧な人々は(私が)ここにいるにもかかわらず、私を見ることがない。
私の身体が完全に死滅した(滅度)のを見て、彼らは遺骨に種々の供養を行うが、私を見ることができないので渇望を生じ、そのために彼らの心は正常になる。
それらの衆生が正常で、やさしく、おだやかになり、愛欲を離れたとき、私は声聞の僧団をともなって、みずからを(ここなる)グリドラクータ山にあらわす。
そのあとで、私は彼らに次のように語る。「あのときも、この同じ場所にいて、私は涅槃にはいったのではない。比丘たちよ、(涅槃にはいって消滅したと見えるのは)私の巧みな方便であって、私はこの人の世にくりかえし幾度もあらわれる。」

対応する漢訳部分は
自我得佛來  所經諸劫數 無量百千萬  億載阿僧祇  
常説法教化  無數億衆生 令入於佛道  爾來無量劫
 為度衆生故  方便現涅槃 而實不滅度  常住此説法
 我常住於此  以諸神通力 令顛倒衆生  雖近而不見
 衆見我滅度  廣供養舍利 咸皆懷戀慕  而生渇仰心
 衆生既信伏  質直意柔軟 一心欲見佛  不自惜身命
 時我及衆僧  倶出靈鷲山 我時語衆生  常在此不滅
 以方便力故  現有滅不滅 餘國有衆生  恭敬信樂者
 我復於彼中  為説無上法
 (大正新脩大蔵経・法華華嚴部,T9,p.43b)

「われ、仏を得てよりこのかた 経たる所の諸の劫数は 無量百千万 億載阿僧祇なり。常に法を説きて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむる 爾よりこのかた無量劫なり。衆生を度わんがための故に 方便して涅槃を現すも しかも実には滅度せずして 常にここに住して法を説くなり。われは常にここに住すれども 諸の神通力をもって 顛倒の衆生をして 近しと雖もしかも見ざらしむ。衆はわが滅度を見て 広く舎利を供養し ことごとく皆、恋慕を懐いて渇仰の心を生ず。衆生、既に信伏し 質直にして意柔軟となり 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまざれば 時にわれ及び衆僧は 倶に霊鷲山に出ずるなり。われは時に衆生に語る「常にここに在りて滅せざるも 方便力をもっての故に 滅・不滅ありと現すなり。余国に衆生の 恭敬し信楽するものあらば われは復、彼の中において ために無上の法を説くなり。」

また、この如来寿量品の前にある従地涌出品では、法華経の説者である釈迦よりもはるか古に存在していたと思われる菩薩たちが地から湧き出しながら
「尊師におかせられては、ご無事で、息災で、ご健勝にお過ごしですか。尊師よ、この世に存在する者たちは、挙動がすぐれ、理解力がすぐれ、指導しやすく、浄化しやすく、尊師を悩ますことはないでしょうか。」と挨拶をする。これに不審を懐いた弥勒菩薩が次のように質問をしている。
「どのようにして、いまの場合、尊師よ、如来は王子となってこの世に生まれ、シャークヤ族の都カピラヴァストゥを出て、ガヤーの町から余り遠くない場所にある、悟りの座の頂に登って、この上ない完全な悟りを悟られたのですか。しかも、世尊よ、その期間は四十余年であります。従って、世尊よ、このようにわずかな時間の間に、どのよにして如来は測り知れないほどの如来の仕事をなし、如来は如来の傑出した特性・如来の壮挙を発揮したのでありましょうか。・・・中略・・・
例えば、尊師よ、ひとりの青年がいて、若くて元気溌剌とした若者で、髪は黒く、最高の若々しさを具えており、生まれて二十五年であるとしましょう。彼は、百歳の人々を息子であると紹介し、『良家の息子たちよ、これらの者たちはわたしの息子である。』と言うとしましょう。また、これらの百歳の人々も、このように言うとしましよう。『この人はわれわれの父、生みの親である。』と。この人の言葉は、尊師よ、信じられず、世間から信用されにくいでありましょう。云々

この質問に対して、前述の如来寿量品における所説が続くのである。
 この永遠の命を持ち、繰り返しこの世に現れるという概念はヒンドゥーイズムの影響を受けたものと考えられる。本来の諸行無常という仏教の根本原理からは程遠いものと考えざるを得ない。
以下『バガヴァットギータ』の中で『法華経』従地涌出品・如来寿量品と関わりを持つと思われる第四章1〜11偈を引用してみたい。

