仏教各宗要義



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 日本の仏教を考えてみると、浄土真宗以外に浄土宗、天台宗、真言宗、日蓮宗などといった様々な教えがあることに気が付かれることでしょう。これらの教えが等しく仏教と呼ばれるのはなぜでしょうか。それは、何れもお釈迦さまによって悟られた「縁起の法(えんぎのほう)」をよりどころとしているからであります。最初にお釈迦さまの説かれた教えについて学び、その教えがどのように発展していったかを見ていきたいと思います。

はじめに
 『仏教各宗要義上・下』は龍谷大学編『仏教要論』と同様、『八宗綱要(はっしゅうこうよう)』を手本として編集されています。『八宗綱要』とは、鎌倉時代に華厳宗の代表的学僧であった凝然(ぎようねん) (1240年 (仁治1) 〜1321年 (元亨1)) が二十九歳の時に著した仏教についての〈綱要〉概説書です。〈八宗〉とは、奈良時代および平安時代に公認されていた八つの宗派のことです。具体的には、倶舎(くしや)宗・成実(じようじつ)宗・律(りつ)宗・法相(ほつそう)宗・三論(さんろん)宗・華厳(けごん)宗の南都(奈良のこと)六宗と、天台(てんだい)宗・真言(しんごん)宗の平安二宗を指しています。鎌倉時代以後、〈八宗〉で日本仏教の全体を指す意味として用いられ、インドの竜樹(りゆうじゆ)を〈八宗の祖師〉と呼び、また日本仏教の全体に通じていることを〈八宗兼学〉とも言いました。したがって、凝然著の『八宗綱要』では最初に仏教の基本が述べられ、次に奈良・平安時代の宗派である倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・天台宗・華厳宗・真言宗の八宗について、宗名の由来、依(よ)り所となっている経典や論所書、インド・中国・日本にわたる歴史、および教理の要点が概説されています。そして、その当時の宗派である禅宗と浄土宗について短い説明が加えられています。各宗の順序は日本仏教の展開に基づいており、また、これら各宗の拠り所となった経典はすべて釈迦金口の説法(お釈迦さまが直接お説きになられた教法)であるという立場で書かれています。
 『仏教各宗要義上・下』もそのような伝統的仏教理解の立場で編集されていることに留意しておく必要があると思います。したがって、明治以後に始まった仏教学とは異なったた立場で書かれており、『インド・中国 仏教史』で述べられる歴史的展開とも多少違った内容になっています。しかし、中国仏教・日本仏教は漢訳経典をもとに独自の発展をとげてきましたし、伝統的日本仏教の見方を理解することは、現代の日本仏教を知るうえでも重要な意味があると言えます。とくに、一宗門の僧侶として各宗の概要を知っておくことは必須のことであります。そこで、具体的な講義の進め方として『仏教各宗要義上・下』からの抜粋テキストを読み進めながら、時には仏教学的立場からの補足説明を加えていきます。

縁起の法
 仏教と他の宗教の違いは何かと聞かれた時、皆さんはどのようにお答えになるでしょうか。世界三大宗教という言い方で一般的に知られている教えに、キリスト教とイスラームがあります。キリスト教やイスラームは神の教えでありますが、その教えによってわたしが「神」になることはありません。しかし、仏教は仏(お釈迦さま)の教えによってわたしが仏になることができる教えです。仏という名称はもともとインドの言葉である「ブッダ」(仏陀は漢字によるその音写)に由来します。「ブド」という動詞が変化して過去分詞になった形が「ブッダ」という言葉です。「ブド」とは「目覚める、悟る」という意味の動詞ですから「ブッダ」とは「目覚めた、悟った」という意味になります。したがって、仏とは「目覚めた人、悟った人」を指す言葉です。それがお釈迦さまだけに限られた呼び名ではないことは、阿弥陀仏や薬師仏などといった多くの仏名があることからもわかります。「仏教」という語を三通りに解釈して「仏そのものが教え」「仏の教え」「仏に成るための教え」と説明することができます。この中で最後にあげた解釈こそ、他の宗教には見られない仏教独自の立場であり、平等な世界を実現する教えであることを示すものであります。
 では、何について「目覚めた、悟った」から仏と呼ばれるのでしょうか。それは「縁起の法(えんぎのほう) 」を悟ったからであります。
 縁起(えんぎ) < 因縁生起 [サンスクリットpratItya-samutpAda]とは、仏教の中心思想で、一切のもの(精神的な働きも含む)は種々の因(原因・直接原因)や縁(条件・間接原因)によって生じるという考えを表しています。〈因縁〉〈因果〉という言葉も同じ意味です。因縁生起の略された形が縁起であるとも言われています。この縁起という言葉はひろく普及したためか、誤って使われる場合もままあるようです。それは「縁起がいい・縁起が悪い」などといった言い方です。この誤った使い方は「予兆(よちょう)・兆(きざ)し」といった意味になると考えられますので、本来の意味とはおおきくかけ離れています。
 「縁起の法」の「法」は真理・教法の意味です。ある経典には、悟りをひらいたお釈迦さまが自分自身を指して、「法を見る者は我を見る。我を見る者は法を見る。」と説かれたとあります。この言葉からも分かるように、「仏」と「法」は切り離すことのできないものなのです。この「縁起の法」を表現した定型句として良く知られたものに

  此れ有る故に彼有り 此れ起こる故に彼起こる。
  此れ無き故に彼無く 此れ滅する故に彼滅す。

があります。「此れ」と「彼」がかかわり合うことによってはじめて成り立つことを、空間「有・無」と時間「起・滅」の両面から説いていると考えてよいでしょう。互いに関係し合うことによってはじめて成り立つ以上、「此れ」「彼」には、我々が執着するような実体はないということになります。関係が変化すれば次の瞬間には失われるものが「此れ」「彼」であります。しかし、我々は「此れ」「彼」に対して執着してしまい、それらが失われたときに苦悩が生じてきます。このことを仏教では

  諸行無常(しょぎょうむじょう)印
  諸法無我(しょほうむが)印
  一切皆苦(いっさいかいく)印
  涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)印

という四法印で表してきました。仏教が他の教えと区別される四つの特徴(印とは旗印のこと)という意味になります。例えばここに示される「無我」は「我(アートマン)の存在」を主張したインド思想・ブラーフマニズムやヒンドゥーイズムとはっきりと区別されるものです。ヒンドゥーイズムでは「我(アートマン)」が次の命に転生することによって輪廻が起こると説きます。仏教においても、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・阿修羅(あしゅら)・人(にん)・天(てん)という六道(ろくどう)を輪廻転生(りんねてんしょう)するという形でヒンドゥーイズムの思想をを取り入れてはいますが、それは「縁起の法」を悟っていない状態、つまりは、「迷いの世界」の状態として示されているのです。それまで執着していた「我」を「無我」であったと悟ることで輪廻転生のサイクルから解脱(げだつ)することができるのです。
 お釈迦さまの入滅(にゅうめつ)は、紀元前三八三年頃、一説には紀元前四八六年頃(南伝仏教の伝承では紀元前五四四年頃)であったとされています。仏滅(ぶつめつ)後百年頃に仏教教団内で分裂が起こり(根本分裂 こんぽんぶんれつ)、保守的な上座部(じょうざぶ)と革新的な大衆部(だいしゅぶ)が成立しました。これらの部派はさらに二十部派に分かれ、紀元前一〇〇年頃には分裂が終わったと考えられています。この分裂が終息した時期と同じ頃に大乗仏教運動がおこっています。大乗経典はさらにそれから約一五〇年ほど後に成立し始めます。紀元後一世紀以降に般若経典(はんにゃきょうてん)・維摩経(ゆいまきょう)・法華経(ほけきょう)・華厳経(けごんきょう)・無量寿経典(むりょうじゅきょうてん)などといった初期(第一期)大乗経典が編集されました。
 三世紀には竜樹(りゅうじゅ)が『中論』等を著して空の思想体系化に努め、四世紀には勝鬘経(しょうまんぎょう)・涅槃経(ねはんぎょう)などの如来蔵経典(にょらいぞうきょうてん)および解深密経(げじんみっきょう)・大乗阿毘達磨経(だいじょうあびだつまきょう)といった阿頼耶識経典(あらやしききょうてん) が成立しました。これらを中期(第二期)大乗経典と呼びます。
 五世紀には無着(むぢゃく)・世親(せしん)によって瑜伽行派(ゆがぎょうは)が生まれ、中観派(ちゅうがんは)と対立しましたが、経典としては如来蔵と阿頼耶識との統合をはかった楞迦経(りょうがきょう)や大乗密厳経(だいじょうみつごんきょう)といった後期(第三期)大乗経典が成立しています。
 六世紀ころから密教化も進み、七世紀には大日経(だいにちきょう)・金剛頂経(こんごうちょうきょう)などが作られ、金剛乗(こんごうじょう)が成立しました。ただし、密教は自分たちの教えを大乗と区別して金剛乗という名を使っていました。また、もともとは上座部仏教の一学派であった経量部(きょうりょうぶ)は、インド仏教の後期には大乗の一学派とみなされるようにもなっていました。
 以上、大乗経典成立の経過をあげてみましたが、『八宗綱要』の中では平安二宗に数えられた天台宗は初期大乗経典である法華経を一番のよりどころとしていますし、真言宗は六世紀以後の金剛乗の教えにもとづいている宗派です。このようなインド仏教史と日本仏教史のくいちがいは奈良六宗にもみられますが、それは中国・日本における伝統的経典の見かた(釈迦金口の説法)に原因があります。
 インド仏教史の上では「お釈迦さまの教え」である仏教が、お釈迦さま入滅後、様々な思想・文化と出合うことで次第に発展し、展開していったことを見ることができます。しかし、そのような歴史的展開を目の当たりにすることができなかった中国・日本仏教においては、様々な発展段階で成立したすべての経典がお釈迦さまの説法であり、その様々な教えの中でいずれか一つの経典が最高の真実を説くものであると考えました。それは「わたし」にとって真実の教えとは何であるのかという真剣な問いかけの中で選び取っていくことでした。この選択こそ大切なことであろうと思います。極端な言い方になってしまいますが、インド仏教をそっくりそのまま受け入れていたとすれば、インド仏教がヒンドゥー教に吸収され消滅していった歴史もそのまま繰り返されたかもしれません。
 そこで、伝統的仏教を勉強していくにあたって、次の点に留意しておくべきだと思います。インドにおいて仏教は「お釈迦さまの教え」を保ちながら次第に発展していきました。その展開は、当然、先にあった「教え」を批判し、独自の「教え」を付け加えるかたちで進められました。したがって、その歴史をたどっていけば、ある「教え」がどのようないきさつで成立し、次の新しい「教え」にどのような影響を与えたのかということも理解できます。また一方では、お釈迦さまの教えを忠実に守っていった部派もあります。上座部仏教あるいは南伝仏教と呼ばれるものがそれです。中国・日本の伝統的仏教の中では小乗仏教として批判されてきましたが、現在では上座部仏教と呼ぶようになっています。『仏教各宗要義』を学ぶ場合にも、そのような意識をもっておくことが必要だと思います。それでは、具体的にどのような思想的展開があったかについて以下に要点をあげていくことにしましょう。

大乗経典成立までのインドの歴史
 お釈迦さまが入滅されて大乗経典が成立するまでの約五百年の間に、インドは二度にわたって異民族の侵入を受けています。最初は、お釈迦さま入滅後百年もたたないころにアレキサンダー(アレキサンドロス)大王がインダス河流域まで侵入しています。ギリシャ思想がインドに影響を与えました。後のガンダーラにおいてギリシャ様式の仏像が作られる背景のひとつでもあります。
 紀元後百年ころにはイラン系の民族であるクシャーナ族がインドに侵入します。クシャーナ朝はガンダーラ地域を中心としてニ〜三世紀にわたってインド北西部を統治します。クシャーナ族はゾロアスター教を信仰していましたが、仏教やインド古来の宗教にも寛容でした。そのような背景の中で大乗仏教はおおいに展開をとげたとされています。
 この二度にわたる異民族の侵入はインドの思想・文化形成のうえでもおおきな影響をあたえました。仏教の場合も例外ではありませんでした。ギリシャ思想は人間の理性のはたらきを重視した実証的・分析的思考を特徴としています。世界のすべては人間の理性の範囲内で理解することができると考えます。この考え方は万物の根源は「水」であるとしたタレースや、「数」であるとしたピタゴラスにも見ることができます。この考え方で「無我」を理解しようとしたのが析空観(しゃっくうがん)です。

説一切有部
 析空観がはっきりとあらわれているのが説一切有部と呼ばれる学派です。この学派が盛んであった地域がギリシャ文化の影響を強く残していたガンダーラ地域であったことからもそのことがうかがえます。その学派の基本となった考え方として、五蘊仮和合説(ごうんけわごうせつ)があります。「わたし」という存在は「色(しき)」「受(じゅ)」「想(そう)」「行(ぎょう)」「識(しき)」という五蘊(五つの要素)の組み合わせにすぎないのであって、「わたし」という実体はないと説いたのです。ところが、この学派は「無我」を解説することにこだわりすぎて、その構成要素には実体があると主張しました。この考え方を「我空法有(がくうほうう)」と呼びます。説一切有部という派名もそこから名付けられています。この部派以外にも分析的解釈で「無我」を説明しようとする学派が多く成立し、互いに分析の定義をめぐって論争を展開しました。それによって教義はきめこまかなものとなり、アビダルマ(対法)仏教が盛んになっていきましたが、「縁起の法」本来の意味がかえりみられなくなり、人びとの願いからも離れていったと言えます。( → 倶舎宗)

