仏教の思想A(ブッダの悟り)
仏教の思想B(仏の慈悲)
【講義計画】各講時のテーマとして便宜的に11項目を挙げましたが、実際にはこれ以外のテーマを加えていくこともあります。特に受講者の中から希望があれば随時、それも取り上げていきたいと思います。皆様方の積極的な参加を期待しています。なお、()内のコメントは、各テーマを考える上でヒントとなりそうなものを挙げています。受講の際の手がかりにしてもらえれば幸いです。
はじめに:天国と極楽(同じ所か?)
(1)輪廻転生(命あるものは平等)
(2)輪廻からの解放(0歳児があるく)
(3)如実知見(花は紅・柳は緑)
(4)四諦八正道(人は皆老いるのか?)
(5)三法印・四法印(いろはにほへと)
(6)三学(諸々の悪を為すなかれ)
(7)毒矢の喩(仏教は哲学か?)
(8)自灯明・法灯明(ブッダ滅後の仏教)
(9)ジャータカ(ブッダ前世の修行)
(10)菩薩道(不惜身命の決意)
(11)六波羅蜜(完璧な施し)
因幡堂(お薬師さん)下京区烏丸松原:花御堂と堂内に掛けられた降誕図
【進め方】毎時間プリントを配布し、それに沿って講義を進めます。学期末には各自約30ページのオリジナル・テキストが完成するように配慮しています。
【成績評価】出席・毎講義終了時の小テストによって平常点をつけます。講義内容に即した出題を心がけることにしています。(特に出席点は重視します。『授業科目履修要項』第1部履修の心得、W単位の認定、2.授業科目の履修、「総授業回数の3分の1を越えて欠席した場合は、その科目の単位認定は受けられない」ことが明記されています。)
はじめに
インドで成立した当初は哲学的で抽象的な仏教でしたが、浄土教として中国に伝えられた頃には、私たちの素朴な願いに応える教えとなっていました。例えば、阿弥陀仏の救済によって「極楽浄土で永遠の命を得る」ということ自体が諸行無常という仏教の根本原理と矛盾するようにも思われます。それは当時流布していた仏教以外の要素が加わることによって変容した結果であります。その変容に大きく関わったのがシルクロードであります。シルクロードは「絹の道」という名の通り、東西を結ぶ交易路でありますが、同時に様々な文化が伝播した道でもあります。その中の代表的なものが仏教でありました。しかし、それ以外にゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教・マニ教といった宗教が通ったことも忘れてはなりません。
浄土教の思想は歴史的に仏教より先行するゾロアスター教と何らかの関連性を持つと考えられます。阿弥陀仏の誓願(阿弥陀仏が仏になる前に、将来このような仏になろうと決意して建てた誓い)の中、
「念仏をとなえたならば・・・・極楽に迎え入れる」
という表現はゾロアスター教を介して旧約・新約聖書の契約思想とつながっているように思われます。浄土教がキリスト教と外見的に似ているのも恐らくはそのような歴史的事情によるのです。日本の浄土教に大きな影響を及ぼした来迎思想(臨終に際して阿弥陀仏が迎えに来る)も最後の審判が個人の臨終に繰り上げられたものと見ることができるでしょう。それでは浄土教は絶対的神による救済を説くこれらの教えと同じなのでしょうか。また、シルクロードの東の終着点である日本ではその問題をどのように解決し受容したのでしょうか。
仏教が変容しながらも仏教であり続けたのは、様々な要素を取り入れるのと同時にその本質を保つことができたからです。この講義では前期に仏教の本質となる釈尊の教えがどのようなものであったのかを考え、後期ではその教えに基づいて浄土教が興った経緯、及び親鸞聖人の教えについて学んでいきます。
天国と極楽(同じ所か?);救済教と浄土教(天国と極楽)
絶対的神によって救われるとする救済教と阿弥陀仏によって救われると説く浄土教、この両者はどのように違うのでしょうか。また、何故にこれほど似通っているのでしょうか。そこで先ず浄土教の性格を考えるために、日本以外の国で浄土真宗がどれほど受け入れられているかを見てみることにしましょう。数年前の出された浄土真宗本願寺派の資料「海外教勢」には信徒総数を240,330人としています。
その内訳は、北米が8万人、ハワイが7万人、カナダが1万人、南米が8万人、その他(台湾・ヨーロッパ・メキシコ)が330人となっています。これらの数字からわかることは、ほとんどの信徒が日系人であるということです。ハワイや南米は日本からの移住がさかんに行われた地域でありました。現在では日系三世〜四世の時代になっていますが、主にそのような人々が信徒として挙げられていると考えられます。一方、その他として挙げられているヨーロッパ等の信徒の数は非常にわずかなものとなっています。これはヨーロッパの人々にはほとんど浄土教が浸透していないことを示しています。
このような浄土教の状況と対照的なのが、同じく鎌倉仏教として出発した禅宗ではないでしょうか。日本を訪れる多くの欧米人は座禅についての知識を持っているように思われます。禅定はブッダの時代から仏教の基本的な修行法でした。彼らにとって禅定・サマーディ・三昧(さんまい)=精神の統一は仏教の典型的姿として映っていると言えるでしょう。座禅がストレスを解消し、精神的安定を与えてくれるとなれば、それは現代人にとって魅力的なものだといえるかもしれません。ただし、単なる精神統一のために座禅を修することは、本来の意味から離れてしまうことには留意しておくべきでしょう。
さて、欧米諸国の多くはキリスト教国です。浄土往生を説く浄土教が欧米の人々の興味をひかないのは、キリスト教との類似性によるものと考えられます。「救い」=救済を基本とする点で両者は外見的には非常に似ています。ユダヤ教そしてその延長上にあるキリスト教やイスラム教では基本的には人々が神との契約を守ることによって天国に生まれることを説きます。例えば「最後の審判」で罪なき者と認められたものは天国へと昇天し、罪人として裁かれた者は地獄へ墜ちるとされています。
それでは、念仏を唱えることによって阿弥陀仏の誓いに従い、極楽に生まれるとする浄土教も契約という点で同じなのでしょうか。最近では極楽に生まれるという言い方よりも天国に昇るという表現が一般的なようです。これも二つの宗教の類似性から起こるものといえます。そこで次に具体的にそれぞれの葬儀のあり方、すなわち死屍に対する対処の仕方を比較してみたいと思います。
最後の審判とエンバーミング
・・・「それにしても、なぜこんなことが起こりうるのだろう?」修道僧たちのなかには、最初のうち、さも同情するかのように、こう言う者もあった。
「あんな小柄な、枯れきったお身体で、骨と皮だけだったのに、どうしてこんなにおいが生ずるんだろう?」「つまり、神さまがわざわざお示しくださろうとなさったわけだ」他の連中が急いで付け加え、この意見は文句なしにすぐに受け入れられた。なぜなら、かりにすべての罪深い死者の場合と同じように、腐臭の生ずるのが当然であるとしても、なにもこんな露骨なほど早くでなくて、もっと遅く、少なくとも一昼夜たってから生ずるはずであり、つまるところこれは神とその賢い御手のなせるわざにちがいないという点が、またしても指摘されたからだ。神は教示なさろうとしたのだ。この意見は反駁の余地なく人々の心を打った。 『カラマーゾフの兄弟』第三部第七編アリョーシャ、一腐臭より
この一節には修道僧ゾシマ神父の遺体が腐臭を生じたことが描かれています。神父を敬愛していた主人公(アリョーシャ)は少なからず衝撃を受けます。そこには聖者の遺体は腐臭を生じないという暗黙の了解があったからです。
このような考えはギリシャ正教に限られたことではありません。いわゆるルルドの奇跡で知られるベルナデット・スビルー(1844
-1879)の遺体はいまも中部フランス、ヌベールのサン・ジルタール修道院の礼拝堂でガラス張りの聖遺匣の中に安置されており、その容貌は亡くなった時と変わることがないとされています。
ルルドの水 ルルドとはフランス南西部、ピレネー山脈北麓のオート・ピレネー県にある小さな町。1858年2月11日から7月16日まで18回、聖母マリアがこの町の貧しい少女ベルナデットのもとに出現した。その際に湧き出た泉はルルドの水とよばれ、様々な霊験を現したという。1933年、ローマ法王ピウス11世によって聖女の位に列せられている。
これらの遺体に対する見方は「最後の審判」を前提としています。最後の審判を告げるラッパが鳴ると、死者達は墓場から蘇り裁きの場へと向かいます。その際に火葬によって遺体が消滅してしまっていては都合が悪いことになります。キリスト教徒の埋葬方法は教義の上から土葬でなければならないのです。また、先に挙げた例のように、功徳ある者は生前と変わらぬ容貌のまま裁きの場に赴くことができると考えられているようです。【画像:最後の審判】
欧米で発達したエンバーミングはそのような発想から出発していると考えられます。embalm
は接頭辞 en(em) と名詞 balmからできた言葉です。
balm はバルサム(芳香)を意味し、 en は名詞に付けて「〜の中に入れる」「〜にする」という動詞を形成します。したがって
embalm とは「芳しくする」「芳香の中にいれる」等の意味になります。ただしそれは単に死屍から出る腐臭を防ぐ実用面での処理というより、むしろきわめて宗教的意味が含まれていると考えるべきでしょう。
embalming 遺体を消毒してかわりに赤い防腐溶液を注入し、写真を元にやつれた頬などを復元・化粧をして生前の元気な状態に見せる遺体衛生保全の技術で、主に欧米で普及している遺体処理技術である。日本では民間の葬儀社が1988年に埼玉県で始め、93年の取り扱い数は4400体。実施には2〜3時間、費用は10〜15万円程度である。欧米では資格を取得したエンバーマーが行っている。日本ではまだ法的規制が不備なため、米カルフォルニア州法などを参考に自主基準を作っている。(1996年 集英社『イミダス』より)
日本の場合は火葬前の一時的な保存にすぎませんが、欧米の場合、生前と変わらない姿で埋葬したいという思いの中には最後の審判が意識されているのです。
このようなエンバーミングと全く対照的なのが仏教の不浄観です。釈迦は諸行無常の立場から全てのものは変化すると説きました。とりわけて自己の存在が不変であって欲しいと願う思いを我執として斥けました。そのような我執を除く方法として死屍が変化していく様を思い浮かべるように教示しています。この方法は後代に整理されて九想観となります。【画像:九想詩絵巻】肉体に対する我執を除くため、人の死屍についておこなう九つの観想です。死屍が1)膨張し、2)変色し、3)壊れていく。4)血が地面に流れ出し、5)腐敗していく。さらには6)鳥獣がついばみ、7)散乱して、ついには8)白骨となる。以上は風葬、鳥葬に相当するとみてよいでしょう。その第九番目の観想には9)焼想が挙げられています。
白骨が火に焼かれて灰や土に帰するのを観想します。釈尊は80歳で亡くなりますが、遺訓に従って遺骸は火葬にされ、遺骨は八分されたと伝えられています。
以上見てきた、土葬あるいはミイラに見られる死屍原形の保存、あるいは火葬、風葬、鳥葬に見られる死屍原形の破棄。このような死屍への対処の相違は明らかにそれぞれの宗教的信念を反映しています。その相違はどのような宗教理念に支えられているのでしょうか?
(1)輪廻転生(命あるものは平等)
原則としてユダヤ教及びキリスト教では輪廻転生(=incarnation)を考えません。人は人であり獣は獣であって、互いに生まれ変わるという意識はないのです。『旧約聖書』創世記には次のようにあります。
神は言われた。
「地は、それぞれの生き物を産み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに産み出せ。」
そのようになった。神はそれぞれの地の獣、それぞれの家畜、それぞれの土を這うものを造られた。神はこれを見て、良しとされた。神は言われた。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
人と獣はあくまでも別個のものとして創造されているのです。
一方、仏教は輪廻転生を乗り越えるべき現実の姿として取り入れています。さとりにいたるまでは生死輪廻を繰り返すものと考えています。その輪廻の範囲を六道(ろくどう)・六趣(ろくしゅ)とし、六道輪廻とも呼びます。
地獄(じごく)道 naraka-gati 餓鬼(がき)道
preta-gati
畜生(ちくしょう)道 tiryagyoni-gati 修羅(しゅら)道
asura-gati
人間(にんげん)道 manushya-gati 天(てん)道
deva-gati
六道輪廻の成立については後に触れますが、釈尊の時代には、輪廻思想は一般的な考えとして普及していたものと考えられます。輪廻思想は命ある者全てを衆生(しゅじょう)とみなし、しかもお互いが例外なく輪廻のサイクルの中にあるとします。たとえ最上の天界の神々であってもこの輪廻からは逃れられないのです。
現代人にとって輪廻転生は容易に理解しがたいものとなっているといえます。それが理解できなければ仏教がめざしている「さとり」も理解しがたいものになってしまうでしょう。数世代前の人たちは地獄には閻魔様がいて…と素朴に信じていたのではないでしょうか。仏教を学ぶにあたって、輪廻転生の意味を私達なりに理解しておく必要があるでしょう。地獄というあり方も、共に輪廻の中で存在するという意識から導き出される将来の自分自身の姿なのです。例えば、魚を料理する場合のことを考えてみましょう。鱗を削ぎ、皮を剥ぎ、等間隔に切り刻み、鍋で煮る・・・。もし魚と自分の立場が逆転したならばこれら一連の動作は地獄の苦しみとして受けとめられるに違いありません。輪廻転生の中では、食べる側の境涯から食べられる側への境涯の逆転は必然的なものであります。仏教においても重要な考え方となっている*アヒムサー「不殺生・不傷害」は全ての命あるものが等しく輪廻の中にあるという自覚によっているのです。【画像:地獄草子】
*アヒムサー 〔梵語〕ahiMsA 不殺生、不傷害を意味し、あらゆる生物を害したり、殺したりしないこと。古くウパニシャッドの時代からインドの諸宗教の底流をなしてきた倫理であるが、とくに万物に霊魂を認めるジャイナ教徒がアヒムサーを強調する。ガンジーはジャイナ教の影響を受け、アヒムサーを無抵抗主義の基本原則とし、全ての生物を同胞とみなし、肉食を禁じ、戦争放棄を説き、殺生を肯定する全ての思想に反対した。平凡社『哲学事典』p.26
この肉食を禁ずる立場は、先に見た『旧約聖書』との比較でも際だったものとなるでしょう。神は創造主であり、生き物は被創造物です。英語の「創造する」という動詞(create)から創造者(creator)と創造物(creature)が派生したことからもそれがわかります。神に似せられて創造された人間は生き物の中では最高の位置を与えられ、家畜等は人間に利用されるために創られたと考えられてきました。動物は人間によって管理されるべき対象だったのです。
(2)輪廻からの解放(0歳児があるく)
それに対して、同じ輪廻の中で生死を繰り返しながら流されていくのが衆生です。地獄とは「相手の身になる」ことを徹底したときにはじめて見えてくる世界なのです。経典の中に
「於諸衆生、視若自己(『無量寿経』)」
という言葉があります。これは「諸々の衆生において、視(見)ること自己のごとくす。」と読むことができます。その意味は、仏の眼は一切の命あるものに対して自分自身を見るのと同じように見るということを述べているのです。さとりに至った仏が私たち衆生の姿をあるがままに見た様が六道輪廻であると言えるでしょう。仏教で六道輪廻を言うのは、それが迷いの世界であり、抜け出すべき世界であることを教えているのです。時代的には新しいものですが、チベット仏教でよく見られる生死輪廻図(しょうじりんねず)について考えてみましょう。
生死輪廻とは生きとし生けるものが生死を繰り返すことを意味し、それはまさに車輪がめぐるようにとどまることがなく果てしないものとされています。こうした考え方を大円輪を用いて視覚化したものがチベットの生死輪廻図です。【画像:六道輪廻図】
大円輪は髑髏冠をつけ三眼の死鬼によってがっちりと抱え込まれている。これは我々の生存が本質的に死に支配されていることを示している。中心には輪廻の原因となる人間の煩悩(ぼんのう)のうちで代表的なものである三毒の煩悩が示されている。すなわち、貪(とん=むさぼり)・瞋(しん=いかり)・痴(ち=おろかさ)がそれぞれ鳥・蛇・豚が互いに尾にくらいつく形で描かれています。この三毒の煩悩の外側に接して黒い道が人から始まって畜生・地獄・餓鬼の世界まで続いています。そこには人間の世界からまっ逆さまに堕ちていく者、それぞれの世界に生まれ出ようとする者が描かれています。
外側には人間存在の基本的構造である十二因縁(じゅうにいんねん)が絵解きされて、その下に十二因縁の名称がチベット語で書かれています。上部中央から右回りでそれらを見ると次の通りであります。
(1)無明(むみょう)−盲人、(2)行(ぎょう)−壷作り、(3)識(しき)−果物をとる猿、(4)名色(みょうしき)−船に乗る人、(5)六処(ろくしょ)−三階建ての家、(6)触(そく)−接吻する男女、(7)受(じゅ)−目に矢が突き刺さった人、(8)愛(あい)−女性に伴われた酔者、(9)取(しゅ)−果物をとる人、(10)有(う)−妊婦、(11)生(しょう)−男女の愛の交わり、(12)老死(ろうし)−甕棺を背負う老人。
大円輪の外側の右上部には白い満月が配されています。これは仏教の四つの聖なる真理の中で、苦しみを消滅させた状態こそさとりの境地であるという滅諦(めったい)を象徴しています。釈尊の誕生について仏伝では、
「右脇から生まれでて地に降り立ち、七歩あるいた。誰にも支えられることなく、四方を見回し、手を挙げ『天上天下にただ私一人が尊い、私はまさに生死輪廻の中で苦しむ生きとし生けるものを救おう。』と宣言した。」
(『長阿含第一大本経』)
と記しています。これは六道から解脱することを象徴的に表しているのです。仏教とは釈尊の教えによって解脱を得ようとするものであります。それでは釈尊が得たさとりとはどのようなものだったのでしょうか。
(3)如実知見(「花は紅・柳は緑」当たり前?)
