1999年8月 トルコ皆既日食
1999年8月に出かけた皆既日食観測の記憶

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 出発準備〜第一日

 友人からのmailで、8月にヨーロッパで皆既日食があることを知った。友人夫妻は他の興味も兼ねて、パリ近郊で観測するツアーに2人参加するという。誘われたものの、へえ、そうなの、というのが最初の返事。
 高校の頃、地学部で天文をやっていたものの、もう十数年来これという活動はしていない。すでにバルブのきくカメラすら無くなっている。数分のためにわざわざ出かけていこうという気にはならなかった。しかし、昨年のしし座流星群の折りに、久々に一夜空を見上げてから、この手の話にはうずくものがある。それ以来、NASAのweb pageを覗いたりしているしているうちにだんだんその気になってきた。皆既日食は1999年8月11日。これなら比較的休みも取りやすい。
 今回の皆既日食は、ヨーロッパを横断する広い範囲でみることができる。広いといっても皆既日食になるのはわずかな幅のベルト上の皆既帯だけだが、皆既帯はイギリス南端をかすめ、パリ北方を通過した後、ドイツ、ハンガリー、トルコ、イランと伸びている。仮に宇宙から見たら、地球に落ちる月の影が皆既帯に沿って西から東に移動するのが見えるはずだ。肝心なのは天気。流星群と違って、日食は予測通りに必ず起こる。しかし、天気は予想できない。皆既の時間は2分あまり、どうせひとりで行くのだから、いっそ晴天の確率の高いトルコに行こうかと考えた。
 一応、家内や子供を誘ってみた。物好き、行けば、という予想通りの反応。ひとりでふらつくのは趣味に合っているのだが、今回は決まった日に特定の場所にいる必要がある。どこでも皆既になると言うわけでないので、まあ、ツアーに参加するのが無難そうだ。いろいろ集めた資料で、だいぶ様子がわかってきた。トルコ国内では皆既帯は北西から南東に走る。カスタモヌ、シバス、バットマンといった街がその上に位置している。夏のトルコは暴力的に暑いらしいが、これも東部アナトリアのことで、西部では暑いとは言うもののかなりましらしい。
 トルコへの空路はすべてイスタンブール行きだが、日本からの直行便はトルコ航空のみ。他の路線は、東南アジアのどこかで乗り継いだり、モスクワで一泊したりと、結構行きにくい国だ。トルコ航空直行便を使うことや、日程の都合の良さで日通旅行のツアーに決める。トルコ内の皆既帯では西部にあたるカスタモヌという街で皆既日食観測した後、トルコ国内の観光をする日程になっている。日本の出入りが関空で少し手間がかかるが、まあ良しとしよう。
 日程を決めたところでまた家族に聞いてみると、子供が興味を示し、一転して家族4人の旅行となった。ボーナスすべて+αかかるが、一生のうちにそうチャンスのあることでもないし、皆で行くことにする。
 出発に先立って、観測用の機材の準備をする。部分食の間に太陽を見るための日食グラス、人数分4枚。1枚700円。双眼鏡と三脚、フィルター。双眼鏡は彗星が来たときに買った7×50SP。前に書いたようにカメラはまともなものは無いから、ビデオカメラを持っていくことにする。そのための三脚とフィルター。サングラスやフィルターは金属膜をガラスに蒸着した1/10000減光するものだが、後、観測の前日になって、ビデオでは減光が不十分で太陽が白く飛んでしまうことがわかった。ツアーに参加していた人から大判の感光済み白黒フィルムを譲ってもらい、フィルタに加えて貼って調整した。ビデオでは暗さに対応して絞りを開いてしまうためだろう。書いてみると大仰だが、後でわかった他の参加メンバーに比べたら、一番身軽にのほほんと参加した一家だったようだ。
