ミラノの領主ヴィスコンティ家系譜(1)

  
     ミラノの領主ヴィスコンティ家系譜
  (Cf. The New Century Italian Renaissance Encyclopedia, Edited
  by Catherine B. Avery, New York, Meredith Corporation, 1972.
    以下各領主名の前にある冒頭の丸カッコ内の数字は、継承の順序を示す )

  (1)ヴィスコンティ、オットーあるいはオットーネ(Visconti, Otto or
  Ottone)
    ミラノの大司教でヴィスコンティ家の資産の創立者。1207年に生まれ
  、1295年8月8日に死去。彼は教会の多くの重要な地位を占めた。1257
  年にミラノの大司教の玉座が空位になり、司教座聖堂参事会員たちは一人の
  候補者に合意することができなかった。教皇ウルバヌス4世(Urbanus IV)
  はオットーネを大司教として任命した。そのころミラノにおける最も有力な
  家はトッリアーニ(Torriani)家であった。その家の成員は多くの年月にわ
  たって人民の隊長(capitano del popolo)となった。彼らはまたローディ
  (Lodi)、ノヴァラ(Novara)、コモ(Como)、ヴェルチェッリ(
  Vercelli)、およびベルガモ(Bergamo)のようないくつかの近隣都市に
  よって領主として認められていた。ウルバーヌスがオットーネを大司教に任
  命したことは、彼らの権力を抑制することであった。トッリアーニ家はこの
  任命を論ばくし、争いが勃発した。そして教皇はミラノ市に聖務禁止(
  interdict)を課した。新しい教皇クレメンス4世(Clemens IV)が彼を
  支持しそこなった時、オットーネは亡命をよぎなくされた。彼は自分のまわ
  りに追放された多くのギベリン党の貴族たちを集め、トッリアーニ家に対す
  る彼の闘争をつづけた。1287年に彼はナーポ・デッラ・トッレ(Napo
  della Torre)と彼の親戚の者たちのうちの5人を捕らえ、彼らを三つの鉄
  の檻のなかに監禁した。彼はミラノに入った。そこで彼は抑圧された民衆か
  ら熱狂的に歓迎され、シニョーレ(signore)にしてその都市の事実上の支
  配者として認められた。クレモーナ(Cremone)とローディ(Lodi)もま
  た彼を受け入れた。彼は今や彼の統率力を認めたいくつかの都市のなかに、
  追放されたギベリン党員たちを呼び返した。そして有効に、また穏健に、彼
  の支配を打ち立てた。同じ年(1287)に彼は、彼の甥の息子のマッテオ1
  世が人民の隊長(capitano del popolo)に任命されるようにした。彼の親
  戚を安定した地位に築いた(そしてミラノを決定的に公国とした)オットー
  ネは、政治的闘争から身を引き、教会の職務に専念した。彼はミラノから数
  マイル外のキアラヴァッレ(Chiaravalle)の大修道院で死んだ。彼はその
  修道院にその晩年引きこもっていた。

  (2)ヴィスコンティ、マッテオ1世(Visconti, Matteo I)[イル・グ
  ランデ Il Grandeと呼ばれた]
    ミラノの支配者。1250年8月15日インヴォリオ(Invorio. ノヴァラ
  )に生まれた。1322年6月24日にミラノで死去。彼はオットーネ大司教の
  甥の息子であった。そしてオットーネの助けによって1287年に人民の隊長
  に任命された。しかしながら、オットーネ大司教によって打ち負かされた
  (1277)ミラノの有力な家族のトッリアーニ(Torriani)家はミラノに帰
  り、マッテオに亡命をよぎなくさせた(1302)。彼は自分のまわりにギベ