紀元前5〜6世紀に誕生したゴータマ・ シッダールタ(釈尊)はいかにして「さとり」を得たのでしょうか。それは当時のインドにおいても既に成立していた唯物論的思潮と観念論的思潮を克服して「さとり」に至ったのです。その基本的立場が「如実知見(にょじつちけん)」でした。如実知見とは「実(じつ)のごとく知見(ちけん)す」と読むことができます。言い換えれば『あるがままに見る』ことです。ゴータマ・ シッダールタ(釈尊)は自分勝手な「(固定観念ともいえる)はからい」を捨ててあるがままに見ることによって「さとり」に到達したと言えるのです。
禅宗の言葉に「花は紅・柳は緑」というものがあります。これは当たり前のことを当たり前と受けとめることができた時に、真に花の姿が見えることを示しています。明日も同じように眺めたいという思惑、執着を抱いて見ている間は無心に咲いている花の姿をとらえることはできません。また、桜を目の当たりにして「これはウメの花ではない、ナシの花でもない、ミカンの花でもない、だからサクラの花である。」等といった分別判断をしていては本当の桜の花は見えていないと言うのです。このような自己の執着や分別判断を捨てるという立場は仏教に一貫する基本的あり方です。まず釈尊の生涯を概観してみましょう。
釈迦:釈迦牟尼(しゃかむに)の略称。紀元前463〜383年頃、一説には紀元前566〜586年頃、南伝伝承では紀元前624〜544年頃。姓をゴータマ(梵:Gautama,巴:Gotama,瞿曇(くどん))、名をシッダールタ(梵:SiddhArtha,巴:Siddhattha,悉達多(しっだった)・悉陀(しっだ))という。〈釈迦〉とは、〈釈迦牟尼〉(Sakya-muni)の略称で、釈迦族出身の聖者を意味し、〈釈尊〉はその異称。現在では〈ゴータマ・ブッダ〉または〈ブッダ〉(Buddha,仏(ぶつ)・仏陀(ぶっだ))と呼ぶことが多い。
その生地はカピラヴァスツ Kapilavastu (迦毘羅城)、その父は釈迦族の貴族スッドーダナ
Suddhodana (浄飯じょうぼん)、その母はマーヤー
mAyA(摩耶まや)、誕生後まもなく母を失った。当時の釈迦族は衆議による政治形態をたもち、釈尊の父を王または大王とするのは後世の粉飾である。また当時この釈迦族はその勢力微々として、隣国コーサラ
Kosala に隷属し、やがて滅亡した。釈尊は早くより思索的な性向をもち、人間の有限性(生老病死しょうろうびょうし)に不安を感じていた。妻をめとり、一子を設けたが、ついに意を決して出家し、乞食沙門となって、思索と修行に専念することとなった。それより幾人かの師をおとずれ教えを聞き道をもとめたが、心に満つるものがなかった。また禁欲苦行の生活にはいって、長いこと刻苦して道を求めたが、得るところがなかった。やがて苦行禁欲が理でないことを悟ってこれを捨て、改めて静観思索の生活にはいり、遂にさとりを得ることができた。これを成道という。この成道の地は、ガンジス川の小さな支流ネーランジャラーのほとりの1本の菩提樹のもとであった。そのさとりの内容は、縁起(えんぎ)すなわち、 一切の存在はことごとく相対的依存の関係のうえに成り、この関係がなくては何ものも成立しないという、存在一般の究極の法則を把握したことであり、人間の問題もまたこの法則にしたがって解決を見いだしうることを知ったのである。そして釈尊はやがてこれをヴァラナシ(ベナレス)の鹿野苑(ろくやおん)において、はじめて5人の比丘(びく)にむかって説いた。これを初転法輪(しょてんぽうりん=最初の説法の意)という。・・・ 初転法輪以来、釈尊は実に50年にわたって説法教化の生活をつづけられた。しかし、その間において順序に述べられる教化伝道の活動は、今日の資料によれば、最初の若干の期間と、最後の入滅(にゅうめつ)までの数カ月についてのみである。鹿野苑での最初の教化の後、釈尊はまずマガダ国にはいって、多くの弟子および在家の信者を得た。ついで、コーサラ国におもむいて、そこでも活発な伝道活動を展開した。そのほか、故郷の釈迦族への伝道をはじめとして、その教化活動はほとんど当時のインド・アーリアンの所住の全域にわたった。最後の遊行教化の旅は、マガダ国の都王舎城=ラージャガハ(ラージャグリハ)を出発し、パータリプッタにてガンジス川を北に渡り、さらに北行して、ついにクシナガラ(クシナーラ)のほとりの沙羅の林の中で入滅した。入滅に際しては、最後の教戒をたれ、頭北面西(ずほくめんさい)、右脇を下にふして、静かにその生涯をとじた。その教化活動のおもだったところには、在家の信者によって精舎(しょうじゃ)が建てられた。なかでもコーサラ国の都サーヴァッテー(シュラーワ゛スティー)郊外の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)、ラージャガハ(ラージャグリハ)郊外の竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)が有名であって、おのおの教化活動の中心地であった。また、入滅後その遺骸は火葬にふされ、その遺骨は八分され、八つの種族によって塔が建てられた。その一つの釈迦族に分けられた遺骨は1898
ペッペ Peppe によってネパール南境において発掘された。
・・・ 平凡社『哲学事典』p.644
スリランカを経て東南アジアに伝えられた南伝経典や中国に伝えられた漢訳経典の中では、釈迦牟尼仏陀がさまざまに説かれ、時には超人的奇跡を行うように描かれていました。そこで、従来のヨーロッパでは釈尊が架空の人物、いわば伝説上の人物、神話的存在であると考えられていた時期もあったといいます。しかし1、898年、インドが英国植民地だった時代にイギリス人
William Peppe がネパールのカトマンズ、Piprahv
(ピプラハワー)の古墳(塚・土饅頭)から釈尊の遺骨を発掘しました。石壷の中の水晶の容器の中に炭化した遺骨が発見され、その壷には、紀元前4世紀頃のブラーフミー文字(古代インドの表音文字)で書かれた文章があったのです。文章の前半は非常に判読しがたく、「・・・名誉ある兄弟、姉妹、妻たちのもの・・・」の前後が不明瞭でした。後半は「これは舎利容器・・・釈迦族の仏陀世尊の・・・」と続いていました。不明瞭な部分がありますので、疑おうと思えばどんなにでも疑うことができると思います、例えば、だれの舎利容器であるかという点でも「〜の(もの)」という語句が二つありますからそれが釈尊の遺骨である可能性は50パーセントだということになるでしょう。しかし、その文字がほぼ紀元前4世紀頃のものであるということ、さらには釈尊滅後、遺骸が荼毘にふされ、釈尊の遺骨(舎利)は、マガダ国の阿闍世王をはじめとする中インドの各部族に八分され、各部族は舎利塔を建立したとされる「八分起塔」の伝説とも合致するということから、仏舎利であると考えられています。
概略にもあるように、釈尊の誕生年時については、従来から紀元前六世紀の中頃であると推定されていましたが、一方では、紀元前五世紀の中頃であるという有力な説も提示されています。しかし、歴史的資料がないために、確実な年代を決定することは大変困難だと考えられています。
その当時のインド思想の中には、唯心論と唯物論の対決という点で現代思想と一致するものがありました。古代インドの思想と現代の思想との間には、もしその思想の発達段階というものがあるとすれば、大きな差があるのかもしれません。しかし、その両思想の原型ともいうべき基本的定義は既に古代インドにあっても確立していたと見てよいでしょう。例えば、唯物論の「精神的・心的なものよりも物質的なもののはうが根源的であり、第一次的である」という原則は、現代文明、特に自然科学の基本的立場であります。一方、「心(精神)は非物体的なもの、物体から区別しうる独自なものである」という唯心論の原則は自然科学を主流とする現代思想の中では一見マイナーな立場のように思われますが、古代インドの思想にあっては伝統的立場にありました。物質である肉体を離れて精神が解放されるという主張は、現代においてはオカルトや超常現象という形をとって現れています。また臨死体験の特徴である肉体からの精神遊離もその典型であるといえます。唯心論は、形を変えながらも現代にまで根強い影響力を及ぼしている思想だといえるでしょう。釈尊の「さとり」はこれら二つの対立する思想である唯心論・唯物論の両者を越えたところにあるのです。釈尊在世当時にはすでにこの二大思潮が存在していました。心優位の立場をとるものは転変説(てんぺんせつ)、物優位の立場をとるものは積聚説(しゃくじゅうせつ)と呼ばれるました。輪廻転生は前者の転変説であり、その成立した背景には、釈尊以前のインドの社会的情勢があったと考えられます。
後にインド社会の上位階級を形成するアーリヤ民族は本来、中央アジアに住む遊牧人種でしたが、紀元前16〜13世紀頃、インダス河上流のパンジャーブ地方に侵入しました。すでに鉄器時代の文化をもっていたアーリヤ民族は先住民族を征服し、次第に農耕生活へ移行していきました。この時代にリグ・ベーダが作られます。これは自然の恵みに感謝する賛歌であり、祭式に際して、諸神を祭場に招請して賛歌をとなえたことに始まります。さらに紀元前11〜9世紀にはガンジス河上流に移動しますが、この時代にリグ・ベーダにつづいてサーマ、ヤジュール、さらにはアタルヴァ・ベーダが作られます。また、それらの付属文書として、ブラーフマナ、*ウパニシャッド等も次第に形成されていきました。
*ウパニシャッド 〔梵〕Upanisad 古代インドの一群の哲学書。サンスクリットで書かれ、Upa-ni-sad(近くに坐す)は師弟が互いに対坐して伝授する「秘密の教義」を意味し、ふつう『奥義書』と訳される。現在200余種が伝えられ、そのうち主要なもの十数種は古代ウパニシャッドと総称され、成立年代は600B.C.から300ごろである。これ以後十数世紀にいたるまで継続作製されたものを後期(新)ウパニシャッドと称する。ヴェーダ文献の最後の部分を形成し、それぞれ四ヴェーダのいずれかに属し、インド正統バラモン思想の源としてその後の哲学、宗教思想の根幹、典拠となっている。個々のウパニシャッドは統一した思想を同一の作者、一定の形式のもとに叙述したものではなく、長い年月の間に結集、補整されたものと思われる。一面ではヴェーダの祭式万能主義に対する反発とも解され、そのためにやがて仏教の興起を促すべき思想的契機ともなったといわれる理由でもある。したがってそのなかには新旧雑多な思想がまじっており、全体としての統一をも欠いているが、その編纂はバラモンの手で行われたことは疑いない。全体を貫く根本思想は、万有の根本原理を探求し、大宇宙の本体であるブラフマン(梵)と個人の本質であるアートマン(我)が一体であることを説く梵我一如の思想である。しかもこの根本原理より一切の万物が一定の順序のもとに発生し、その思索、瞑想に徹すべき当体としての人間の生命はカルマン(業)に従って輪廻の道を繰り返すが、人は禅定(ぜんじょう)苦行によって透徹した梵我一如の真理の認識に到達する。これによって死後輪廻の境涯を解脱し、常住不滅の梵(ブラフマ・ローカ
brahma loka 梵界)に住することができるとした。
平凡社『哲学事典』p.140
より
その後、紀元前6〜5世紀頃、アーリヤ民族はガンジス河中流地域に定住するようになりますが、その時代には、社会的には司祭階級であるバラモンが指導的地位にあり、バラモンを最上層とする四姓(ししょう)の階級制度=カーストを作り上げました。四姓とは、
(1)司祭者(ブラーフマナ・婆羅門ばらもん) =祭式・宗教の権利の独占
(2)王族(クシャトリヤ・刹帝利せつていり) =政治・軍事の権力を掌握
(3)庶民(ヴァイシャ・吠舎べいしゃ) =農業や商工業に従事
(4)隷民(シュードラ・首陀羅しゅだら) =被征服者である先住民族
の四階級であります。祭式を司る司祭者は、人間の幸・不幸をも支配する神に等しい者として、社会の頂点に位置しました。このようにして階級的・身分的な区別が成立し、職業も代々世襲となって分化し、社会組織は固定化しました。輪廻転生を主張することは、この制度を正当化し保っていくうえで充分な効果があったと考えられます。
バラモンが生まれながらに尊く、しかも代々世襲として存続していくためには、他のカーストとは異なった何ものかが必要とされたでしょう。ウパニシャッドは常に変化することなく、過去・現在・未来を通して独自性を維持する実体的なもの=我(アートマン)を想定し、それがカルマン(業)によって束縛されることによって来世の境涯が決定すると定義することでこれに答えました。
ウパニシャッドのうち、古いものの成立は紀元前6世紀頃と考えられていますが、その時期は仏教の興起と近いので、両者の間の密接な関係が考えられますが、それを立証するのに充分な根拠は明らかにできません。しかし、仏教がウパニシャッドの思想を前提としている事は明らかです。仏教の無我思想は必然的にウパニシャッドのアートマン説を予想しており、カルマン(業)、輪廻、解脱の思想にも共通しているものがあります。導入部分で挙げた六道輪廻はバラモンが作り上げた現世の階級が現実を越えた世界にまで及んでいったものともいえるでしょう。ウパニシャッドの輪廻転生は人間社会の階級差別を正当化するものでした。六道輪廻はその範囲を生き物の存在形態全てに拡大したのです。それは命ある者全てを衆生(しゅじょう)とみなし、しかもお互いが例外なく輪廻のサイクルの中にあることを示しています。
一方、積聚説の成立には上記のバラモン階級に対抗する新興勢力の台頭が関わっていたとされています。釈尊が出世された頃、ガンジス河中流地域は、農業生産の増大・商工業の発達などにより、貨幣経済が発達し人口が集中化して、各地に多数の都市が形成されました。そして、これらの都市を拠点に成立した新興国家が、次第に隣接する群小国家を併合していきました。当時、インドにはコーサラ、マガダ、アヴァンティ、ヴァンサなど十六の大国があり、その大半はガンジス河中流地域に位置していました。
このような国家の発展によって国王の権力は急速に増大しました。また経済的発展にともない、すべてが経済的価値によって評価され、財産を多く所有する者(長者ちょうじゃ)が、出身の階級に関係なく社会的な尊敬を得ました。国王や長者が社会的に大きな勢力をもつようになるにしたがって、バラモン中心の階級制度は崩壊し、新たに王族を中心とした階級制度が確立していきました。また、社会の変動に対応して、自由な革新思想が生まれ、新しい精神的指導者の集団が台頭してきます。これがバラモンに対立する沙門(シュラマナ=努める人・苦行者)であります。バラモンは、昔ながらの呪術・祭祀をつかさどる形式的な存在にすぎず、人々の思想や信仰を指導していく力を失っていました。このようなバラモンにあきたらず、自ら宗教的問題を解決しようとして道を求めた革新的思想家が沙門でありました。彼らは出家してバラモンの社会から離脱し、沙門の集団をつくって独自の社会を建設しました。古代のバラモンたちが血統の純粋を主張して、カーストの最高地位を確立したのに対して、沙門たちは階級や身分の差別を問わず、だれでも出家し入団することが認められていました。沙門たちは、各地を遍歴しながら修行し、一般民衆に教えを説き、その布施を受けて生活しました。この沙門の思想的立場は、バラモンをしのぎつつあった新興勢力である国王や長者たちに受け入れられていったのです。釈尊の時代、沙門たちによって多くの新しい思想が説かれました。仏教では六十二種類の思想を、またジャイナ教では三百六十三人の論争家がいたと伝えています。これらの中でも「六師外道」(「外道」とは、仏教の側から仏教以外の思想あるいは思想家を指す言葉)と呼ばれる、六人の代表的な思想家がいたことは有名であります。
* 六師外道(ろくしげどう) 古代インド仏陀時代における一般自由思想界の6人の代表者。 (1)サンジャヤ・ベーラプッタ、(2)アジタ・ケーサンバリン、(3)マッカリ・ゴーサーラ、(4)プーラナ・カッサパ、(5)パクダ・カッチャーヤナ、(6)ニガンタ・ナータプッタ。(1)は懐疑論者で修定主義をとる。(2)は唯物論、快楽説で順世派の先駆。(3)は宿命論者、(4)は無道徳論者、(5)は唯物論的7要素説の論者で、 ・・・(1)は学説不明確ゆえ別として、他はすべて唯物論もしくは唯物論的であり、積聚説(しゃくじゅうせつ)の立場に立つ。・・・六師はいずれもヴェーダの権威を否認し、バラモン教に反抗した。新興都市の王侯貴族、豪族の政治的経済的援助下に活動した。
平凡社『哲学事典』p.1517
彼らがどのような教えを説いていたかを詳しく知ることは困難ですが、漢訳仏典(『涅槃経』)の中には断片的にそのことについて述べているものもあります。 例えば、「父親殺害という行為によって地獄に生まれるか」という問題について、
プラーナ・カッサパ =実際に地獄に行ってそれを見、現世に帰ってきて報告した者はだれもいない。悪い行いもないし、その報いもない。善い行いもないし、その報いもない。
アジタ・ケーサカンバリ =地獄・餓鬼を見た者はいない。人間と動物のただ二つの在り方しかない。しかも、この二つの存在は因果関係で決まるものでもない。因果関係が成り立たない以上、善悪もない。
パグダ・カッチャーヤナ=もし、存在が常に変わらないものであるならば、殺すという行為自体が成り立たない。また、存在が常に変わるものであるならば、殺すという行為は最初から意味を失ってしまう。
と答えています。全体に実証的姿勢が認められ、
プラーナ・カッサパはカルマン(業)とその報いとの関連を否定、後の二人は現実の存在はすべて何らかの要素が結合したものとする説(積聚説しゃくじゅうせつ)で、死後にはもとの要素に分解するだけだと説きました。これらはアートマンによって輪廻転生が起こるというバラモン教の転変説(てんぺんせつ)に対抗するものだったのです。
ただし、サンジャヤ・ベーラプッタ は明らかに懐疑論者でした。彼は「来世があるのか」という問いに対して「もしわたしが来世ありと考えたら、来世はあると答えるだろう。しかしわたしはそう考えず。そうだとも考えず。それとべつにも考えず。そうでないとも考えず。そうでないというわけでもないとも考えない。」と答えたといいます。このことから、鰻のようにぬらぬらしてとらえがたい議論をする者とよばれ、また確定的知識を与えないことから無知論ともいいました。これはインド哲学史上最初の形而上学的問題に対する判断中止の思想であります。彼は一方的判断は論争を生じ、解脱の妨げになると考えていました。
実践の面では、六師の中で アジタ・ケーサカンバリ
と パグダ・カッチャーヤナ は快楽論をたてました。それ以外はすべて苦行を中心としていました。これはバラモン教が一般的に修定(しゅうじょう)を実践していたことに相対しています。
すでに紹介したように、釈尊の誕生について仏伝では、
「右脇から生まれでて地に降り立ち、七歩あるいた。誰にも支えられることなく、四方を見回し、手を挙げ『天上天下にただ私一人が尊い、私はまさに生死輪廻の中で苦しむ生きとし生けるものを救おう。』と宣言した。」
(『長阿含第一大本経』)
「四方を見回し、上下を指さして『これは私の最後生の身体である。天上天下にただ私一人が尊い。』と宣言した。」 (『有部毘奈耶雑事第二十』)
と描かれています。
他の仏伝では四方にそれぞれ七歩、あるいは十方にそれぞれ七歩あるいたということになっています。生まれたばかりの新生児がすぐにあるいたというのは現実離れしたことではありますが、それによって象徴されていることについて考えてみましょう。いずれの場合にも共通している七歩とは、六道・六趣からの脱出を示しています。生死輪廻からの解脱が象徴的に描かれているのです。このことが仏伝の中では「最後生の身体」として誕生したと述べられているのです。
この仏伝には、釈尊自身も生死輪廻の世界に誕生したことが説かれています。
それは全ての命あるものと同じように、有限の肉体をもって現実世界に投げ出されたことを示しています。この点から見れば、仏教もバラモン教の説く生死輪廻の思想を取り入れているといえるでしょう。しかし、それは迷いの世界のあり方として取り入れられているにすぎません。その迷いの世界の根本的あり方を見抜き、そこから解放されることを釈尊は教えたのです。
