エーコの『薔薇の名前』について(13)


---中世異端まんだら

       佐藤 三夫

  [第二日]一時課:(1)アリストテレスの『詩学』

  惨めな事件のために聖務は中断され、院長は修道士たちを内陣で犠牲者の冥福を祈らせた。ウィリアムがその機会に修道士たちの様子をうかがうと、図書館長の助手ベレンガーリオの顔が青ざめて、汗でひかっていることを認めた。彼はアデルモと同性愛関係にあったらしい。図書館長やヨルゲは平然とした顔つきをしていた。ところが前日に写字室で知った修辞学の研究者ベンチョ・ダ・ウプサラがいらだった動きを示していた。 ウィリアムは彼を回廊へみちびいて、詰問した。「アデルモの欄外の絵について、君とベレンガリオとヴェナンツィオとマラキーアとヨルゲが議論したあの日、いったい何が話されたのか」とウィリアムは尋ねた。

  ベンチョは「ヨルゲが言うには、真実を含む本をこっけいな画像で飾るのは正当でない。そしてヴェナンツィオは、アリストテレス自身が真理をよりよくあらわにするための手段として、しゃれや言葉の遊びについて語った。それゆえ笑いが真理の伝達手段となりうるとするならば、悪いものであるはずがないと述べた。ヨルゲは、アリストテレスは『詩学』のなかで、隠喩に関してこれらのことを語ったと言った」(p. 111. 訳、上、p. 176)。

  『薔薇の名前』においてはアリストテレスの『詩学』の現存しない第2巻が主題になるのだけれども、この第2巻は喜劇が中心になり、そこに「笑い」の正当性が問題とされていると想定されている。だから「ヴェナンツィオは、アリストテレス自身が真理をよりよくあらわにするための手段として、しゃれや言葉の遊びについて語った。それゆえ笑いが真理の伝達手段となりうるとするならば、悪いものであるはずがないと述べた」というのはその辺のことを指しているものと思われる。

  しかしアリストテレスは『詩学』第5章の冒頭に、「喜劇とは、普通の人よりもどちらかと言えば下劣な人々のことをまねて再現するのであるが、しかし、それだからと言って、何も、悪のすべてにわたる、というわけではない。再現の対象となるものは、むしろ、みにくさであり、滑稽もこれの一部に属している。例えば、滑稽は確かに一種の失態であり、それゆえまた、醜態であり、その意味では劣悪なものではあるが、別に他人に苦痛を与えたり危害を加えたりする程の悪ではない」(アリストテレス『詩学』今道友信訳、アリストテレス全集17、岩波書店、1972年8月、pp. 27)と言って、滑稽を「他人に苦痛を与えたり危害を加えたりする程の悪ではない」と言っているのであるから、これを全面的に退けるべきものとはみなしていない。

  またアリストテレスはその『弁論術』第1巻第11章において、「また遊戯は、そしてすべての気晴らしは快いものどもに、また笑いも快いものどもに属するから、必然に人間にせよ、言葉にせよ、行為にせよ、滑稽なものどもは快いものでなくてはならない。しかし滑稽なものどもについては、別に『詩学』において規定された」(アリストテレス『弁論術』山本光雄訳、アリストテレス全集16、岩波書店、1968年12月、p. 73)と言っている。さらに『弁論術』第3巻第18章においては、「滑稽なことについて言うと、それは討論においていくらか有用性をもっていると思われるし、またゴルギアスが反対者の真面目は笑いをもって、笑いは真面目をもって滅ぼさねばならぬと言った---それも正しく言ったのだから、すでに『詩学』において滑稽なことはいくつの種類をもっているか、そしてその或るものは自由人にふさわしいが、他のものはそうでないということが述べられた、それは自分にふさわしいものを受け入れることができるためにであった。しかし皮肉は道化よりも自由人によりふさわしいものである。というのは前の者は自分自身のために滑稽なことをするのであるが、後の道化者は他人のためにするのであるから」(同上、pp. 267-268)と言っている。それゆえ、彼は「笑い」を自由人にふさわしいものと、ふさわしくないものとに区別していることが知られる。そしてそれが自由人にふさわしい限り、笑いは正当性をもちうることになる。