 さらに、行き先であるトルコについても本を読み漁った。ビザンチンについての本を昔に読んだことがあったが、調べて行くほど、この辺りに重層した歴史の重みに引き込まれていく。ヨーロッパとアジアの接点であり、2大宗教の聖地も入り組んで存在している。ビザンチンが千年、形を変えながら続いた後に、オスマントルコが20世紀まで続いた。現代のイメージでは、イスラム教がより排他的に見えるが、オスマントルコの時代すなわち中世では、ヨーロッパの宗教裁判などに見るが如く、排他的、半ば狂信的なのはキリスト教徒の側であったようだ。オスマントルコでは他宗教も許容され、合理性が優先されていたらしいというのが意外だった。また、現在の東部アナトリアにはクルド人はじめとする少数民族も多く、トルコ政府がトルコは単一民族と主張する一方で、言語、宗教などの複雑な様相は、多くの国、民族の変遷を物語っている。トルコ民族のルーツは中央アジアの遊牧民族を起源とする。中国史に西域の突厥という遊牧民族国家の名前が出てくるが、この突厥はテュルク、すなわちトルコである。この民族が中央アジアのサマルカンドなどオアシス国家に進出し、さらにアナトリア半島に進出して定着した。時間と空間の壮大なドラマにわくわくしてくる。
 8月8日にまずは京都へ。一泊してからの出発にした。飛行機は12時発なので9日朝に出発しても何とか間に合うのだが、子連れでは余裕持つことににした。子供は500系のぞみに乗れてごきげんである。夏の京都は暑い。加茂川の水遊びをうらやましく見ながら、三十三間堂、清水寺と歩いた。
 翌朝、関空へは特急はるかで行く。改装した京都駅は吹き抜けのエスカレータやホテルなど、様変わりをしているが、はるかに乗るホームに向かって、かつて保津峡に向かった時に乗ったホームと同じ配置であり、本来の駅の部分には面影が残ることに気がついた。
 関空までは1時間ほど、最後に海を渡って到着する。ターミナルは新しいだけに綺麗だが、色使いや作りがどこか軽々しい印象。チェックインした後、ツアーの集合を待った。最小催行は15名となっていて、わが家は4人の参加でずいぶん貢献したはずと思っていたが、集まった人数は20人を超えていた。回りの人の様子を見ても、特段日食ツアーといった雰囲気は感じられず、どこにでもありそうな海外旅行ツアーの集合風景である。そんなことはないということが後でわかったが。
 飛行機は定刻に離陸した。機体はトルコ航空だが日本航空との共同運行便になっていてJALの乗務員も乗っている。窓側の列に娘と座ったので、瀬戸内や中国山地の解説などするがあまり乗ってこない。最近の飛行機はGPSの表示なのか、自機の位置を時々スクリーンに表示しているので、窓外の風景と見合わせる楽しみが増えた。直行便というのはどこを飛ぶのだろうと思っていたが、日本海を越え中国に深く入り込んでいく。どうやら中央アジアを突っ切る、まさに直行経路をとるらしい。黄河流域を飛び、ゴビ砂漠の中に入っていく。砂漠は荒涼として、赤褐色の地肌に水の流れた痕のように見えるのは伏流だろうか。荒涼としたなかにも、ところどころ潅木のような緑のみえる場所もあって、これがオアシスなのかもしれなかった。左に天山山脈が見え、飛行機はまさにシルクロードの上を行く。
 やがて、アラル海、カスピ海を横切る。これらが載っている地図の縮尺からの錯覚で、二つとも湖くらいに思ってしまうが、どうして、海の名に恥じない大きさであった。改めて比較してみれば、カスピ海は日本海の半分ほどはある。水は青く、乾燥した砂漠を見てきた後では目にまぶしい。
 出発から12時間、現地時間では夕刻にイスタンブール上空に到着。空から見ると建物の屋根は一様に褐色の瓦のようなもので葺かれている。白壁とのコントラストが面白い。ロビーで乗り継ぎの飛行機を待っていると、ヨーロッパとアジアの接点にふさわしく、様々な国の人々が行き交う。イスラムの女性は黒いチャドルで肌を覆っている一方、その娘らしい少女はTシャツだったりするのは何故なんだろう。未婚と既婚の差か、あるいは世代とともに変わってきているのか。夕焼けを見た後、アンカラに向かった。飛行機は30人乗りほどのコミューター、ほとんどの乗客は日食を見に来た日本人とおぼしい。