ここで留意しておかなければならないのは、バラモン教でいう解脱と仏教でいう解脱は表面的にはよく似ているように見えますが、実は根本的に違っているという点です。バラモン教の解脱は、四姓の頂点にあるバラモンが永遠の世界であるブラフマ・ローカ(梵界)に到達することによって、生死輪廻の世界から抜け出すことができるとするものです。すなわち自己のアートマンがそのまま肯定的にブラフマンと一体化するという考え方には、バラモン階級の独善的な見方が反映されているともいえるでしょう。これに対して、仏教の解脱は自己のアートマンが無我という立場から否定され、すべての衆生(しゅじょう=生きとし生ける者、命あるもの)が同等に解放されることをめざすものです。したがって、生死輪廻の中には人間にとどまらず、獣や魚・虫といった生き物すべてが含められているのです。釈尊はその生死輪廻から解放される道を完成させたわけです。仏伝の作者達は釈尊が誕生と同時に七歩あるき、「唯我独尊」と宣言したと描くことで、自らがその輪廻から解脱し、人々にもその悟りの道を解きあかした偉大な業績をたたえようとしたのです。
【画像:釈迦の生涯(1)降誕】
(4)四諦八正道(「人は皆老いるのか?」)
釈尊は19歳で出家して沙門となりました。その出家するきっかけの一つとし
て、仏伝では「四門出遊(しもんしゅつゆう)」という逸話を伝えています。事実であるかどうかは別として、その逸話からは「生きる」ということを真正面からとらえようとする釈尊の姿勢が感じとれます。
父、スッドーダナは釈尊が生まれる前、その将来について占わせました。それによると「家庭生活を続けるならば転輪王(てんりんおう=偉大な理想的国王)になるであろうし、出家すれば仏陀になられるだろう」ということでありました。自分の後継者になってくれることを望んだスッドーダナは、釈尊が出家したいという気持ちにならないよう様々な手を尽くしたといいます。例えば、宮廷の中から老人・病人・死者を遠ざけて、釈尊が命のはかなさを感じないようにしたのです。しかし、ついにある時、供の者と一緒にカピラ城の四つの門から城外に遊びに出たときに、これらのものを見てしまいます。
釈尊は最初に老人と出会います。老い朽ちて、歯は抜け、髪は白く、皺が寄り、体は曲がり、手に杖をもってわななきふるえる老人、その老人を見た太子は供の者に向かって
「これは何という人間であるか、この者の髪も毛も他の者と違っているが?」
と尋ねたといいます。それが老人であり、しかもすべての命ある者が必ず老いていくことを聞いた太子は、心の中で
「人は皆老いるのか?生まれたものに老衰が付きしたがっているとすれば、生まれることは禍である」と思い、深く憂いに沈んで城に引き返したといいます。
太子はその後、病人・死人に出会います。その度に太子は
「人は皆病むのか?生まれたものに病が付きしたがっているとすれば、生まれることは禍である・・・人は皆死ぬのか?生まれたものに死が付きしたがっているとすれば、生まれることは禍である。」と思い、さらに深い憂いに沈み城に戻ってしまいます。
そして最後の門から出た時に沙門と出会います。太子は「この者はなんであるか?」と尋ねると、供の者は沙門が生死輪廻からの解脱を求めるものであると説明します。この時、太子は沙門の生き方に強くひかれ、後に出家するきっかけとなったというのです。
【画像:釈迦の生涯(1)占相・宮廷の歓楽・四門出遊】
この仏伝は、仏教が「如実知見(あるがままに見る)」から出発することを示しています。私たちひとりびとりが有限な生命という状態の中に放り出されているという実感。太子もそれを感じたからこそ出家を決意したといえるでしょう。このような悟りへむけての過程は、後に初転法輪の中で四諦(したい)として体系的に説かれるようになりました。
四諦
苦諦(くたい) 迷いの結果
集諦(じったい)迷いの原因
滅諦(めったい)悟りの結果
道諦(どうたい)悟りの原因
留意すべきことはこの四諦が結果・原因の順で示されているということです。
現在私が立たされている境涯はどのようなものであるのか、私がいたるべき悟りの世界はどのようなものであるのか、ということが先ず問題となっているのです。このことも、四諦が理屈ではなく、実存的私の問題として説かれていることに起因しています。苦諦は老・病・死に生を加えた四苦が代表的なものです。太子が考えたように生まれたものには必ずこれらの苦が付きしたがっています。この四苦の原因はいつまでも変わらない自分を求めるところにあります。極端な言い方をすれば、老いていくこと、病気になること、死ぬこと、それ自体は苦しみではありません。苦しみの本当の原因は、変わらない自分があると思いこみ、それに執着するところにあります。
滅諦はそのような執着が滅した「さとり」をいい、道諦は滅諦に到る道をしめしています。道諦については八正道(はっしょうどう)が挙げられます。これは仏教の中で最も古い実践道として説かれたもので、
正見(しょうけん)・正思惟(しょうしゆい)・正語(しょうご)・
正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・
正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)
の八つをいいます。この中で最も重要なものは正見であり、他のものは正見を完成させるための具体的実践方法だといえます。
さて、先に述べた「四門出遊」を現代的観点から考え直してみましょう。太子は父・スッドーダナのおもわくのために、人生の無常から隔離されて暮らしていました。しかし、老・病・死を目のあたりにして、それらの存在に驚きながらも、自分の問題として受容していきます。よく考えてみると、この太子の置かれた立場は、現代人が無意識にいだいている日常という思いこみを象徴していると考えてよいでしょう。現代社会の中では、病気や死は医療面から見れば一種の敗北と見なされてきた感があります。軽い病気は別として、重病者は病院という非日常の世界へ閉じこめられてしまいます。臨終もまた同じ傾向にあります。老人は生産中心の社会的活動から遠ざけられ、施設の中に押し込められてしまいます。このように、私たちは現代社会の中で生・老・病・死から隔離された状況の中に置かれています。しかし、一旦自分自身が重い病気になったり、老人になった時、私たちは非日常の中へ遠ざけられてしまうのです。社会的弱者という言い方がありますが、これは日常の中に住む者、実は住んでいると思いこんでいる者の奢りにすぎないのです。この日常という思いこみを破って現実を見るときに、生・老・病・死が自己の問題として受容されるのです。言い換えれば、病気や老いや死が他人事でなく自分の問題として再確認されるわけです。なんだか暗い話だなあと思うかもしれません。だから仏教なんて年寄りにしか相手にされないのだと考える人がいるかもしれません。しかし、生・老・病・死を自己の問題として受容できない人間は、無意識のうちに日常のなかに閉じこもり、非日常と見えるものを差別をすることにもなりかねないのです。生・老・病・死の中に自分が投げ出されているという実感は、同時に生・老・病・死の前ではすべての衆生(しゅじょう=生きとし生けるもの、命あるもの)は同等であるという考えにいたるといえます。四つの門から出て、これらの現実にであった釈尊は、太子という身分が何の支えにもならないことを痛感したことでしょう。そして、四姓を越えて真実を求める沙門の姿に強く惹かれたのです。この時、太子の中で「諸々の衆生において、見ること自己のごとくす。」という仏の眼が開かれたと言えるでしょう。後に悟りを得た釈尊がすべての生きとし生ける者のために法を説こうと決意したのも、この衆生としての一体感が根底にあったのです。
成道(これある時に彼あり・・・)
出家した釈尊は、カピラヴァスツからマガダ国の首都王舎城におもむき、アーラーダ・カーラーマ
、さらには ウッダカ・ラーマプッタ の二人の修定者のもとで修定を実践したが、これらはいずれも真実の道ではないことを悟り、彼らのもとを離れました。その後、ネーランジャラー川のほとりのガヤ城付近の林の中で
コーンダーンニャ をはじめとする五人の比丘とともに六年にわたって苦行を実践しますが、やはりこれも悟りに到る道ではないことを知り、苦行を捨てました。この二つの実践論は先に述べたバラモン教の転変説と一般的沙門の積聚説とそれぞれに密接に関連していると考えられますから、釈尊が先に修定主義を捨てたのは、伝統的なバラモン教の考え方を捨てたことを意味し、苦行主義を捨てたのは一般的沙門の考えを捨てられたことを示しています。これは釈尊がめざした教え−仏教が、当時のバラモン思想や一般的沙門の教えとは全く異なった独自の立場をとることを示していると考えられています。
このようにして、釈尊は自ら新しい道を求めて、大いなる決意をもって禅定に入ります。そして自己の内面を見つめ、迷いを断ち切ってついに悟りを開きます。
【画像:釈迦の生涯(2)苦行・降魔】
この時、釈尊は30歳だったと伝えられています。釈尊が悟った内容こそ、仏教の根本的立場であり、後の経典の中で様々に説かれていくことになります。しかし、その最も基本的な立場は縁起観であります。縁起とは一切の存在、すべての現象は互いに因縁となり、相依り相待って存在することをいうものであります。このことを経典では一つの型として
これ有る時彼有り、 これ生じる(起こる)より彼生じ(起こり)
これ無き時彼無く、 これ滅するより彼滅す
と説いています。
縁起観では「これ」と「かれ」とが場所(空間)的にも歴史(時間)的にも原因・結果の関係となってはじめて成り立ちうることを示しています。言い換えれば、一切のものは何一つとして「これ」あるいは「かれ」だけでは成り立ちえなことになります。私たちが執着するような実体的「我」は、単独で「これ」あるいは「かれ」が存在すると考えることに他なりません。そのような我執を否定するのが「無我」であります。
梵天勧請(ぼんてんかんじょう)
菩提樹の下で七日間を過ごした釈尊はその後も七日ごとに場所をかえながら独り悟りのよろこびにひたっていましたが、5週間目に樹下で静かに瞑想している時に次のような考えにいたります。
我の証得(しょうとく)せる此の法は甚深(じんじん)にして、難見、難解、 寂静(じゃくじょう)、美妙にして、尋思(じんし)の境を超え、至微(しみ) にして智者のみ能く知る所なり。而して阿頼耶(あらや)を楽しみ、阿頼耶を よろこぶ衆生にありては、この縁依性(えんねしょう)・縁起なることわりは 難見なり、また一切諸行(しょぎょう)の寂止、渇愛の滅尽、離、滅、涅槃な ることわりもまた甚だ難見なり。もし我、法を説くとも他人、我を了解(りょ うげ)せずば我いたずらに疲労困憊せんのみ。・・・中略・・・
かくの如く思択して世尊は心に黙然を思い説法せんとは欲したまわざりき。
『南伝大蔵経』律蔵大品より
このような釈尊の思いを察したブラフマー神・梵天は三度にわたって釈尊に説法するように懇願します。「世尊よ。どうぞ法を説いてください。命あるものの中には法を理解できるものもいます。説法を聞くことができたなら悟りを得ることができるでしょう。」と言い、さらに次のようにも述べます。
汝は智慧優れたる普眼者なれば
法所成の高楼に上り
自らはすでに憂苦を超えたれば
願わくば憂いに沈み生老に悩める衆生を視たまえ
『南伝大蔵経』律蔵大品より
【画像:釈迦の生涯(2)梵天勧請】
梵天勧請はいわば釈尊の心の中の葛藤であったと見ることができるでしょう。自己の悟った真理をどのようにして伝えたらよいのかという自問自答が、仏伝のこのような描写となったと考えられます。最初は悟った法のすばらしさを独り楽しんでいた釈尊でしたが、いまだ生死流転の中で苦悩する多くの衆生の存在に考え到ります。しかし、釈尊が悟った真理は容易に理解されるものでもありませんでした。説法を断念するのか、あるいは何とかして伝える手だてを考えるのか。この選択は釈尊自身にとっても重要な意味をもっていたと考えられます。自分だけの救済で満足するのか、それとも衆生救済へと展開していくのかという大きな岐路に立たされていたわけです。
また、釈尊が悟った真理そのもののから見てもこの選択は決定的な意味を持っていたと言えます。絶対は相対を中に含むものでなくてはなりません。自分以外の場所に相対的なものの存在を許していたのでは、それはもう絶対とは呼べないことになります。したがって、相対をすべて内側に含んだものが本当の絶対であるといえるでしょう。それではすべての相対を内に含んだ絶対はどのような活動を展開していくのでしょうか?それは絶対が絶対でありうるか否かの問題となってきます。釈尊が悟った絶対的真理=縁起とは、すべてのものが相依り相ささえ合うことによって成り立っているということでした。この相依相待の縁起は必然的に我を否定していくことになります。我々が固執するような固定的な我は存在しないのです。しかし、それと同時に絶対的真実は相対的な我をその中に含んでいます。個々に存在する我は相対として絶対の中に含まれています。ここで絶対は相対を絶対化するために働きかけることとなるのです。
縁起という真理にそのような作用があるのかと疑問に思われるかもしれません。
しかし、例えば、風そのものは我々の目には見えませんが、木々や草花がそよいでいる姿からそれを知ることができます。さらに風の存在を確かに実感できるのは私自身の体に風の感触を得たときです。真理を悟った釈尊は、その働きかけを実感し、それを具体化するために説法という行動へと展開していったと考えられます。そこに縁起という絶対的真理が相対的衆生を絶対化=無我化するために働きかけているのを見ることができるのです。そして、そのような働きかけを通して初めて、縁起という真理は完結するのだとも言えるのです。経典ではこのような働きを持つ縁起法について、「仏(釈尊)がこの現世に生まれても、生まれな
くても変わることなく存在する法」と説明しています。
釈尊が亡くなる時に、弟子達に遺された教え(遺訓)にも「人を拠り所とせず、法を拠り所とするように」とありますが、これもそのような真理の働きを指しているものと考えられます。
さて、梵天のすすめによって、布教を決意した釈尊は「最初に誰に法を説こう、自分が悟った真理をいち早く理解できる者は誰だろうか?」と考えたといいます。そして、かつて師として仰いだ
アーラーダ・カーラーマ 、さらには ウッダカ・ラーマプッタ の二人の修定者に法を説こうと考えましたが、すでに両者とも死んでいました。それを知った釈尊は「彼等は大変な損をしてしまった、もしこの法を聞いたならばすぐに悟りに至ることができただろうに・・・」と残念に思ったといいます。次に釈尊はベナレスの鹿野苑(ろくやおん)=
ムリガダーヴァ へ向かい、ともに苦行を修した5人の修行者に法を説きました。具体的には、先に述べた四諦・八正道が説かれたといいますが、この釈尊の初めての説法を「初転法輪」といいます。そしてこの時点で、仏・法・僧の三宝が完備されたことになります。つまり、「仏陀」となった釈尊と、その教えである「法」と、釈尊の教えを信じ実践する「僧」がそろったことになるのです。これが仏教におけるサンガ(僧伽・教団)のはじまりであります。サンガとは僧伽・衆とも訳され、集団・集会のことでありますが、仏教以前から共和政治をとる国家や商工業者の組合などの意味で使われていた言葉でした。しかし、釈尊の頃には宗教団体にも用いられていましたから、仏教でもこれを採用したものと考えられています。なお、サンガという言葉が、仏教教団の固有名詞として使用されるようになったのは、アショーカ王の時代からであると考えられています。この仏・法・僧の三宝を表すものとしてW型のシンボルが用いられることも多い。
後に、この三宝にもとずいて、仏教の三つの解釈もおこなわれるようになりました。それは、
--仏の教え(釈尊に重点をおいた見方)・・・・・・・・・・仏
仏教 ---仏がそのまま教え(法に重点をおいた見方)・・・・・法
--仏に成るための教え(衆生に重点をおいた見方)・・僧
という関連性でしめされるものです。
このようなサンガは、当時のインドではどのような位置にあったのでしょうか。サンガは一般に和合衆(わごうしゅう)とも訳されます。和合とは自治のよくおこなわれていることでありますから、サンガとは自治的な集団を意味します。つまり、仏教教団は一般社会の制度や慣習に束縛されず、それから独立した自治組織として運営されていたのです。釈尊の教えを理解し実践する者は、社会的階級・身分あるいは貧富・性別に関係なくすべて平等であるという立場から、だれでも仏教教団に入ることができました。当時のインド社会の四姓制度は、それまでよりもさらに分化し固定化されていました。賎民階級の人々には、バラモンの教えを信仰することすら許されませんでした。釈尊は、そのような時代に人間平等という立場に基づいて、すべての人々に法を説いたのでした。
(5)三法印・四法印(いろはにほへと・・)
さて、後に仏教の教義が整理されていく中で、仏教が仏教である印(しるし)として三法印、あるいは四法印が説かれるようになりました。初転法輪で説かれた四聖諦が具体的生存の認識から説きはじめたのに対し、四法印は理論的な面から出発しているように思われます。次にそれを挙げてみます。
諸行無常印
諸法無我印
(一切皆苦印)
涅槃寂静印
の四つです。これらは、諸行無常「全ての作られたものは変化していく。」諸法無我「全てのものには執着されるような我は存在しない。」(一切皆苦)「執着によって全てのものは苦と受けとめられる。」涅槃寂静「その苦が滅した状態が穏やかな悟りの境地である」という意味になります。
前の二つには、如実知見によって得られる存在の真実相が示されています。迷いの世界にある者たちは、それを知らずにものに執着することによって苦を受けることになります。そして、涅槃寂静印では、その執着を捨てることで悟りの境地に至ることが示されています。この中で、迷いの境涯について示されている一切皆苦印を除いたものを三法印と呼びます。
この三法印をうまく表現したものに「いろは歌」があります。これは、仏教の精神を示すものとして古くから親しまれてきた歌だといえます。
色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ。
有為の奥山今日超えて 浅き夢見じ酔ひもせず。
匂うように咲き誇る花もいつかは散っていくものである。私の世界も永遠常住なものであるはずがない。山を越えるようにして、作られたものの無常な世界を抜け出し、夢や酒のようなはかない執着に惑わされないようにしよう。
また、諸行無常印は日本文学にも深く浸透し、多くの作品の中で取りあげらています。しかし、大切なのはそれが無常感ではなく無常観であるという点です。三法印は、全てを無常と観ずること、そしてそこから悟へと向かうことを教えているのです。この三法印こそ仏教を他の教えと区別する特色を示すものだと考えられます。
(6)三学(諸々の悪を為すなかれ・・・・)
仏教の教義についてまとめたものが三法印(四法印)であるならば、仏教の実践について整理したものが三学であります。もともと、三学とは仏教で修学すべき三つの事柄を示すもので、
戒(身口の悪をやめ、過ちを防ぐ戒律のこと)
定(散乱心を防ぎ禅定を修すること、三昧)
慧(惑を破り真理を悟るための四諦、十二因縁等を観ずること)
をいいます。これからわかるように、三学は実践の面でも仏教の全てを含むこととなります。この三学は経典の中でいろんな形で説かれていくことになりますが、その基本形を『七仏通誡偈』に見ることができると思います。
『諸悪莫作。衆善奉行。自浄其意。是諸仏教。』
おなじく、
「一切の悪を作さず、善を行い、自己の心を浄む。これ諸仏の教えなり。」
『南伝大蔵経』第23巻「法句経」仏陀品183
仏教では、私たちの行為・業(カルマン)を身体(身業)・言葉(口業)・精神(意業)の三業に分類します。したがって、三学とは、戒でまず外面に現れる行為(身・口業)を正し、定で内面の行為(意業)を正し、さらに慧において悟りに向かうという過程の順序を示しているとも考えられます。
この三学の構造は、すでに述べた八正道の中にも見いだすことができます。例えば、正見は慧に、正定は定に、正語・正業・正命等は戒に相当すると考えて良いでしょう。また、後に述べる大乗仏教の実践である六波羅蜜についても同様に考えることができます。六波羅蜜とは布施・忍辱・持戒・禅定・精進・智慧の六つの項目についての完成を説くものです。その中で、智慧は慧に、禅定は定に、持戒と残りの三つは戒に相当すると見てよいでしょう。
(7)毒矢の喩(仏教は哲学か?)