     ***

  ところでヨルゲは「『詩学』の本はすでに不穏な状況が問題となっていた。なぜなら、それは長年おそらく神の命令によってキリスト教世界に知られぬままであったのが、不信心なムーア人を通じてわれわれのもとに到達したからである」(p. 119. 訳、上、pp. 176-177)と言った。それに対してウィリアムは「しかしそれはアクイノの天使的博士の友によってラテン語に翻訳された」と言い、またベンチョは「わたしはギリシャ語がよく読めないので、ギョーム・ドゥ・モエルベークの翻訳を通じて、あの偉大な本に近づくことができた」(Ibidem. 同上、p. 177)と言った。

  ウィリアムやベンチョの言ったように、アリストテレスの『詩学』は、モエルベークによってラテン語訳された。そしてバーナード・ドッドが「ラテン的アリストテレス」という論文においていっているように、「それ以前には翻訳されたことはなかった」(Bernard Dod: Aristoteles latinus, in the Cambridge History of Later Medieval Pholosophy, edited by Norman Kretzmann et al., Cambridge University Press, 1982, p. 49)し、また「『詩学』はギョーム・ドゥ・モエルベークによって翻訳されたけれども、知られぬままにとどまった」(Ibid., p. 45)ことも事実であった。しかしヨルゲが「『詩学』の本はすでに不穏な状況が問題となっていた。なぜなら、それは長年おそらく神の命令によってキリスト教世界に知られぬままであったのが、不信心なムーア人を通じてわれわれのもとに到達したからである」と言ったことからすると、彼はモエルベークの訳ではなくて、アラビア人の訳を読んだことが考えられる。

  バーナード・ドッドのつくった「アリストテレスの著作、およびギリシャやアラブの注釈の中世ラテン訳の表」によれば、アリストテレスの『詩学』はモエルベークの訳(1278年)のほかにはアヴェロエスの注釈(1256年)があるのみである。それゆえヨルゲのいう本はこのアヴェロエスの注釈を指すのだろうか。仮に『詩学』のアラブ訳からの他の翻訳があるとしても、われわれはドッドによる次の指摘に留意すべきであろう。すなわち、「西欧がアラビア語からの翻訳を通じてそのアリストテレスを学んだという執拗な伝説がある。しかし事実は、西欧は、いっそう理解しうるギリシャ語-ラテン語訳がない場合にのみアラビア語-ラテン語訳に向かったということである。アラビア語から広い流布を成し遂げる唯一の翻訳は、『天体論』、『気象論』I-III、『動物誌』、『形而上学』であった。そして『動物誌』を除いて、これらすべてはすぐさまギョーム・ドゥ・モエルベークの翻訳によって置き換えられた」(ibid., p. 52)。少なくともルネサンスに至るまでの間、モエルベークの翻訳以外にアリストテレスの『詩学』のラテン訳があったとは考えられない。

  さらにアリストテレスの『詩学』についての中世における関心度はかなり低かった。13世紀以降ボローニャやパリやオックスフォードなどの大学においてアリストテレスの『詩学』の授業が行われた形跡がほとんどない。ブライアン・ヴィッカーズのルネサンスにおける哲学と人文主義的学科における「修辞学と詩学」という論文において、中世において、「アリストテレスの『詩学』は翻訳されたが、ほとんど普及も影響もしなかった。アヴェロエスによるそれのパラフレーズは、それを誇示的な修辞学と同一視することによって、広く流布され、影響した。修辞学と同一視されなかったとしても、『詩学』は論理学的著作として教えられた。アリストテレスの『修辞学』(弁論術)は、ギョーム・ドゥ・モエルベークのラテン語訳において、100以上の写本において残存している」(Brian Vickers: Rhetoric and poetics, in The Cambridge History of Renaissance Philosophy, edited by Charles Schmitt et al., Cambridge University Press, 1988, p. 724)と言っている。『詩学』はルネサンスにおいても修辞学や道徳と同一視された(Ibid., pp. 718-719)。『詩学』への関心が広まるのは16世紀になってからである。

  ポール・オスカー・クリステラーはその『古典とルネサンス思想』のなかで、「『詩学』は、ラテン中世にまったく知られなくはなかったが、なお比較的に無視されていたが、ヒューマニストたちを通じて広く流布され、16世紀には、批判的な議論や文学の大きな一群を引き起こした標準的なテキストとなった。そしてアリストテレスの『詩学』の権威が彼の『自然学』の転覆を目撃した同じ17世紀にそのクライマックスに達したことを注意するのは奇妙なことである」(Paul Oskar Kristeller: The Classics and Renaissance Thought, Harvard University Press, 1955, p. 40)と言っている。しかしアリストテレスの自然学や論理学が圧倒的に大学を制した13世紀や14世紀には、『詩学』はほとんど見向きもされなかった。その時代に、『薔薇の名前』に登場する修道院で『詩学』が大きな関心を引いたとは、まったく奇妙な話である。