聖バガヴァット(クリシュナ)は言った。
「この不滅のヨーガを、私はヴィスヴァスヴァット(太陽神)に宣示した。ヴィスヴァスヴァットはマヌ(人間の祖先)に告げた。マヌはイクシュヴァーク(日系王統の祖)に語った。このように王仙たち(聖智を持つ王たち)はこの伝承(paraMparA)により得られたこれ(ヨーガ)を知った。このヨーガはこの世において長い時を経て滅亡してしまった。敵を悩ます者(アルジュナ)よ!実にこの太古のヨーガは、今日あなたに宣示されたのである。あなたは私に誠信をささげ、かつ友人である。何故ならば、これは最高の秘密だからである。」
アルジュナは言った。
「貴兄の出生は後であり、ヴィヴァスヴァットの出生は前である。私はこれをどのように理解するべきなのか? 貴兄が最初にこれを宣示したということを。」
聖バガヴァット(クリシュナ)は言った。
「私の過去の出生は多数である。あなたの(出生)もまたそうである。アルジュナよ!私はこれらを全て知っている。あなたは知らないのだ。敵を悩ます者(アルジュナ)よ!私は不生にしてその本性は不変である。万物の主宰者であるが、自己のプラクリティに依止して、自己の幻力(AtmamAyA不可思議力)によって出現する。何故ならば、正法(dharma)の衰微があって、非法が興起するごとに、私は自身を創出するのである。バラタの後裔(アルジュナ)よ!善行者を救護するために、また悪行者を絶滅するために、正義の樹立を目的として、私は各ユガ(yuga世期)に出現する。私の神的出生と行作とをこのように如実に(tattvataH)に知る者は、肉身を棄てた後、再び出生することなく、私に戻って来る。アルジュナよ!愛欲・恐怖・忿怒を離れ、私に専向し(manmaya)、私に依存する多くの者は、知識の苦行(jJAnatapas知識の修練)により清められて、私の本性(madbhAva)に達した。どのような方法で、人が私に帰依したとしても、私は彼らを正にそれ相応に恵む。人間は到る所において私の轍に従う。プリータ夫人の子(アルジュナ)よ!」
 『バガヴァットギータ』引用文中下線を施した部分に注意して欲しい。プラクリティ(prakRti)とはブラーフマニズムにおいて重要な概念を示す言葉である。プラクリティ・原質からの転変(pariNAma)によって個別の現象が成立するという基本的考えを示している。これが転変説(pariNAma-vAda)と呼ばれるものである。ただし、『バガヴァットギータ』においては自我(puruSa, Atman)とプラクリティのとの二大原理を超克するものとして最高神クリシュナを置く点において、後述するサーンキャとは大きく相違している。さらに、クリシュナはウパニシャッドの根本原理であるブラフマン・梵をもその神性の中に包摂していると説く。自我は本初において神の一部であり、神性を帯びるものと見られている。ただし、その自我はプラクリティの構成要素である三種のグナ(guNa)の平衡が壊れることによって現象世界として展開すると考える。三種のグナとはサットヴァ(sattva「善性」)、ラジャス(rajas「動性」)、タマス(tamas「暗性」)であり、サットヴァは常に真・善・清浄・光明に関係して病患なく、楽に対する執着と智に対する執着によって、自我を繋縛する。ラジャスは激情的・活動的で、渇愛(煩悩)を生じ、行為に対する執着によって自我を繋縛すると説く。タマスは無智性で、自我に昏迷をもたらし、放逸・怠惰・睡眠によって繋縛する。万物は三種のグナの混合によって成立しているため、どのグナが優性であるかによって個性が定まると考えられている。
自我が神性を帯びるとする点にグノーシス思想との類似性が見られるように思われるが、グナの混成状態によって輪廻が生ずると考える点にヒンドゥーイズムの基本的立場が示されていると言えるだろう。

法華経とマハーバーラタ(2)
梵文『法華経』所説のaSTApada
 現存の漢訳本は、竺法護訳『正法華経』(10巻27品)(286)、鳩摩羅什(くまらじゆう)訳『妙法蓮華経』(7巻27品,のち8巻28品)(406)、闍那崛多・達摩笈多訳『添品(てんぼん)妙法蓮華経』(7巻27品.羅什訳の補訂)(601)の3本である。19世紀以降、ネパール・チベット・中央アジア・カシミール(ギルギット)などで原典写本が相次いで発見され、漢訳本と対比しながら、改めて法華経の成立状況や特色について研究が進められている。
 これらの梵文『法華経』の中、佛国土の荘厳を現す語句として用いられたものの中で、その意味がいまだ明かでないものに suvarNa-sUtrASTApada がある。これについては、従来様々な解釈が与えられてきたが、H. Kern によって示された「金の縄をもって将棋盤の目のように区画された」という訳が一般的である。これに対して、岩本裕博士は初め「八つの台」と訳されていたが、後には aSTApada<aSTA-pattra の誤りであるとして「八つの花弁」と改め、更にそれが後代の密教における「八葉の蓮弁」あるいは「八弁の蓮華」の先駆的表現と見なされることが付け加えられている。しかし、この aSTApadaは法華経全体を通して六回用いられており、現存する法華経梵本全てを網羅した『写本集成』を参照しても、わずかに二、三の写本を除いてすべて aSTApada となっている。また、漢訳経典の中にも「八交道」の語句があり、aSTA-padaの訳語であると考えられる。 
『正法華経』授聲聞決品第六
其佛國土甚為清淨。無有礫石荊蕀穢濁之瑕山陵谿澗。普大快樂。紺琉璃地衆寶為樹。黄金為繩連綿諸樹。有八交道。 <大正新脩大蔵経9巻 p.86>
珍寶莊嚴 復以珍寶 成為樹木 有諸道徑 嚴八交路 天人放香 <大正新脩大蔵経9巻 p.86>
『正法華経』七寶塔品第十一
其地悉變為紺琉璃。以紫磨金而為長繩。連綿莊飾八交路道。其地平正。
<大正新脩大蔵経9巻 p.103>
『妙法蓮華経』卷第二・譬喩品第三
國名離垢。其土平正清淨嚴飾。安隱豐樂天人熾盛。琉璃為地有八交道。黄金為繩以界其側。<大正新脩大蔵経9巻 p.11>
『添品妙法蓮華経』卷第二・譬喩品第三
國名離垢。其土平正清淨嚴飾。安隱豐樂天人熾盛。琉璃為地有八交道。黄金為繩以界其側。 <大正新脩大蔵経9巻 p.144>