「仏教は哲学か?」という言い方をすると変に思う人がいるかもしれません。一般に仏教哲学という言い方をするほどですから・・。しかし、ここで問題としたいのは、仏教とは知識を得ることを目的としているのか、ということなのです。仏典の中にそのような問題に触れているものがあります。それが『箭喩経』と呼ばれる経典です。
釈尊の弟子の中にマールンキャ・プッタという人がいました。この人は、釈尊が形而上学的問題については答を出さなかったことに対して不満を持っていました。それがどのような問題であったかというと、
「世界と我は常住なのか、無常なのか」
「世界と我は有限なのか、無限なのか」
「仏陀は死後、有るのか無いのか」
「命(霊魂)と身体(肉体)は一つなのか、別なのか」
などといったような、当時のインド思想界で盛んに議論されていた問題です。仏教外の思想家たちは釈尊に対しても、このような問題について議論を仕掛けてきたものと考えられます。釈尊はそれに対して「無記」「捨置記」という形、つまり答えないという仕方で答えたといいます。しかし、マールンキャ・プッタはそのような答えでは納得できませんでした。そこである時、彼はそれらの問題について釈尊に直接質問し、もし、満足できない答えだったら釈尊の許を離れようと決心しました。彼の質問を聞いた釈尊は、その心中を察して、一つの比喩を説きます。
ある人が何者かに矢で射られたとします。その矢には毒が塗られていて、すぐに矢を抜いて治療しなければなりません。ところが、射られた人は愚かにも次のように主張します。
「私はまず、矢を射た者が誰であるかを知りたい。・・・それが判るまでは、 矢を抜いてはならない。・・・また、この矢を射た弓が何でできているかを知 りたい。それが判るまでは、矢を抜いてはならない。・・・また、この矢が何 でできているか、どのような種類の羽が使われているか、・・・誰が作ったの かを知りたい。それが判るまでは、矢を抜いてはならない。」
とうとう、この人はその答えを聞き終えることなく命を落としてしまった。
この比喩を挙げた後、釈尊は形而上学的問題についても同じであること、そして、より重要なことは、苦悩を引き起こしている我執を取り除くこと、つまり悟りに至ることであると説きます。
以上に述べた形而上学的問題は、経典によって14問であったり、10問であったりします。一般に十四難(じゅうしなん)、あるいは十四無記(じゅうしむき)と呼ばれます。無記とは無記答の意味で、釈尊が仏教以外の思想家からの問いに答えを与えなかったことをいいます。したがって、十四難とは仏教以外の思想家が釈尊にむかって14の問題を提出して非難したことをさします。
この14ないしは10の問題に対して世尊が答えを与えなかったのは、それが仏教の問題領域でないことを示すと同時に、それに答えることによって仏教の中心点を曖昧にする恐れがあることを示しています。この態度は六師外道の中でも懐疑論者として知られていた
サンジャヤ ・ベーラプッタ と共通するものと考えられます。サンジャヤ・ベーラプッタ
は一方的判断は論争を生じ、解脱の妨げとなるとみていました。釈尊の形而上学的問題についての判断停止もそれと同じような立場であったと言えるでしょう。
さて、先に挙げた具体例の中の後者2問は、現代でもいろんな形で議論されるテーマではないでしょうか。特に、霊魂と肉体の関係については西欧でもずいぶんと研究されてきた問題だといえます。もし、精神と肉体とを分けて、精神的なものにその中心を求めれば観念的となり、肉体的なものにその中心をおけば唯物的になってしまいます。また、最近は特に、霊魂の不滅、肉体からの霊魂の遊離といった話題が取りあげられる傾向があるように思います。そのような問題に関して、仏教は基本的には解答をださないといってよいでしょう。
『毒矢の喩』は、世界や我の常無常、世界や我の有限無限、死後の霊魂の有無、肉体と霊魂の一異が明らかになったとしても、それは釈尊が説いた解脱や涅槃とは何ら関係がなく、無意味であることを示しています。これは必ずしも哲学的思索を拒否するものではありませんが、しかし、仏教がどういう立場で問題を考えているかを明らかにしています。それは悟りに到ること、成仏という実践を根本とするものであり、それに関係ない観念的な論議は戯論(けろん)として強く退ける仏教の立場を示すものであります。
(8)自灯明・法灯明(ブッダ滅後の仏教)
「自らを拠り所として他人を拠り所とせず。法を拠り所として他を拠り所としてはならない。」これは釈尊が弟子の阿難に説いた教えであるとされています。
『大般涅槃経』という経典には次のような逸話が記されています。
高齢の釈尊が重い病の床に臥します。しかし、幸いにも程なくして回復されました。阿難は釈尊に
「世尊が病に倒れられて、眼の前が真っ暗になったような思いがしました。しかし、『私ども比丘達に最期の説法をされないうちには、入滅されるはずがない』と思って、内心では安心しておりました。」
と申し上げたのです。釈尊はそれに答えて
「では、比丘達は私に何を望むというのか。私は仏法を拳を握るように包んで隠したりしたことはない。・・・我死して後に於いても、自らを洲とし、
自らを拠り所として、他人を拠り所とせず、法を洲とし、法を拠り所として、他を拠り所とせず住せよ。」(『南伝大蔵経』第七巻・長部経)
と訓戒されたというのです。
【画像:釈迦の生涯(3)涅槃】
ここには仏教の特徴がよく表されているといえるでしょう。釈尊がこの世に出現してもしなくても変わらなく存在する法、それこそが仏教の基盤となっていることがよく示されている逸話であるといえます。
釈尊が入滅されると、その遺骸は荼毘にふされました。在家信者たちの希望により、釈尊の遺骨(舎利)は分配され、各地に舎利塔(仏塔)が建立されました。これが舎利崇拝の起こりであります。舎利はマガダ国の阿闍世王をはじめとする中インドの各部族に八分され、それを持ち帰った各部族はそれぞれ舎利塔を建立したと伝えられています。これが「八分起塔」の伝説であります。また、釈尊が日常使用していた衣・鉢・杖などの遺物を通して釈尊を崇拝する、遺物崇拝も行われました。また、釈尊の教えが後に編集されて経典として成立しますが、特に出家者たちはこの経典を崇拝しました。釈尊入滅後の教団はこのような舎利崇拝・遺物崇拝。経典崇拝などを中心として展開していきました。なかでも舎利信仰は、在家信者を中心に広く行われ、後にはインド各地に多くの仏塔が建立されて、いわゆる仏塔信仰として急速に発展しました。
【画像:釈迦の生涯(3)舎利八分・涅槃(仏塔)】
先にも触れたように、釈尊の教えは「自らを灯明とし、法を灯明せよ」というものでした。もともと釈尊の教団には、統制者・主宰者というものはなく、釈尊入滅後は教法や戒律を基準にして、自主的に問題を解決していかなければなりませんでした。さらに、釈尊の説法は、対機説法と呼ばれ、法を聞く側の状態に相応して様々な形で法が説かれたといいます。このような理由から、釈尊の滅後には舎利崇拝・遺物崇拝・経典崇拝というような多様な信仰の形が成立し、それによって仏教自体も分化していくこととなります。釈尊滅後100年頃には、保守的な立場をとるものと、進歩的な立場をとるものとの対立が表面化し、仏教教団は大きく二つに分裂することになります。
(9)ジャータカ(ブッダ前世の修行)
釈尊滅後、釈尊は次第に理想化されていきます。そして、釈尊が現世で無上の悟りを得たのは、単に現世に生まれてからの修行によるのではないと考えられるようになっていきます。このような観点から、釈尊前世の修行についての逸話・『ジャータカ(本生譚=ほんじょうたん)』が作られるようになります。これらの経典の中で、釈尊は超人的な意志と力とを備えた理想的な求道者・菩薩「=菩提(ボーディ=悟り)を求める者」として描かれていきます。
【画像:ジャータカ】
このように釈尊が理想化されていくのと同時に、その悟りも一般の出家者には得られないものと考えられるようになっていきました。すなわち、衆生が到達できるのは、悟りよりも劣った阿羅漢(あらかん=聖者)という位であると考えられるようになったのです。このような考えは、釈尊に対する畏敬の念から起こったものだとは言えますが、しかし、仏教の、誰でも悟りにいたることができるという基本姿勢は見られなくなっていきました。このような考え方は、主に出家集団、しかも仏教を教学的に理論化し研究しようという集団に現れたようです。したがって、民衆からも遊離して形式的・独善的なものとなっていきました。その立場は保守的なもので、出家集団の中でも比較的上座の者が多かったことから上座部仏教と呼ばれることになります。
(10)菩薩道(不惜身命の決意)
保守的な上座部仏教に対して進歩的な立場をとったのが大衆部と呼ばれる人々の集まりでした。すべての人が仏陀となることを説いた大衆部の思想は、仏教の改革運動に大きな影響を与えましたが、同時に、仏塔を中心に純粋な信仰生活を営んでいた在家信者集団の存在を見逃してはなりません。さらには、この在家信者に対して法を説いたとされる説法師(ダルマ・バーナカ)も重要な働きをしたと考えられます。説法師とは、出家の比丘とはちがって、在家信者のために仏徳を讃え法を説いた伝道者でした。彼らは仏塔を主な活動拠点として、仏陀の教えをわかりやすく説いたとされています。このようにして、釈尊入滅以後、出家者の学問的仏教教団と平行して存在してきた仏塔信仰の集団が仏教改革運動の担い手となっていったのです。すなわち、大衆部の比丘と在家信者の中から「釈尊の根本精神にたち帰ろう」という気運が起こってきました。この大乗仏教運動は紀元前2世紀頃から次第に大きく展開していくことになります。
この大乗仏教の信者は、自分たちのことを菩薩と呼びました。これは『ジャータカ』で釈尊の前生を菩薩と呼んだのにならったものです。『ジャータカ』の中で釈尊は他の衆生を救うため、自らの命をも惜しむことがなかったと説かれています。その菩薩のあり方が、「悟りを求める者」から「悟りを求めて自ら修行する(自利)とともに、一切衆生を悟りに到達させるために努力し(利他)、その功徳によって仏陀となる者」として拡大発展的に解釈されていったのです。そして、このように『ジャータカ』に説かれた「菩薩」が大乗の「菩薩」という重要な言葉として再定義されたところに、先ほど挙げた説法師の関与の大きさを知ることができると思います。すなわち、説法師は『ジャータカ』を説くことで釈尊の遺徳を讃えていたと考えられるからです。
このように、もともとは釈尊の前世だけを指す名称であった菩薩が、大乗仏教では出家の比丘であっても、在家の国王・商人・職人であっても、一切衆生を救済するという誓願をたてて実践すれば、現世において全ての者がその名で呼ばれることとなったのです。大乗の信者は一切衆生の救済を目的とした菩薩行を実践していきました。そして、この大乗仏教の出現は「梵天勧請」によって釈尊が布教を決意したのに匹敵するほど、重要な意義があったと言えるのです。
(11)六波羅蜜(完璧な施しをなせ。)
大乗の菩薩が実践すべきものとして六波羅蜜(ろくはらみつ)が挙げられます。波羅蜜とは到彼岸(彼岸に到った状態)を意味します。したがって、六波羅蜜とは、布施(ふせ=施すこと)・忍辱(にんにく=耐え忍ぶこと)・持戒(じかい=戒律を守ること)・禅定(ぜんじょう=精神を統一すること)・精進(しょうじん=絶え間なく努力すること)・智慧(ちえ=如実に見る智慧)において完璧な状態に到ることを言います。この六つの中で全体のベースとなるのが智慧波羅蜜です。例えば、智慧波羅蜜にかなった布施であってはじめて、それを布施波羅蜜と呼ぶことができるのです。
それでは慧波羅蜜によって、布施がどのようにして布施波羅蜜となるのでしょうか。まず、布施という行為が成り立つには、施す人、施される人、そして施す物の三者が必要となります。智慧波羅蜜にかなった布施となるためには、これら三つが我執によって汚されていないことが必要だとされるのです。布施を成り立たせる三つの要素が、いずれも執着されることなく清浄であること。それを三輪清浄(さんりんしょうじょう)といいます。この三つの要素がいずれも執着されない状態、つまり我執が滅した状態を智慧の完成(智慧波羅蜜)というのです。「空」の施す人が、「空」の施し物を、「空」の施される人に与える、これが完璧な布施行であると言います。全てのものは相依り相待つことによって成り立つ=「縁起」、これは言い換えれば、全てに執着されるような実体はない=「空」、ということを示しています。「縁起」と「空」は、全ての在り方についての観点の相違にすぎません。
普通、私たちが言う施しという行為には常に何らかの思惑がつきまとうものです。そのような施しでは本当の布施にはならないというのです。したがって、菩薩は布施を行ずることによって、そのような思惑を取り除き、我執を滅していくのです。菩薩は布施を行ずるたびに、自己の心中に起こる執着を反省し、それを滅するために努力するのです。それは布施が、道徳的な善い行いという範疇ではなく、菩薩の修行として実践されることを意味しています。極論すれば、施しをすること自体は目的ではなく、我執を取り除いていくための実践方法だと言えるでしょう。布施行は智慧波羅蜜に裏付けられていなければならないのと同時に、それを体得していくための方法でもあるとも考えられます。菩薩は、これらを実践して智慧波羅蜜にいたり完全な悟りを得ることができるのです。六波羅蜜を修行し全ての衆生を救済しようとするものはだれでも菩薩と呼ばれました。
如来とは(如来、如去)
六波羅蜜を完成させた「菩薩」は無分別智に到達します。自己と他者を分別することが無くなるのです。一旦、この無分別智に至ると他の衆生への働きかけを行わねばならなくなります。悟りに達した者は、現実界に苦しむ衆生があるかぎり、救済の手を休めることはできないのです。もし、救済を怠れば、自己と他者とを分別したこととなり、悟りそのものが壊れてしまいます。禅定仏と説法仏、静かに悟りをかみしめる仏と説法を展開していく仏、この両者はいずれか一方だけで成立するものではありません。無分別智に立った仏は、そのまま慈悲による救済に進むものであり、分け隔てない救済は、そのまま無分別の智慧に裏付けられていなければならないのです。梵天勧請で象徴的に表された釈尊の心の葛藤もこのような慈悲への活動へと踏み出す姿を示しているのです。
如来には如去・如来の二面があると言われます。それは如(あるがままの世界=さとり)へと去っていくのと同時に、如からやって来る者でもあるのです。この二面性を「自覚覚他(じかくかくた)、覚行窮満(かくぎょうぐうまん)」とも言います。自らが覚りかつ他者を覚らせる、その働きが満ちあふれているものが如来であります。
浄土往生(救われるのは魂か?)