  リン党の貴族たちや亡命者たちを呼び集めた。そして皇帝ハインリッヒ7世
  (Heinrich VII)がイタリアに降下した時、皇帝の目から見てトッリアーニ
  家を信用させないようにすることに成功した(マキアヴェッリが語るところ
  によれば、彼は争いをかき立て、トッリアーニ家はそれを鎮めようとしたが
  、そのためにマッテオと彼の息子たちはトッリアーニ家を襲って、その騒動
  を彼らのせいにした)。ハインリッヒは彼を皇帝代官に任命した(1311)
  。皇帝がひどく必要とした資金をマッテオが彼に調達することができたとい
  う事実によって、皇帝はそうするように促されたのである。皇帝から支持さ
  れたことによって、マッテオは教皇権やグエルフィ党と衝突することになっ
  た。そして彼の生涯の残りの多くは、彼らの攻撃をかわすことに従事した。
  1215年までに彼と彼の息子たちは、ピアチェンツァ(Piacenza)、ベル
  ガモ(Bergamo)、ローディ(Lodi)、コモ(Como)、クレモーナ(
  Cremona)、アレッサンドリア(Alessandria)、トルトーナ(Tortona
  )、パヴィア(Pavia)、ヴェルチェッリ(Vercelli)、およびノヴァラ
  (Novara)を支配した。1317年に教皇ヨハネス22世(Joannes XXII)と
  のはげしい闘争が勃発した。教皇をなだめるためにマッテオは、皇帝代官
  (vicario imperiale)という彼の称号を放棄したが、ミラノや多くの都市の
  領主にとどまった。教皇や、グエルフィ党や、ナポリのロベルトや、利害関
  係のあるトッリアーニ家は、北イタリアにおけるヴィスコンティ家の増大す
  る力を恐れ、彼に反対して結合したが、何の役にもたたなかった。彼はロベ
  ルト王をジェノヴァに閉じこめ、フランス人を追い出し、教皇が彼に対して
  起こした十字軍の将軍を打ち負かし、イタリアへやって来たドイツ人と調停
  に達し、それによって彼らの軍隊は撤退した。教皇はマッテオとその息子た
  ちを破門し(1320)、ミラノに聖務停止を課した(1321)。穏健で賢明
  な支配者であり、有能な将軍であり、彼のライバルをなだめるために金の力
  を理解していた外交官であり、暴君的犯罪によって汚れることなく、人民を
  思いやるマッテオは、ミラノ人たちによって愛されていた。彼はまた信心ぶ
  かい男であった。破門によって目覚ませられた彼の魂の恐怖が彼にひじょう
  に影響したので、気づかった彼の息子たちは退位するよう彼を納得させた。
  彼は手綱を息子のガレアッツォ(Galeazzo)にゆだね(1323年5月)、そ
  れ以後善業に専念する誓ったが、一ヶ月後に死んだ。彼はガレアッツォ(
  Galeazzo)、マルコ(Marco)、ジョヴァンニ(Giovanni)、ルキーノ
  (Luchino)、およびステーファノ(Stefano)の5人の息子たちを残した
  が、同様に多くの娘たちを残した。ガレアッツォ、ジョヴァンニ、ルキーノ
  、およびステーファノの息子たちはつづく歳月においてミラノ領の支配者と
  なった。マルコは殺害された。

  (3)ヴィスコンティ、ガレアッツォI世(Visconti, Galeazzo I)
    ミラノの支配者。1277年ころ生まれる。1328年8月6日ペッシャ(
  Pescia)にて死去。彼はマッテオ1世イル・グランデ(Matteo I Il
  Grande)の息子であった。彼はマッテオ1世と運命を分かち合い、マッテ
  オ1世にとって有能で精力的な副官であった。1302年に彼は彼の父にした
  がってフェッラーラ(Ferrara)に追放された。その地で彼の妻ベアトリー
  チェ・デステ(Beatrice d'Este)は彼の息子アッツォ(Azzo)を産んだ。