以下参考
『十住斷結経』卷第三・童真品第八
合以七寶金銀琉璃水精車?瑪瑙珊瑚琥珀及摩尼寶。時彼佛土平正。有八交道純以寶成。 <大正新脩大蔵経10巻 p.983>
『大寶積経』卷第十二・密跡金剛力士會第三之五
合以七寶金銀琉璃水精車?馬瑙珊瑚真珠。以成佛土城。有八交道平等若掌。
<大正新脩大蔵経11巻 p.68>
清淨妙華真珠瓔珞。在八交道。以寶蓮華覆蓋其上。
諸寶蓮華淨珠校露。立八交道。以用衆寶而布其上。
<大正新脩大蔵経11巻 p.70>
『佛説方等般泥?経』卷下・囑累品第四
周遍八方有八交道。以金銀琉璃水精車?馬瑙象瑙虎珀寶。
<大正新脩大蔵経12巻 p.925>
 
 以上の比較から見ても、aSTApadaが誤りとする岩本裕博士の説は妥当ではないように思われる。
 さて、 aSTApadaの一般的解釈は先にも述べたように、縦横を八等分にした将棋盤である。これはチベット訳とも一致する。したがって、それは佛国土の荘厳として「将棋盤の目のように」という比喩の意味で理解され、 svarNa-sUtra 「金の縄」によってそのように nibaddha 「描かれた=区画された」と続くことになる。しかし、この解釈にもまったく問題がないわけではない。 aSTApadaは6例中4例までがsuvarNa-sUtrASTApadaという 複合語の形をとっているが、そのうちの二例は suvarNa-sUtrASTApada-nibaddha であるのに対して、他の二例では suvarNa-sUtrASTApada-vinaddha となっている。前者 nibaddha の第一義は ni√band の past passive pt. 「結びつけられた」「固定された」であるのに対し、後者の vinaddha は vi√nad の past passive pt.「解かれた」「解き放たれた」であり、まったく逆の意味となっている。これについて"Hybrid Sanskrit dictionary"の著者である F. Edgerton はvinaddha が "Atharva-veda" にしか用例がないことを根拠に、 nibaddha あるいは vinibaddha に校訂すべきであるとしている。
しかし、『写本集成』から見て、Edgertonの解釈にも無理があるように思われる。すなわち、29の写本のうち4ヶ所全てが nibaddha であるのは僅かに2写本であるのに対してnibaddha と vinaddha の区別がなされているもの、及び原典においてはその区別があったと推測できるものは11写本にも及ぶからである。そして、これまでに考えてきたように nibaddha と vinaddha とが対立する意味であるとすれば、「将棋盤のように区画された、描かれた」という解釈も検討を要することになる。 そこで次に、 nibaddha と vinaddha とを文字通りに解釈するという方法で、法華経中の6例を文脈の上から検討してみたい。
 nibaddha 「結びつけられた」とある長行部分については、偈頌においても同様にaSTApadそのもの、またはそれに関連する表現が繰り返されているが、vinaddha 「解かれた」となっている長行部分については偈頌のなかに対応する箇所が見当たらない。これは、その文脈上必然的にそのような相違が生じたのであろう。すなわち、解放された世界についてはもはや言及する必要がなかったのである。
 そこで、その相違をより明らかにするために、それぞれに述べられている仏国土の荘厳を比較してみると、
 nibaddha 「結びつけられた」として描写されているのはViraja と名付けられる仏国土の荘厳の様子である。この仏国土は舎利弗SAriputra に対する授記の中で示されたもので、仏名は Padmaprabha である。同じく、次のAvabhAsa-prAptA と名付けられる仏国土は、 迦葉KAsyapa に対する授記として示された世界で、仏名は RaCmiprabhASa である。一方、vinaddha 「解かれた」と描写されるのはSahA 世界で、釈尊の仏国土である。これらの仏国土の荘厳はそれぞれ共通する表現もあるが、しかし、明らかに相違する点として次のようなことを挙げることができる。すなわち、nibaddha 「結びつけられた」と描写される方は、世俗的現実世界の欲求に即し、それらを肯定する形での仏国土が示されている。しかし、その後のSahA 世界では世俗的現実世界からの脱却が示されるのである。
