7.井戸に宙吊りの旅人は
□金 光 仏法では、自分の一生というものはいろいろな説き方がなされていて、いわれてみればそうだと思いますが、なかなか自分では気づかないものです。
■志慶眞 そうですね。読書会ではときどき、古井戸に逃げた旅人の古い説話を話します。ある旅人が罪を犯して、追手を逃れて荒野に来る。追手が迫ってきて、逃げている途中で古い井戸を見つける。そこに蔦(つた)が垂れ下がっておりましたから、急いでその蔦を伝って下に降りて隠れようとする。ところが下では、大蛇(たいじゃ)が口を開けて降りてくるのを待っている。慌てて上を見ると、白い鼠(ねずみ)と黒い鼠が蔦の蔓(つる)をかじっている。
私どもが旅人です。しかも罪を犯したということに意味があるのだろうと私は思います。私どもはみな有罪人です。生きるということは、いのちあるものを食べているわけです。どの人も忘れているけれども、実はみなそういう意味で罪を犯している存在です。白い鼠と黒い鼠は昼と夜ですね。蔦の蔓はいのち綱で、いつかは必ず切れる。切れたら下に落ちる。大蛇は死です。暗黒の死なんです。旅人は恐怖のあまり、しばらく震えていますが、その井戸の一隅に蜂の巣があるのを見つける。そこから蜜がしたたり落ちていて、思わず口を開けてそれを口に入れている間に、自分の状況を忘れてしまう。これが私たちではないか、そういうお話です。
いつかは白い鼠と黒い鼠が、このいのち綱を切って、必ず死が訪れる。これは私が十歳の時にいだいた問題に直結するわけですが、そこで、どうせ死んでしまう、生ききれないと思うか、それともこの問題の本質的な解決ができるかどうか、もしこの問題の解決ができなければ、私が十歳の時に持った問いは解決できないわけです。この古井戸の旅人の話はそういう意味で心を打ちます。
□金 光 このたとえ話の、どうすればいいかというお答えはあるのでしょうか?
■志慶眞 私はあると思います。お釈迦さまの教え、仏法というものはこの問題の解決だと私は思います。一つは、我々はこの生死の生を生きているわけです。この生死には迷いという意味があります。私どもが見ている生死は迷いです。そこで死んでゆくことはむなしいとか悲しいとかと言っているわけです。ところが、仏教が届けるものは、本質的には無生の生です。生まれるのでもない、死ぬのでもない、実はその生と死を支えている大きな世界を人間に届けようとしているのですが、無生の生といっても、私どもにはわからない。そこに方便が必要なわけで、それが往生の生だと私は思うのです。往生の生というのは大きい世界に合掌して生きることです。
実は私どもは、そこから出て、そこに帰るのだという大きい世界からの呼びかけがあるのですけれども、自分のちっぽけなエゴでそれを見えなくしている。ですからお念仏とは大きい世界からの呼びかけで我々にとってお念仏が往生の生です。そしてその肉体が滅びると、そのまま無生の生です。涅槃あるいは滅度です。
けれども我々は、煩悩がある間は、この姿婆世界を生きる以外にない。古井戸の中の旅人は、いのち綱が切れるところに死を見ている。これは生死の生です。生死の生をこの娑婆世界で超えようとしても超えられないのです。たとえばどうやっていのち綱を長くするかとか、切れないようにするにはどうするか。あるいは忘れるために地位とか名誉とかをいろいろ取り込んで、しばしの間そういう悲しみや苦しみを忘れようとしている。しかしそれでは本質的な解決にならない。とするならば、そこにぶら下がっている人間、生死の生を生きている人間そのものに問題があるわけで、この人自身が大きく転回しなければ、この問題は解決しません。
人間の内面が何によってできているかというと、やはり罪悪生死と申しますか、煩悩にまみれているわけです。その煩悩の身で生死を解決しようとしても、それはできないことだと思います。人間にできることは、その煩悩を持った、一生罪を作って生きる以外にない自分に目が覚めることです。だからこの問題は、そのいのち綱をなんとかしようということではなくて、そこにぶら下がる人間が井戸の中から大きい世界にどう出るかということです。問題そのものがすべてひつくり返って、大きな世界に転回するということになるのです。
旅人の内面は、仏教から言えば貧欲と瞋恚と愚痴なのです。「二河白道」という教えがあります。人間には超えることのできない大きな煩悩があって、その中に道が開かれる。煩悩を抱えて生きているこの旅人の中に、無生の生という大きい世界、私どもの浄土教の教えでは往生の生という大きい世界が開かれたとき、その古井戸の旅人の絶体絶命の問題に道が開ける。これは自己へのめざめの問題、つまり信心の問題だと思います。
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