初期大乗経典・般若経典(空の思想)
 この析空観に対する批判として起こってきたのが「空(くう)」の思想です。それは、人びとの願いから遊離してしまった仏教をふたたび「縁起の法」に立ち返らせようという大乗仏教運動の中心的思想となっていきました。有名な『般若心経』に

  色即是空(しきそくぜくう) 
  空即是色(くうそくぜしき)

とあるのは、五蘊の最初の要素である「色」をとりだして、それが実体を持つものではない「空」であることを示したものです。この部分に続く

  受想行識亦復如是
  「受」「想」「行」「識」も亦復是くの如し

 には五蘊の残りの要素が挙げられ、それらも同じく「空」であると説かれています。先に述べた析空観に対し、本体そのものが空であると見ることから「体空観(たいくうがん)」と呼ばれています。この「空」を説く経典として初期大乗経典の般若経典があり、思想の大成者として『中論』等を著した竜樹(龍樹)が知られています。  ( → 三論宗)

法華経・華厳経・無量寿経典
 クシャーナ朝のもとでは仏教以外の様々な宗教が容認されていました。後に仏教の偉大な庇護者となるカニシカ王もゾロアスター教を国教としていたと言われています。また、インド古来の宗教であるヒンドゥー教も盛んでした。そのような思想・文化的背景の中で仏教は様々な影響を受けました。そして、「空」の思想を発展させるのと同時に、異思想・異文化を取り入れながら様々な経典を成立させていったのです。当然のことではありますが、それぞれの経典は単純に一つの文化・思想で統一されているものではありませんでした。たとえば阿弥陀仏は無量寿経典以外の法華経、華厳経、密教経典などにも説かれています。しかし、それぞれの経典の特色を考えると、どのような思想・文化から影響を受けたのかがおおよそわかってきます。
 法華経にはヒンドゥー教からの影響が見られます。歴史上のお釈迦さまはクシナガラ(KuCinagara)において八十歳で入滅されました。しかし、本当は永遠の命をもった仏(久遠実成仏くおんじつじょうぶつ)であったということが説かれています。ヒンドゥー教では永遠の命をもった神が様々な姿を化現すことがたびたび説かれます。この神の永遠の命が仏教に取り入れられたと考えられます。表面上は「諸行無常」という仏教の基本原理と矛盾しているように思われますが、お釈迦さまにこの現実の世界で出会いたいという人びとの願いに応えた結果であったと考えられます。もちろん、永遠の命とは「縁起の法」と仏が一体のものであるという見方でお釈迦さまをとらえていることを忘れてはなりません。
( → 天台宗)

 無量寿経典の成立についてはイラン文化の影響があったとする説もあります。南伝仏教は紀元前二世紀ころにスリランカに伝わりますが、その経典には阿弥陀仏の名前が出てきません。また、最初期の無量寿経典にはガンダーラ地域の言葉が使われていたこともわかっています。これらのことからみても、クシャーナ朝と無量寿経典とのかかわりが深いことは確かです。阿弥陀仏の限りない光明という特質はクシャーナ朝の国教であったゾロアスター教とのつながりをうかがわせるものがあります。また、阿弥陀仏による救済という点でキリスト教と類似する面があるのもゾロアスター教とのかかわりに原因するのかもしれません。例えば、念仏を称えれば救われるという教えが、時として契約宗教的に受けとめられてしまうのもその表れです。法然上人・親鸞聖人の功績はそのような誤りを正し、阿弥陀仏の教えがまさしく「縁起の法」によっていることを明らかにされたところにあるのです。
( → 浄土宗・浄土真宗)

 華厳経はもともと多数の独立した経典があって、三世紀ごろに中央アジアでまとめられたと考えられています。その歴史からみても、様々な思想・文化の中で成立したことがわかります。先にもふれましたように、阿弥陀仏も登場しますが、中心となるのは、後の密教で大日如来と漢訳されることとなる毘盧遮那仏(びるしやなぶつ)です。思想の面では一即一切・一切即一という広大な世界観を展開していきました。有名な東大寺の大仏(奈良大仏)は盧舎那仏(るしゃなぶつ)と呼ばれていますが、それは毘盧遮那仏の古い漢訳にちなむものです。
( → 華厳宗)
中期・後期大乗経典

阿頼耶識経典
 お釈迦さまの教えはバラモン教・ヒンドゥー教のアートマン説を批判し、無我(アヌアートマン)説を明らかにするものでした。しかし、紀元3、4世紀ころにはバラモン教の転変説(てんぺんせつ)を取り入れて頼耶縁起(らやえんぎ)が成立します。頼耶縁起とは、意識の底にある阿頼耶識(あらやしき)が私たちの内側にある意識を生み出すだけでなく、外側の対象さえも生み出すという考え方です。そして、その阿頼耶識が次の命に受け継がれることで輪廻転生が起こるとしています。すでに華厳経の中には「三界唯心(さんがいゆいしん)」(心の働きによってすべての世界が起こってくる)と説かれており、唯識思想の基本的考えが見えます。5世紀頃の世親などによって教学が整えられましたが、その理論は分析的アビダルマ仏教とバラモン教の転変説を総合して展開しました。それはギリシャとインドの思想が仏教と融合したものとも言えるでしょう。
( → 法相宗)
密教
 インド仏教の最終段階が密教です。仏教がヒンドゥー教と融合し、多くの神々が大日如来を中心として取り入れられました。密教はバラモン教を主体とするアーリヤ文化とインド原住民の非アーリヤ文化をともに継承するもので、呪法(じゅほう)、儀礼、諸尊格の崇拝などといった特徴の中にヒンドゥー教の強い影響が見られます。
 7世紀以降のインド密教では、それらを大乗仏教思想によって意義づけを行っていきました。土着の宗教や文化との融合は、インドだけに限られたことではなく、アジア各地に密教が伝わっていく過程でも見ることができます。このような過程を神仏習合(しんぶつしゅうごう)と呼び、日本においても本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)という形をとって盛んに行われました。しかし、インドにおいての神仏習合は仏教が衰える原因ともなりました。ヒンドゥー教のなかに取り込まれてしまうことになったのです。現在、お釈迦さまはヒンドゥー教の神様であるヴィシュヌ第九番目の化身として信仰されています。
( → 真言宗)
 以上、大乗経典成立の歴史を概観してきました。このような展開の中で次第に成立してきた経典が、少なくとも初期大乗経典までは全てお釈迦さまによって直接説かれた(釈迦金口の説法)と見るのが伝統的教学での理解でありました。その意味では中国・日本仏教は独自の展開を遂げたと言うべきであります。
 しかし、先にも述べたように、それぞれの学派・宗派の教えを理解する上で、歴史的展開を知っておくことは大切なことであろうと思います。それでは次に『仏教各宗要義』のテキストに入っていくことにしましょう。



序説
奈良仏教 
 南都六宗(なんとろくしゅう)とは奈良時代の国家仏教を代表する六つの公認学団のことであり、伝来順に、三論宗(さんろんしゅう)・成実宗(じようじつしゅう)・法相宗(ほつそうしゅう)・倶舎宗(くしゃしゅう)・華厳宗(けごんしゅう)・律宗(りつしゅう)の六宗を言います。このうち、成実宗は三論宗に、倶舎宗は法相宗に付属する寓宗(ぐうしゅう)でした。寓とはかりのすまいのことで、寓宗とは教学としては一宗をなしてはいるが、宗派としては他の宗に付属するものを言います。この〈宗〉は〈衆〉とも書かれ、寺内で個々独立の経済を営む存在でありましたが、平安中期以降のような排他的固定的性格のものではありませんでした。南都諸大寺では各寺に数宗が併存しており、他宗を合わせて学ぶことや他寺へ行って学ぶのも自由であり、この点では今日の大学の学部・学科に近いものと考えられます。中国から伝来した仏教を研究することが中心で、開祖と呼ばれる人もいませんでした。
 多くの寺院は伽藍(がらん)造営や維持の費用を国から受けていました。その中でも主要な官寺(かんじ)は鎮護国家(ちんごこっか)を祈るために天皇の発願で建てられたもので、国家仏教の特色を示しています。

平安仏教
 平安仏教と呼ばれるものは、天台宗と真言宗の二宗です。それぞれ最澄と空海という開祖によって始められ、日本独自の展開をとげます。前の奈良仏教と比較すると、

@輸入仏教から日本独自の仏教へ
A学問仏教から宗派仏教へ
B都市中心の仏教から山岳仏教へ
C国家仏教から貴族仏教へ
D始覚門的な仏教から本覚門的な仏教へ

 という変化が見られます。Cは律令体制の衰えにともなう貴族の登場という変化に呼応します。また、Dの始覚門(しかくもん)・本覚門(ほんがくもん)の門とは教えの系統の意味で、始覚とは、現実における迷いの状態である〈不覚(ふかく)〉から始めて、修行の進展によってさまざまな煩悩(ぼんのう)がうち破られ、悟りの智慧が段階的に修行者にあらわになることを言います。これを悟りの側から振り返って眺めたものが本覚です。本覚とは、本(もと)からそなわった覚性(かくしよう)という意味で、一切衆生(いっさいしゅじょう)に本来的に具わっている悟りの智慧(ちえ)のことを言います。
 この一切衆生にはもともと悟りのたねが具わっているという考えを極端化すると、修行は必要ではないというあやまった見方に陥りかねません。
 また、天台宗は台密(たいみつ)、真言宗は東密(とうみつ)へと密教化が進む中、平安中期以降には加持祈祷(かじきとう)が全仏教に広まっていきました。本覚思想が盛んとなる中で平安仏教は爛熟期をむかえ、鎌倉仏教を産み出す母胎となりました。

鎌倉仏教
 日本仏教が最も発展をとげたのが鎌倉時代でした。その重要な要因は末法思想でした。平安末期にすでに末法時代に入ったという見方が広まっており、平安仏教の爛熟、さらには源氏と平家の戦いもそれを裏付けるものとして受け止められていました。
 お釈迦さまの教えが衰えていく中でどのようにして悟りに至ることができるのかが重要な課題となっていました。鎌倉仏教の祖師たちはそれぞれ独自の立場でその課題に答えたと言うことができます。その特徴を次にあげると

@貴族仏教から庶民の仏教へ
A理論から実践へ
B複雑な修行から一向専修へ
C天台から禅・浄・日へ
D末法についての独自の解釈

 Bにみられる修行の専修化(せんじゅか)は、禅宗では坐禅、浄土門では称名、日蓮宗では唱題として簡略化されていきました。そしてそれぞれ見性成仏(けんしょうじょうぶつ)、往生成仏(おうじょうじょうぶつ)、唱題成仏(しょうだいじょうぶつ)を説き、成仏こそが問題であることが意識されています。鎌倉仏教にいたって「仏に成るための教え」という仏教のもっとも重要な意味が十分に活かされてきたといえるでしょう。
 「仏教各宗要義」を学ぶ意義も、このあるべき姿としての鎌倉仏教がどのようにして展開してきたのかを理解することにあります。奈良仏教・平安仏教といった教えの流れの中で鎌倉仏教はどのような意味を持っているのかを一緒に学んでいくことにしましょう。

三論宗(さんろんしゅう) 
一、宗名と伝来
 三論とは、インドの竜樹150〜250(龍樹りゅうじゅ)の『中論』『十二門論』とその弟子提婆(だいば)の『百論』とを指します。これらは初期大乗経典の中、般若経典の空(くう)の思想を論じたもので、部派仏教の析空観への批判も示されています。この龍樹の系統に属する学派を中観学派と呼びます。三論宗はその三論の教義に基づく学派です。
 三論は5世紀初頭、長安において亀茲(きじ)国から来た鳩摩羅什(くまらじゅう)によって漢訳され、門下の僧肇(そうじょう)らによって研究されました。後に僧朗(そうろう)により江南(揚子江以南の地方)に伝えられ、弟子の僧詮(そうせん)から法朗(ほうろう)が継承し、さらに弟子の吉蔵549〜623(きちぞう)が隋・初唐の時期に三論の教学を大成しました。僧朗以前を〈古三論〉、以後を〈新三論〉と呼びます。
 吉蔵は多くの注釈書を著しましたが、特に『三論玄義』は破邪顕正(はじゃけんしょう)・真俗二諦(しんぞくにたい)・中道(ちゅうどう)を解説しており、日本においては三論宗の基本的な研究書とされました。日本への伝来は625年(推古33)吉蔵の弟子である高句麗僧の慧灌(えかん)が伝え、元興寺(がんごうじ)に住したのが最初です。福亮・智蔵と受け継ぎ、智蔵は入唐して再び三論を伝え、法隆寺に住しました(第二伝)。その弟子道慈も入唐し、帰朝後、大安寺に住して三論を弘めました(第三伝 大安寺流)。三論宗は南都六宗の中、最初に伝来した宗で、智光・礼光(元興寺流)、善議・勤操(ごんぞう)らの学僧が活躍し、奈良時代には盛んでしたが、次第に衰微していきました。平安時代に聖宝(しようぼう)は三論の衰微をなげき、東大寺に東南院を建立して三論宗の根本道場としました。しかし三論のみを学ぶものはほとんどいなくなりました。