ただし、これらの六波羅蜜は一般の人にとってはなかなか実践しがたいものでありました。そこで、諸仏・諸菩薩に帰依し、その救済によって救われようという信仰が説かれるようになります。浄土思想はこのようにして成立しました。それはあくまでも六波羅蜜を実践する諸仏・諸菩薩の存在を前提としているのです。したがって「救われる」とは言っても、私たちが望むような実体的な「我」がそのまま浄土に生まれるのではありません。「さとり」の次元での救済であります。救われるべき「魂」が浄土に生まれた時点で、全宇宙に広がる「さとり」そのものへ転化する(転ずる)と言うことができるでしょう。仏教で言う「救い」は輪廻からの解放に他ならないのです。
釈尊の教えは、悟りを得たものは全て仏陀となることができるというものでありました。浄土教を含めた大乗仏教は釈尊の原点にたちかえり、諸仏・諸菩薩の存在を認め、諸仏の教えを経典として形作っていったのでした。紀元前から紀元3世紀頃にかけては、『般若経』『法華経』『無量寿経』『維摩経』『華厳経』(初期大乗経典)が、成立し、大乗仏教の教理や実践道が確立されて発展していくことになります。日本仏教はこのような大乗仏教の流れを引き継ぐものであまえ。「一切衆生悉有仏性(全ての者に悟りを開く可能性がある)」は大乗仏教の立場をよく示しています。次に学んでいく親鸞聖人の教えも、全ての人々が救われる方法を求めた結果であったと言うことができるのです。
後期 仏教の思想 B
授業テーマ:仏の慈悲
授業内容:
仏教の中で浄土教はどのような位置にあるのか。「念仏を称えれば救われる」とは阿弥陀仏との間に交わされる契約なのか? だとすれば、阿弥陀仏の救済を説く浄土教は、絶対神による救済を説く他の諸宗教と同じなのか? 以上のような観点から、前半は浄土教の成立について、後半は親鸞の言葉を通して浄土の意義を探っていきます。
はじめに
@仏の誓い(仏はなぜ救うのか)
A仏教東漸(西域の人々と仏教)
B中国の浄土教(善導大師の立場)
C日本の浄土教(師法然の教え)
D親鸞の生涯(弟子から見た親鸞)
E親鸞の生涯(妻から見た親鸞)
F親鸞の教え(悪人こそ)
G親鸞の教え(薬あればとて毒を好むべからず)
H親鸞の教え(義なきを義とす。)
I現代と親鸞(我が心の善くて・・)
§はじめに
一般に高校等の教科書では親鸞はどのように扱われているでしょうか。参考書を手がかりに若干の引用を挙げてみましょう。(『基礎からよくわかる倫理』高橋進著)
【考察】親鸞は師法然の浄土宗を深めたといわれるが、それはどのような意味であろうか。親鸞自身の自己反省からくる人間観はどのようなものであったか。 多くの人々に親しまれている親鸞の魅力とは何か。
親鸞は、4歳で父と、8歳で母と死別し、9歳の時、出家して叡山に登り、堂僧をつとめながら20年間天台宗の教えを学んだ。29歳の時、叡山の教義に不満をもち、山を出て京都の六角堂にこもって救済の道を考えていたところ、聖徳太子の示現にによって法然上人を教えられ吉水の禅房を訪れ、上人の専修念仏の教えに帰依することになった。これが親鸞の大きな転機であり、彼の一生を定める事件であった。1207年(35歳)門弟に刑死者の出た念仏停止令に連座し、越後の国(新潟県)に流されるとともに還俗を命じられ、藤井善信と改名した。しかし、自らは愚禿釈鸞と称し、非僧非俗の境遇に甘んじながら念仏に対する信仰を深めていった。4年後に赦免されたが、そのまま越後にとどまった。このころ妻恵信尼を娶ったと思われる。42歳の時、妻子を連れて武蔵(埼玉・東京・神奈川)・下野(栃木県)・常陸(茨城県)へと旅を続けながら専修念仏を布教した。その後約20年、関東に滞在して主著『教行信証』を執筆し、その間に下野国をはじめ東国の信徒も著しく増加した。1232年(60歳)娘の覚信尼を同行して下野国高田を出立して、京へ上った。63歳より27年間、京都で寄寓生活を送りつつ、著述に、信徒の教導に専念し、1262年に90歳の高齢で他界した。・・・・
以上のような取り上げ方が一般的なようです。まず、下線部を付けた部分に注意してください。「親鸞自身の自己内省」という言い方は正しいのでしょうか?親鸞の思想は自己内省の限界を受け入れる点にあったのではないでしょうか。
今回の講義では、ここに述べられている東国の信徒・弟子達とのやりとり、あるいは妻恵信尼の書簡を手がかりに、親鸞の具体的な姿に近づいてみます。また、それよりももっと基本的な親鸞の教えの特徴についても学んで生きたいと思います。具体的な弟子達や妻恵信尼とのやりとりも、結局は親鸞の基本的な立場から説明ができるものと言えます。また、前講の導入部分で問題提起したように浄土教とキリスト教は外見的に似ているように思われます。それでは、念仏を唱えることによって阿弥陀仏の誓いに従い、極楽に生まれるとする浄土教も同じ契約宗教なのでしょうか。最近では極楽に生まれるという言い方よりも天国に昇るという表現が好まれるように思われます。これも二つの宗教の類似性に起因するものだといえるでしょう。いろんな問題点、疑問点をあげてみましたが、後期仏教学では、これらの問題意識をもって進めていきます。
@仏の誓い(仏はなぜ救うのか)
釈尊が悟った真理は「縁起の法」でした。この真理は釈尊がこの現世にうまれようが、生まれまいが、それには関係なく厳然として存在する法則であります。釈尊はその「縁起の法」を悟ったからこそ、仏陀釈尊と呼ばれるのです。したがって、この法を悟った者は皆仏陀となることができるのです。
釈尊は、梵天の三度にわたる勧請によって仏法を説くことを決心したと伝えられています。しかし、これは釈尊内面での葛藤を表しているといえます。「縁起の法」を悟った者は、執着される我の存在を越えた者でもあります。その悟った者が、自分の悟った法に執着するとしたら、その時点で悟った者は自己矛盾を起こしてしまうことになるでしょう。「縁起の法」はすでに「縁起の法」としての真理性を失ってしまうことになるのです。このようにして、悟られた「縁起の法」はそれを悟った釈尊を伝道・説法へと突き動かしていったともいえます。このような「縁起の法」の働きは、釈尊の滅後も様々な形を取って説き示されていきます。すなわち、経典には
「縁起を見る者は法を見る、法を見る者は縁起を見る」とあり、さらには、
「法を見る者は仏を見る」とさえ説かれています。これは、「縁起の法」が単なる静的な知識であるのではなく、それ自体が動的に働きかけていく真理であることを示しています。
その展開の具体的なものとして、大乗仏教運動が起こりました。大乗仏教の開顕者と言われる龍樹(Nagarjuna
150-250)は「空」という説き方で「縁起の法」を表現しました。
龍樹菩薩(2〜3世紀)ナーガルージュナ、訳して龍樹という。大乗仏教の大成者で、昔から「八宗の祖師」とたたえられ、大乗の各宗から敬われている。南インドのヴィダルバに生まれ、若くして哲学・天文・地理・医学などのあらゆる学芸を身につけたと伝えられる。その出家について、次のような話が伝わっている。
若い龍樹はあるとき親友三人と語り合った末、「お互いに学問は学び尽くしたし、諸芸にも達した。これからは人間の歓楽の頂上をきわめ、楽しもうではないか。」と決めた。そこで四人は仙人について隠身の術を学び、夜ごとに王宮へ忍び込んでは後宮の美女を心のままに情欲の犠牲とした。当然、城中は大騒ぎとなった。
「隠身術者の仕業に違いない。すぐに城門を閉じよ。」
兵士たちは刀剣を振るって縦横にあたりかまわず切り払った。これでは隠身の術も効き目がない。たちまち三人の友は切り殺された。龍樹はすばやく王の脇に身をひそめたので、危うく剣難を免れた。友の惨死を目のあたりにした龍樹は、情欲こそ堕落の道、災いの根元であることを痛切に感じ、ついに出家を志す身となったという。
小乗仏教にあきたらず、仏法の中に大乗無上の法を見いだし、これを弘めることに心を尽くし、人々から菩薩と敬われた。
龍樹は、「空」を説く『根本中論』の冒頭、
「生ずることなく滅することなく、
断ならず常ならず、
一ならず異ならず、
来ることなく去ることなき、
よく諸々の戯論を寂滅せしめる縁起を説きたまえる正覚者、
諸々の説者中の最勝なるかの仏にわれは礼したてまつる。」
と示しています。特に、前半部分は
「不生不滅 不断不常 不一不異 不来不去」のように、「不」が八度繰り返されていることから、「八不(はっぷ)の偈」とも呼ばれています。
「縁起の法」は「彼あるゆえに此あり」という彼と此の相関性によってあらゆるものは成立していることを示すものでした。龍樹はこの「相依相待の縁起」を無我の立場から示したと言えます。八不の偈は八という数に意味があるのではありません。重要なのはその数が偶数であること、つまり対立する概念が同時に否定されているという点にあります。さらにその矛盾対立は、「何が生じ、かつ滅するのか。」「何が断絶し、かつ常住なのか。」というように、ある同一主体の上で論じられているのです。明らかにこれは論理的矛盾です。
論理学の基本的原理に矛盾律があります。記号論理学では
〜(p∧〜p)と示され、
古典論理学では「AがBであると同時にBでないということはあり得ない。」と定義されています。龍樹の八不の偈は、この「A」という固定的主体を根底から覆すところから出発しているのです。それはもちろん、「A」が「相依相待」によって成り立っているという「縁起の法」に基づいているのでした。したがって、八不の偈は、「AはBである」あるいは「AはBでない」という判断=分別(ふんべつ =
梵語 ヴィカルパ)が、「A」は固定的主体を持つという妄執から起こる誤謬、戯論(けろん
= 梵語 プラパンチャ)であることを示しているのであります。この分別を捨てた状態を指して無分別智と呼び、「空」の具体的あり方が示されていくことになります。
この無分別智に到達する行として、六波羅蜜が説かれました。例えば、六つの修行の第一番目、布施波羅蜜は、能施者(布施をする者)・所施者(布施を受ける者)・施物の三者が清浄でなければ成立しません。三者が我執によって汚されていないことが清浄の意味です。つまり、この行を実践する者は、布施という行為を通して、我執を捨てていくのです。以下の、忍辱・持戒・禅定・精進・智慧も我執を捨てていく過程に他なりません。それらによって、悟りを求める者「菩薩」は無分別智に到達するのです。
さて、一旦、無分別智にいたると、同時に他の衆生への働きかけを行わねばなりません。悟りに達した者は、現実界に苦しむ衆生があるかぎり、救済の手を休めることはできないのです。もし、救済を怠れば、自分と他者とを分別したこととなり、悟りそのものが壊れてしまいます。禅定仏と説法仏、静かに悟りをかみしめる仏と説法を展開していく仏、この両者はいずれか一方だけで成立するものではありません。無分別智に立った仏は、そのまま慈悲による救済に進むものであり、分け隔てない救済は、そのまま無分別の智慧に裏付けられていなければならないのです。山口益博士の『動仏と静仏』には、そのような禅定仏と説法仏のあり方が述べられています。
このようにして、釈尊が悟った「縁起の法」は「空」へと展開し、さらに様々な説法仏として具体化していきます。釈尊が歴史的実在の人物であったのに対し、多くの仏・如来が経典の中で説かれるようになります。もちろん、それら諸仏は釈尊によって説かれたものとして仮託されたものに他なりません。阿弥陀仏もそのようにして具体化した仏であります。阿弥陀仏は、法蔵という菩薩が六波羅蜜の行を完成させ、悟りを得た姿であると説かれます。さらにその法蔵は、以前はある国の王であったと説かれています。しかし、それは歴史的事実であると言うよりは、釈尊の「悟り」が展開したものであります。阿弥陀仏の誓願はその救いの性格をよく表しています。阿弥陀仏は「悟り」に到るにあたって、数多くの誓いを建てました。その中に、
「設い我仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽してわが国に生まれんと 欲し、乃至十念せんに、もし生まれずんば正覚を取らじ。唯、五逆と正法 を誹謗せんをば除かん」 『仏説無量寿経』第十八願
とあります。つまり、「もし衆生が私の浄土に生まれたいと思って念仏を称え、浄土に生まれることができなかったならば、私自身も悟りには到るまい。(「若不生者、不取正覚」)という誓いには、仏の無分別智が示されているのです。この阿弥陀仏の「悟り」を象徴的に表わしたのが阿弥陀仏座像と阿弥陀仏立像(立撮即行の阿弥陀像)であります。禅定仏としての座像と衆生救済への活動を展開している立像の両者は互いに相即するものであります。無分別智に至った阿弥陀仏の救済は布施行の形をとって表れます。本来は衆生が修行によって獲得すべき功徳を無条件に布施するという方法を取るのであります。この
阿弥陀仏の働きを「他力」と呼びます。衆生救済は「悟り」の側の活動の一環として成立した必然的結果だと言えるでしょう。その必然性の中では、念仏を称える者を救うというという条件さえも問題とされなくなります。
このように、阿弥陀仏の救済は絶対的にそれ自体で完結したものであり、それ以外にはどのような相対的条件をも必要とはしません。それは悟りの内容である「縁起」=「空」が活動している状態にほかなりません。したがって、救う側である阿弥陀仏と救われる側である衆生とは、契約関係にあるのではありません。なぜなら、「救う」・「救われる」という動作者・被動作者の関係を論ずることは、三輪清浄の立場から見れば戯論(プラパンチャ)であります。そこに能・所の区別が成り立たない以上、契約も成り立ち得ません。
ところが、阿弥陀仏の救済は表面的には契約の形を取っているように見えます。先に挙げた第十八願文の要旨をもう一度詳しく見てみると、前半は
「心を至して、信受して、浄土に生まれたいと願い、念仏を唱えたならば、→ 浄土に迎え入れる、(ただし五逆の罪と仏法を謗るものは除く。)」
ということになります。
五逆−殺父・殺母・殺阿羅漢・破和合僧・出仏身血の行為を指す。これらは功徳に逆らう行為であるため、五逆と呼ばれ、この行為をなす者は、死後無間地獄に堕ちるために無間業とも名付けられる。
しかし、その後半の
「そのような者たちが浄土に生まれないならば、→自身も悟りに至らない。」という文意には「空」の無二智の働きが示されているのです。
前半の契約条項と後半「空」の無二智の働きとは内容上矛盾するものとなっています。
A仏教の東漸(西域の人々と仏教)
さきに阿弥陀仏の救済が表面的には契約関係のように見えながら、その本質においては大乗仏教の空思想に基づく無二智の働きに依っていることを見てきました。このような二面性はどのような過程で形作られてきたものなのでしょうか。そこで次に、西域の人々と仏教の関連について考えてみたいと思います。
西域すなわち、中央アジア及び広い意味ではガンダーラを含めた地域の人々の存在を抜きにして仏教を、特に浄土教を語ることはできません。紀元1〜2世紀にガンダーラに成立したクシャーン朝は様々な文化を融合させる働きをしました。仏教と異文化の交渉もそのような中で行われたと考えられます。仏教経典を編集するために第四回目の結集が行われたのは、そのようなクシャーン朝カニシカ王統治下のカシミールであったとされています。
インドに興った仏教が中国を経て日本に伝わるためには、これら西域の人々の手によらねばなりませんでした。いわば、インド仏教から中国仏教への橋渡しをつとめたのが西域の人達だったのです。仏教は、この西域を大きく二つの道を通って伝播しました。一つは西域北道、ステップ地帯を通る道と、もう一つは西域南道、オアシスを通る道です。当時栄えた仏教国及び都市であった、月支(月氏)国やウテン(ホータン)は南道に位置していると言えます。この南道について考えるとき、その風土的特質について留意することも無意味ではないと思います。
風土は普通にはある土地の気候、気象、地質、地味、地形、景観などの総称をいいます。それは単純な自然だけではなく、人間社会の存在を前提とし、人間の生活を根本的に限定するとともに人間による限定をうけつつ歴史的に形成されていく自然環境を指し、地域によりそれぞれの特性を持っています。
風土的な自覚は他国との接触から始まる歴史的自覚にともなって発達するものであります。日本では『風土記』がこうした自覚から成立しました。また、中国の最初の歴史書である『史記』における国土の記述はいっそう明白な自覚を示しています。
一方西欧の場合はイオニアの哲学者ヘロドトスの
Historia に地理学的記述があり、諸外国に向けられた広範な風土的自覚が見いだされます。しかし、ヘロドトス以降地理学的研究は歴史から独立した学問となり、中世末から近世初めへかけて、地理学は自然科学的な研究となり、風土性の自覚は失われました。
その後、18世紀ドイツの哲学者ヘルダーは自然科学的であった地理学を再び歴史的自覚に結びつけました。風土の現象は単なる自然現象ではなく、人間の生の表現であり、民族の風俗や生活の様式や物の考え方、感じ方が全面に露出している。ヘルダーはそのような見地からそれぞれの民族の個性的形成を風土の側から鋭くとらえようとしました。和辻哲郎の著作『風土』も、そのような見地に立つものです。彼は、時間性と共に空間性が人間の根源的な存在構造の一つであることに注目し、実存論的立場から人間存在の風土的構造を解明しようとしました。具体的な風土は単なる自然科学的対象ではなく人間存在が己を客体化する契機である。人間は風土において自己を了解するのであり、風土の型は自己の了解の型である。このような立場から彼は三つの風土の類型−モンスーン(東アジア沿岸一帯)、砂漠(アラビア、アフリカ)および牧場(ヨーロッパ)−とその特性を挙げ、それらが各地域の人間構造を特色づけているとしました。また、その類型とともに宗教的傾向についても述べてあります。後にステップとアメリカ的風土という二つの類型が加えられましたが、ここでは、宗教の起源を考える上で示唆に富む三類型について眺めていくことにします。
モンスーン地帯では比較的に温暖で雨期をはさんで天候が循環していきます。その中で成立する宗教は、循環的な性格を持つことになります。時として猛威をふるい時として豊穣をもたらす自然の中には多様の神々が存在します。例えば『リグ・ヴェーダ』の自然賛歌は豊かな自然の恵みをたたえるものです。また、多くの生命と共存する中で衆生という概念が成立します。ヒンズー教の輪廻思想は一切衆生を循環的な存在として見なすところから出発するものです。仏教の縁起説も循環的な性格をもっていると言えます。
これに対して常に乾燥した砂漠の苛烈な環境からは、唯一絶対の神格のみが存在するという思想が育まれます。砂漠おいて人間は個人として生きることができません。部族全体への忠実、全体意志への服従は、砂漠的人間にとって不可欠です。しかしまた同時に、全体的行動は人間個人の運命を左右します。この部族全体性の内には神的な力が生きている、この力によって部族の存在と生育が可能となる、という信仰が神の出発点であります。したがって、それは神を中心とし、神の意志のままに生きねばならないとする考え方です。救世主を通して神との契約を結び、それによって救済されるという特徴は、キリスト教やイスラム教に共通するものと言えるでしょう。