 例えば、Viraja世界では kshema 「繁栄し」、subhiksha 「食糧が豊か」で、bahu- jana-nArI-gaNAkArNa 「多くの男女の群れが満ちあふれる」と示されている。また、次のAvabhAsa-prAptA 世界では、一旦は悪魔やその眷属の存在を否定してはいるものの、後の世にはそれらが現れるとしている。これらは、nibaddha 「結びつけられた」として描写されている仏国土が、未だ現実世界の意識の延長線上にあることを示していると考えてよいだろう。
 しかし、SahA 世界では、
apagata-deva-manuSyAsura-kAyA apagata-niraya-tiryagyoni-yama-lokH
 「(その世界は)神、人間、阿修羅の群衆もなく、地獄、畜生、ヤマの国もない。」 K.N.p.244,12-13,
と示されている。もっとも、ここで述べられているのは見宝塔品の内容に対応したものであって、SahA 世界の一般の状況を示したものではない。すなわち、釈尊の説法を賛嘆するために出現した PrabhUtaratna 如来の宝塔を礼拝し、釈尊の説法を聴くために十方の仏国土より分身の如来が SahA 世界に来集した時、法華経の会座にいた者以外の六種の運命を負うものたちはすべて他の世界へ移されたとしている。しかも、この状況は見宝塔品以降一貫していて、分別功徳品においても同じである。見宝塔品以後、多数示されるところの、iyam sahA 「このサハー世界」は、そのような特別な状況下の SahA 世界を指すものと考えられる。このことは、分別功徳品及びその前の従地涌出品において、「かのサハー世界において」と「このサハー世界において」が並行して用いられていることからも知ることができる。そこには、「如来が完全に平安な境地に入られた後」の「かのサハー世界」と「ここに余(釈尊)に属するこのサハー世界」との相違があると考えられる。このことは、大乗仏教が現実世界を無仏の世界、すなわち、如来が完全に平安な境地に入られた後の世界であるという認識から出発して、仏在世時への思慕の念、及び法身常住という立場で釈尊の経説を受け止めようとしたことを示すものであろう。したがって、その後の分別功徳品の、
idaM ca me buddha-kSetraM sahAM loka-dhAtum 〜 drakSyati /
 「私の国土である、このサハー世界を見るであろう。」 K.N.p.387,12-13,
も、仏滅後の世界にあって特別な状況下にあるサハー世界を見るであろうという意味に解されるべきように思われる。
 以上のことから、前者では世俗的・世間的な現実世界の中での子孫繁栄や豊穣に関する願いがそのまま投射された国土であるのに対し、後者ではそのような願望を越えたより高い次元の国土が描かれていることが知られる。そして、その相違に対応する形で suvarNa-sUtrASTApadに関連する表現がなされているのである。すなわち、suvarNa-sUtrASTApad に nibaddha 「結びつけられた」とする表現が前者に、また、それから vinaddha 「解かれた」とする表現が後者と対応している。
 したがって、これらのことから、suvarNa-sUtrASTApadの意味するものは、現世あるいはその延長としての来世における繁栄や豊穣に何等かの形で関連する概念であるように思われる。 
"MahAbhArata"に見られるaSTApada
 先に検討してきた『法華経』のとほぼ同じ文脈のなかで用いられていると考えられるaSTApadaが"MahAbhArata" SAnti-parvanのMokSadharma-parvanにある。
 それは、Janaka王の、
「何がより良い状態なのか、どの様な道があるのか、滅することのない行為とは何か、どこまで進んだ人が再生しないのか、偉大なる聖者よ、それを私に告げよ。」[ 12,287,2 ]
という問いに対する ParACara の答え、
「aSTApadaの区画があるところに、生気を含んだ穀物の供物が置かれる。」[ 12,287,38 cd ]
の中に見いだされる。
 この偈は、[12,279]章の冒頭で YudhiSTira から在家得道について重ねて問われた BIshma が、Janaka 王とParACaraとの問答を引用するという形で示されている。これに先だち、やはりParACaraの教説として、
「王は強力な軍隊を支配しなければならないし、国民を完全に守らねばならない。さらには、多くの信仰を Agni に捧げ、中年、または老年にあっては、落ち着くべき森に隠棲し、・・・・」[12,280,22]