     ***

  ベンチョの話によると、ヨルゲはさらに第二の不穏な状況として、アリストテレスが『詩学』において詩について語ったということであり、「詩は最低の教説であって、虚構で生きているものだ」と言ったという。そこで「ヴェナンツィオが詩編も詩の作品であって、隠喩を用いていると言った。ヨルゲは腹を立てて、詩編は神的な霊感の作品であって、真理を伝えるために隠喩を用いるが、異教徒の詩人たちの作品は虚偽を伝えるために隠喩を用い、単なる快楽を目的としている」と言った。しかしヴェナンツィオやベンチョの見方によってのみならず、ヨルゲの説はゆがんでいると見なさざるをえない。たとえば、ホラティウスの『詩法』によれば、「正しく書くことの基礎や源は、知識である。書く内容はソクラテス派の書いたものがあなたに示してくれる」(Horace: De Arte Poetica, The Loeb Classical Library, 1976, p. 476)。ソクラテスおよびその派の者たち、たとえばプラトンなどは、真理以外のものを書くことを意図したろうか。またホラティウスは同書のなかで、「学識があり模倣する者たちには、模範として実生活と風習を観察してそこから生きた言葉を引き出すように勧めたいと思う」(Ibidem)と述べている。それゆえ、ホラティウスが詩において虚偽を伝えようと意図しているという非難は的はずれと言わざるをえない。ホラティウスの『詩法』は、中世やルネサンスにおいてアリストテレスの『詩学』よりも多く読まれて模範とされたものである。

  またアリストテレスも『詩学』において、「一般に詩の技法が生まれるに至った原因として二つ程大きなものがあると思われるが、その二つとも自然的本能であると思われる。すなわち、先ず模倣して再現すること(ミメイスタイ)であるが、これは人間には子供の頃から自然に備わった本能であって、人間が他の動物と異なる所以も、模倣再現に最も長じていて、最初にものを学ぶのもまねびとしての模倣再現(ミメーシス)によって行なうという点にある。次にまた、模倣して再現した成果をすべての人が喜ぶということ、これが第二の原因であるが、これも自然に備わった本能である。---ものを学ぶということは、ひとり知を愛し求める哲学者にとって最大の楽しみであるばかりでなく、それにあずかる程度が限られているにしても、他の一般の人々にとっても、同様に楽しみであることには変わりがない」(今道友信訳、pp. 23-24)と言っている。アリストテレスもその『詩学』が模倣再現(ミメーシス)の詩学である限り、詩が虚偽を伝えることを意図するものと考えたとは思われない。

  さらにアリストテレスは歴史と詩を比較対照しながら、「歴史家はすでに生起した事実を語るのに対し、詩人は生起する可能性のある事象を語る。このゆえに、歴史に較べると詩の方が、より一層哲学的つまり学問的でもあるし、また品格もよりいっそう高い次第である。その理由を更に換言してみれば、詩が語るのは寧ろ普遍的な事柄であるのに対し、歴史が語るのは個別的な事件だからである」(同上訳、pp. 38-39)と言っている。詩が哲学のようなものであるならば、哲学が虚偽を語ることを意図しないように、詩もまた虚偽を語ることを意図するものでないと言うべきでなかろうか。以上のことからすると、ヨルゲはホラティウスの『詩法』もアリストテレスの『詩学』も読んだかどうか疑わしいと言わざるをえない。

     ***

  ベンチョによると、「ヴェナンツィオはギリシャ語をよく知っていた」とのことである(p. 120. 訳、上、p. 178)。しかしこれはかなり疑わしい。ヴェナンツィオという名前は、ブルーノ・ミリオリーニとカルロ・タッリアヴィーニとピエロ・フィオレッリによる『正字法と発音辞典』によると、エミーリアやウンブリアやマルケ地方の名前に由来している(Bruno Migliorini・Carlo Tagliavini・Piero Fiorelli: Dizionario d'Ortografia e di Pronunzia, Edizioni RAI, 1981, p. 732a)。つまりギリシャ系の名前ではない。ヴェナンツィオがギリシャ人であるとか、あるいはシチリア地方のギリシャ系のイタリア人であるというなら分からぬことはない。またはビザンティウムと交易のあったヴェネツィアの商人であったというわけでもなかろう。その彼がいかにして独学でギリシャ語をマスターしたのであろうか。ラテン世界にギリシャ語の初等文法書もない時代に、いかにしてギリシャ語の独学が可能であったろうか。