二、三論教義
破邪顕正(はじゃけんしょう) 
 誤った見解・執着(しゆうじやく)を打ち破り、真実をあらわすことを破邪顕正といいます。吉蔵は『三論玄義』の中で、三論の要旨を破邪と顕正の二つに分類して説いていますが、その結論は破邪即顕正であるとしています。吉蔵は、邪を破れば人々を救い、正を顕せば大法を弘めることができるとして、まず破邪において仏教内外の誤った見解・とらわれ有所得(うしょとく)を破り、次に顕正において仏教内外・大乗小乗・有無の相対観を否定し、有にとらわれる病を治すために無(空)を説きました。ただし、有病が消えてしまえば空薬も捨ててしまうのであり、空にもとらわれてはならないとします。諸法実相は言葉や分別判断をこえており、破るべきものも収めるべきものもありません。この真理を悟れば正観が起こり、苦が滅すると説きます。すなわち、有にも空にもとらわれず、あらゆるとらわれを否定するのが破邪であり、破邪がそのまま顕正となるのです。

真俗二諦(しんぞくにたい) 
 真諦(しんたい)と俗諦(ぞくたい)からなる二種の諦(satya-dvaya)を真俗二諦といいます。〈真諦〉はparamArtha-satyaの訳で、〈勝義諦(しょうぎたい)〉〈第一義諦〉とも呼び、究極の真理です。一方、〈俗諦〉はsaMvRti-satya, loka-saMvRti-satyaの訳で、〈世諦(せたい)〉〈世俗諦(せぞくたい)〉とも呼び、世間的世俗的な真理のことです。
 まず、竜樹(龍樹)の『中論』(観四諦品)によれば、一切のものの本性(ほんしょう)は空であるにもかかわらず、世間の人々は真実にはないもの(虚妄法 こもうほう)に対して「ある」と見てしまう。このようにものがあるとするのは世間においては真理であるので、これを世俗諦という。部派仏教における聖人は、世俗諦が誤りであると悟っているので、一切のものはみな空であって生じることはないと知る。部派仏教ではこれが第一義諦であり真理である。これに対して、大乗仏教においては「諸仏は二諦によって法を説く」のである。世俗諦も説法には必要で、世俗の言葉・言説(ごんぜつ)vyavahAraによらなければ第一義諦を説くことはできず、第一義諦を得なければ涅槃を得ることはできない、と説いています。
 吉蔵は『中論』で説かれた二諦を約理の二諦(真理についての二諦)ととらえ、中論の「諸仏は二諦によって法を説く」と示された点に注目して、約教の二諦(教えについての二諦)を立てました。そして、その約教の二諦によって、有にとらわれる人には真諦の空を説き、空にとらわれる人には俗諦の有を説き、四つの段階(四重の二諦)を経て、最終的には空にも有にもとらわれない非非不有非非不空(無所得の空)が悟られるとしました。『成実論』あるいは成実宗はその第二段階、部派仏教と大乗仏教の中間的「空」理解として言及されています。

八不中道
龍樹は、「空」を説く『中論』冒頭の帰敬偈に、
「生ずることなく滅することなく、
 断ならず常ならず、
 一ならず異ならず、
 来ることなく去ることなき、
 よく諸々の戯論を寂滅せしめる縁起を説きたまえ
 る正覚者、諸々の説者中の最勝なるかの仏にわれ
 は礼したてまつる。」
 と示しています。『中論』においては縁起・空性・仮・中道を同列に置き、すべてのものは縁起し空であると定義し、空性の解明によって中道を理論づけようとしています。縁起の修飾句である「不生不滅 不断不常 不一不異 不来不去」には「不」が八度繰り返されていることから、「八不(はっぷ)の偈」とも呼ばれ、三論宗においては八不中道という言い方で重要な教義として展開しました。八不で否定される八迷「生・滅・断・常・一・異・来・去(出)」は有所得迷妄の執着であり、『中論』においては「戯論prapaJca」として批判されるものです。

三、三論宗の教相判釈
 教相判釈とは、教判・教相・教時などとも略称されます。多数の経典は「釈迦金口の説法」であるとする伝統的理解に基づき、これら諸経典の内容(教相)もしくは説かれた時期(教時)を判定、それによって仏教経典の根本真理および仏道修行の究極目標を確立しようとする経典解釈学を指します。先にも述べたように、インドでは時代の経過とともに経典が編集されましたが、中国へは前後無関係に伝来しました。このため、中国仏教学者がそれぞれの考えで経典を価値の高低にしたがって配列し、独自の宗派を建てる論拠としたもので、中国・日本仏教の特徴の一つです。
 三論宗の教判は二蔵と三転法輪です。二蔵とは声聞(CrAvaka教えを聴聞する者の意)蔵と菩薩(bodhi-sattva 悟りを求める者・悟りをそなえた者の意)蔵で、小乗教と大乗教に分類したものです。三転法輪では@根本法輪、A枝末法輪、B摂末帰本法輪の三法輪に分類し、華厳経から始まって法華経へと集約されています。
 ただし、三論宗の教判は唯一の経典を真実教として選択するといった一般的教判とは異なっており、「等・勝・劣の三義」によっています。「いずれも等しく、長所短所がある」といったような意味になりますが、それは対機説法というお釈迦さまの教化姿勢から必然的に生じたものとも考えられました。教えを聞く人(機)の能力・素質に相応して法が説かれたとするもので、病に応じて薬を与えること(応病与薬 おうびょうよやく)に喩えられます。

四、成仏論
 三論宗では破邪即顕正の理論そのままが八不中道の実践であり、真俗二諦であるとしています。我執を破った状態が悟りの境地であります。もともと縁起によって起こったものには実体はなく、空性のものです。この第一義諦の立場から見ればすべての者は悟りの中にあると説きます。
 しかし、世俗諦の面から見た場合、我執の強弱によって早く悟りに到る者、遅く悟りに到る者という違いが生じてきます。これを仮名門の立場と言います。本来、悟りの中にあるという点からすれば、あっという間に悟ること(一念頓悟 いちねんとんご)が可能な者もいれば、我執の強さのために、三祇という長い時間を要する者もいることになります。ここでいう三祇とは、三大阿僧祇劫の略であり、阿僧祇はasaMkhyaの音写で「数えられない」という意味です。一説には、劫に十の六十乗の三倍をかけた巨大な数ということですから、実際的には永遠を意味するといってもよいでしょう。
 ただし、空性から見た場合、一念や三祇という違いは仮に設定されたもの、仮名門の見方にすぎず、その意味から一念即三祇・三祇即一念という言い方ができます。

【参考】慈悲に三縁あり。一は衆生縁にして是れ小悲なり。二は法縁にして是れ中悲なり。三は無縁にして是れ大悲なり。 曇鸞大師 往生論註

倶舎宗(くしゃしゅう)
一、宗名と伝来
 倶舎宗の名前は、拠り所となった論書、すなわち世親の『阿毘達磨倶舎論』に由来します。世親はVasubandhu ヴァスバンドゥの漢訳で、四〜五世紀ころに現在のパキスタンのPeshawarで活躍しました。世親は、後に大乗仏教に転向して、唯識学を大成させることになります。しかし、倶舎論においては部派仏教の一学派である説一切有部の教義に中心が置かれ、初期大乗経典の成立以前からあった教義を他学派の見解を取り入れて一部批判的に解説したものと考えられています。したがって、それ以前に成立していた説一切有部の論書も研究の対象となっており、その中でも重要なものが『発智論』二十巻と『大毘婆沙論』二百巻です。
 この説一切有部SarvAsti-vAdinは有部とも略称され、部派仏教の中で最も優勢でした。紀元前一世紀半ばごろに上座部から派生したと考えられています。『発智論』はその教義をまとめたもので、迦多衍尼子(かたえんにし)KAtyAyanIputraによって著されました。
 その後、二世紀後半に北インドを支配したカニシカ王が説一切有部に帰依し、王の援助によって五百人の阿羅漢(あらかん)がカシミールに集まって、説一切有部の三蔵(経・律・論)を結集(けつじゅう)したと伝えられていますが、その時に結集された論蔵が『大毘婆沙論』になったといいます。おそらく、説一切有部内における数世紀にわたるアビダルマ(対法)の研究が集大成されたものと考えられます。先行する『発智論』の説によりながらも、色法を極微(ごくみ)からできていると見たり、三世実有・法体恒有を主張し、法の刹那滅を説くなど、より進んだ教理が多く見られます。
 倶舎論は、陳代に真諦訳、唐代に玄奘訳として伝訳されていますが、玄奘訳『阿毘達磨倶舎論』三十巻が現行のものです。玄奘は『発智論』などの関連論書も同時に漢訳しましたので、唐代には倶舎学派が大いに発展しました。玄奘門下による注釈書として、神泰『倶舎論疏』(泰疏)三十巻・普光『倶舎論記』(光疏)三十巻・法宝『倶舎論疏』(宝疏)三十巻などがあり、倶舎学研究の指針となっています。
 日本へは法相宗に伴って伝来しました。道昭が 653年に入唐、玄奘に師事して法相教学を学び(一説には摂論教学)、660年ころ帰国、法相学の日本初伝となっていますが、この時に倶舎学も伝わっています。当初は主に法相宗内で研究されていましたが、後の平安時代ころには、仏教の基礎学として各宗で研究されるようになりました。

二、倶舎論の名称と構成
 『阿毘達磨倶舎論』AbhidharmakoCa-bhASyaの阿毘abhiは対の義、達磨dharmaは法の義、倶舎koCaは蔵の義があり、阿毘達磨倶舎は「対法蔵」と意訳されます。法とは経典中の教法であり、具体的には、部派仏教における教法である涅槃と四諦を指しています。したがって、そのような教法に対する考察・研究を集成した蔵という意味で「対法蔵」と呼ばれるのです。
 『倶舎論』三十巻は@界品、A根品、B世間品、C業品、D随眠品、E賢聖品、F智品、G定品、H破我品の九品(九章)から構成され、@からGまでは説一切有部で定義する諸法について解説し、Hでは無我を説いて実我を破しています。


 【倶舎論構成図】


 それぞれを概観すれば、@Aでは諸法の体・用について全体的に解説しています。体(たい)とは実体あるいは本体、用(ゆう)は作用あるいは現象の意味です。@Aの総論に対し、BからGまでは各論に相当します。BからDまでは有漏(うろ)の結果・原因、EからGまでは無漏(むろ)の結果・原因について解説しています。漏とは様々な心の汚れを総称する語で、広い意味での煩悩と同じです。仏教では古来「流れ出ること」の意味に解し、汚れ・煩悩は五つの感覚器官と心から流れ出て、心を散乱させると考えました。そのような汚れのある状態を有漏、汚れがすべて滅し尽くされた状態を無漏といいます。したがって、転迷開悟(てんめいかいご)有漏の迷いを解明し、無漏の悟りを示すことがBからGまでの各論の内容となります。
 最後のH破我品では、実我を破することで全体のまとめとしています。説一切有部では全ての存在を構成要素である法に分析し、あとには「我」として執着すべき何物も残らないことを論証しようとします。これを「我空法有(がくうほうう)」と呼びます。
 さて、説一切有部では「無我」を論証するためには構成要素をくわしく定義する必要があると考えました。最初の段階では五蘊(五つの構成要素)によっていた分類が、次第に精密さを加え、後には五位七十五法に分類するようになります。

 【五位七十五法の図】

 倶舎宗では五位の最初に色法を配しています。認識作用も外界の物質的色法を感受するところから生れるとするからで、五位の順序も「法相生起の次第」によっています。これに対して、法相宗においては色法も含めて全て心から生起すると説き、五位の順序も「唯識転変の次第」をとっています。
 無表色を除いた色法は変壊(へんね 変化して壊滅する)と質礙(ぜつげ一定の空間を占めて互いにさまたげ合う)の性質を持っており、分析していくと極微(ごくみ)というそれ以上分解できない単位になります。以上は外的・物質的要素です。
 次の、心王と心所は内的・精神的要素についての分析です。心王(一法)は感受する対象に応じて六識となります。例えば、眼根によって色境を感受する場合、心王は眼識として働いています。
 心所法は単独で生起せず、心王と相応して起こるので相応法とも呼びます。大きな特徴として、善・悪・無記という倫理的価値を附加し、現世の苦しみや次の境涯における迷・悟の要因となります。
 不相応法は「非色非心不相応行法」と呼ばれるように、有為法の中で、色法・心王・心所に分類されなかったものを指します。有為法とは縁起によって生起した法のことです。
 無為法は縁起によって生滅するものではなく、真理として存在する法で、悟りもここに分類されます。
 以上の七十五法の中から無為法を除いた七十二法が要素となって万物が構成されており、それぞれの法が生滅することで変化が起こるとします。その変化は電光掲示板の発光体が明滅して文字を画面に流すのと同じように、法自体は過去・現在・未来に亘って存在すると考えました。これを「三世実有法体恒有」説と呼びます。五位七十五法以外に三科(五蘊・十二処・十八界)が知られていますが、いずれも無我を論証するための分類法です。