この契約宗教という側面はこの二大宗教に影響を与えたと考えられているゾロアスター教から引き継がれたものと思われます。ゾロアスター教は開祖ザラスシュトラに始まりますが、その教えをまとめたものが『アヴェスター』と呼ばれる文献です。その中の一部を引用します。
ミフル・ヤシュト第一節2
「ミスラを欺く悪漢は、全ての国を破壊する、スピターマ(ザラスシュトラ)よ、彼は百人の罪人と同じほどに義者を害する者なり。契約を破るべからず、
スピターマよ、それが邪悪な者と結んだものであろうと、信仰を同じにする義者とのものであろうと破ってはならぬ、なぜなら契約は不義者、義者のいずれのためにも存するのであるからだ。」
ミフル・ヤシュト第一節5
「我らに来たり給え、助力せんが為に。我らに来たり給え、安んぜんが為に。
我らに来たり給え、支援せんが為に。我らに来たり給え、恵みの為に。
我らに来たり給え、療治の為に。我らに来たり給え、勝利の為に。
我らに来たり給え、好き生の為に。我らに来たり給え、義を持つことの為に。
強く、勝利に輝き、祭らるべき者、
全ての具象世界のために、欺かれざる者、ミスラ、広き牧地の主。」
ミフル・ヤシュト第十三節55
「もし、人間にして、他のヤザタを祭儀にて名を唱えて祭る如く、祭儀にて我が名を唱えて我を祭るならば、我は、義なる人の許に、その者の寿命ある間近づき、己自らの輝かしい不滅の生において、規則正しく来るであろう。」
ここで説かれる神の王国は楽土であり光明土であり、歓喜の国であって、病・苦・死等からの完全な救済が与えられる場所として示されています。その救済の条件として挙げられるのが、名を唱えることであります。さらには、第十三節には、契約を守った人=義なるひとに対して、臨終に際して来迎があるかのような表現さえも見られます。このミスラを信奉していた人々が仏教を受け入れたとすれば、ミスラの特性を備えたような仏陀を望んだと考えられます。
象徴的に表現すれば、それは異教の神が仏教に帰依したと見ることができるでしょう。仏教では悟りを開けば誰でも仏になることができると説きます。異教の神であっても成仏できるのです。自分たちの信奉する神がその独自の性格を保ったまま仏となった、そう考えることでその人々はそれまで信奉してきた神を捨てることなく仏教に帰依することができたと考えられます。阿弥陀仏は悟りを開く前は法蔵菩薩と呼ばれていました。その法蔵はある国の王であり、師匠である世自在王仏に出会って王位を捨て悟りを求めることとなったとされています。そこに釈尊の生涯を重ねて見ているとも考えられますが、しかし、ある民衆の信仰を集めていた神の姿を象徴的に表現したものとみることもできると思います。
現在の中央アジアはイスラム教圏に含まれますが、以前は仏教が伝来した道でもありました。シルクロードに残された多くの仏教遺跡がそれを示しています。しかし、仏教伝来以前にはゾロアスター教が広まっていました。
例えば、クシャーン朝(紀元1〜2世紀)の国教はゾロアスター教であったと考えられています。そのコインには歴代の王カニシカやフヴィシカの立像が刻まれていますが、その姿はほぼ共通しています。長い外套を着、左手に槍を持ち、右手は拝火祭壇上に差し伸べた形を取っています。裏面にはギリシャやインドの神々、あるいは仏陀の姿が刻まれています。ただし必ずそれらの神々と並んで印章(タンガ)が刻印されています。この印章は表面の歴代王の像ともいっしょに刻まれていますが、拝火祭壇が描かれた図では見あたりません。
クシャーン朝に前後するグレコ・バクトリア王国とササン朝ペルシャの中にも良く似た印章が用いられています。
歴史的に見てグレコ・バクトリア王国は紀元前2〜1世紀、ササン朝ペルシャは紀元後3〜7世紀、クシャーン朝はその中間に位置します。したがって、先に挙げた印章がよく似た特徴を示すのは、これらの国に共通する文化を象徴しているからだと考えられます。クシャーン朝とササン朝ペルシャの国教はゾロアスター教でした。印章はおそらくゾロアスター教で用いられた拝火壇を図案化したものと思われます。したがって、クシャーン朝コインの表面のように具体的な拝火壇が刻まれている場合、重複するために印章を刻印しなかったものと考えられます。下の例では同じ姿勢で立つ王の姿が描かれていますが、右図では拝火壇があるべき位置に印章が刻まれています。
これらのコインの裏面にはギリシャやインドの神々と共に印章が刻まれています。それはあくまでもゾロアスター教という国教のもとでそれらの神々への信仰も許されていたことを示すものと考えられます。クシャーン朝の時代には西域南道も充分に機能していました。時代的にはかなり後になりますが、西域南道のホータンで得られた仏教文献には、仏教用語を表すために『アヴェスター』の言葉が借用されていることがわかっています。このように、中央アジアでは複数の文化が歴史的に層をなしていることがわかります。したがって、この地域に限らずある地域の宗教について考えるには、先に見た和辻哲郎の「風土」説のように固定されたスタティックなものとしてではなく、重なった層間のダイナミックな交渉として考えていく必要があります。空間的側面と時間的側面を総合的に考えていくことでより異文化の交渉がより明確になってきます。モンスーンで成立した仏教を中心として見たとき、砂漠的宗教である契約宗教が中央アジアという場所で歴史的に出会ったことは確かなことであります。
前述のように、阿弥陀仏の誓願の中に見られる矛盾は仏教の「空」思想とゾロアスター教を始めとする契約宗教の本質的違いに起因するものです。浄土教の祖師たちはそのような矛盾を解消するためにさまざまな解釈を行ってきました。その基本的考え方として、経典には表面的意味と同時に深い意味がこめられており、その表面的な教えは巧みに説かれた手段(善巧方便)であると見たのです。これは経典がすべて釈迦金口の説法(歴史上の釈迦牟尼仏が実際に説いた法)であると信じられていた時代においては当然なことであったと考えられます。 しかし、経典成立史の立場から見た場合、浄土経典中に明らかに矛盾した内容が含まれていたからこそ、祖師達は努力して独特の解釈をしなければならなかったとも言えるでしょう。特に中国の善導や日本の親鸞は、契約の条件文と見られる部分、すなわち第十八願文当面の意味から見れば我々がなすべき条件と考えられる下線部分
「心を至して、信受して、浄土に生まれたいと願い、念仏を唱えたならば、→ 浄土に迎え入れる、ただし五逆の罪と仏法を謗るものは除く。」
を徹底的に空文化し、逆に阿弥陀仏の働きを示していると解釈することでした。そのことにより、すべてが阿弥陀仏側の働き(他力)によって救われると解釈し、本来の空思想の立場に立ちかえることを目指したのです。
B中国の浄土教(善導大師の立場)
中国浄土教の祖師として、親鸞は曇鸞大師・道綽禅師・善導大師の3人を挙げています。道綽禅師の時代には、大規模な仏教弾圧が起こり、すでに末法時代に入ったという意識がありました。末法思想とは、釈尊の説かれた教えが、釈尊滅後にどのようになるかを示したもので、正像末の三時があります。
正法時代−釈尊が残された教(きょう)と、それに基づく行(ぎょう)と、その結果得られる仏果の証(しょう)が全て満たされている時代。
像法時代−教と行は形式上残るが、証を得る者のない、像(かたち)のみの時代。
末法時代−教のみが残り、完全な行ができる者も証を得る者も現れぬ時代。
この後に、教・行・証ともに消え失せる法滅の時代が訪れると考えられていました。期間は、正法時代が五百年、像法時代が千年、末法時代が一万年とするのが一般的です。そこで、「釈尊から遠く隔たった時代に生まれた者は、真実の教・行・証をいかに得たらよいのか」ということが、末法時代の仏教徒の大きな問題となっていたのです。日本でも平安末期・鎌倉初期の頃に末法思想が高まり、社会思想や宗教思想に大きな影響を与えました。
道綽禅師(五六二〜六四五) 曇鸞大師の没後二十年目、北周の太原の近くで誕生した。北周の武帝は仏法をきらい、仏教徒に対する過激な迫害を行った。ある者は法を護って倒れ、多くの者は耐えきれずに仏法を捨てた。道綽はこの受難の時代に十四歳で仏門に入った。やがて排仏の嵐がおさまり、再び仏法興隆の世となると、彼の温厚で礼儀正しい人柄は、深い学識とあいまって、多くの人々から徳高い僧と敬われるようになった。涅槃宗に帰依し、『涅槃経』の講釈は二十四回にもわたったほどである。
隋の世となり、大業四年、たまたま 水の玄忠寺に立ち寄り、曇鸞大師の碑文を目にした。大師が仙経を焼き捨てて浄土の教えに帰したことが記してあった。道綽はこれを読み、強い衝撃を受けた。
「曇鸞大師ほどのお方が、ご自身の智慧や自力の修行の功を頼りとせず、如来の本願力におまかせになった。わたしのような者がわずかな知見を誇ってどうなろうか。すでに釈尊入滅して千五百余年も経た末法の今日、いかにして正しいさとりを完成させる修行ができるだろうか。
わたしも聖道自力の道を投げ捨てて、浄土の他力の教えに帰依したい。大師よ、弟子として迎え入れたまえ。」と思念して、ただちに涅槃宗をはなれ、玄忠寺に移り住んで、大師の『浄土論註』を導きの書として念仏生活に入った。禅師の教化により、念仏は一般の老幼にまで及び、国中にひろまった。禅師八十歳の時の弟子に善導がいる。
道綽禅師は仏教を聖道門(自力の修行を完成して、現世で悟りを得る。聖者の道)と浄土門(阿弥陀如来の本願力によって、浄土に往生して仏となる。)との二つに分け、末法時代に相応するのは浄土門であることを示しました。さらに、道綽禅師の弟子である善導大師は、浄土門の教えが真実であることを明らかにしました。それは当時の聖道門からの批判に応える形で示されたものであります。聖道門の立場では、単に念仏を唱えるだけで浄土に往生し、しかも悟りを得ることなどあり得ないことでした。もともと、「南無阿弥陀仏」の原語は、インドの言葉で「ナマス」と「アミター(アーユス・ブハ)ブッダ」の二つからできています。「ナマス」は「帰依する」、「アミター(アーユス・ブハ)ブッダ」は「限りない(命・光明の)仏」という意味になります。したがって、「南無阿弥陀仏」は、「(私は)阿弥陀仏に帰依します。」という意味になります。これは、主体的な信仰告白の言葉です。聖道門の人々は、そこには浄土に生まれたいという願いはあっても、その境地に至るための行がない(唯願無行
ゆいがんむぎょう)と批判しました。すなわち、仏の名を唱えるという行為には浄土に生まれ、悟りを得るだけの功徳はないと考えたのです。彼らは、阿弥陀仏の救済は別時意趣(べつじいしゅ)であるとしました。それは「いずれは悟りに至ることができるということなのだが、衆生に希望とやる気を起こさせるために、すぐに悟ることができるように説かれている」という解釈であります。この場合、阿弥陀仏の名を唱えるという行為は単に衆生側の実践修行として考えられています。
善導大師は、この批判に対して「六字釈(ろくじしゃく)」という解釈をもって応えました。『観経疏』玄義分に、
「南無」と言うは、即ち是れ帰命なり。亦是れ発願回向の義なり、
「阿弥陀仏」と言うは即ち是れ其の行なり、
斯の義を以ての故に必ず往生を得。
衆生が往生し悟りに至るための願も行・功徳も「南無阿弥陀仏」の六文字の名号(みょうごう)の中に全て含まれていると解釈したのです。その根拠は阿弥陀仏の布施行にあります。悟りに至った阿弥陀仏は、無二智の働きによって自分と衆生を区別するこはありません。また自分が積んだ完全な功徳に執着することなく、三輪清浄の布施によってそれを衆生に与えるのです。衆生側に残された問題は、その施物を受け入れるのか、受け入れないのかの一点だけとなります。ここに、名号を唱えるという行が衆生側の実践である以前に、阿弥陀仏から布施行であることが明確に示されているのです。
さらに善導大師は、その施物を受け入れる時の衆生の心のあり方を、二つの信心という形で説明しました。少し難解かもしれませんが引用してみましょう。『観経疏』散善義に
一つには、決定(けつじょう)して深く「自身は現に是れ罪悪生死の凡夫(ぼんぷ)、曠劫(こうごう)より已来(このかた)、常に没(もっ)し常に流転して、出離之縁有ることなし」と信ず。
二つには、決定して深く「彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂取(しょうじゅ)して、疑い無く慮(おもんぱか)り無く彼の願力に乗じて、定んで往生を得」と信ず。
これを二種深信(にしゅじんしん)と言います。阿弥陀仏の働きを受け入れた時、衆生にはこの二つの信心が生じます。ただし、二つと言っても、受け入れる心のあり方を二つの側面から見たものであり、別々の信心が起こるというわけではありません。簡単に言えば、「自分は永遠に輪廻から抜け出せない」ことと「阿弥陀仏の願によって往生できる」という二つのことが同時に信じられる、ということです。微妙な言い方をしましたが、ここで留意して欲しいことは、私が「信じる」のではなく、私に「信じられる」ということです。
私が「救われない」かつ「救われる」という論議ですから、論理学上、この二つの命題は明らかに矛盾しています。しかし、それは「私」という場所に論議を限定するからであります。「救う(能救)」と「救われる(所救)」の区別が無くなった境地、無二智の立場から見れば二つの命題は両立します。言い換えれば、「我」という執着によって限定されている自己の真相が、無二智の働きによって如実知見されるということなのです。したがって、二種深信とは、「私」の立場から「信ずる」のではなく、能所を超えた働き全体の中において「信じられる」ということなのです。
以上のように、善導大師は、「名号」の本質が阿弥陀仏の布施行にあること、また、それを受け取る信心さえも仏の無二智の働きの中で成立することを示しました。これは、当時の中国仏教界、特に聖道門からの批判に応えるとともに、浄土教義を大乗仏教の観点からとらえ直そうとしたものです。それは、阿弥陀仏の名を唱えることが救済のための契約条項として説かれたのではないことを改めて確認することだったと言えるでしょう。
C日本の浄土教(師法然の教え)
日本浄土教は中国から伝えられた各宗派の寓宗(ぐうしゅう)として行われていました。これには三つの流れがあり、(1)南都系の浄土教(2)叡山系の浄土教(3)真言系の浄土教がありました。この中で主流だったのは叡山浄土教でした。叡山の浄土教は、比叡山の常行三昧堂を中心に発達してきたと言えます。この常行三昧(じょうぎょうざんまい
)とは、天台の『摩訶止観』に説かれている阿弥陀仏に関する修行方法です。それは、『摩訶止観』の中に「歩々称々念々、南無阿弥陀仏」と示されているように、常行堂の中を、阿弥陀仏を念じ、口には念仏を唱え、阿弥陀仏本尊の回りを右回りに絶えず歩くという修行です。ただし、「止観」という言い方が表しているように、それは聖道門の修行方法であります。心を落ちつけ=「止」、阿弥陀仏を観じ、仏と一体化する=「観」という実践を通して悟りに至ろうとするものでありました。
平安末期から鎌倉初期にかけての時代、うち続く戦乱の中で末法思想が広まっていきました。そのような末法の中で聖道門の実践が可能なのか、という疑問を抱いた僧たちは叡山を下って、人々の中へ入っていきました。その中に、法然上人や親鸞聖人がいました。法然上人は、善導大師の
「一心専念弥陀名号、行住坐臥、不問時節久近、念々不捨者、是名正定之業。順彼仏願故。」
の文に出会い、他力救済の教えに達したとされています。したがって、その教義は、ひとえに善導大師の解釈によっており、「偏依善導一師」とも称されています。その著書である『選択本願念仏集』には、阿弥陀仏が衆生往生のために名号を選択して布施したのは何故か、ということが解説されています。これは、善導大師の「六字釈」を承けて、往生が決定するための正しい業因が名号であることを明らかにしようとしたものです。
この解釈は、当然聖道門の念仏解釈と異なっていました。そのため、法然上人は天台宗の寓宗であった浄土宗を独立した一宗として位置づけようとしました。この意味で『選択集』は浄土宗の独立を宣言する書物だったのです。
この独立宣言は、当時の教界に一大衝撃を与え、比叡山の非難及び、南都興福寺の弾劾を招くこととなりました。南都興福寺の訴状は九つの失を挙げていますが、その第一に「新宗を立つる失」を挙げているほどであります。
しかし、法然上人の専修念仏の教えは急速に広まり、それにともなって、叡山南都の圧力もさらに強くなっていきました。1207年(法然上人75歳)、上人の弟子が宮中の女官を勝手に出家させたことがきっかけとなって、後鳥羽上皇は専修念仏を禁止し、法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞は越後(新潟県)へと流罪、直接関連した門弟二人は処刑されるという事件が起こっています。
親鸞は後に『教行信証』(1224年成立と伝えられる)を著しましたが、その奥書にこの法難を書き残しています。親鸞は、還俗を命ぜられたことに抗議し、自ら愚禿釈鸞と称し、非僧非俗のあり方を貫きました。この『教行信証』も、法然上人の『選択集』の立場を受けつつ、阿弥陀仏の救済が真実であることを示すものでした。『教行信証』は詳しくは『顕浄土真実教行証文類』といい、「浄土門が真実の教・行・証であることを顕す引用文集」という意味になります。全体の題に「信」の文字が含まれていないのは、聖道門の教・行・証に対応させるためだったと考えられています。『教行信証』著作の意図については様々な説が考えられていますが、奥書に十数年前の法難が言及されていることから見て、聖道門からの批判に応えるものだったと言えるでしょう。
来迎思想について
ただひたすらに念仏を称えて極楽浄土に往生するという専修念仏の教えは、不安な時代にあった多くの人々の中に浸透していきました。戦乱が度重なり、末法時代に入ったという意識は、人々に厭離穢土(おんりえど)・欣求浄土(ごんぐじょうど)
の思いを深めさせたのです。このような状況の中で、熱心な浄土願生者の中には臨終来迎を願う人々もでてきました。
【画像:阿弥陀仏(1)(2)】
例えば、京都金戒光明寺の『山越阿弥陀図』(右頁上図)には、印を結んでいる阿弥陀仏の手に糸が結びつけられた跡があります。これは、臨終の際に阿弥陀仏像の手に五色の糸を結びつけ、その糸の端を持って浄土往生を遂げようとするものです。また、菩薩達を伴った阿弥陀仏の来迎図も多く描かれました。しかし、来迎思想が広まるにつれ、契約的救済論に陥る者も出てきました。これはすでに述べたように、インド中国の浄土教の祖師達が苦心して払拭しようとした論理だったのです。生前、阿弥陀仏に一心に帰依し、一心に念仏を称えた行者には、臨終に際して阿弥陀仏の来迎がある。言い換えれば、生前、阿弥陀仏に一心に帰依し、一心に念仏を称えなかった行者には、来迎はない、ということになります。これは、契約的救済論で説かれる「最期の審判」が、個々人の臨終の時点に繰り上げられたものと見ることができるでしょう。