  イタリアにおけるギリシャ語の最初の真の教師はマヌエル・クリュソロラスであった。彼はビザンテイゥム皇帝の使節としてイタリアを訪れ、1397年にフィレンツェ大学のギリシャ語の教授となり、ヒューマニストたちに多大な影響をあたえた。彼は西欧において初めてギリシャ語の文法書を書いた。彼以前にもカラブリア生まれのバルラームやレオンツィオ・ピラトがペトラルカやボッカチョなどと接触したが、ギリシャ語を西欧に根づかせることはできなかった。アリストテレスをギリシャ語原典からラテン語訳したモエルベーク(Guillelmus de Moerbeka. 英語つづりではWilliam of Moerbeke. c. 1215/1235-c. 1286)は、フランドルとブラバンとの国境で生まれたが、ドミニコ会士となり、『中世辞典』によると、1260年早くにはギリシャのテーベのドミニコ会修道院に、またその年の4月24日にはニケアにいたと言われ、1278年4月にはコリントの大司教に任命されたとのことである(Dictionary of the Middle Ages, vol. 12, p. 640b)。彼は1278年にアリストテレスの『詩学』を初めてラテン語に翻訳した。ヴェナンツィオがモエルベークのように直接ギリシャに住んで、勉学したとするなら、彼がギリシャ語に熟達したことは理解できる。しかしもしそうであったならば、彼はギリシャ語およびギリシャ文化の西欧におけるパイオニアとしてたちまち有名になり、モエルベークと同じ道をたどるか、大学教授として招聘されるか、東西教会合同のための大使となるかして、いずれにしても修道院の一介の写字生などにはならなかったであろう。

  ともかく『薔薇の名前』に帰るとして、ギリシャ語に熟達したヴェナンツィオの言うところによれば、「アリストテレスは『詩学』の第二部を特に笑いに捧げていた。そしてあの偉大な哲学者が第二部全体を笑いに捧げていたとするならば、笑いは重要なものであるに違いなかった。---そしてヴェナンツィオは、彼の知るかぎり、アリストテレスは笑いを善きものとして、また真理の道具として語っていたと言った。その時ヨルゲは、ひょっとして彼がアリストテレスのこの本を読んでいたかどうか、あざけって彼に尋ねた。そしてヴェナンツィオは、それを読むことのできた者はまだ誰もいない、なぜならそれはもはや見出されなくなり、たぶん失われてしまったからだと言った。そして実際、『詩学』の第二部を読むことのできた者は誰もいないのであって、ギョーム・ドゥ・モエルベークもそれを手にすることはなかった、と。その時ヨルゲは、その本が見つからなかったとするならば、それは書かれなかったからではないか、無用なものが賛美されることを摂理が望まなかったからではないかと言った」(p. 120. 訳、上、pp. 178-179)。

  さて、『詩学』の第二部は、ヨルゲの言葉にもかかわらず存在したらしいことが知られている。『詩学』を翻訳した今道友信氏はその「訳者解説」において、「本来、本書すなわち悲劇および叙事詩を論じた現在の26章に及ぶ第一巻と、その後に喜劇を論ずる第二巻とがあり、恐らくその第二巻の最後において、詩全体に就いての比較優劣などに関する構想が秘められていたにちがいない。プラトーンもこころみ、アリストテレースの時代にも愛誦されていたさまざまの抒情詩に就いての記述も、そのなかに当然含まれていなければならなかったのではなかろうか」と述べている(『詩学』訳、p. 220)。また今道氏は『詩学』の「第一巻劈頭にあげられた本書全体のテーマ及びその展開と章との対照表」のなかで、第二巻の展開内容が、風刺詩、喜劇、カタルシス、詩と教育であると記している(『詩学』訳、pp. 116-117)。そして第二巻のごく一部について古写本があったことも指摘しておられる。

   (つづく)

 『薔薇の名前』(14)
 Return to the Homepage
 Return to the Palace of ESSAYS