三、惑・業・苦と修行
 仏教においては、煩悩(惑)によって行為(業)が起こり、行為によって苦が生じると説きます。六道輪廻の苦悩から解脱するにはその根元である惑を断ち切ることが重要課題となります。
 倶舎論においては、十種の惑(心所法)を挙げ、さらに見惑(88)と修惑(81) に分類し、それらを断ち切っていく修行過程をそれぞれ見道・修道と呼びます。そして、すべてが断ち切られた段階が無学道で、阿羅漢果と呼びました。見道・修道・無学道の三道の過程を完成度で分けたものが四向四果です。すなわち、預流・一来・不還・阿羅漢の四位で、それぞれに向(過程)と果(完成)を配当しています。
 倶舎宗においては、阿羅漢果は涅槃と同じものとして位置づけられましたが、肉体が残っている間は有余涅槃(有余依涅槃 うよえねはん)であり、肉体が滅して初めて無余涅槃(無余依涅槃 むよえねはん)に到ることができると考えられていました。これを灰身滅智(けしんめっち)と言いますが、後の大乗仏教からは、それが消極的悟りであるとして批判を受けました。大乗仏教では無住処涅槃を説いています。
 また、仏・菩薩についての解釈も大乗仏教から批判を受けました。倶舎宗では釈迦牟尼仏一仏のみが認められ、それ以外は阿羅漢どまりです。また、菩薩もお釈迦さま前世の状態だけに限定された用語となっていました。これらの解釈はお釈迦さまに対する敬慕の念から生れてきたことには違いありませんが、すべての者が仏となることができるという成仏教の基本的姿勢から外れたものでした。
 大乗菩薩道と空の思想は部派仏教への批判を通して、縁起の法へ回帰する動きであったのです。
法相宗(ほっそうしゅう)
一、宗名と伝来
 法相宗の法相は、諸法の性相(しょうそう)を分析し、性よりも相の面に重きをおくところから名づけられました。性相とは存在するものの本性(ものそれ自体)とその様相(すがた)を言います。また教義の特徴から唯識宗とも呼ばれます。
 唯識の教理はインド瑜伽行派の祖師弥勒・無著・世親によって組織されました。弥勒には『瑜伽師地論』『大乗荘厳経論頌』『弁中辺論頌』、無著には『摂大乗論』など、無著の実弟である世親(四〜五世紀ころ)には『唯識二十論』『唯識三十頌』などの著作があります。世親没後は、安慧・難陀・護法などの十大論師がそれぞれ『唯識三十頌』の注釈書を著して教学的に発展しましたが、それらの中でも護法の解釈は優れたものとみなされました。
 法相唯識が中国へ本格的に伝来したのは、インドへの求法僧、玄奘三蔵(600-664)によってでした。護法の弟子戒賢に師事していた玄奘は十大論師の注釈書を得て、中国へ持ち帰りました。翻訳にあたっては弟子の慈恩大師基の勧めをいれて、護法の説を正義とし、他の九師の説をつきあわせて『成唯識論』十巻を訳出しました。慈恩大師基は多くの注釈書を著し、『成唯識論述記』二十巻などがあります。
 法相宗の日本伝来は三論宗についで古く、道昭が 653年に入唐、玄奘に師事して法相教学を学び、660年ころ帰国、法相学の第一伝となっています。

二、法相宗の教相判釈
 隋唐時代には教相判釈が一宗を建てる上で不可欠の条件となっていました。法相宗の三時教判は慈恩大師基が『解深密経』の文をもとに立てたものです。三時とは、お釈迦さまの説法を時間的順序で示したものです。

 【三時教判図】

三、五位百法と阿頼耶識

 【五位百法図】

 法相宗の五位百法は倶舎宗の五位七十五法と比較する時にその特徴が明らかになります。先にも述べたように、心王、心所が一、二に位置し、その後に色法が続き、「唯識転変の次第」がとられています。それは法相宗においては五位百法の全てが阿頼耶識から変じ出されるからです。世親はこれを識転変 vijnAna-pariNAma という用語で示しています。

 【三能変図】

この変じ出すことを能変とも呼びますが、深層から表層へという段階にしたがって上図のように三種があると説きます。
 初能変の識である阿頼耶識Alaya-vijnAnaは蔵識と意訳されます。ヒマーラヤ「雪(ヒマ)を蔵する山」のAlayaと同義です。この「蔵する」ことについて能蔵・所蔵・執蔵の三義が説かれます。@能蔵とは、阿頼耶識の中に一切諸法の種子(しゅうじ)を貯蔵していること、A所蔵とは、七転識から種子を植えつけられること、B執蔵とは、末那識から常に実我として執着されることを言います。
 阿頼耶識の中の種子が条件によって生起することを「種子生現行」、現行した諸法が新たに阿頼耶識内に種子を薫じつける(植えつける)ことを「現行薫種子」、この一連の種子→現行→種子の関係を「三法展転因果同時」と言います。植え付けられた種子は阿頼耶識の中で「種子生種子」を繰り返し、条件がそろうまで続きます。この過程は因果異時であり、唯識の時間はここで語られます。
 阿頼耶識が現行するとは、種子・有根身(我々の肉体)・器界(外界)を出現させ、それらが認識の主体(知る)と客体(知られる)となり、認識が成立することによってさらに阿頼耶識内に影響力が蓄えられることになります。このように一切が阿頼耶識から生起することを頼耶縁起と呼びます。
 末那識の末那manasは意訳すると「意」となり、第六意識と混同されそうですが、独自の意味を持たせるために末那識と音写されています。それは阿頼耶識を実我と誤認し執着し、我執の原因となるのです。阿頼耶識の「蔵」の三義においても、執蔵が最も重要な意義だと考えられています。
 以上の心王・心所がどのように認識作用を行うのかを示したのが四分説、また、その認識対象(境)を三種に分類したものが三類境です。特に、四分説はサーンキャsAMkhya学派が主張した転変説の影響を受けたものであることが分かります。
 サーンキャはカピラ(Kapila BC. 350-250頃)を開祖とするバラモン教の一学派で、数論(すろん)と漢訳されます。最古の典籍として、四世紀のサーンキヤ・カーリカー『数論頌』が現存し、その転変説は仏教の縁起説に対抗する代表的邪説とされました。転変説の概要は二十五諦説として知られています。 

 【転変説二十五諦図】

 プルシャ(神我)は純粋意識で、それ自身では働きをもたず(akartR非作者)、ただプラクリティ(原質)を観照(ダルシャナ)します。この観照を動力因として、プラクリティからブッディが生じ、ブッディからアハンカーラが展開します。アハンカーラから一方では十一根(五知根、五作根、意)が生じ、他方では五唯(paJcatanmAtrANi)が現れるとします。そして五唯から五大(paJca-mahA-bhUtAni、すなわち空 AkACa 風 vAyu 火 tejas 水 Apas 地 pRthivI)が生成されます。これらの要素をプルシャ、プラクリティと合わせて二十五諦と呼んでいます。この生成の過程または生成された結果が転変(pariNAma あるいは pariNAma-vAda 転変説)と呼ばれるものです。プラクリティについては、三つの特性が考えられており、その構成の割合によって物質に格差が生ずると考えられました。サーンキャが主張する解脱は、プルシャが物質から離れて独存kaivalyaとなった時に成立するとしています。
 以上のようなサーンキャの学説は世親が定義した識転変vijJAna-pariNAmaという用語に、また四分説にも反映しています。
 まず、唯識学派の認識論では、阿頼耶識から対象である相分と認識する作用である見分が生じると考えます。その認識を自覚する自証分とさらに自証分を自覚する証自証分が生じて認識作用は完結します。相分には阿頼耶識から転変した本質(ほんぜつ)相分と本質を見分が勝手に分別判断した影像(ようぞう)相分があると考えます。この二つの相分から三類境が示されます。@性境は、本質相分が対象となる場合、A独影境は、影像相分のみで認識が成立する場合(夢など)、B帯質境とは本質相分と影像相分の二つがある場合(錯覚など)を言います。

 【四分説図】

 四分説は護法(DharmapAla)説を拠り所としていますが、先に挙げたサーンキャ学派の転変説と同じ構造を持っています。また、転変する物質間には先天的に差別があるとするサーンキャ学派の学説はインド四姓(カースト)制度の理論的根拠となりましたが、その差別的理論は五性各別に形を変えながらも維持されたと考えられます。五性各別では、衆生が先天的に具えている素質を五種に分類し、菩薩定性・縁覚定性・声聞定性・不定性・無性を挙げます。すなわち、菩薩になる者、縁覚(独善的なさとりを開く人)になる者、声聞(小乗仏教の修行者)になる者、そのいずれとも定まっていない者、絶対に救われない者(無種性)です。これらは永久不変に区別されていると説き、『楞伽経』『解深密経』を典拠としています。

四、三性・三無性
 我々は縁起生起のものに対し、実我・実法であると誤認します。その誤りの原因である執着を破るために説かれるのが三性・三無性です。
 @遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)、A依他起性(えたきしょう)、B円成実性(えんじょうじっしょう)を三性と言います。@遍計所執性の「遍計」は「遍く計る」「ひろくはかる」ことで、具体的には意識・末那識の二識によって対象が認識されることです。この場合の対象は、先に挙げた影像相分に相当し、二識によってそれが執着されることを「所執(執せらるる)」と言います。したがって、見分・相分の間で実我・実法が誤認された状態が遍計所執性です。A依他起性は「他に依って起こる」ことで、縁起生起のものを言います。この場合の対象は煩悩に汚された有漏の本質相分です。したがって、見分・相分が縁起生起している状態が依他起性です。B円成実性は「円満・成就・真実の性」のことで真如「悟りそのもの・あるがままなこと」を言います。
 この三性を説明したものに慈恩大師基の説いた「蛇縄麻の喩え」があります。@を蛇に、Aを縄に、Bを麻に喩えるもので、縄を蛇と誤認するのが依他起の諸法を実我実法と執着する遍計所執であり、その縄も麻によってあることが円成実です。
 三性が見分・相分の関わりを「有」の面から見たものであるのに対し、三無性はそれらを「空」の立場から見たものです。それぞれ@相無性、A生無性、B勝義無性が挙げられます。三性(非空)と三無性(非有)が相まって諸法の実相である「中道」が明らかになると説きます。

五、煩悩障・所知障と修行
 法相宗では悟りの障害を煩悩障と所知障に分けます。煩悩障は我執から生じ、所知障は知識などへの執着から生じます。これらは修道において段階的に断たれ、四十一位・五位が示されます。悟りに到達して得られる涅槃と菩提は、煩悩障を転じて涅槃を、所知障を転じて菩提を得ることから「二転依の妙果」と呼ばれ、有漏の八識を転じて無漏の智を得ることから「転識得智」と呼びます。
 悟りはその働きの上から、三種の仏身・仏土として表され、自性身、受用身(自受用身・他受用身)、変化身及び、それぞれに対応する法性土、受用土(自受用土・他受用土)、変化土が説かれます。

律宗(りつしゅう)
一、宗名と伝来
 鑑真(688-763)によって日本に伝来した律宗は正しくは南山律宗、略称南山宗と言います。南山というのは、中国陝西省西安の終南山に住した南山律師道宣(596〜667)を指し、その道宣が律宗を大成したことによっています。多くの宗派は三蔵の中の経蔵・論蔵を拠り所としていますが、律宗は律蔵を拠り所としています。
 律蔵は戒律を集めたもので、仏弟子の非行に対して随時制定された(随犯随制ずいぼんずいせい)ものです。これを集めたものが、お釈迦さまが入滅された時に行われた第一回結集(けつじゅう)において優波離が暗誦した『八十誦律』であると言われています。これは後世に伝わりませんでしたが、律自体は数・解釈の点で相違はあるものの、各部派の律蔵として伝えられました。
 中国へは三世紀の中頃『僧祗律』『四分律』が伝えられ、三師七証(さんししちしょう)が揃いました。三師七証とは、比丘の具足戒を受け時に必要な三人の師と七人の証明師のことです。三師とは、正しく戒(戒律)を授ける戒和上(かいわじょう)、表白(ひょうびゃく)文および羯磨(こんま)文を読む羯磨師、受者に威儀作法を教える教授師(きようじゅし)の三師をいい、七証とは、その儀礼がとどこおりなく行われ、一人の比丘が誕生したことを証明する最低七人以上の師たちをいいます。その後、道宣によって南山律宗が立てられ、栄えました。
 日本への実質的伝来は、天平勝宝5年(753)、鑑真(がんじん)によってであった。鑑真は十二年六回目の渡航で日本へ到来し、東大寺大仏殿前に戒壇を築き、授戒を行った。その後、東大寺・下野の薬師寺・筑紫の観世音寺に戒壇院(日本三戒壇)を設けた。さらに唐招提寺を建立して律宗の本寺とした。

二、戒法と受戒
 律蔵は戒本と広律に分けられます。戒本は波羅提木叉(はらだいもくしゃprAtimokSa)と言い、比丘・比丘尼が受持しなければならない戒の個条書きです。広律は戒本の解釈で、個々の戒の起源・事情・来歴について詳しく述べる部分と、?度(けんど)と呼ばれる各種法規(二十?度)から成っています。戒本の解釈部分は、比丘・比丘尼の悪行を制止するもので、止悪門あるいは止持戒と呼び、?度部分は比丘・比丘尼の日常生活を規定するもので、作善門あるいは作持戒と呼んでいます。
 比丘・比丘尼が受持すべき戒法はそれぞれ二百五十戒・三百四十一戒であり、全てが揃っているという意味から、具足戒と呼ばれています。
 在家の男女信者は、優婆塞(うばそくupAsaka)・優婆夷(うばいupAsikA)と呼ばれ、@不殺生戒、A不偸盗(ふちゅうとう)戒、B不邪淫戒、C不妄語戒、D不飲酒(ふおんじゅ)戒の五戒を受持します。ただし、一ヶ月のうちで、八・十四・十五・二十三・二十九・三十の六斎日(ろくさいにち)には一日一夜の間、出家者に近い戒を受け、前述の五戒に加えて、E不香油塗身戒・不歌舞観聴戒、F不高広大床戒、G不非時食戒が、加えられます。
 この斎という言葉は布薩(ふさつ p. uposatha, skt. poSadha,upavAsa)の漢訳で、中国祭式用語を転用したものです。漢語の「斎」は祭祀の前に飲食や行動を慎んで身心を清めることで、転じて正午の食事のことを意味するようになり、さらに仏事に供される食事一般をも指すようになりました。
 布薩の原語の古形はupavasathaで、火もしくは神に近住する意味で、バラモン教の新月祭と満月祭の前日に行われた儀式を仏教に取り入れたものと言われています。発展段階に応じて内容や表現に相違がありますが、半月に一度、定められた地域(結界)にいる比丘達が集まって、波羅提木叉を誦して自省する集会となります。後には、月に6回、六斎日に在家信者が寺院に集まって、八斎戒を守り、説法を聞き、僧を供養する法会が盛んとなり、これも布薩と呼ぶようになります。