 飛行機が遅れたためにアンカラのデデマンホテルに着いたのは23時近く。日本ではすでに翌日の朝である。長い長い一日が終わった。


 第二日 - アンカラ -

 アンカラはトルコの首都だ。しかし、第一次世界大戦のあとのトルコ共和国の成立に際して首都に定められたのであって、相変わらずイスタンブールが数倍の人口を持ち、アンカラはトルコ第2の都市と言うことである。とはいえ、十分に大きな都市だ。折しも今年がトルコ共和国建国70周年にあたるとのことで、街の建物の多くは70という文字と国旗からデザインした旗を壁に貼っていた。ガイドのサリーさんよると、これらの建物は政府関連のものだという。首都なので多いのだろう。彼は昨晩のアンカラ空港から合流した現地旅行会社のガイドで、関空から添乗した日通旅行の添乗員成田さんに加えて、最終日まで行動をともにした。日本語が堪能で、小柄ながら精悍な顔、たくわえてはいないが髭痕の濃いトルキッシュだ。魔法は使えませんと冗談を言う。旅行会社はGEMINI。星座の名前は日食ツアーにふさわしいかもしれない。トルコ語での読みはゲミニだった。
 また、夏休みだからなのだろう、バスの運転手の息子が同乗する。のちに12歳であることがわかったが、小柄でかわいい少年、オルクン。言葉が通じないにも関わらず、子供ともうひとり参加していた少年と、子供達同士でうまがあっていたようだ。
 出発の前に、ホテルの前でリング状のパンを買った。50cm四方ほどの板の上に数十個も積み上げて、少年が声を上げて売り歩いている。聞けば8歳であった。大変だなと思うが表情は明るい。パンは4つで50万トルコリラ。トルコは猛烈なインフレで、紙幣にも0がたくさん並んで最初は訳が分からない。日本円への換算は0を3つ取ってさらに1/3と覚える。100万TLがほぼ300円と言うことになる。
 ツアーは午前中アンカラの市街をめぐる。市街には特有の尖塔、ミナレ、Minalletを持つイスラムのモスクがたくさん見える。一日数回の祈りの時間にはミナレからコーランを流す。今は放送だが、かつては肉声であったので、ミナレの上から1/3ほどに窓とベランダ様の張り出しが必ずある。小さなものもたくさんあるが、大きなものほどミナレの本数が2本、3本と多くなる。アンカラ最大のモスクは一階部分がスーパーマーケットになっているという。奇異に聞こえるが、モスクを維持するにも当然金がかかり、古くからバザールが併設されることが多く、ここからの収入がモスクの維持費にあてられた流れを組むという。そんな説明を聞きながら、ツアーはまずオリエント文明博物館に向かった。
 アナトリアは古くから文明の起こったところで、チグリス・ユーフラテス川はアナトリアの東部に発するし、最初に鉄を使ったヒッタイトもこの地にある。博物館にはさらに古く、洞窟に描かれた動物や人の壁画や鏃などの、石器時代から年代を追った展示がされている。洞窟の壁画は何かでけがいた物なのかと思っていたら、確かに浅く線が彫られているものの、むしろそこに赤い土のような物をこすりつけたようにして線を描いているのであった。 少し時代を下ると、くさび型文字を刻んだ土器がある。なかに二重構造になった物がある。聞けば、文字を刻んで焼いた後、さらに粘土で包んで焼いた物だと言う。すなわち、外側はいわば封筒であって、信書を包んだ物ということだ。感心するとともに、半ばまで割れた展示の二重土器は、何らかの事情で宛先に届かなかった信書ということであり、何やら悲しいものがある。
 博物館を後にして、アタトュルク廟に向かう。アタトュルクとはトルコの父という意。第一次大戦で敗戦国となり、イギリス、ギリシャなどにより分割されそうになったトルコを、独立、共和国建国に導いたケマル将軍、初代の大統領に贈られた名前である。その後の旅でも、あちこちに肖像や像が見られた。廟は広場の奥の、ほぼ方形の石づくりの建物である。アタトュルクの命日などには広場が人で埋め尽くされるらしい。定期的に陸海空の兵士6名ほどが靴裏を同時に地面に付ける独特な歩き方で行進し、衛兵交替を行う。廟の左右に立った後は微動だにしない。廟の奥に直方体の大理石があり、アタトュルクの遺体はその数m下にトルコ各地から持ち寄られた土をかけられて埋葬されている。