と述べられている。これはバラモン教のAcrama(学生期、家住期、林棲期)の教えを含んではいるものの、その中心は第二期のgRha-stha にある。すなわち、これは在家得道という問いに応じたものと考えられる。しかし、ここで、その家長あるいは王としての責務の中でも火神 Agni への供養が重視されていることに注意すべきである。この Agni への供養については、さらに

「不断の努力によって完全に達成し、諸々の戦いから逃れた聖者たちは、Agni に完全に供養して後、完成に達した。」[12,281,12]
「王よ、供物を捧げられた Agni は信心篤く、徳を有するものの中で最高のものである。全ての神々は三つの Agni のあるところに住している。」[12,281,20]

 と示されている。ここには、後に問題とするAgni-cayana(Agni犠儀礼)の中で重要な概念となるAgniの三様態及びAgni自身が供養僧の最初の者であり、神々と人間との媒介を勤めるという考え方が示されている。
 さて、先に挙げたaSTApada は、このような文脈のなかで示されたものである。さらに具体的には、直前の偈において、父母や子供、及び親族等が自分の来世に向けての功徳を積む上で全く無益であり、
「施物を旅の糧とする人は、自分の行為による結果をうる。」[ 12,287,37 cd ]
ということを述べた内容を受けている。
 また、その後には、前世の行為によって来世の境涯が定まることが続けて述べられている。
「全ての人は自分の善悪の行為によって、自分の身体や子孫、また一門の存続 及び大きな富や繁栄をうる。」[ 12,287,44 ]
以上、Janaka 王の最初の問いが mokSa-dharma 解脱法についてであったのにもかかわらず、ここで示された答えは世俗的欲求の延長にあることがわかる。このことをより明らかにしているのが、
「心の苦悩から逃れ、Agni に仕える人々は供物を供え、たゆまず重ねて後、幸福へとつづく美徳の道を見る。」[12,285,37]
「その他の賢い者の魂は、自分のなした行為の故に、この世界(Svarga)にいたる。」[ 12,287,22 cd ]
と述べられている部分である。[12,285,37] における当面の目標は [12,287,22]にあるSvarga世界である。このSvarga世界はIndraの天界であって、そこで不滅の喜びを得たいという願望が述べられている。これは解脱の法 mokSa-dharma からは批判されるべき姿勢であろう。これらのことから、 ParACara の教説が世俗的欲求の枠内にとどまっている昇天思想であることが知られる。それは、この後に同じく Janaka 王に対して説かれる教説が哲学的内容にわたるのとは対照的である。
ASTApada と Agni 信仰
 法華経及び"MahAbhArata"に見られる aSTApadaの用例から、それらが人間の世俗的名要求に即した世界を希求するという文脈のなかで用いられていたことを検討してきた。また、"MahAbhArata"に見られるaSTApadaがParACaraの教説の中心をなしている Agni 信仰と密接に関連する概念装置と見なされることにも注意すべきように思われる。このことはParACaraの教説のなかで理想とされている Svarga = Indraが、後に述べる供犠儀礼のなかで Agni と不可分な神として賞賛されることとも関連してくる。
 先に挙げた法華経で説かれる仏国土のなかでSAriputraに対する授記で示される Viraja は vi + raja(raja< √rAj, √raj; to be dyed, to be coloured,の Nomen actionis)「染められることのない」を意味し、無垢、離垢と漢訳されている。しかし、同様に √rAj, √raj から派生したものに virAj がある。これは先に述べたような文脈のうえから aSTApadaを考えた場合、重要な意味をもってくるように思われる。まず第一に、 virAj は繁栄及び食糧そのものを指す言葉であり、この点で Viraja 世界における kshema 繁栄、あるいは subhiksha 食糧の豊かさという内容とも一致する。また、 virAj は Agni の epithet の一つで、 VIraja 世界の主である Padmaprabha 「紅蓮の光輝をもつ者」が示している内容とも符合するように思われる。
 そこで次に、suvarNa-sUtrASTApadaについて、火神Agni に関連する供犠儀礼Agni-cayanaとそれにともなうSomaの供犠という観点から眺めてみることにしたい。
 まず、suvarNa-sUtrASTApadaは Kern の解釈にも示されるように将棋盤に関連するものではあるが、しかし、それは仏国土の荘厳を示すものではなく、現実の世界で用いられる祭礼のための供犠台をさすもののように思われる。現代でもAgnicayanaは1975年4月、南インドのKeralaで実際におこなわれており、その詳細は Frits Staal の "Agni"のなかで報告されている。Agni 図1,2参照
  Agnicayana は火壇積上式(火の祭壇のために煉瓦を積み重ねること)とも呼ばれ、任意に Soma の供養を伴う。この公式な儀礼では三つの火が燃やされ、そのなかの一つ「奉納の火」に供物、一般的には溶けたバター ghRta が注がれる。この Agnicayana に用いられる儀礼の道具については細かい点にわたって規定されている。

例えば、"BaudhAyana-Crauta-sUtra"にはSomaの供犠台AsandI(f., a chair or stool, generally made of basket work)の材質や寸法等が定められている。それによると、 udumbaraの木で四本の脚の上に横木を渡し、muJjaの草でよった紐でその座部が編まれる。また、これとほぼ同じような規定が"MAnava-Crauta-sUtra"にあることが、辻直四郎博士によって示されている。  法華経中の4例に示されていたようにASTApadaと ratna-vRksha(宝樹)が常に一連のものとして述べられているのは、供犠台(AsandI)とそれに供えられたSoma を反映しているのではないかと思われる。これは、 ratna-vRksha の述語、prati√maMD, upa√i の過去分詞 pratimaNDita, upeta には、前者に「飾られた」という意味があるものの、両者に共通するものとして「崇められた」「供えられた」という意味があることとも相応する。
 次に、suvarNa-sUtraは前述の muJja でよった紐を反映していると考えられる。 Soma の供犠台(AsandI)の脚はそれによって平坦に均された祭場の地面に打たれた杭に結び付けられる。法華経のsuvarNa-sUtrASTApad-nibaddha という表現はこの状態の反映ではないかと考えられるのである。
 この供犠儀礼Agnicayanaにあって人間と神々とを媒介するのがAgniである。"Rg-veda" 全編の約五分の一がこのAgniに捧げられており、それはIndraについで二番目の量に及んでいる。Agniは人間生活と密接に関係する家主であり、家庭の神であって、その絆は先祖伝来のものと考えられていた。その具体的な働きは神々のもとへ供物を運ぶこと、あるいは神々を供犠の場へ連れて来ることであり、天空と地上の間の旅程の両方向の使者の役目を担っている。また、供犠を捧げる者そのものであるとも考えられており、その故に、祭僧の最初の者とも見なされている。さらには、IndraとSomaとに密接に関連していて、神としてのSomaと同一視されることもあり、聖なる飲物としてのSomaをその愛飲者であるIndraのもとへ運ぶ者とも考えられている。