 受戒の作法と戒体の発得
 仏教教団への入門作法として、初期には三帰依を三唱すればよかったとされています。しかし、次第に整備されて、先に述べた三師七証が立会う中で、白四羯磨(びゃくしこんま)による作法が行われるようになりました。羯磨とは戒律の条文を要約したもので、これを羯磨師が表白文として朗読し、戒場参列の僧がそれを三度唱えます。合わせて四度、羯磨を唱えて異議が出なければ受戒は成立します。
 白四羯磨が終ると、戒律を受けた者の中に一生涯戒を守り抜こうとする力が生じるといいます。これを戒体の発得と言います。この戒体の解釈をめぐって、部派仏教と大乗仏教の相違が表れてきます。説一切有部などは色法戒体説をとり、唯識では心法戒体説をとっています。

三 化制二教判
 南山律宗では化制二教判を説きます。教法に焦点をおいた判別が「化」で、「三学」中の「定・慧」に相当します。一方、戒律に焦点をおいた判別が「制」で、「三学」中の「戒」に相当します。この「化」と「制」のそれぞれについて三段階を挙げ、南山律宗が最も優れた唯識円教に基づいていることを明らかにしています。
 大乗独特の解釈として、戒には止悪・修善・利他の三種の働きがあるとして、摂律儀戒(しょうりつぎかい)、摂善法戒(しょうぜんぼうかい)、摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)の三聚浄戒(さんじゅじょうかい)が説かれるようになりました。ここに、大乗仏教における戒律の意義が論じられるようになっていきました。
天台宗要義(てんだいしゅうようぎ)
一、宗名と伝来
 天台宗の開祖として、中国の天台大師智(538〜597)と日本の伝教大師最澄(767〜822)を挙げることができます。前者を中国天台、後者を日本天台と区別し、教義的にも異なっています。最澄は中国天台をそのまま伝えたのではなく、様々な教義を取り入れて総合的に体系づけました。ここに日本天台の独自性があります。この総合性は「円・密・禅・戒」の四種相承にも表れています。
 「円」とは中国天台の法華円教の教義であり、日本天台においても中心思想となっています。最澄が日本天台を「天台法華宗」と名づけたのもそれに依っています。
 「密」とは密教のことです。最澄が唐に留学した時、越州の順暁亜闍梨に会って密教を学び、帰国後日本で最初に密教の儀式である灌頂を修しています。その後、空海が純密を伝えて真言宗を開き、初めは両者間に交渉がありましたが、後にはとだえてそれぞれ独自の展開をとげていきました。最澄没後に、円仁・円珍が相ついで入唐して、天台宗における密教の充実が図られました。この天台宗の密教を台密と呼び、真言密教の東密との間で優劣が論じられていくことになります。また、天台宗内でも法華円教と天台密教の間で優劣が論じられるようになり、教学上の重要課題となっていきました。
 「禅」については、最澄入唐前に学んでいたという説、入唐して天台山禅林寺で学んだとする説などがあります。何れにしても、日本天台における禅の重要性は変わるものではありません。
 「戒」も最澄入唐の時、弟子の義真と共に台州の龍興寺で道邃(どうすい)から大乗菩薩戒を受けたことによっています。日本帰国後、日本独自の大乗菩薩戒単受という新たな受戒形式を生み出すことになります。
 以上のように、最澄は法華円教である中国天台教学のみによるのではなく、「密・禅・戒」をも総合した新たな日本天台を確立していったのです。この総合性は、後の天台宗徒にも継承され、新たな思想を取り込んでいくという積極的態度となっていきました。例えば密教を学ぶために入唐した円仁は、五台山で西方願生の五会念仏と出会い、これを日本に伝えました。比叡山には、最澄が伝えた念仏行法として常行三昧がありました。五会念仏はその常行三昧とともに展開していきます。平安末期から鎌倉時代にかけて、その流れの中から良忍の融通念仏宗・法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗が生れました。また、法華円教からは日蓮宗が生まれ、禅と密教からは栄西の臨済宗、道元の曹洞宗がそれぞれに影響をうけて生れています。このように鎌倉仏教の祖師たちのほとんどが比叡山で学び、天台宗から輩出したことから見ても、日本天台の融合性が理解できます。しかし、その中心思想は天台法華円教であり、それは中国天台から引き継いだ思想であります。そこで、以下に法華円教に焦点をおいて概観します。
天台宗の宗名
 「天台」とは中国の浙江省天台山に由来します。天台山という地名に因んで、天台大師智、あるいは天台宗と称されたことになります。中国天台の開祖、智(538〜597)は梁・陳・隋にかけて中国仏教を統合し、天台教義を樹立した修禅僧です。慧文(えもん)慧思(えし)の相承から第三祖ともされます。荊州華容県(湖南省北端)の出身。梁朝高官陳起祖の子で、字(あざな)を徳安といった。十五歳のとき候景の乱にあい、十八歳で湘州(湖南省長沙)果願寺で出家、諸方で修行後、二十三歳(560)光州大蘇山(河南省南端)の慧思の下で法華三昧(ほっけざんまい)を修して開悟(大蘇開悟)しました。この体験は、智の前期時代における教学の基礎となりました。
 慧思の命により法喜ら二十七人と金陵(南京)に入り、瓦官寺で法華経題を開講、陳始興王や高官除陵・毛喜らからの信奉をえました。また、金陵の僧俗も共に講を受けました。
 しかし、三十八歳の時、天台山に隠棲して、再度修行に専念し、天台山の華頂峰上で二回目の宗教的体験(華頂峰の頭陀)をえました。この体験が後の智の教学である一念三千・一心三観へと展開していきました。その後、天台山を下りて陳の禎明元年(587)光宅寺で『法華文句』を講じ、さらに『法華玄義』(593)、『摩訶止観』(594)を講じました。この三部は天台三大部と呼ばれ、『法華経』についての教義と実践の注釈書であります。智は『維摩経疏』を煬帝に献じ六十歳(597)の生涯を終えました。
 智の法華経観は天台三大部に語り尽くされていますが、それは智が講述したものを弟子の灌頂が筆録し、推敲を重ねたものであります。したがって、天台三大部には灌頂の思想も混入していると考えられます。しかし、この三大部が天台宗の思想の根幹であることは間違いありません。

 『妙法蓮華経』二十八品の概要
  法華経の伝統的解釈として、安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四と従地涌出品(じゅうじゆしゅつほん)第十五の間で区切られ、前半は方便品(ほうべんぼん)第二を中心として統一的真理(一乗妙法)が明らかにされています。(開三顕一)
 ある時、釈尊が王舎城耆闍崛山(霊鷲山)で三昧に入り、眉間から光を放って東方仏国世界を照らし出します。これを見た文殊菩薩は過去において『法華経』という経典が説かれる時に同じ奇瑞が起こったことを明らかにします。方便品では、釈尊が舎利弗に対してこの教法が甚深であり難解であることを告げます。舎利弗は三度にわたって懇願し、釈尊もそれに応えて説法を始めようとします。その時、すでに悟りに達したと思い込んでいた五千人の比丘たちが法座から立ち去ってしまいます。(増上慢四衆の退座) 釈尊は説法中、三乗を説いてきたのは法華一乗に誘引するための手立て・方便であったことを明らかにします。さらに舎利弗に対して将来仏になるであろうことを授記し、火宅の比喩を説いて三乗一乗の教を具体的に説明します。その後、多くの仏弟子に記を授けます。第十一見宝塔品では、釈迦が上記の説法をしている時に地中から宝塔がそびえたち、塔の中から釈尊の説法が真実であるとの声が響きます。釈尊は宝塔の扉を指で開き、そこに坐していた多宝如来の横に並んで坐し、説法を続けます。この時に提婆達多との前世での経緯を明らかにします。提婆達多が教法を伝えた善知識として登場するところに『法華経』の独自性が表れています。
 次に、後半は如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六を中心として永遠の仏(久遠釈迦)を明らかにするもの(開近顕遠かいごんけんのん)とされてきました。
 具体的には、宝塔中に並座した釈尊と多宝如来の前に地面から菩薩達が次々に涌き出してきて、「お久しぶりです、この世界の衆生は教化しやすいですか?」と挨拶します。はるかな過去世の菩薩たちが現在仏である釈尊にこのように告げるのは何故なのかという弥勒菩薩の疑問に対して、釈尊は自身が無量の命をもつ久遠仏であったことを明らかにします。すなわち、釈尊はすでに無量無辺百千万億那由多劫も以前に成仏しており、その間、王舎城耆闍崛山やその周辺に住して説法教化し続けてきたこと、さらには無智な衆生の依頼心を断ち、善根を積ませるために方便として入滅の様を示現したことが説かれています。その後、法華経を受持することによって得られる功徳が繰り返し述べられています。
 特に第二十常不軽菩薩品には他からの迫害に耐え忍ぶことの功徳が、第二十三薬王菩薩本事品にはわが身を犠牲にする焼身供養が説かれています。これらの強烈な信仰態度は後の法華経信者によって継承されていくことになります。

 天台三大部の中、『法華玄義』とは、法華経についての玄義という意味です。経典を解釈するに先立って、経題の意味や経の要旨を説くのを玄義、玄論、玄談といいます。智は玄義の構成を、釈名(しゃくみょう)=題名の解釈、弁体(べんたい)=題名に現された本質を明確にする、明宗(みょうしゅう)=教えの修行宗旨を明らかにする、論用(ろんゆう) =教えのはたらきを論ずる、判教(はんきょう)=仏教全体中で経の教えが占める位置を定める、という五重玄義で解明しています。
 『法華文句』は法華経の語義を解釈した注釈書です。先に挙げた法華経の前半を迹門(しゃくもん)後半を本門(ほんもん)と称し、それぞれを解釈したのもこの『法華文句』であります。
 これら『法華玄義』と『法華文句』は法華経を理論面で解明しようとした書物です。これに対して、『摩訶止観』は実践面を説いた書物であります。これらを天台では教観二門と呼び、教(理論)と観(実践)が相応してはじめて意義があるとされています。

二、天台の教判
 法華経こそが出世本懐の経であるという理解は、必然的に他経典との優劣を論ずる教判論へとつながっていきます。一般に天台教判は「五時八教」の教判で示されますが、智の著述にこの教判は直接説かれてはいません。しかし、天台宗全体の教判として整理・展開してきたと見るべきであります。
 五時の教判とは、全ての経典を釈尊一代の説法と理解した上で、それらの順序を論じたものです。それが華厳時・鹿苑時・方等時・般若時・法華涅槃時の五期であります。
 第一期の華厳時とは、釈尊が成道して後、三・七日間の説法時期であり、『華厳経』が説かれたとします。この経典は仏陀の悟りをストレートに説いたもので、勝れた能力をもった菩薩には理解できても、劣った声聞(仏弟子)には理解できない内容でした。乳から醍醐が精製される段階にたとえた五味においては、最初の乳味に相当します。
 第二の鹿苑時とは、鹿野苑で十二年間、声聞や縁覚(独覚)の二乗を教化するために阿含経を説いた時期です。五味では酪味に相当します。
 第三の方等時とは、次の八年間に方広平等の大乗の法門を説いた時期です。『維摩経』などの教えを説いて、大乗が勝れていることを明らかにします。五味では生酥(しょうそ)味に相当します。
 第四の般若時とは、次の二十二年間、大乗を求めたいという思いを起した衆生に対して、大般若経等の般若皆空の教えを説いた時期です。大乗と小乗の区別を開除して法門(教え)の融会(ゆうえ)統合を説くことから「法開会」と言います。しかし、衆生の能力の上ではまだ差別が残っていることから、五味では熟酥(じゅくそ)味に相当します。
 第五の「法華涅槃時」とは、最後の八年間の説法で、三乗がそのまま法華一乗に帰すべきであるという教えです。衆生(人)の差別がなくなることから法華の「人開会」と呼びます。ここに至って、はじめて『法華経』が諸経中の王であり、第五時以前の経典も、真実に引き入れるための方便の教えであったことが理解されるのです。
 涅槃時とは、釈尊入滅の一日一夜に『涅槃経』が説かれたとする考えによっています。『法華経』の救済に漏れた一部の人びとのために大・小二乗の法門(蔵・通・別・円)を追説し、仏性が常住であることを説きます。この法華涅槃の教えは、釈尊の最終説法であることから、五味では醍醐味(だいごみ)に相当します。
 ただし、以上述べたような五時という区別(「別門の五時」)は、釈尊の対機説法という立場から見れば、何れの時期においても常に五つの説き方が存在していたとも言えます。そのような意味で「通門の五時」という言い方がされることもあります。