  フェッラーラから彼は行政長官(Podesta`)としてトレヴィーゾ(Treviso
  )へ行った。1311年彼は父といっしょにミラノへ帰った。そしてライバル
  のトッリアーニ(Torriani)が皇帝ハインリッヒ7世(Heinrich VII)の目
  に信用を落とすような陰謀にくわわり、成功した。彼は父とともに教会やグ
  エルフィ党に反対して戦い、この原因でフィリップ・ドゥ・ヴァロア(
  Philippe de Valois)のもとにあるフランス軍を撃退したので、教皇ヨハ
  ネス22世(Joannes XXII)がマッテオにくわえた異端や魔術の嫌疑での破
  門(excommunication)の禁令(ban)のなかに、彼も含まれた。しかし
  ガレアッツォは、彼の父ほどにはそれによって抑圧されなかった。そして
  1322年5月に彼の父が退位した際、ミラノの支配に成功した。同年のもっ
  と後に、復帰したトッリアーニによってミラノから逃げることをよぎなくさ
  れた。教皇はミラノに対する十字軍を説教した。十字軍はミラノの壁の下に
  野営した。ガレアッツォはそれを追い払った(1323年6月)。彼の敵を撃
  退し、グエルフィ党の脅威を消し去ったので、彼はミラノと彼の支配のもと
  にある諸都市を1327年まで平和に統治した。その年に神聖ローマ皇帝バイ
  エルンのルートヴィッヒ(Ludwich)がイタリアに降下した。彼をもてなし
  たガレアッツォの富と、彼のよく訓練されたドイツの傭兵たちによって、彼
  の強欲が目覚ませられた。その強欲を満足させるために彼は、彼の皇帝代官
  をその息子たちや兄弟たちといっしょに逮捕して、モンツァ(Monza)の城
  に投獄した。それからルートヴィッヒはドイツ人たちを誘って財宝を奪い取
  ることに取り掛かった。ルートヴィッヒが彼自身の安全の頼みとしていたル
  ッカの領主カストルッチョ・カストラカーニ(Castruccio Castracani)の
  おかげで、ガレアッツォは解放されて、皇帝の寵愛を回復した。彼は翌年死
  去し、その息子アッツォによって相続された。

  (4)ヴィスコンティ、アッツォあるいはアッツォーネ(Visconti, Azzo
  or Azzone)
    ミラノの支配者。1302年フェッラーラ(Ferrara)に生まれる。1339
  年8月16日に死去。彼はガレアッツォI世(Galeazzo I)とベアトリーチ
  ェ・デステ(Beatrice d'Este)の息子で、マッテオI世イル・グランデ(
  Matteo I Il Grande)の孫であった。ガレアッツォ(Galeazzo)の忠実で
  精力的な息子であった彼は、グエルフィ党に対する彼の父の戦いに参加し、
  アルトパッショ(Altopascio)においてカストルッチョ・カストラカーニ
  (Castruccio Castracani)によるフィレンツェ人たちの打破に加わった
  (1325年)。彼は不実な皇帝ルートヴィッヒ4世(Ludvich IV)によって
  彼の父および伯父たちといっしょにモンツァ(Monza)において投獄されて
  しまった。だが数ヶ月後に全員が釈放された。そして1329年初めまでにア
  ッツォは皇帝と協定が成立し、皇帝代官(vicario imperiale)に任命され
  た。彼がまた教皇との和解を獲得しようと試みた時、ルートヴィッヒは激怒
  してイタリアへふたたび彼の軍隊を送った。アッツォは強欲なルートヴィッ
  ヒを25,000フロリンの金を払って追い払うことができた。アッツォの政策
  は、グエルフィ党とギベリン党を等しく公平に統治することだった。温和で
  分別のある人であり、賢い支配者であった彼は、秩序を再建し、彼の領土を
  広げた。皇帝ハインリッヒ7世の息子のボヘミヤのヨハンがイタリアに降下