 廟が少し小高い場所にあるために、アンカラの街が良く見渡せる。この日の空は雲ひとつなく、明日の日食の期待を高めさせるものだった。青い空に白壁の家と赤褐色の屋根が好対照をなす。ガイドのサリーさんに、なぜ皆同じ屋根の色なのかと聞いてみた。褐色は瓦を焼く土によっていて、この土地で最も容易に手に入り、かつ耐久性のある瓦ができるのだという。トルコの様式というわけでなく、それ以前のビザンチンでも使われていた。つい先ほど、博物館でみた洞窟壁画の線の赤色を思いだした。もしかしたら、あの土と同じ物であるのかもしれない。
 昼食のあとで観測地のカスタモヌに向かった。カスタモヌはアンカラから200kmほど北東にあたる。道は舗装されていて、片側一車線ながらバスはかなりの速度で飛ばしていく。道の両側は穏やかな起伏の丘陵地帯が続く。日本人の感覚ではせいぜいが牧草地にしか見えないが、ほとんどが耕作地なのだという。森林はほとんど見ることがない。時折、ひまわり畑に出くわす。若干残ってもいるが花の時期は過ぎ、茶色になった首をうなだれているか、それも刈られて、ピザを重ねたように積み上げてある。農婦や子供が1mほどの棒でその山を叩く。何の作業かと思ったが、そうして種を取っているのだった。
 当たり前の海外旅行ツアーの様相は、2日目を迎えてその実相がわかってくる。「あの地層はなんなのだろう」「石灰岩質のように見えるけど…」「この地形は典型的な河岸段丘だね…」 やがて添乗員の呼びかけで始まった自己紹介では、中学校の理科の先生、高校の地学の先生、大学院で太陽の研究、内科医だけど天文好き、日食は6回目の猛者等々。やはりわざわざ見に来るのはそれなりの人々である。カスタモヌを含む詳細地図に皆既帯を書き込んだ地図のコピーの配布や観測地の下見の打ち合わせなど、ツアーは一転して観測隊の様相を帯びてきた。
 やがて丘陵地帯から山地にさしかかる。出発前に神田のマップハウスに出かけて、トルコの地図帳を手に入れてきていて、ときどき通る街の名と見合わせていたのだが、道路地図のようなものなので、山地を越えることを予想していなかった。このILGAZ山地は小アジアの北縁に近く、ほぼ東西に走る山地の中でも大きな物であり、最高峰は2500mを超える堂々とした山脈である。山道は日本で言えば碓井峠を越えるような峠道で、バスは息を切らしながらのぼり、峠からは最高峰の白い山肌を見ることができた。のちに、この山脈こそ、プレートのぶつかった造山運動の結果であり、これに沿った断層線上に、多くの大地震の震源があることを知ったが、これは帰国後にその西端付近を震源とする悲劇のニュースを聞いたのちのことであった。
 峠を過ぎて1時間ほどで、カスタモヌの街に着く。ホテルに向かう前にまずは観測地の下見をする。開けた耕地のなかにある学校の敷地のような場所で、建物を取り壊したあととおぼしきコンクリートの上が予定地だった。暑さがしのげそうな林がすぐ脇にあり、良さそうに思えたが夜になって結局場所の変更を行うことになった。GPSを持参してきているメンバーがいて、予定地の緯度、経度を確認したところ、わずかながら皆既帯中心を外れていた。メンバー達が満足できない様子から、ガイドが街の当局にかけあったのだった。こだわりの観測隊である。
 カスタモヌは、ビザンチン時代に築かれた城塞の下にできた街で、城塞は街を見おろすように山の上に立っている。街を貫いて川が流れ、いくつもの橋がかかる。中心部はなかなかに賑やかで、広場をかこんだバザールもある。ガイドに期待しないでくれと言われたホテルは確かにバスは無いが、かつて中国でのドミトリィの経験から見たら、十分に立派に見える。