三、八教判
 八教判とは、化儀四教と化法四教を合わせたものです。化儀とは教化の流儀の意味で、釈尊の説法を教化方式によって分類したものです。
 頓教(とんぎょう)は華厳時の説法に代表される方法で、頓(ただち)に悟りそのままを説くことです。漸教(ぜんぎょう)は順次に説く方法で、段階的に深い教えに導くことを言います。五時で言えば、鹿苑時から方等時、般若時への過程に相当します。第三、第四の秘密教(秘密不定教)と不定教(顕露不定教)は何れも不定であるという点で共通します。不定とは聞く者によって受け取られる内容・利益が異なることを言います。その場合、聴聞者同士がお互いの存在を意識しないことが秘密不定教であり、意識しながらも各人各様の受け取りかたをすることが顕露不定教です。以上が教化の方式ですが、このようなテクニックはそれぞれ異なった能力(機根 きこん)を持った相手に対して用いられるものです。したがって、そのようなテクニックが必要ではなくなる第五時・法華涅槃時は非頓・非漸・非秘密・非不定の教えであると考えられています。

四、化法の四教
 化法の四教とは、教化される教法の内容を、蔵教・通教・別教・円教の四つに分類したもので、天台の教えを示す重要な考え方です。大別して、蔵・通は界内(かいない)の教えであり、別・円は界外(かいげ)の教えです。界の内外とは三界(さんがい)の内外を指します。三界とは欲界(よくかい)・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)の迷いの世界です。この内界・外界を六凡四聖に配当すれば、界内は六凡(六道=地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の分段(ぶんだん)生死に、界外は四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)の変易(へんやく)生死にあたります。
 分段生死とは、迷いの世界にいる衆生が寿命の長短など限定された分段身を与えられて生死輪廻することをいい、変易生死とは、悲願力によって寿命や肉体を自由に改変しうる変易身を受けた菩薩など、迷いの世界を離れた聖者が受ける生死を言います。ただし、変易生死は完全な悟りではなく、いまだ生死に留まるものであります。したがって、界外の教えによって界外の微細な煩悩を断つ必要があるとされています。以上の界内・界外の教えのそれぞれをさらに事教と理教に分けて四教としたものが先に挙げた蔵・通・別・円です。事教の「事」とは、個別的具体的な事象・現象を、理教の「理」とは普遍的な絶対・平等の真理・理法を言います。したがって、三界中の差別的現象を説くのが蔵教、三界中の真理を明らかにするものが通教です。また、界外の差別面が別教、真理面が円教に相当します。
 蔵教とは三蔵教の略で小乗教のことです。析空観が教えの内容です。界内の具体的事象・現象について分析を行い「空」を悟ることを教えます。
 通教とは大乗初門の教えです。体空観によって菩薩は界内における人法二無我を悟りますが、それは「空」そのものに執着する但空(たんくう)の見方です。「色即是空」の一面のみにこだわるのがそれです。ただし、「空即是色」の面に考え至り、「空」を超えて別教・円教へと進むきっかけともなるので、通ずる教えという意味から通教と言います。
 別教は菩薩だけに説かれる特別な教えという意味で別教と呼ばれます。界外の広い範囲における具体的事象・現象について無量の差別を、すなわち「空即是色」の面を観察します。「空」「仮」」「中」の三観を段階的に修行して空諦、仮諦、中諦を順次に究めていきます。
 円教は大乗教の究極の教えで、天台宗教義の中心思想です。界外の真理・理性(りしょう)を明らかにします。宇宙全体(百界・千如・三千世界)が全て真如にほかならないと観ずることで、「色即是空 空即是色」二面の相即を究めていきます。これを諸法実相とも言います。諸法は事教、実相は理教を示しており、しかも「諸法即実相」の関係でなければなりません。円教が完成された時点で、諸法がそのまま実相であり、実相がそのまま諸法であるという境地が開かれます。それは、娑婆即浄土、あるいは煩悩即菩提、生死即涅槃であり、凡夫がそのまま仏であるという仏凡一体の境地であります。後の法然・親鸞の阿弥陀仏観も、この境地に至った仏を基本としています。(『各宗要義上』抜粋・一部改変)
華厳宗(けごんしゅう)要義
一、宗名と伝来
 『大方広仏華厳経(華厳経)』に基づいて開かれたので華厳宗と言います。天台教判にもあったように、『華厳経』はお釈迦様の根本正覚を説く経典と見なされてきました。
 『大方広仏華厳経』六十巻本 晋 仏陀跋陀羅訳
 『大方広仏華厳経』八十巻本 唐 実叉難陀訳
の二本があり、『十地経』・『如来興顕経』・『不思議解脱経(入法界品)』などの経典を編集したものです。別に
 『大方広仏華厳経』四十巻本 唐 般若訳
がありますが、これは「入法界品」の増広されたもので、『普賢行願品』とも言います。
 華厳宗は南都六宗の一つとして日本に伝来、『華厳経』の教説に基づいて東大寺大仏が造立(752)されたことに始まります。中国での始まりは、唐において『華厳経』によって一乗の教義が開かれたことにあります。唐の初め、終南山の法順(杜順557-640)によって『華厳経法界観門』、その門下の智儼によって『華厳一乗十玄門』・『華厳経捜玄記』などが書かれました。第一祖の法順(杜順)、第二祖の智儼に続いて、一宗を明確にしたのは、第三祖の賢首大師法蔵(642-711)であり、『華厳五教章』・『華厳経探玄記』などを著しました。
 日本における『華厳経』の講説は、法蔵の門弟、審祥が東大寺でおこなったのが最初でした。東大寺は南大門に「大華厳寺」、大仏殿に「恒説華厳院」の額が掲げられ、『華厳経』講説の根本道場でした。鎌倉時代には凝然(1240-1321)がでて、『五教章通路記』・『探玄記洞幽鈔』などを、また、諸宗の要義をまとめた『八宗綱要』を著しました。

教義と教判
 華厳宗の教義は、『華厳経』が説く根本正覚の教説に基づいた一乗の教義です。その教説を「海印三昧一時炳現(かいいんざんまいいちじへいげん)」の法と言います。また、『華厳経』を「本性に称(かな)う」という意味から「称性(しょうしょう)の本経」、それ以外の経典を「機に応じる」という意味から「逐機(ちっき)の末経」と呼びます。
 『華厳経』では、お釈迦様の根本正覚を毘盧遮那(びるしゃなVairocana, 光明遍照)如来の「悟り」として示していますが、仏陀自身の説法はほとんどなく、諸々の菩薩が讃嘆する形で説いています。その「悟り」は、蓮華蔵世界における菩薩の実践(菩薩行)として説き明かされています。
 大乗経典においては、目に見えない「悟り」を

 『華厳経』 → 釈尊の成道
 『法華経』 → 釈尊の説法
 『涅槃経』 → 釈尊の入滅

として説きます。『法華経』は『妙法蓮華経』の経題からも分かるように、「法」を蓮華によって表します、これに対して、『華厳経』は『大方広仏華厳経』のように、「仏」そのものを蓮華によって表します。お釈迦様が成道した時と場所を「海印三昧」中における「悟り」とし、その三昧中でお釈迦様と毘盧遮那如来が、現実世界の菩提樹下金剛座(お釈迦様が悟りを開いた場所)と蓮華蔵世界が一体となる中で説法が展開します。目に見えない「覚り」そのものを法身(dharma-kAya)と言います。その法身から報身(saMbhoga-kAya)である毘盧遮那如来が、さらに応身(nirmANa-kAya)であるお釈迦様が生起します。また、『華厳経』では、蓮華蔵世界には十方に同じ毘盧遮那という名前の如来が存在すると説きます。これは諸仏同証であり、毘盧遮那如来が報身でありながら法身であることを示しています。

 【七処八会図】
 
六十巻『華厳経』は七処八会の説法(七つの場所における八回の説法)であり、前図のように、@寂滅道場会、A普光法堂会は地上での説法、その後、欲界内の天界へと上昇して、B?利(とうり)天宮会、C夜摩(やま)天宮会、D兜率(とそつ)天宮会、E他化自在(たけじざい)天宮会での説法、再度、地上にもどって、F普光(ふこう)法堂、G逝多園林会での説法が展開されます。『華厳経』の中で説かれる毘盧遮那仏側の働きは、あらゆる衆生を仏にする「自覚覚他覚行窮満(じかくかくたかくぎょうぐうまん)」であり、衆生側においては菩薩行の実践が説かれます。その具体的階位が、十住・十行・十回向・十地(・等覚・妙覚)であり、B〜Eで示されます。行位は初住における初発菩提心から始まりますが、この行位は仏説を見聞して発された「信」を基盤としています。言い換えれば、毘盧遮那仏の説法を聞いて「信」を発すことから行位が始まることになります。しかも、蓮華蔵世界に遍満する毘盧遮那仏の働きに包まれている以上、「信」を発した段階において、妙覚まで進むことは確定していることになります。このことを「信満(位)成仏」と呼びます。行位に対して信位と呼び、十信とも呼ばれます。また、この信満成仏で述べられる「信」は、浄土真宗の「信」とほぼ同質なものと考えられます。

 【五教十宗判図】

同別二教と法界縁起
 称性の本経である『華厳経』を別教一乗、逐機の末教である諸経を同教一乗として同別二教の教相が説かれます。さらに前頁のように五教・十宗に配当して、『華厳経』が最も勝れた教えであることが示されています。
 『華厳経』で説かれる教義は「法界縁起」と呼ばれます。「法界」とは、真理そのものの現れとしての現実・現象の世界のことで、その観点から、事法界(事物・事象の世界)、理法界(真理の世界)、理事無礙(りじむげ)法界(真理と事物・事象とが交流・融合する世界)、事事無礙(じじむげ)法界(事物・事象が相互に交流・融合する世界)の四種法界を説きます。したがって、「法界縁起」とは究極・真実の縁起のあり方を意味し、真理そのものの現れとして、あらゆる事物・事象が互いに縁となり、自在に限りなく交流・融合しあって起ることを言います。これを「一即一切・一切即一」などと表現します。このような見方の根底には、すべてのものが何らの実体性・固定性ももっていないという〈無性(むしょう)〉の思想があります。

 【因陀羅網図】

 また、華厳教義を解説するものとして「十玄縁起」も説かれました。その中でもよく知られているのが、十門中の第七、因陀羅網法界門です。因陀羅網の一つの宝珠が、個々の無数の宝珠を映じ、しかもそれは光を拠り所とすることを喩えとして挙げます。
 さらには、華厳教学の性起説(しょうきせつ)も説かれるようになります。現象世界が諸条件に依存して生起することを縁起というのに対し、性起とは現象世界を真如・法性などの究極的な結果がそのまま生起した相であると見ます。これも縁起即性起・性起即縁起と示されるように、相即するものであります。この説は『華厳経』の宝王如来性起品に説かれます。
 以上のような法界縁起によって仏道実践を考えると、現象として現れる全ての行位は互いに相即相入しており、何れの行位においても真理の現れでないものはないと言うことになります。したがって、一成即一切成」であり、菩提心を発した時点の成仏、「初発心時便成正覚」を説きます。また、この見方を徹底させると、仏道実践の大前提である信の段階で成仏が定まるとする「信満成仏」に到達します。
 先に述べた浄土真宗の「信」とほぼ同質の「信」は蓮華蔵世界に遍満した毘盧遮那仏の働きに依っているのです。

 得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
 遊煩悩林現神通 入生死園示応化  『正信偈』
真言宗要義
一、宗名と伝来
 真言宗は大乗仏教がヒンドゥー教を始めとする多くの民間宗教と融合して成立した密教に始まります。呪法(じゅほう)・儀礼・多神教的性格などの中にヒンドゥー文化の痕跡が明確に認められます。
 初期大乗経典の中にもインド固有の神々が仏教守護者として登場します。よく知られているのが天竜八部衆です。天・竜・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩?羅迦の八種の超人的力をもった存在です。本来、邪悪な姿で現されますが、天平時代の興福寺や法隆寺五重塔の像では、仏教守護者としておだやかな姿で現されています。密教においては、

 【興福寺の阿修羅・迦楼羅図】

これらの神々が主要な働きをになうようになり、図像や曼荼羅(まんだら)に描かれていきます。
 七世紀以降のインド密教では、それらを大乗特有の思想によって意義づけ、仏教化しています。土着の宗教や文化との融合は、インドのみならずアジア各地に密教が伝播する過程で盛んに行われ、神仏習合(しんぶつしゅうごう)の形をとって各地の民族宗教と一体化して展開しました。ただし、現存するのはチベット、モンゴル、ブータン、ネパールなどのチベット文化圏と日本に限られています。
 日本へは、真言宗として空海(774-835)が本格的に導入。密教とは神秘・秘密の仏教の意味であり、また真言秘宗、真言密宗、真言陀羅尼宗とも言います。真言とは、大日如来の真言であり、マントラ(mantra明呪みょうじゅ・神咒じんじゅ)と呼ばれる呪文のことです。これを念誦すると心が総持統一するので陀羅尼(dhAraNi)とも言います。
 大日如来とは摩訶毘盧遮那(mahA-vairocana, 大遍照)如来であり、この如来の教えを説く経典として、
『大日経』七巻 善無畏訳
『金剛頂経』三巻 不空訳
『蘇悉地経』三巻 善無畏訳
の秘密の三部経があります。これらの大日如来の真言について説いた教えを正純密教(純密)、それ以外の真言について説く教えを雑部密教(雑密)と呼びます。例えば、雑密の中には阿弥陀仏についての真言もあります。大日如来は、古代イランの光明神であるアフラ=マズダーと近親関係をもち、初期仏教では転輪聖王(てんりんじょうおう)や阿修羅(あしゅら)族の王として登場します。大乗仏教では、華厳経において十方世界に遍満する法身仏の地位を獲得し、密教では大日経・金剛頂経に説かれる胎蔵曼界荼羅(たいぞうかいまんだら)・金剛界曼荼羅の本尊として重視されます。