 このようなAgniの特性や他の神々との関係は、法華経「火宅の喩」のDRSTAntaとして題材を提供したと考えられる"MahAbhArata",KhANDavadAha-parvanにも述べられている。例えば、神々のもとへ供物を運ぶ働きについては、havya-vaha(供物を運ぶ者)[1,220,22,b] [1,221,12,b] [1,222,17,b] [1,223,11,d] [1,223,13,a]として多数表現されている。また、
Agne tvam eva jvalanas tvaM dhAtA tvaM bRhaspatiH /
tvam aCvinau yamau mitraH somas tvam asi cAnilaH // [1,220,29]
「Agniよ、実にあなたは燃えることであり、創造主であり、BRhaspatiである。また、双子のACvinであり、Mitraであり、Somaであり、またAnila (VAyu)である。」
として、Agniが他の神々との媒介であり、時として同一視されていたことが示されている。さらに、
 tvAm ekam AhuH kavayas tvAm Ahus trividhaM /
tvAm aSTadhA kalpayitvA yajJa-vAham akalpayan // [1,220,23]
 「賢者はあなたを一つのものと呼び、また三つのものと呼ぶ。八通りにあなたに供養して後、供物を運ぶ者であるあなたに供えた。」
にはAgnicayanaにおいてのAgniの特徴である、火の三位が述べられている。これは、三という数がAgniを象徴するものであって、Agniに関する叙述の多くが一般的に三という数を横糸にして描かれるのを反映している。
 以上、述べてきたように、aSTApadaは人間と神々とを媒介する装置であり、それを通して人々は世俗的欲求の実現とその延長上にある天界への昇天を祈念したものと考えられる。したがって、法華経で用いられたaSTApadaもこのような文脈を反映したものであったとも考えられる。また、そのように想定することのよって初めて、aSTApadaに「結び付けられた」VirajaやAvabhAsaprAptaの荘厳が世俗的世界の延長として示され、また逆に、それから「解きはなされた」SahA世界(釈尊説法会座という特定されたSahA世界)が世俗を超えたものとして描かれていることが理解できるように思われる。

aSTApadaと「三車の喩」
 文脈を手がかりにしてaSTApadaが反映していたと思われる観念について考えてきたが、法華経譬喩品「三車の喩」もそのような観念を反映していたものと考えられる。なぜなら、先に、aSTApadaと密接な関連をもつVilaja世界の特異性について考えたが、その国土の仏であるPadmaprabha如来に事実上付囑されたのが「三車についての教え」だったと考えられるからである。
 so'pi CAriputra padmaprabhas tathAgato'rhan samyaksaMbuddhas trINy eva yAnAny Arabhya dharmaM deCaiSyati [K.N.,p.65,>>.12-13] 
「舎利弗よ、かのパドマ・プラバ如来もまた、まさに三つの乗り物について教えを説くであろう。」
 これによって、「三車についての教え」が、釈尊から舎利弗へ託されたものと見なすことができる。この「三車の喩」には古来、いわゆる三車家と四車家との論争を初めとして、様々な解釈が与えられてきた。その解釈の相違は、方便としての三乗と真実の教えである一仏乗との関係から生ずるもので、その相違の核心は、三乗中の菩薩乗と一仏乗と同じであるのか、それとも質的に異なるのかという点にあると思われる。しかし、ここで留意しておきたいのは、何れの立場においても菩薩乗が方便に含まれてしまうことである。これは「三車の喩」と三乗との間に内容的な不整合があることを示すもので、三車を声聞・独覚・菩薩に配当した長行部分には文脈上、相当の無理が生じているように思われる。事実、偈頌の部分では明確な形で三乗に鹿・羊・牛を配当させてはいない。これは、偈頌において本来別々のものとして説かれていた三車と三乗が、後に長行部分において理論的解釈の必要性から互いに関連づけて考えられるようになったものと思われる。つまり、本来は全く異なる文脈を無理に結び付けたため、そこに不整合面が生じ、そのために後代様々な哲学的解釈がなされるようになったものと考えられる。
 それでは、三乗と別の文脈の中で示された三車が何であったのかを考えるために、三車がどのように説かれているのかを眺めてみたい。まず、梵文では、mRga(鹿)・aja(羊)・go(牛)の順で述べられているが、妙法華では、羊・鹿・牛の順となっており、また正法華では、羊・馬・象の順となっている。このように三車の順序が一定しないのは三車間に価値の差が認められていないことを示し、むしろ三車が三つのものを一揃いのものとして表すことに意味を持たせていたためではないかと考えられる。
 また、梵文の mRga, aja, go については、『写本集成』に収められた写本全てが一致しており、正法華では相違するものの、妙法華においても一致している。これはmRga, aja, goが他の言葉では置き換えられないものであって、そのものが意味をもつものとして考えられていたように思われる。そして、それは先に考えた Viraja 世界の特異性及びその世界にあって「三車についての教え」を説くという属性をもつ Padmaprabha 如来の特性と必然的に深い関わりをもつと考えてもよいだろう。その特性は現世利益及びその延長線上にある昇天思想に基盤をおく Agni 信仰にあったように思われる。
 先にも述べたようにAgniに関する文献にあっては三という数が横糸となって話が進められる。例えば、天上では太陽であり、また、地上へ降り立つ姿は稲妻であり、地上にあっては火であるというように、Agniはその誕生についても三という数の神秘に支えられている。また、Agniは神々と人間との媒介を勤めるという点からいくらかの神々と同一視されるが、ことにSoma、Indraとは密接な関係を有していた。そしてmRga, aja, goの三者はその神々を象徴するものとして当時のインドの人々にはよく知られていたものと考えられる。すなわち、mRga はSoma神の乗った車を引くものであり、またSoma神自身をmRgAGka(鹿の印をもつもの)とも呼ぶ。さらには、Soma神は月をも指す。 ajaは火神Agniの乗り物であり、また彼のepithetの一つでもある。次に、goは太陽を指し、例えば
 tvam evaikas tapase jAta-vedo nAnyas taptA vidyate goshu deva / [1,223,11,ab]
とあるように、goが太陽とAgni 象徴していたことがわかる。また、goは稲妻の意をも表し、これはIndraのVajra(金剛杵)を指し、Indra自身を象徴するものでもある。これらを整理していくと、そこにAgniを媒介とした古代インドの神話が体系的に描かれているように思われる。
   