浄土願生者の往生を集めた「往生伝」が多数書かれました。その中の一つである『法然上人絵伝』から対照的な例を二つ挙げてみたいと思います。ただし、後世に作られた『絵伝』であり、法然上人の教えと食い違う内容も含まれていますが、来迎思想のあり方を考える上では示唆に富む作品だと言えます。
『法然上人絵伝』には浄土願生者の臨終が多く挙げられていますが、浄心房の臨終悪相(30巻)と法然上人の臨終正念往生(37巻)とは対照的です。
妙覚寺に浄心房とて賢(さか)しき聖在りき。道心深き由にて寺門を出でず、念仏を行ずる有り様、常の人に超えたり。帰依する人雲霞(うんか)の如し。五十ばかりにて他界しけるに、臨終散々なりけり。人々これを怪しみて、「妙覚寺の上人だにも往生せず、況や余人をや」と申し合いけるを、上人聞き給いて、「いざ知らず、虚仮(こけ)の行者にてやありつらむ」と仰せられけり。其の後、四十九日の仏事に、上人を請じ奉りて唱導とす。日来(ひごろ)の所化ども集まりて、種々の捧物を捧げる中に、常随の弟子、衣箱を取り出して、これは先師年来の所持物なり、殊更とて御布施に奉れり。件(くだん)の箱には、布の衣袴(きぬはかま)の尋常なると、布の七条の袈裟、並びに十二門の戒儀を深く納めたりけり。上人仰せられけるは、「日来源空が申しつる事は違はざりけり。この聖、由々しき虚仮の人なりけり。この所持物を見るに、徳長けて人に貴がられて、戒師にならむと思う心にて行なひけるなり」とのたまひければ、人皆不審を披(ひら)きけり。 『法然上人絵伝』(30巻・第2段)
妙覚寺に賢い聖がいた。悟りを求める心が深く、念仏に励んでいるありさまは、常人の域を脱していた。帰依する人が多く、まるで雲霞のごとき様子であった。50歳の時に他界したが、臨終の際は取り乱して、散々のていたらくであった。人々は、これをみていぶかった。法然は、彼は虚仮(うそ偽り)の行者ではなかったか、とおっしゃった。その後、四十九日の法要の際に、弟子の一人が、浄心房の衣箱を法然に差し出した。その箱には、十二門(四禅・四無量心・四無色定)の戒儀(受戒の儀式作法)を書いた書物が秘められていた。法然は、はたと膝を打った。この聖こそは、人に敬われたいばかりに、戒師となろうとした二心があったのだと。『法然上人絵伝』(30巻・第2段 要約)
ここでは来迎がなかったという形で、虚仮の行者としての審判が下されたと見ることができるでしょう。法然上人の判断も、臨終悪相・不来迎という点からなされています。これに対して、法然上人の臨終には数々の奇瑞が記されています。
同日(一月十一日)の巳時に、弟子達、三尺の弥陀の像を迎え奉りて、病床の右に立て奉り、「この仏拝みましますや」と申すに、上人指にて空を指さして、「この仏のほかに又仏まします。拝むや否や」と仰せられて、即ち語りてのたまわく、「凡この十余年よりこの方、念仏功積もりて、極楽の荘厳及び菩薩の真身を拝み奉る事、常の事なり。然れども、年来は秘して言わず。今最後に望めり。かるが故に示す所なり」と。又、弟子等、仏の御手に五色の糸を付けて、「取りましませ」と勧め申せば、上人のたまく、「かようの事は、これ常の人の儀式なり。我が身に於きては、未だ必ずしも然らず」とて、遂に取り給わず。・・・・二十日の巳時に、坊の上に紫雲聳く。中に円形の雲有り。その色五色にして、図絵の仏の円光の如し。・・・・同じき日の未の時に至りて、空を見上げて、目暫くも瞬ぎ給はざる事、五、六反ばかりなり。看病の人々怪しみて、「仏の来り給へるか」と尋ね申せば、「然なり」と答へ給ふ。・・・・
二十五日の午刻よりは、念仏の御声漸く微かにして、高声は時々交はる。正しく臨終に臨み給ふ時、慈覚大師の九条の袈裟を掛け、頭北面西にして「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」の文を唱えて、眠るが如くして息絶へ給ひぬ。建暦二年正月二十五日午の正中なり。・・・・ 『法然上人絵伝』(37巻・3、4、5段より)
一月十一日の巳時(午前十時)になると、弟子達は三尺の弥陀の尊像を病床の脇に据え立てた。「この御仏を拝みなされますか」と。これを聞いた法然は、空を指さして、「この仏のほかに、まだ仏がいらっしゃる。拝むべきか否や。この十年来、念仏の功を積んできたお陰で、わしの眼には、しかと、極楽浄土や仏菩薩のお姿が映るのだ。日頃隠していたが、いまこそ申すものなり」と言われた。また、弟子達が仏像の手に五色の糸を掛けて「お取り下さい。」と法然に勧めたが、「これは凡夫の身にこそ必要。わしには、不要のものなり」と遂に手にも取らなかった。・・・中略・・・頭北面西の釈迦涅槃の姿をとり、経の偈を唱えつつ、眠るように息を引き取った。時に建暦二年正月二十五日、まさしく正午であった。・・ 『法然上人絵伝』(37巻
3、4、5 段要約)
この対照的な描きかたに、来迎思想の本質が示されています。ここに描かれた阿弥陀仏は、念仏の行者の臨終に際して、彼が真実の行者であるか虚仮の行者であるかを審判したことになります。それは、行者の帰依の度合いを計ることに他なりません。
【画像:法然上人絵巻】
しかし、そのような分別判断は、無分別智に到達した阿弥陀仏にはあり得ないことです。このような観点から親鸞は臨終来迎を頼みにするべきではないことを明らかにしました。親鸞が弟子達に与えた書簡集『末灯抄』には
真実信心の行人は摂取不捨(せっしゅふしゃ)の故に正定聚(しょうじょうじゅ)の位に住す。この故に臨終まつことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり、来迎の儀則を待たず。
と述べています。真実信心の行者は、摂取して捨てないという阿弥陀仏の無二智の働きによって正定聚(必ず極楽浄土に往生することが定まった仲間)の位についている。信心が定まったときに往生も決まっているから来迎を頼む必要もない、と解釈したのです。ここで示されている信心は、もはや帰依の度合いとして計られるような相対的なものではありません。それは阿弥陀仏から布施された真実の信心であります。先に善導大師の六字釈について述べましたが、親鸞は『教行信証』の中で独自の六字釈を挙げています。
親鸞の六字釈は、善導の六字釈の語句をさらに解釈するという形を取っています。『教行信証』行巻に善導の六字釈を引用した後、それぞれの語句について
「帰命」は本願招喚之勅命なり。
「発願回向」と言ふは、如来已に発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
「即是其行」と言ふは、即ち選択本願是れなり。
「必得往生」と言ふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
と示してあります。この解釈では帰依の方向が逆転させられています。善導大師の解釈では、帰依するのは衆生の主体的行為として考えられていました。親鸞は、それを阿弥陀仏からの働きかけとして解釈したのです。したがって、発願回向の意味も、全く異なってきます。善導の解釈では、衆生が浄土に生まれたいという願いを起こして、それまで自分が積み上げてきた功徳をもっぱら浄土往生のために方向を転ずるという意味でした。「回向(えこう)」とは「回転趣向」の意味だといわれています。つまり、向きを転ずること、振り替えることです。
例えば仏教では、五戒(不殺生戒・不妄語戒・不邪淫戒・不偸盗戒・不飲酒戒)という一般在家の人々が護るべき戒律があります。これは主に来世に天界に生まれるための功徳とされていました。その功徳の方向を転じて浄土往生のために役立てようとすることが、この場合の回向の意味になります。
これに対して、親鸞は、阿弥陀仏の積んだ功徳が、衆生往生のための功徳として振り替えられていると解釈しました。そこでは単に功徳の方向が転ぜられているのではなく、功徳の所在そのものが転ぜられていることがわかります。そしてその根本的根拠は阿弥陀仏の無二智の働きにあるのです。具体的方法としては、阿弥陀仏の三輪清浄の布施行として解釈されています。この親鸞の六字釈によって、表面的には契約的救済と取られがちであった阿弥陀仏の救いが、真に大乗仏教の「空」思想に基づいた教えへと展開したと言えるでしょう。
D親鸞の生涯(弟子から見た親鸞)
親鸞の教えは浄土門を本当の意味で大乗仏教として成り立たせるものでした。しかし、時が経つにつれて再び、念仏や信心に関しての誤った解釈が行われるようになりました。念仏を称える行為を自分の功績と考えたり、悪いことをしてもかまわない、いやむしろ悪人を対象とする阿弥陀仏の救いであるので、進んで悪いことをしなければならないと主張する造悪無(ぞうあくむげ)などがそれです。それらの誤った解釈をただすために書かれたのが唯円著の『歎異鈔』でした。歎異鈔とは、異説を嘆き、親鸞の正しい教えを明らかにするために書かれた書物といった意味です。詳しくは後に挙げますが、ここでは親鸞の立場を明らかにしている部分を紹介しておきたいと思います。
六字釈でも触れたように、親鸞の信心の解釈は画期的なものでした。衆生が起こす相対的な信心は、誰の信心がより真実なものであるかという分別判断の領域にとどまるものでした。そのような分別判断は同時に自分の相対的な信心では浄土に往生できるだろうか、といった疑いと表裏一体のものであります。来迎思想が広く受け入れられたのも、この疑いを来迎によって晴らそうという人々の思いがあったからだと言えます。往生伝の例として挙げた浄心房の臨終悪相の中、「人々これを怪しみて、『妙覚寺の上人だにも往生せず、況や余人をや』と申し合いけるを、云々」
の表現からは明らかにそのことがうかがわれます。親鸞はそのような相対的信心を「疑心」として斥け、阿弥陀仏から回向された絶対的信心を「たまわりたる信心」と表現しました。『歎異鈔』に、
故聖人の御物語に、法然上人の御とき、御弟子その数おはしけるなかに同じく御信心の人も少なくおはしけるにこそ、親鸞御同朋の御なかにして御相論のこと候ひけり。その故は「善信が信心も聖人の御信心も一つなり」と仰の候ひければ、勢観房・念仏房なんどまうす御同朋達もつての外に争ひたまひて「いかでか聖人の御信心に善信房の信心一つにはあるべきぞ」と候ひければ、「聖人の御智慧才覚ひろくおはしますに一つならんと申さばこそ僻事ならめ、往生の信心に於ては全く異ることなし、ただ一つなり」と御返答ありけれども、なほ「いかでかその義あらん」といふ疑難ありければ、詮ずるところ聖人の御前にて自他の是非を定むべきにて、この子細をまうし上ければ、法然上人の仰には「源空が信心も如来よりたまはりたる信心なり、善信房の信心も如来よりたまはらせたまひたる信心なり、さればただ一つなり。別の信心にておはしまさん人は源空が参らんずる浄土へはよも参らせたまひ候はじ」と仰せ候ひしか・・・
故親鸞聖人が話された出来事です。法然上人が御在世の時、弟子達が多数ある中、同じ信心の者も少なくて、仲間内で論争することがありました。「親鸞の信心も法然上人の信心も同一である。」と親鸞聖人が言われると、勢観房・念仏房等の仲間達はもってのほかであると論争し、「法然上人の御信心と親鸞の信心が同一であるはずがない。」と言い立てた。親鸞聖人は「法然上人が智慧才覚が博くていらっしゃるのに同一であると言うのならば誤りであろうけれども、浄土往生の信心については異なることはない、まったく同一である。」と返答されたけれども、なお「どうしてそんなことがあろうか。」という疑義があった。結局は、法然上人の御前で決着をつけようと、事の次第を申し上げた。法然上人は「私の信心も阿弥陀仏からいただいた信心です。親鸞の信心も阿弥陀仏からいただいた信心です。したがって同一です。別の信心を持っている人は、私が行くであろう浄土へは決して行くことはないでしょう。」と言われた・・・
ここに真実の信心の特色がよく示されています。『教行信証』には真実の信心についての解釈として
「衆生、仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし。」信巻・釈信一念義
とあります。疑う心とは衆生の分別判断の作用です。それは、あくまでも自己を中心とした恣意的な物差しで判断を行うことに他なりません。そのような分別判断の作用が、仏の無二智の働きを目の当たりにした時に、崩れ去ること、その状態自体が真実の信心であると考えられます。すなわち、自分が作り上げてきた分別判断が消え去った時、そこにはすでに阿弥陀仏から回向された信心があった、と自覚することが真実の信心であります。
E親鸞の生涯(妻から見た親鸞)
さて、親鸞の来迎観については、すでに『末灯抄』を引用して触れましたが、実際の臨終はどのようだったのでしょう。それを記したものとして親鸞の妻・恵信尼が書いた恵信尼文書があります。恵信尼文書は大正十年(1921)、西本願寺の倉庫から発見されました。本願寺宗門では「恵信尼消息」と呼んでいます。親鸞没後、越後に居た親鸞の妻恵信尼が、京都在住の息女覚信尼に宛てた十通の書簡であります。この文書によって浄土真宗開祖親鸞聖人という伝説化した人物としてでなく、人間親鸞として実像が知られるようになったといってよいでしょう。この書簡の中、親鸞の臨終に触れたものがあります。一部を引用してみると、
去歳の十二月一日の御文、同二十日あまりに確かに見候ぬ。何よりも殿の御往生中々はじめて申に及ばず候。
山を出でて、六角堂に百日篭らせ給て、後世を祈らせ給けるに、九十五日の暁、聖徳太子の文を結びて、示現にあづ からせ給て候ければ、やがてその暁いでさせ給て、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たづねまいらせて、法 然上人にあいまいらせて、又六角堂に百日篭らせ給て候けるように、又百か日、降るにも照るにも、如何なる大ふにも まいりてありしに、ただ後世の事は、よき人にもあしきにも、同じ様に、生死出づべき道をば、ただ一筋に仰せられ候 しを、うけ給はり定めて候しかば、上人のわたらせ給はん処には、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせ給べしと 申とも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで、思まいらする身なればと、様々に人の申候し時も、仰せ候しな り。・・中略・・
されば、御臨終は如何にもわたらせ給へ、疑ひ思まいらせぬうへ、同じ事ながら、益方も御臨終にあいまいらせて候 ける、親子の契と申ながら、深くこそ覚え候へば嬉しく候嬉しく候。
この文ぞ、殿の比叡の山の堂僧つとめておはしけるが、山を出でて六角堂に百日こもらせ給ひて、後世の事いのり申 させ給ひける、九十五日の暁の御示現の文なり。御覧候へとて、書き記してまいらせ候。
去年の十二月一日の手紙を、同じ月二十日頃に、確かに拝見しました。とりわけて聖人の御往生については、あらためて申すには及びません。
叡山を出て京都の六角堂に参篭して、後世の悟りを祈念なさいました。九十五日目の明け方に聖徳太子から夢告を受けて、すぐに六角堂を出て、後世を救うであろう法然上人に会おうと訪ねられました。法然上人に会って、六角堂に百日参篭されたのと同じように、百日の間、降る日も照る日も、大風の時にも通われたのです。ひとえに後世に救われるには、善人にも悪人にも同じように、生死輪廻から抜け出る道は専修念仏であると仰せられた教えを聞き、心に刻まれたのです。だから、「法然上人が行かれるところには、人がなんと言おうと、たとえ地獄に行かれたとしても、永遠の過去から迷い続けているから地獄に行くのだろう、と思っている自身でありますから、後悔はありません」と、人がいろいろ言うときにも、そのように応えておられました。・・・中略・・・
したがって、臨終の様子がどのようであれ、疑い思いめぐらすことはいりません。同様に、益方(親鸞の四男)も臨終に会ったとのこと。親子の縁とはいいながら、意義深く思われたならば、嬉しいことであります。
この文章(手紙に添付したものと考えられる)は、聖人が比叡山で常行三昧堂の堂僧をしておられましたが、山を出て六角堂に百箇日参篭し、後世の救いを祈念された際に、九十五日目の明け方に聖徳太子が夢に現れ示された文章です。見ていただこうと思って、書き記しました。
親鸞は十一月二十八日に亡くなっていますから、十二月一日の文(覚信尼の手紙)は没後すぐに書かれたものです。残念ながらその手紙は残されていないので、どのような内容のものであったかはわかりません。しかし、恵信尼の返事から、親鸞の臨終の様子が書かれていたと推測できます。
「御臨終は、いかにもわたらせ給へ、疑ひ思ひまゐらせぬ上・・・」という言い方から、親鸞の臨終には奇瑞が現れなかったと見てよいでしょう。親鸞の臨終を看取った息女覚信尼は、一般に流布していた往生伝の奇瑞が現れなかったことを不安に思ったのではないでしょうか。紫雲もたなびかず、来迎もない、そのような状況の中で、父である親鸞は本当に往生できたのだろうか、そういう疑問を書き綴ったものと考えられます。『法然上人絵伝』には法然上人が往生する数日前から様々な奇瑞が起きたと伝えています。また、臨終に際しては経文を称えて眠るように息を引き取ったとも記しています。
そのような娘の疑問に対して、恵信尼は手紙の冒頭で親鸞の往生を明言しています。そして、その根拠として、六角堂での聖徳太子の夢告と、法然上人の専修念仏との出会いを挙げています。さらに夫親鸞が折あるごとに口にしていたという、「法然上人が行かれるところであれば、たとえ地獄であっても付き従い、さらに後悔はしない。」という言葉を引用しています。
この親鸞の言葉は『歎異鈔』の中でも引用されています。
親鸞におきては「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」とよきひとの仰を被りて信ずるほかに別の子細なき なり。念仏はまことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄に堕つべき業にてやはんべるらん、惣じてもつて 存知せざるなり。たとひ法然上人にすかされまゐらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候。その故 は自餘の行を励みても仏になるべかりける身が念仏を申して地獄にも堕ちて候はばこそ「すかされたてまつりて」とい う後悔も候はめ、いづれの行も及び難き身なればとても地獄は一定すみかぞかし。弥陀の本願まことにおはしまさば釈 尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば法 然の仰そらごとならんや。法然の仰まことならば親鸞がまうす旨またもつて虚しかるべからず候歟。詮ずるところ、愚 身の信心におきては此の如し。この上は念仏をとりて信じたてまつらんともまたすてんとも面々の御計なりと、云々 『歎異鈔』第二条