 【大日如来図】

 法身の大日如来について、世界のあらゆるものは悉く大日如来の体(本体・からだ)であり、その相(様相・すがた)であり、用(ゆう 作用・はたらき)であると説かれます。この教義(教相)に従って、定められた行儀(事相)を修行し、「我即大日」を自覚するのです。これを「即身成仏」と言います。
 開祖空海は讃岐(香川県)の出身で、最澄と同時に唐に渡り、長安で不空の弟子である恵果から密教の奥義を授けられました。帰国後、三十六歳の時に京都の高雄山寺(神護寺)に入住し、真言密教の法灯をかかげます。それ以来嵯峨天皇(786-842)の外護のもと、真言宗の発展につとめました。また、天台宗の最澄とも親交を結び、最澄とその弟子たちに灌頂を授けています。823年(弘仁十四)、五十歳のとき東寺(教王護国寺)を与えられ、真言宗の根本道場とし、堂塔の建立につとめました。その名が示すように、鎮護国家を目的としていました。この間、空海は多くの門弟を教導し、多くの人々を教化し、真言宗の教団の基礎を築きました。835年(承和二)六十二歳で高野山に入寂し、後には、入定信仰や大師信仰もおこりました。
三会の暁待つ人は処占めてぞ在します 鶏足山には摩可迦葉や 高野の山には大師とか 『梁塵秘抄』

二、教義と教判
 真言宗の教義の中では、真言=マントラ(mantra)が重視されます。大日経に説かれる胎蔵(たいぞう)大日如来の真言として知られている「阿毘羅吽欠」は、サンスクリットのa vi ra hum khamの音写です。五字真言、満足一切智智明とも呼ばれます。この真言はもともと、大日如来を讃歎する言葉でした。しかし、地(a)・水(va)・火(ra)・風(ha)・空(kha)の五大を梵字で表現する五大種字説が確立するにともなって、「阿毘羅吽欠」も五大と対応して考えられるようになります。なお、結句に「蘇婆訶(そわか)」(svAhA、成就)を加えることもあり、俗信では歯痛止めの呪文などにも用いられます。
 この五大[skt. panca-(maha-)bhUtAni]は、地・水・火・風・空の五大主要元素のことです。倶舎・唯識などの顕教(けんぎょう)では万物を構成する要素として四大種を説きますが、密教ではこれに空大を加えた五大、さらには識大を加えた六大を説きます。六大が大日如来そのものであることを六大体大と言います。「空大」は物質として考えられた虚空(こくう)のことで、他をその中に安住させる場です。

 【五輪塔と卒塔婆図】

 五大はサーンキヤ哲学でも説かれ(p.24参照)、五つのより微細な元素(五唯 ごゆい)から生ずるものとされていました。また、五唯が生起するアハンカーラから同時に十一根(五知根、五作根、意)が生起するとする点に、識大への影響を見ることができます。さらには、すべてが原質から生成されるとする原理が大日如来の法身へと展開していったものと思われます。この類似性の中に仏教のインド的展開の跡を見ることができます。
 密教の六大が現象として現れるすがたを説くのが相大です。これに四曼相大、すなわち四種曼荼羅(mandala・輪円具足)があります。四種とは、@大曼荼羅、A三摩耶(samaya)曼荼羅、B法曼荼羅、C羯磨(karman)曼荼羅のことで、それら相大を彩色の図画によって表したのが現図曼荼羅であり、

 【両界曼荼羅図】

胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅の両部曼荼羅があります。胎蔵界曼荼羅は『大日経』によって、金剛界曼荼羅は『金剛頂経』によって表現されています。
 次に六大、四曼のはたらき(用 ゆう)を説くのが三密用大(さんみつゆうだい)です。三密とは顕教の三業に相当するもので、身密・語密(口密)・意密を言います。六大体大で述べたように、大日如来が世界に遍満している以上、この世界の全てが大日如来の用でないものはありません。全てが如来の身体であり、全ての音・言語が如来の言葉であり、それらに秘められた意味が如来の意志であると説きます。また、同時に修行者の身・口・意の三業にも如来の三密が顕現しており、如来と修行者の三密が神秘的に合一することになります。これを感応道交・仏凡一体と呼び、そこに即身成仏が成立します。
 真言密教の教判では、「顕密二教判」と「十住心判」を挙げます。顕教とは釈尊の教説であり、密教とは大日如来の教説です。応化身の釈尊と法身の大日如来を比べて、顕劣密勝を説きます。また、十住心判は修行者の宗教心を十の段階で示し、三悪道・人・天の境涯から顕教を経て密教に到達します。

 具体的事相(修行)は秘密口伝(ひみつくでん)によりますが、灌頂(かんじょう)や護摩(ごま)にはインドの儀礼の影響が認められます。護摩はhomaの音写で、バラモン教の火天Agniへの供犠に由来します。この護摩供養は済生利民のためにも行われますが、仏教本来の立場を逸脱してしまえば、単なる除災招福のための祈祷ともなりかねません。浄土真宗の念仏も、呪文として誤解された場合、同様な危険があることに留意すべきでしょう。
禅宗要義
一、宗名と伝来
 禅宗とは、達磨を初祖とする禅の法門を総称するものです。
 日本の禅宗は、末法思想が広まった鎌倉時代に成立しました。それは釈迦の教法が衰えていく中で真の悟りを求めるには如何にすべきか、という点から
出発しました。

 【慧可断臂図】

そして、この問題意識は、鎌倉新仏教の全ての祖師たちに共通するものでした。
 禅宗では菩提樹下で釈迦が実践した禅定に立ち戻り、教法(経典)に依ることなく、直接体験の中で、悟りに直結しようとしました。禅定はインドにおいても、古くは正統バラモンやその他の修定者が実践した修行法でした。釈尊もこの禅定を実践し、縁起を観じて悟りを開かれたのです。禅(dhyAna)とは散乱する心を静止すること、定(samAdhi)も散乱する心を一ヶ所に定めることで、禅も定もほぼ同義で用いられました。
 この禅定は、三学の定学、八正道の正定、六波羅蜜の禅定波羅蜜にも見られるように、部派仏教・大乗仏教の実践として一貫するものでした。しかし、天台でいう教観二門の相応、真言でいう教相事相の一致の立場とは異なり、禅宗では「教外別伝」であり、「以心伝心」の立場をとります。
 南インドから中国に来た、達磨(菩提達磨)は嵩山(すうざん)少林寺で面壁(めんぺき)九年の坐禅をしたとされています。達磨の禅は、その伝承においても特徴的です。「拈華微笑(ねんげみしょう)の法」として、釈尊から大迦葉へ、そして達磨へと「以心伝心」で伝承されたとします。『大梵天王問仏決疑経』によれば、釈尊がある時、霊鷲山(りょうじゅせん)の法座において、金波羅華(こんぱらけ)を拈(ねん)じて聴衆に示されたところ、大迦葉(だいかしょう)だけが微笑んだ。そして、釈尊はその教法が心から心へと伝わったことを明かされたと説いています。
 中国において、この禅法は達磨から慧可(えか)・僧?(そうさん)・道信・弘忍(ぐにん)へと伝えられ、五祖弘忍の門下から神秀(じんしゅう)の北宗、慧能の南宗に分かれました。南宗禅はさらに五家七宗に分かれ、日本に伝来した臨済宗・曹洞宗はこの五家に含まれます。
 日本では、栄西(えいさい・ようさい1141〜1215)が入宋して臨済宗を伝え、『興禅護国論』を著しました。それは「禅を興(おこ)して国を護ることを論じた」もので、鎮護国家という点で、密教との関連を示しています。幕府の保護を受け、京都に建仁寺を開いて真言・止観の両院に加えて禅院を建て、護国の法として禅密兼修の禅をおこしました。その後、臨済禅は幕府の帰依を受けて次第にひろまり、東福寺や南禅寺などが建立されました。
 道元(1200〜1253)も入宋して、天童山の如浄のもとで「身心脱落(しんじんだつらく)」の境地に達し、帰国して曹洞宗を伝えました。永平寺を開いて根本道場としました。道元の立場は幕府の保護を仰いだ栄西とは対照的で、『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』などの多くの著述の中で、「国王大臣に近づくこと」なく深山幽谷に住して「只管打坐(しかんたざ ただひたすら坐禅すること)を説いています。

二、教義と教判
 禅宗では経典・教説によることなく、教義も説きません。したがって、原則として、お釈迦様の説かれた諸経典に関する優劣の判断である「教相判釈」や所依の経典もありません。ただし、初期には『楞伽経(りょうがきょう)』が、六祖慧能のころからは『金剛般若経』が用いられてきました。
 このような禅の立場は「不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)」(文字として表された経典によらず、以心伝心によって伝えられること)、「直指人心(じきしにんしん)・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」(直ちに人の心を指して本性・仏性を見ること、そのことによって仏となること)と説かれます。その悟りについて、『正法眼蔵』冒頭の「現成公案(げんじょうこうあん)」には以下のように説かれています。

 自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

 ここには自力を用いることなく、万法の働きに全てを託すべきことが示されています。そこには、親鸞聖人の説かれた本願他力との一致が見られます。しかし、この句に続いて「自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。」とあるところに「止観」の立場が明示されていると言えるでしょう。

臨済禅と曹洞禅
 日本の禅宗には臨済義玄を祖とする臨済宗、道元を祖とする曹洞宗がありますが、それぞれに固有な禅風があります。その禅風は中国南宋時代の看話禅(かんなぜん)と黙照禅(もくしょうぜん)に由来するとされています。もともとこの二つの呼び名は、中国の臨済禅の大慧宗杲(だいえそうごう)と曹洞禅の宏智正覚(わんししょうがく)との間で交わされた批判的呼称でした。「黙照」とは、黙々と坐禅することが全てであるとする宏智の禅に対して、大慧が貶称した語で、宏智はそれを逆用して、黙(坐禅)の中にこそ照(慧)があり、それに対して大慧の禅では、公案(こうあん)にこだわった「看話」である反論したとされています。後にそれぞれの特徴を示す呼び名として定着しました。
 公案とは禅の問答、または問題を言いますが、元来は官庁の調書・案件を意味する法制用語の一つでした。唐末の睦州道蹤(780-877)がある参問者に答えて、「現成公案、汝に三十棒をゆるす。(即決裁判で、三十棒与えるところを、特に猶予してやる)」と言ったことに由来し、師が弟子を試し、または評価する意味の禅語となりました。
 無門慧開の『無門関』冒頭に収められた「狗子(くし)仏性」や白隠慧鶴が考案した「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」どが基本的な公案として知られています。
日蓮宗要義
一、宗名と伝来
 日蓮は『法華経』を真実の経と位置付け、それに基づいて宗名を法華宗としましたが、同経を所依とする天台宗と区別して日蓮宗とも言います。また、『法華経』の題目を唱えて即身成仏すると説くので題目宗とも言います。
 開祖日蓮(1222-1282)は安房国(千葉県)に生まれ、天台宗清澄寺道善の念仏の門に入り、後に鎌倉や比叡山、南都、高野山などを遍歴し、再び比叡山にもどって『法華経』こそ真実の教えであるとの確信を得ました。建長五年(1253)三十二歳の時、「南無妙法蓮華経」の題目を感得し、日蓮と改名します。
 建長八年(1256)以降、天災・地変・飢饉がつづく中、日蓮のみが正法を知り、真言・念仏などの邪法を止めなければ、七難が起こり外国からの侵略を受けるであろうと説法しました。文応元年(1260)には『立正安国論』を著して北条時頼に奏上しましたが、鎌倉幕府からの弾圧を受け、伊豆、佐渡への流罪に処せられました。この佐渡流罪を転機として、自分こそ『法華経』所説の上行(じょうぎょう)菩薩であるとの自覚を獲得していきました。
 上行菩薩とは『法華経』従地涌出品に説かれ、大地から涌き出でた地涌(じゆ)の菩薩の代表である上行・無辺行・浄行・安立行(あんりゅうぎょう)の四大菩薩の筆頭であります。如来神力品では、上行菩薩を代表とする地涌の菩薩は、仏に代って法華経の救いを滅後末法に弘めるようにとの付嘱(ふぞく)を受けています。
 日蓮はこの末法弘通の使命をもった上行菩薩に深い関心をもち、自ら仏の使いである上行菩薩の生れかわりであるとの自覚をもって、末法の人と社会を救おうとしました。文永十年の『観心本尊鈔』には、「上行・無辺行・浄行・安立行等は、我等が己心の菩薩なり」と示されています。弘安四年(1281)に『三大秘法鈔』を著し、翌年に武蔵国(東京都)池上で入寂しました。

教義と教判
 日蓮の『法華経』理解の特徴は本門に重点を置くところにあります。それは、末法をどのように考えるのかという点に集約されます。
 お釈迦様の時代を遠く離れ、その教えが衰微していく中で、どうすれば悟りに至ることができるのか、という問題は鎌倉新仏教に共通の課題でした。禅宗は「教外別伝・以心伝心」という見地に立って、菩提樹下の悟りに直結することを目指しました。浄土門では親鸞の著書『顕浄土真実教行証文類』の名にも示されるように、娑婆世界の虚仮(こけ)の教・行・証に対して浄土の真実の教・行・証を説き、阿弥陀仏の極楽浄土で悟ること(彼土得証 ひどとくしょう)を目指しました。浄土門に見られる「厭離穢土・欣求浄土(この娑婆世界を穢(けが)れた国土として、それを厭(いと)い捨て去り、阿弥陀如来の住む極楽世界を清浄な国土として、それを切望する)」のスローガンにもその立場が示されています。
 『法華経』は、すでに天台大師智によって、前十四品の迹門と後十四品の本門に分けられ、迹門には「開三顕一」、本門には「開近顕遠」が説かれると解釈されてきました(p.32参照)。日蓮は『法華経』本門の如来寿量品「久遠実成の釈迦牟尼仏」に注目しました。釈迦仏の涅槃は方便であり、久遠の命を持った仏であったこと、さらには、如来寿量品の文底にある「南無妙法蓮華経」の題目こそが真実の秘沈の法であるとしたのです。したがって、娑婆世界こそ寂光土であり、浄土として具現化していかねばならないと主張したのです。日蓮の布教が現実世界と関わりを持たねばならなかったのも、必然的結果であったと言えます。