   Soma   ( 月 )    mRga
Agni     VAyu ( 火 )    aja
    Indra   (稲妻)
    SUrya  (太陽)   go
 
このmRga, aja, goという三つの動物(象徴)が一揃いのものとして示された時、その当時の人々は容易に、というよりもむしろ必然的に Agni を想起させられたはずであり、さらには、Agni に関わる概念であるaSTApadaや、そこで祈念される世俗的欲求およびその延長上にある昇天思想までもが意識させられたと考えてよいだろう。したがって、三車と三乗とが関連づけて語られていない偈頌部のみについて言えば、「三車についての教え」は Agni 信仰の文脈において示されたと考えるのが妥当なように思われる。そのように想定すれば、一仏乗に至った後、三車全てを捨てたとしても矛盾は生じようもなかったことになる。
 
口承文学の定型句・型・主題 梵文『法華経』が「語り物」であったことは、説法師DharmabhANakaの存在によっても明らかである。これら説法師の表現方法は西欧の吟遊詩人たちのそれと共通のものだった。彼らの表現方法についての研究は、口碑研究として知られており、ホメロス研究、特にイリアスやオデッセイアの研究から出発したものである。この方法はインド叙事詩の研究にも適用されており、叙事詩成立過程に関する研究の上でも効力を発揮している。この表現方法においてはまず定型句が重要視される。定型句とは「与えられた本質的観念を表現するために、同じ韻律の条件の下で規則正しく使用される一群の語句」であって、たとえば叙事詩の中の主要な登場人物の名前や固定化された一連のepithet別称や形容詞がその代表的なものである。そして更に重要な定型句として、主題を述べる際に使用される定型句がある。それは「伝承的な詩歌の定型的な文体で一つの物語を述べる時に使用された一群の着想」を表す定型句である。以上のような定型句を随時使用することによって、吟遊詩人はある出来事、場面を必要なだけ表現することができる。つまり、長く詩を吟じたい時には定型句を繰り返し使用することによって、また短くしたい時には定型句を最小限にとどめて使用することによってそれが可能となる。
 「火宅の譬」にはそのような定型句が随所に見られる。たとえば、
etAdRCam bhairva tan niveCanaM
jivAlA-sahasrair hi viniCcaradbhiH /
puruSaC ca tasya gRhasya svAmI
dvArasmi asthAsi vipaCyamAnaH // [K. N. p.86, 3-4]
「実に一面に広がった炎によって、その家はこのように恐ろしかった。この家の持ち主であるかの人は屋外で眺めつつ立っていた。」
 このように現れる定型句などを対照すると、同形あるいは同義語として言い換えられたものが繰り返し現れることがわかる。これが「規則的に使用された一群の着想」=主題を示すものである。たとえば
dAruNa tatra santi [43a. 45a]
「そこには獰猛な・・・がいて。」
suraudra-cittaH [49b], raudra-cittAH [50b]
「獰猛な心の・・・」
などがその例である。
これらの同形あるいは同義語については次のような二点を指摘することができる。
1)文法的構造が同じ、2)同一の詩脚に集中する、である。この二点を満足する典型的例として56d、58d、59d、61dの詩脚を挙げることができる。
これらは√dIp、√dah「焼く」の受身現在分詞(-mAnaによる現在分詞)であり、第4詩脚に集中している。
jvAlA-sahasraiH paridIpyamAnam [56d]   「幾千の火炎が一面に燃え広がり」
nadanti kroCanti ca dahyamAnAH [58d]   「焼かれ這いずり回り喚き叫ぶ」
rudhireNa siJcanti ca dahyamAnAH [59d]   「焼かれながら血を流す」
kSudhAya dAhena ca dahyamAnAH [61d]   「焼かれながら飢餓に(苦しむ)」