この二つの文献での一致は、まさにそれが親鸞の生の言葉であったことを示していると言えるでしょう。そして、恵信尼文書ではそれほど明らかにはされていませんが、『歎異鈔』第二条の後半部分から、この言葉が法然上人の信心と自分の信心が同一のものであるという基盤に立って言われたものであることがわかります。それは、親鸞の教えが真実であるということの論証が、「たまわりたる信心」の源である阿弥陀仏の本願から出発していることからも理解できます。手紙の冒頭で親鸞の往生を明言した恵信尼もまた、唯円房と同じ考えだったに違いありません。
以上、恵信尼文書を通して親鸞の臨終を考えてきましたが、この文書は若き日の親鸞の実像をも伝えています。
「殿(親鸞)の比叡の山の堂僧つとめておはしけるが、山を出でて六角堂に百日こもらせ給ひて、後世の事いのり申させ給ひける、九十五日の暁の御示現の文なり。御覧候へとて、書き記してまいらせ候。」
の文章から、親鸞が比叡山の常行三昧堂で修行する堂僧であったことが明らかとなりました。また、親鸞の往生に際し、手紙とは別にわざわざ聖徳太子のお告げを書き添えて送ったとあります。このことから、若い堂僧であった親鸞にとってそれがいかに重要な意味を持っていたかが窺われます。このお告げは、若干異なった形ではありますが、本願寺第三代門主の覚如が著した『御伝鈔』にも取りあげられています。
・・・四月五日の日の夜寅の時、聖人夢想の告ましましき。かの記にいわく、六角堂の救世菩薩・顔容端厳の聖僧の形 を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端坐して、善信に告命してのたまわく、
行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽
といえり、救世菩薩善信にのたまわく、これわが誓願なり、善信この誓願の旨趣を宣説して、一切群生にきかしむべし と云々、・・・ 『御伝鈔』上巻第三段
『御伝鈔』では救世観音菩薩、『恵信尼文書』では聖徳太子となっています。これは、当時流行した太子信仰の中で、聖徳太子が観音菩薩の生まれ変わりと見られていたことによるものと思われます。恵信尼の手紙に添えられた文書が残っていないので確実なことは言えませんが、おそらくはこの『御伝鈔』に挙げられたお告げがそれであったと考えられます。文意は
もし、行者が因縁のために異性と関係することがあるならば、私、観音菩薩が美しい異性となって相手となろう。一生の間汝の人生を荘厳し、臨終に至っては必ずや浄土に生まれさせよう。
というように取ることもできるでしょう。一見して、非常に都合のいいお告げのように思われるかもしれません。しかし、比叡山の僧侶達のあり方に疑問を感じていた親鸞にとって、それは叡山を捨てさせるほどの重要な意味を持っていました。当時の仏教においては、出家者は異性との関係を厳しく禁じられていました。そのような中でも隠れて妻帯している僧侶が多くいたのです。親鸞の心の中には「戒律も守れない僧侶に、聖道門の道が実践できるのか」という問題意識が常にあったに違いありません。その思いが夢告という形をとって現れたと考えられます。この夢告をきっかけとして、親鸞は法然上人の専修念仏に帰依することになります。
F親鸞の教え(悪人こそ・・)
『歎異鈔』がなぜ書かれたのかについてはすでに触れましたので、以下にはそれらの中の幾つかを挙げてみることにします。
一。善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや、しかるを世の人つねに曰く「悪人なほ往生す、いかにいはんや善 人をや」と。この条一旦そのいはれあるに似たれども本願他力の意趣に背けり。その故は自力作善の人はひとへに他力 をたのむ心欠けたるあひだ弥陀の本願にあらず。しかれども自力の心を廻して他力をたのみたてまつれば真実報土の往 生を遂ぐるなり。煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死を離るることあるべからざるを憐みたまひて願をおこした まふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人もつとも往生の正因なり。よつて「善人だに往生す、 まして悪人は」と仰せ候ひきと、云々。 『歎異鈔』第三条
一、善人でも救われて往生する。ましてや悪人が救われないことがあろうか。ところが世間の人々は「悪人でも救われるのであるから善人ならばなおさらだ」と言う。この考え方は一応もっとものようであるが、本願他力の意図にはそわない。そのわけは、自力の善を積んで悟りを開こうと思っている善人は、他力に任せる心が欠けているのだから、如来の本願の意図に背いている。しかし、このような善人でも、自力の計らいを捨てて如来の本願に全託すれば、真実の浄土に往生するのである。何をしても迷いを離れることのできない煩悩そのものの我々を憐れんで、本願を起こされた如来の真意は、悪人成仏のためであるから、その他力をたのむ悪人こそまさに救いの対象である。だから善人が救われて往生する。まして悪人はなおさらのことである。・・・
親鸞の教えを示す言葉の中で、この文章ほど広く知られているものはないと思います。その逆説的表現は聞く人に強い衝撃を与えますが、それだけに、また誤って理解されがちな言葉でもあります。この言葉は同じく『歎異鈔』第一条に示された善・悪の解釈によって理解されるべきものなのです。
一。「弥陀の誓願不可思議にたすけられまゐらせて往生をば遂ぐるなり」と信じて「念仏まうさん」とおもひたつこころのおこる時すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。弥陀の本願には、老少・善悪の人をえらばれず、ただ信心を要とすと知るべし。その故は、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なき故に、悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき故にと、云々。 『歎異鈔』第一条
ここで述べられている善・悪には、絶対的な仏の立場から見た場合と、人間の相対的な分別判断による場合との両者が示されています。「老少・善悪をえらばれず」、すなわち、老若・善悪等の区別をしないのは、無分別智の立場にある仏の見方です。これに対して分別判断の見方(「計らい」とも言います)では、自分と他人の功徳の度合いを比べ、それによって優劣をつけることになります。「世の人」の言う善人は、他者と比べて自分の功徳を誇ろうとする人でもあります。 以上のような見方に立てば、「善人でさえも救われて往生することができる」のではなく、自分を善人だと思いこんでる人間はそのままでは往生できない、と言うことができるでしょう。「善人なほもて」という言い方はあくまでも「世の人」の考えに即して表現されたにすぎません。したがって、「悪人」という言葉も「世の人」の考えているような悪人とは違ってきます。親鸞の言う悪人とは、絶対的な無二智の働きを目の当たりにして、自己の相対的分別判断の限界を自覚した人間のことであります。
G親鸞の教え(薬あればとて毒を好むべからず。)
悪人正機説(悪人こそが阿弥陀仏の救いの対象であるという教え)は善悪を超越した世界、つまり絶対的な悟りに至った仏の立場に立ってはじめて言えることです。この立場から見れば、我々の世界に絶対的善・悪というものはありえないことになります。『歎異鈔』後序には善悪について次のように述べています。
聖人の仰には「善悪の二つ惣じてもつて存知せざるなり。その故は、如来の御心に善しと思召すほどに知り徹したらばこそ善きを知りたるにてもあらめ、如来の御心に悪しと思召す程に知り徹したらばこそ悪しさを知りたるにてもあらめども、煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は萬の事みなもつてそらごと・たわごと・まことあること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します」とこそ仰は候ひしか。 『歎異鈔』後序
親鸞聖人が言われたことには「善・悪の判断はできない。なぜなら、如来が真実の智慧によってそれが善であると判断するのと同じように、徹底して知ることができるのであれば、それは善を知っているということもできるであろう。また、逆に、如来が真実の智慧によってそれが悪であると判断するのと同じように、徹底して知ることができるのであれば、それは悪を知っているということもできるであろう。しかし、私は執着によって出来上がっている人間であり、世界は無常である以上、全ての事柄は虚言・欺瞞であって真実のものはない。我々の世界で真実であるのは唯一、如来から回施された念仏だけである。」とおっしゃったことだ。
このような、人間の分別判断が相対的性格でしかあり得ないという指摘は、すでに聖徳太子によってなされていました。十七条の憲法には、
十に曰く、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもへりのいかり)を棄てて、人の違(たが)ふことを怒らざれ。人皆心有り。心各(おのおの)執(と)れること有り。彼れ是(よみ)すれば我は非(あしみ)す。我是(よみ)すれば彼れは非(あしみ)す。我必ず聖(ひじり)に非ず。彼れ必ず愚(おろか)に非ず。共に是れ凡夫(ただひと)ならくのみ。是(よ)く非(あし)き理(ことわり)、誰か能く定(さだ)むべけむ。相共に賢く愚なること、鐶の端無きが如し。是(ここ)を以て彼れ人瞋(いか)ると雖(いふと)も還りて我が失(あやまち)を恐れよ。我獨(ひとり)り得たりと雖(いふと)も衆(もろもろに)に従(したが)ひて同じく擧(おこな)へ。 憲法(いつくしきのり)十七条(とおあまりななをち)
・・・私が必ずしも賢いのではない。彼が必ずしも愚かなのでもない。ともにただ凡夫にすぎないのだ。一体誰が善悪の判断を下すことができようか。それぞれが賢・愚となり得ることはリングに端が無いのと同じである。・・
親鸞の言葉と同様に、ここには凡夫としての自覚が示されています。また、太子が遺したと伝えられる「世間虚仮(せけんこけ)唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」という言葉は、先に挙げた『歎異鈔』後序引用部分の後半と共通の立場に立つものです。
さて、善・悪の「ものさし」が無意味となった時、困った問題が生じてきます。
それは、善・悪の判断が不可能ならばどんなに悪いことをやってもよいのか。あるいは、善・悪を超越したならば、何をやってもよいのか。という疑問です。
しかし、これらの疑問は、先に述べた宗教的体験の一面だけを切り放して問題にしているにすぎません。留意すべきことは、善・悪の「ものさし」が無意味となるのは、あくまでも如来の真実の智慧に出会うことで、自己の分別判断が根底から覆されるということなのです。先ほどの疑問を再度吟味してみると、「悪いことを・・・」「何をやっても・・・」の部分にまだ自己の相対的分別判断が残されています。親鸞が弟子達に宛てた書簡集『末灯抄』には
・・・煩悩具足の身なればとて、こころにまかせて、身にもすまじきことをもゆるし、口にもいふまじきことをもゆるし、心にもおもふまじきことをもゆるして、いかにも心のままにてあるべしと申しあふて候らんこそ、かへすがへす不便におぼえ候へ。酔ひもさめぬさきになほ酒をすすめ、毒もきえやらぬに、いよいよ毒をすすめんがごとし。薬あり毒をこのめと候らんことは、あるべくも候はずとこそおぼえ候。・・・また、往生の信心は、釈迦・弥陀の御すすめによりておこるとこそみえて候へば、さりともまことのこころおこらせたまひなんには、いかがむかしの御こころのままにては候べき。・・・
この書簡には「どうせ凡夫であるから心に思うままに行動したらよい。」という考え方に対する批判が述べられています。あくまでも、「まことのこころ」が起こることによって凡夫としての自覚が生じるのです。真実の智慧に出会うことによって、それまでの自己中心的分別判断の態度が全面的に問題意識となること、さらには常にその問題意識を持って生きること、それが凡夫の本当のあり方であります。
H親鸞の教え(義なきを義とす。)
親鸞晩年の著述に「自然法爾(じねんほうに)章」があります。八十八歳の時の作とされていますので、それは親鸞が最後に到達した境地であったといえます。
・・・自然といふは、自はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、しからしむるといふことばなり。然といふはしからしむといふことば、行者のはからひにあらず。如来のちかひにてあるがゆえに。法爾といふは如来の御ちかひなるがゆへにしからしむるを法爾といふ。この法爾は御ちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆへに他力には義なきを義とすとしるべきなり。
自然といふはもとよりしからしむるということばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とはまふすぞとききてさふらふ。ちかひのやうは無上仏にならしめんとちかひたまへるなり、無上仏とまふすはかたちもなくまします、かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり、かたちましますとしめすときは無上涅槃とはまふさず、かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり、この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすということはなほ義のあるべし。これは仏智の不思議にてあるなり。
この「自然法爾章」では、分別判断を捨てた境地を「義なきを義とす」と述べています。「義」とは、我々の分別判断によって作り上げられた枠組みだと言えます。世俗の世界はこの枠組みによって成り立っています。そして、社会の価値基準は、誰もが共通して認めている(と思いこんでいる)枠組みであります。善人・悪人という社会的判断は、大多数の人が「善」・「悪」と認めている共同の枠組みの中で決定されているにすぎません。そのような枠組みを取り去って、ものそのもののあり方に立ち返ること、それが「義なきを義とす」という境地だと考えられます。したがって、「義なきを義とす」ということを我々の分別判断のレベルで論じようとすれば、その途端に「『義なきを義とす』という」枠組みに変質してしまいます。「義なきを義とすということはなほ義のあるべし」が言おうとするのは、そのような枠組みの持つ自己矛盾性であります。
この枠組みを超えた状態は、「自然」=「もとよりしからしむる」・「行者のはからひにあらず」であり、さらには「形もない」無上仏・無上涅槃と同じものとして示されています。したがって、阿弥陀仏自体も具象的な「形」をともなった「枠組み」としてではなく、無二智の働きそのものとして受けとめられています。本文中の
「弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」
阿弥陀仏という具体的姿は、あるがままの自然であり、最上の悟りそのものを分からせるための料(資料、そのためにあるもの)である
には、阿弥陀仏が悟りそのものを知るための手段であることが明記されています。そこにはもはや、浄土教の祖師達が様々な形で取り除こうとした契約的救済主の姿は見られません。浄土教は親鸞によって一つの完成を見たのです。
I現代と親鸞(我が心の善くて・・)
社会的な価値基準が分別判断という枠組みの最大公約数にすぎないという考えは、現代思想とも共通するものがあります。現代思想の中、構造主義はパラダイム(枠組み)としての文化現象を問題としています。文化は歴史的・社会的枠組み(構造)の中で成立するものであって、絶対的価値基準によって評価されるべきものではありません。先に「 仏教の東漸」で紹介した和辻哲郎の『風土』では、風土が文化的活動に与える影響を指摘していました。構造主義はさらに、歴史的・社会的風土によって文化が形成されていくと主張します。
この構造主義は、もともと言語学的分析から出発しています。「もの」自体と言葉とは何等本質的に関連しない。「もの」と言葉は、単に恣意的な関連を持っているだけである。例えば、「犬」という言葉は犬そのものとは何等関連するものではなく、それが「ねこ」でもなく「ねずみ」等々ではないことを表すにすぎない。言語活動はそのような恣意的に作られた体系全体を基盤に成立している。したがって、犬を表す言葉は「犬」「いぬ」「dog」「Hund」等々の何れであっても問題はない。・・・・といった理論は文化に対する絶対的評価を否定するものでした。
近代思想は人間の可能性を積極的に評価し、進歩や発展という楽観的立場で進んできました。先進国と開発途上国といった区分は、文化間の絶対的評価の上でなされた傲慢な色分けだと言えるでしょう。しかし、現代にいたってそれらが人類の妄想であったことが次第に明らかとなってきました。この妄想は現代の世界情勢の中で徐々に崩壊しています。欧米先進国と言われる国々に対して、これまで抑圧された国々が民族主義を掲げて反撃を加え始めました。それぞれの民族が自立をめざして動き出しています。その趨勢自体は否定できるものではないと思います。しかし、それによって各地で民族紛争が起きているのも事実です。
過去の歴史の中で人類は戦争繰り返してきました。それらは結局は自分たちの文化の優位性を誇るところから出発しています。『歎異鈔』第十三条には
・・・我が心の善くてころさぬにはあらず、また害せじと思ふとも百人千人を殺すこともあるべし」と仰の候ひしかば、 吾等が心の善きをば「よし」と思ひ、悪しきことをば「あし」と思ひて「本願の不思議にて助けたまふ」といふことを 知らざることをおほせの候ひしなり。
・・・自己の心が善であるから殺人を犯さないのではない。殺人を犯そうという気がなくても多くの人を殺してしまうこともある。」という親鸞の言葉は、善悪の分別に囚われる危険性を指摘したものといえるでしょう。同第十三条の後半に述べられる「さるべき業縁(ごうえん)の催(もよほ)せば如何なる振舞(ふるまひ)もすべし。」にはそのことが端的に示されています。個人と民族というレベルの差はありますが、民族紛争も文化という相対的枠組みの中で、それを絶対的なものと固執することから起こると言えます。
親鸞の教えは、絶対的真理の働きかけのもとで凡夫としての自覚に立つことでした。それを現代的に解釈すれば、それぞれの文化自体が恣意的なものであり、相対的なものでしかありえないということに気づくことであります。この意味から、親鸞の教えは人類共存の一つの指針を与えるものとも言えるでしょう。(おわり)