 【大曼荼羅図】

 日蓮独自の『法華経』理解は、本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇で示される三大秘法に具体化されています。本門の本尊は『法華経』如来寿量品の釈迦仏であり、法身・報身・応身の三身を統一する久遠実成の本仏であります。この本門の本尊を表したのが「大曼荼羅」です。中央に南無妙法蓮華経と大書し、周囲に諸尊を配したもので、本仏の妙法に照らされて、そのはたらきを現すことを示しています。この曼荼羅は、密教の現図曼荼羅を手本に、文字によって表現したものです。
 本門の題目とは、「妙法蓮華経」の五文字で、「帰依する」意味の「南無」を冠して唱えます。
 本門の戒壇とは、この題目を唱え保つ道場を言います。戒壇とは本来授戒の道場を意味しますが、日蓮はこの題目を唱えることが持戒であり、唱える場所がそのまま戒壇であるとしました。
 このように三大秘法は『法華経』秘沈の法である「南無妙法蓮華経」を三方面から眺めたものであり、唱題こそが即身成仏の唯一の行であるとします。この題目を中心とする基本的立場は、真言密教の真言(マントラ)を引き継ぐもので、三大秘法にも六大体大・四曼相大・三密用大で示された体・相・用に通じるものがあると思われます。
五重三段・五綱判・四重興廃
 日蓮宗の五重三段の説は、天台五時判を基本に、日蓮独自の解釈を加えたものです。
 三段とは経典解釈の三分科経(さんぶんかきょう)の序分・正宗分(しょうじゅうぶん)・流通分(るずうぶん)です。中国において、経典を解釈する際に、内容により文段に区切ることが発達しました。序分は経が説かれた由来・因縁を述べる部分で、特に「如是我聞」から聴衆の名を列挙する部分は諸経共通なので通序、以下は各経典固有のものなので別序と言います。正宗分は本論に相当します。流通分は経の功能を説き、広く流布することを祈念する部分です。
 日蓮はこの三段を、釈尊一代の説法についての教判である五時に適用し(一代三段)、次に『法華経』一経に(一経三段)、さらに迹門・本門のそれぞれに(迹門三段・本門三段)適用し、ついには「如来寿量品」にも三段があって、究極の正宗分は文底に秘沈する「妙法蓮華経」であると示しました。
 五綱判は、『法華経』が最高の経典であることを五つの側面から論証するもので、如来神力品の
於如來滅後 知佛所説經
因縁及次第 隨義如實説
大正蔵 法華,華嚴部(T9. p.52b)
「如来の滅後(時)において仏所説の経(教)の因(機)縁(国)及び次第(序)を知り義に随って実の如く説く。」の文に依っています。
 四重興廃は『法華経』に関する爾前・迹門・本門・観心の四重が、後の教が興るにつれて前の教が廃されていく順序を示したものです。爾前とは『法華経』以前の教を示し、観心とは、日蓮が「如来寿量品」の「文底」にある題目を感得したことを指します。この観心について、天台教義の「諸法実相」が「理の一念三千」であるのに対して、「妙法蓮華経」は「事の一念三千」であるとしています。
諫暁(かんぎょう)と折伏(しゃくぶく)
 日蓮宗の特徴として諫暁と折伏があります。諫暁の原義は「いさめさとすこと」です。日蓮は、釈尊が聴衆に末代において教を広めるためには身命を捨ててかかるよう訓戒したことを諫暁と呼びました。転じて、幕府・民衆に法華信仰を勧める日蓮の立正安国の運動を、後世「国家諫暁」と呼び、江戸期に入るまでは、朝廷・幕府に対し『立正安国論』に申状(もうしじょう)を添えて上進し、改信をせまることが行われていました。
 折伏は摂受(しょうじゅ)と対をなすもので、折伏は「相手を破折し、説き伏せる教化方法」、摂受は「相手を摂取し、受けいれる教化方法」のことです。日本を謗法(ほうぼう)の国とみなした日蓮は、『開目鈔』(1272)の中で「無智悪人の国土に充満の時は摂受を前(さき)とす。安楽行品の如し。邪智謗法の者多き時は、折伏を前とす。常不軽品の如し」として、無智悪人には摂受、邪智謗法者には折伏をあてています。ここで、折伏の例として法華経の常不軽品が引用されたのは、智の『法華文句』によっています。常不軽品では、常不軽菩薩が人びとを軽んぜず、ひたすら礼拝の行をなしたことが説かれています。これが折伏の例とされたということは、折伏が人身攻撃ではなく、正法を惜しむ心の現れであり、慈悲の現れでなければならないことを示しています。
 諸寺諸派に対する折伏は峻厳を究め、「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の四箇格言によって論難を挑みました。社会に対する積極的姿勢は「娑婆即寂光土」に示される現実世界への関心に起因するものであり、浄土門が失いがちな側面を指摘しているとも言えそうです。
浄土門について
一、初期無量寿経典
 中国への仏教初伝が何時であったのかは明確でありません。ただ経典の漢訳に関しては、後漢の末期の第十一代桓帝(132〜 169 AD.)の頃に来朝した安息国(パルティア)の安世高(あんせいこう)と、第十二代霊帝(156〜 189 AD.)の頃に活躍した月氏国(クシャーン)の支婁迦讖(しるかせん)によって最初に行われました。安世高は『四諦経』『八正道経』『安般守意経あんぱんしゅい-』等の主に部派仏教経典(34部40巻)を訳出し、支婁迦讖は『道行般若経』『般舟三昧経はんじゅざんまい-』『首楞厳経しゅりょうごん-』等の大乗経典(13部27巻)を訳出しています。これは安息国では部派仏教が、月氏国では大乗仏教が主流をなしていたことを示しています。
 後者の支婁迦讖は前期に取り上げた月氏(支)国:クシャーン朝と関係深い翻訳僧ですが、『般舟三昧経』は阿弥陀仏の名前が初めて現れる経典として知られています。また香川教授の研究によれば、これまで支謙訳とされてきた『大阿弥陀経』もその訳語の特徴から見て支婁迦讖訳ではないかと考えられています。支婁迦讖は月氏国の人で、支讖とも言います。仏法を信じ戒律を守って精進し、多くの経典を諷誦したといいます。仏法を広めようと志して、後漢桓帝の時代末に洛陽に来て霊帝の光和中平の間において諸経を訳出したと伝えられている。その名前については支が月支の支であり、婁迦讖はloka-raksha (人民の保護者・王)のことだと考えられています。支讖訳としては、道行般若経、三巻般舟三昧経、一巻般舟三昧経、[人+屯]眞陀羅所問如来三昧経、阿闍世王経、遺日摩尼宝経、文殊師利問菩薩署経、兜沙経、阿門仏国経、内蔵百宝経、雑譬喩経、無量清浄平等覚経の十二部が現存していますが、この中、一巻般舟三昧経、雑譬喩経、無量清浄平等覚経の三部は他の訳者によるものと考えられています。
 支婁迦讖が訳したこれらの経典がどのような文字や言語で書かれていたかということについて明確な証拠は残されていません。それは中国訳経史の特色として、翻訳がすんでしまえば原典は破棄されたとい点があるからです。焼き捨てたか地中に埋めてしまったか、正確なところは伝わっていませんが原点が保存されていないということだけは確かなことのようです。しかし、クシャーン朝が紀元1〜2世紀にガンダーラ地域で繁栄したことから考えて、言語は西北インド語・ガーンダーリーであって、文字はカローシュティー文字であったと考えられます。
 このガーンダーリーが仏教史において重要な意義をもつのは、前述のように浄土教との関連においてであります。浄土教の展開史を見ると、浄土教の本質にかかわる「阿弥陀仏」「無量寿と無量光」「本願」「極楽」「浄土」などの問題について検討した場合、それらのすべてはインド北西部における展開を示唆しています。特に「極楽」(Skt. Sukhavati )は、初期の段階ではガーンダーリーの語形で仏典に記されたものと考えられています。
 すなわち(カッコ内の数字は、西暦で示した漢訳の年次を記す)、
『般舟三昧経』(179)       須摩提
『仏説大阿弥陀経』(178〜189)  須摩題
『慧印三昧経』(223〜253)  須呵摩提
『無量清浄平等覚経』(258)  須摩提、須阿提
『方広般泥?経』(269)  須摩提
『菩薩受斎経』(280〜312)  須訶摩持
『三曼陀跋陀羅菩薩経』(313〜316)  須訶摩提
『阿弥陀経』(402)  極楽
『如来智印経』(420〜479)  極楽
『仏説無量寿経』(421)  安楽
『無量寿如来会』(706〜713)  極楽
『大乗無量荘厳経』(991)  極楽
 これらの例を検討すると、「極楽」という訳語が5世紀以後に固定したこと、また、その訳語が初めて現れる『阿弥陀経』鳩摩羅什(KumArajIva)訳の例に従っていることがわかります。それ以前においてはもっぱら音写によっており、須摩提、須摩題、須呵摩提、あるいは須訶摩提と記されています。これらの音写から考えられる原音はSuhamadiで、これはガーンダーリーにおけるSkt. SukhAvatIの転訛音であると見られています。また、阿弥陀仏が初めて現れる『般舟三昧経』における字音をみると、事例が僅少であるために断言はできませんが、ガーンダーリーの痕跡と思われるものがいくらかあると見られています。これらの事実から、4世紀以前における浄土経典は言語としてはガーンダーリー、文字としてはカローシュティーあるいはクシャーナ文字で書かれていたと推定できます。
 大阿弥陀経が平等覚経に先行するものとなれば、後者は前者の校訂版として作成されたものと解釈できます。大阿弥陀経の音写による阿弥陀は、平等覚経の意訳である無量清浄と対応します。この他に阿弥陀が彌陀で訳されたところが4箇所あります。
  阿彌陀[仏] (真聖全@ p. 158, 13行)
  [阿]彌陀仏 (真聖全@ p. 145, 13行)
  彌陀仏(真聖全@ p. 162, 6行)
  彌陀仏(真聖全@ p. 179, 14行) 
  彌陀仏(真聖全@ p. 182, 9行)
 以上のような音韻上の研究に加えて現在様々な事実が明らかとなってきています。例えば、経典写本の新たな発見もその事実の一つであります。1931年のギルギット写本の発見以来大規模な写本の発見は報告されていませんでした。しかし、1990年代のアフガン内戦は世界の古写本市場に膨大なアフガニスタンおよびパキスタン出土文献の流入という結果をもたらしています。これらの写本類の大部分は欧米の研究機関あるいはコレクターに引き取られつつあります。その一例として、数年前にアフガニスタンのバーミヤン渓谷北部の洞窟で大量の仏教写本が発見されました。その中にはカローシュティー文字で書き写されたガーンダーリーによる『大般涅槃経(Mahaparinirvanasutra)』(2世紀)あるいはクシャーナ文字で書写された『八千頌般若経(Astasahasrika Prajnaparamita)』(2世紀〜3世紀)の断簡があったと報告されています。2世紀前後という時代はインドにおける般若経の成立とそう遠く離れていません。前者は仏陀最後の旅を描いた小乗涅槃経でありますが、後者は大乗経典であります。これは初期大乗経典が最初から梵語で書かれていたのではなく、それに先立って俗語の般若経がインドに存在していた直接の証拠と言う事ができるのです。さきに述べた初期浄土経典である支婁迦讖訳の『般舟三昧経』『大阿弥陀経』もほぼ同時期・同地域で成立していたものと考えられます。
二、阿弥陀仏の起源
 阿弥陀仏の起源については、多くの学説があり、いまだ確定したものはありません。過去の学説などを整理して提示しているものとして、藤田宏達教授『原始浄土教の研究』を挙げることができます。「近代学者の諸見解とその批評」には学説が大きく二つに分類されています。それは、外来起源説と内部起源説です。前者はイラン文化との関連、後者はインド文化との関連を根拠としています。


 【阿弥陀仏像台座部図】

 しかし、インドとイランの両文化の親近性から見て、両者を分断して考えること自体に問題があるように思われます。
また、紀元2〜3世紀にインドを統治したクシャーン朝がイラン系民族であったことも考慮しなければなりません。現時点で、最初の阿弥陀仏像であったと見られている像は、フヴィシカ王の銘が刻まれています。彼はカニシカ王以後の王です。内外起源説の何れであれ、文献的資料はあまり期待できそうにもありません。おそらく、今後の考古学的発見によってより具体的な研究が行われるといって良いでしょう。

 以上、「各宗要義」について、仏教学的見地を加味しながら概観してきましたが、歴史的事実が全てではないことにも十分配慮しておかなければなりません。客観的事実の考察だけにかたよってしまえば、仏教本来の「さとり」から離れてしまうのです。
 「わたし」にとって「さとり」とは何かという問題意識こそ重要ではないかと思います。