 このような定型句を抜き出して整理すると、「火宅の譬」には以下の三つの主題があることがわかる。
1)猛獣や悪魔が互いに喰らいあう
2)火事によって生き物が焼かれる
3)危機にたたされた無知な子供
 この主題の展開は"MahAbhArata"、"Adiparvan"の"KhAndava-dAha-parvan"に見られるものと同じである。この森林火災はインド世界においてよく知られており、森林火災といえばこの"KhAndava-dAha-parvan"が想起されるほどであると言われる。この森林火災にまつわる逸話の中に「CArGga鳥」がある。
CArGga鳥の概略は、昔、KhANDavaの森でMandapAlaという名の隠者が苦行を修していた。長い修行の後、この世を去って祖霊の世界へ赴いたが、彼の積んだ功徳に相応する高い位には達することができなかった。それは彼が子供をもうけなかったためだという。そこで、最短期間で多くの子供ができるということから、彼は一羽のCArGga鳥となって再び地上に戻った。彼はJaritAという雌鳥と番い、四羽の子供を得た。その後、彼はJaritAと四羽の子供のもとを離れ、他の雌鳥LapitAの後を追った。ちょうどその時、Agniが森に火を放った。四羽の雛は羽根も生え揃わず、また歩くこともできない状態で火災に遭うこととなった。母鳥JaritAは四羽の雛を翼の下に抱えて火に焼かれる決心をするが、雛たちは説得されて遂に自分だけ森を飛び去ることになる。さて、一方、残された子供たちの危機を知ったMandapAlaはAgniに彼らを救うように頼み、また、雛たちもAgniを賛嘆したことによって雛たちの生命は救われたという。
 さて、以上に挙げた森林火災の逸話の中には『法華経』「火宅の譬」と同じ主題の展開が見られる。それは、迫り来る火を前した、母鳥と雛たちの切迫したやり取りの中にある。以前に鷲によってネズミが連れ去られたのを見た母鳥は、
yadA ca bhakSitas tena kSudhitena patariNA / [1. 222, 8ab]
「腹を空かした鷲によってネズミが喰われた時、・・・」
として、雛たちにネズミの巣穴に避難するように命ずる。しかし、雛たちは、まだ巣穴には他のネズミたちが残っているとして、
katham agnir na no dhakSyet katham Akhur na bhakSayet / [1, 221, 19ab]
「どうして火が私たちを焼かないことがあろうか、どうしてネズミが喰わないことがあろうか。」
bila Akhor vinACaH syAd agner AkACa-cAriNAm /
anvavekSyaitad ubhayaM CreyAn dAho na bhakSanam // [1, 221, 20]
「穴の中でネズミのために、または火のために、殺されるだろう。この二つを考えると、喰われるよりも焼かれる方がよい。」
garhitaM maraNam naH syAd AkhunA khAdite
CiSTAdiSTaH parityAgaH CarIrasya hutACanAt // [1, 221, 21]
「穴の中でネズミによって喰われるのであれば私たちの死は非難されるだろう。火のために身体を捨てることは賢者によって賞賛される。」
と反論する。
 法華経の「火宅の譬」はこの逸話を下敷きにして展開していたと考えられるのである。説法師がこの逸話を語るとき、彼の意識は二つの話題の間を浮動したと考えられる。梵文法華経の中には、そのことを示す証拠が残されている。第一には「火宅の譬」を説く際に、比喩の進行に伴って、過去の事実を語っているかのごとく意識され、過去時制の表現が現れることである。また、第二には先行する逸話の話題が引きずられる形で「火宅の譬」の中に現れる。
 例えば、「火宅の譬」では「古くて倒れかけた大きな家」が舞台となって比喩が展開していく。その家には多くの虫や鳥や獣が棲みついていて、弱肉強食の相を呈しているが、これは森林が「大きな家」に置き換えられたことを示している。実際に「家」を表現する言葉として、最初は
agAra [39], AvAsa [41, 43], gRha [55, 56, 62]が用いられているが、後にはniveCana [62,72,78,86]が多用されていく。前の三者は「家」を意味するが、niveCanaは「家」であると同時に動物が棲む「巣」をも意味するものである。
また、69偈について
kiM mahya putrehi aputrakasya [69c]
「子供を失った私にとって子供たちが何になろうか、不必要である。」
 この部分の解釈は様々であって、例えば荻原本では「版本にはputrehiとあるも、『子なき我に子が何なるや』にては意味通ぜず、」として妙法華によってvuttehiに改めている。しかし、これも『写本集成』によれば全ての写本でputrehiとなっていて容易にあらためるのも妥当ではない。
 この部分は「CArGga鳥」の次の部分を反映したものと考えられる。迫り来る火を前にして狼狽した母鳥JaritAに対して、独りで逃げるようにと雛たちが諭した言葉の中に、
asmAsu hi vinaSTeSu bhavitAraH sUtAs tava /
tvayi mAtar vinaSTAyAM na naH syAt kula-saMtatiH // [1, 221, 12cdef]
「なぜなら、私たちが死んだとしても、あなたには子供ができるでしょう。母よ、あなたが死んでしまったならば、私たちの一門の存続はないでしょう。
Cara khe tvaM yathA-nyAyaM putrAn vetsyasi CobhanAn // [1, 222, 4cd]
「さあ、本分に従ってあなたは行け、あなたは立派な子供を得るでしょう。」
とある。
 「CArGga鳥」ではkula(一門)の存続が求められ、他にもkula-vardana [1,221,8d]一門の繁栄、kula-vinACa [1,221,14]一門の滅亡などが述べられており、それが如何に重大な問題であったかがわかる。したがって、kulaの存続のために自己犠牲が賞賛されることにもなるのである。
 これに対して「火宅の譬」の69偈は、そのような内容を受けながらも、それを批判した