 夕食後、希望者を募って新観測地に行くというので、子供を連れて参加した。赤道儀を持ってきているメンバーは夜のうちに極軸合わせなどの準備をする必要がある。勢揃いした機材は壮観であった。いったいスーツケースにどう詰め込んできたのか、6cmのガイドスコープやら自動追尾の赤道儀が次々に出てくる。
 観測地はやはり学校の敷地で、カスタモヌ森林学校。名前は森林だが、街の中心からは少し離れた住宅街のはずれにある。芝生があり、陽射しをやわらげてくれそうな点がうちの家族には歓迎されるかもしれない。子供に星座を教えた。少し前にプラネタリウムに行っていたので、神話の話を良く覚えていた。


 第三日−カスタモヌ 皆既日食−

 やはり時差ぼけのためか、朝早く目が覚める。5時前から窓を開け空を見ると、何と言うことか、厚い雲に覆われている。昨日の雲ひとつ無いアンカラの空とうって変わった様子に、やはり、黒海に近い場所は失敗だったかとしばし後悔。天気のことは誰も責めるわけに行かないので、あきらめの境地で街を歩いてみることにした。朝が早いうちは人通り少ないが、バザールのある広場を歩いていると、何やら話しかけられる。トルコ語だからわからないが愛想は良い。城塞は歩いて行くには少し遠く、広場の回りをめぐるにとどめた。
 朝食後、今度は家族を連れて再度街に出る。その頃になるとたれ込めていた雲がいつの間にか晴れ上がり、期待の持てる空になってきた。バザールや、川を越えた広場にもいつしか沢山の人が出てきている。要所には警官が立ち、子供達は日食グラスとおぼしきを持って太陽を見上げている。どうやら、我々以外にも多くの人が日食を見るために集まってきているらしい。バザールの広場や、アタトュルクの像のある広場に集まるところを見ると、おおかたはこうした街の中でみるのだろう。やはり日本人は珍しいのか、目を引くようだが、気にしすぎるのは自意識過剰だ。
 9時過ぎに観測地に出発する。バスで5分ほど、学校の敷地はさほど広くないが、学校の中も解放してくれて、トイレや暑さをしのぐ心配は解消した。観測隊の面々は、思い思いの場所に、あるいは昨晩のうちにペグでマーキングした位置に赤道儀やカメラを設置した。わが家も一応、芝生の上に2つの三脚をたて、双眼鏡とビデオカメラを設置した。家族は芝生にシートを広げる。
 一応の柵をして我々だけの観測ができるように計られてはいたが、回りは住宅街であり、何やら怪しげなことを始めた集団を回りの子供達が放って置くはずはない。すぐに5、6人の子供達が集まってきて、1mほどの柵をよじ登るようにして「Hello! Hello! 」を連発する。英語で名前や歳を聞いてみたが、英語が話せるわけではなかった。だんだんに慣れてくると、子供達は柵を越えて入り込み、あちこちの機材を覗いて回る。危なっかしいが悪さをするというほどではない。わが家の子供達も日食グラスで覗いたりしている。くれぐれも直接太陽を見ないようにと念を押した。
 ビデオカメラにフィルタを付け、加えて譲ってもらった感光済みフィルムを前面に張り付けたりして、部分食の太陽を撮影するのに最適な条件を探す。なかなか難しかったが、フィルタに譲ってもらった2種のうち、色の薄い方を加えるのが具合がいい。双眼鏡にもレンズキャップにアイピース用のサングラスを付けたようなフィルタを付け、太陽に向けてみると、見かけからの期待以上に分解能が良く、4つある黒点の細部構造も見える。
 問題なのは三脚で、ビデオにせよ、双眼鏡にせよ、固定していても太陽の動きに追従させて時折動かさなければいけないが、バックラッシュなどでなかなかうまく行かない。赤道儀とまでは言わないまでも、少なくとも微動雲台は必要だったと後悔。
 12:58:37、第一接触を迎えた。まだ皆のどかなもので、「欠け始めたよー」と声をかけ合う程度である。気がかりは雲である。一般の感覚では晴れなのだが東から西へと高曇りの雲が動いていく。また、真偽のほどは定かではないが、日食では気温の急激な低下が起こり、これによる雲の生成がおこるという説を話す人もいた。
 ところで、日本では、雲はおおかた西から東へ流れ、天気も西から変わるが、ここでは東から動いてくる。緯度は弘前ぐらいで大きく変わらず、偏西風は同じようなものだろうから、局所的な気圧配置に因っているのか、あるいは黒海を含む大きな気流の流れがあってのことか。いずれにしても、奇妙な感じがした。
 眼視用、双眼鏡用に用意したサングラス、フィルタは皆金属膜蒸着のものだったが、太陽はいずれも黄緑色に見える。中にアルミ箔のような金属膜を用意している人がいて、見せてもらうとこれは減光しても白く見えるもので綺麗なものであった。また、家庭用のアルミ箔にピンホールをあけて、紙に写してみている人もいる。スポットが三日月状に写り、自分の名前や日付などを点描して投射し、悦に入るわけだ。よく見ると、柳の木の木漏れ日も三日月の群になって揺れている。
 皆既に近づいてくるに連れて、どうも雲量が増えてくる。ひとつひとつの雲塊の大きさや厚さも増えて、三日月型になった太陽が完全に隠れるタイミングまで出てきてしまうようになった。みなやきもきするうちにも、14:23:12の第二接触、皆既の時刻が迫ってきた。
 三日月状から、細い線のような光の帯になり、あたりがどんどん暗くなっていく。心なしか気温も下がった様に思われる。交わされるかけ声は皆既へのカウントダウンと写真の準備をする人たちの緊張したやりとりとなった。しかしながら、太陽は折しも大きな雲塊の向こうである。
 奇跡の様に、皆既の数十秒前に、雲塊の端から太陽が顔を出した。周囲は夕暮れから夜の闇になっていく。自動点灯の街灯が点灯した。太陽の縁では光が収斂し、煌めくように一点に輝いた後に皆既日食となった。忽然とコロナが浮かび上がり、左下には金星を従えた黒い太陽が浮かび上がった。写真ですでに見ていても、直接見てみないと想像できない荘厳な光の輪である。耳の奥でちりちりと音のするような気がして、腕には鳥肌が立っていたかもしれない。
 空は真黒というのではなく、良く晴れた日の日没後1,2時間後という感じか。地平線近くは明るさが残っている。数十km離れれば皆既ではないからだろう。
 双眼鏡に駆け寄る。フィルタを外して覗いてみると、コロナの細部構造まで見ることができた。写真で見ていたコロナは大方、青白くぼーっと広がったハローだが、双眼鏡で見た構造はもっとぎらぎらとうねり、まがまがしい様にさえ思えるものだった。太陽表面からおびただしく伸びだしている磁力線に対して、プラズマがまとわりつくように運動しているさまである。
 ビデオもそこそこの画像をとらえていたが、惜しむらくは位置だしが甘く、すでに黒い太陽は画面の右下に偏っていた。補正をしている時間はなく、そのままにしておくことにしたが、第3接触のダイヤモンドリングは画面の端にはみ出てしまった。
14:25:29、2分17秒後、太陽の右裾に再度煌めきを見る。失われていた光が甦る瞬間である。再度、溜息とも歓声ともつかない声があがった。学校の白壁に赤みが差し、昼の光が徐々に戻ってくる。明るさとともに、それまで周囲にあった緊張感も緩んで、人の動きも大きくなる。皆既終了から数十秒後、太陽は再度雲塊に沈んでしまった。まさに奇跡のような2分間だった。
 欠けていくのと同じように、1時間半ほどをかけて太陽が満ちていく。回りでは感動を語り合う輪ができ、やがて乾杯が始まった。15:43:36、第4接触までを見届けたのちにバスに乗った。興奮から一転してのけだるさの中、昨日の道を逆にたどってアンカラまで戻る。道程半ばで夕暮れを迎えた。大きく広がった夕焼けの中で、太陽はあらためて平常の休息を求めているかのようで、傍らには月を従えているはずであったが、もちろん見ることはかなわない。
 アンカラ着は21時過ぎ、あらためての祝杯と遅い晩餐の席上で、カスタモヌ市長名の日食観測証が配られた。粋な演出である。


 皆既中のコロナ



 ダイヤモンドリング





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