  した時(1333)、教会に対して結集することのできたギベリン党の者たち
  の強い君主への希望が復活した。アッツォの支配下の諸都市の多くは、ヨハ
  ンに忠誠を申し出た。アッツォ自身は、欲求からよりも慎重さから、服従を
  申し出た。そしてヨハンの代官に任命された。したがって、ヨハンが出発し
  た後には、事態は彼の到着以前にあったと同じとなった。アッツォは秩序を
  維持し、節度をもって統治し、学芸を涵養した。彼は、彼の建てた宮殿を装
  飾するために、ジョット(Giotto)をミラノに招いた。(ジョットはその仕
  事をミラノで1335年と1336年に成し遂げた。そして宮殿そのものについて
  は何も残っていない)。アッツォの墓はミラノの聖ゴッタルド(S. Gottardo
  )教会のなかにある。教会に隣接している美しい鐘楼は、1330年に彼の命
  令で建てられた。彼は一人も息子を残さなかったので、彼の叔父のルキーノ
  (Luchino)によって相続された。

  (5)ヴィスコンティ、ルキーノ(Luchino)
    ミラノの支配者。1292年に生まれた。1349年1月24日に死去。彼は
  マッテオ1世イル・グランデ(Matteo I Il Grande)の4番目の息子であり
  、彼の父と亡命をともにし、1310年に彼の父といっしょにミラノへ帰った
  。それ以後多くの歳月の間、彼はミラノの軍隊の指揮官として活躍した。彼
  はモンテカティーニ(Montecatini)の戦闘で負傷した(1315)。ピエモ
  ンテ(Piemonte)でグエルフィ党およびアンジュー家の者たちと戦った。
  ミラノを襲い略奪しようとしていた傭兵の一隊サン・ジョルジョ団に対する
  闘争においてパラビアージョ(Parabiagio)の血なまぐさい会戦(1339)
  で指揮した。彼の甥のアッツォが子供をもたずに死んだ時(1322)、彼と
  彼の兄の大司教ジョヴァンニ(Giovannni)がミラノの領主に任命された。
  ジョヴァンニは地味な場所にとどまり、彼の権力を聖職者として確立した。
  そしてルキーノが政治の手綱をにぎった。彼はアッツォによって残された
  10の都市をしっかりとした手で統治し、それらに征服や買収(パルマの場
  合におけるように)や割譲によって他の諸都市をくわえた。彼は、フィレン
  ツェがルッカ(Lucca)を取ろうとするのをピサが妨げるのを助けるために
  、トスカーナ(Toscana)に介入し、ピサをミラノの属領とした。彼の軍隊
  がジェノヴァを包囲していた時に、彼は死んだ。彼はミラノの領土の統治に
  組織をもたらし、山賊たちの道路を一掃し、最悪の封建的義務の若干を廃止
  した。彼の家族の破門とミラノへの聖務停止は彼の支配の間に解除された。
  彼の行政は抑圧的であったが、当時の見地からすればそうではなく、秩序だ
  っていた。そして彼は、トッリアーニ家を除いて、すべての亡命者が帰るの
  を許した。彼は彼の家の権力と影響力を増し、イタリア中にヴィスコンティ
  的領土政策を伝授した。これらの業績とそれらが達成された仕方は、彼の生
  への恐れのなかにルキーノを残した。彼は結局のところ、彼のライバルたち
  をすべて抹殺することはしなかった。彼の甥のガレアッツォ2世とベルナボ
  による陰謀を恐れて、彼は彼らをミラノから追い出した(1346)が、残酷
  な性質にもかかわらず、彼らを殺さなかったし、あるいは予期されたかもし
  れないように、彼らを殺させなかった。気むずかしく、恐ろしく、嫉妬深い
  彼は、有能な将軍であり、行政についてある着想をもっていた。彼の私事は
  たいそう無秩序であった。彼の三番目の妻はその情事でスキャンダルを起こ
  した。彼は彼女を殺そうともくろんでいたが、彼女は彼の意図を感づいて彼
  を毒殺した。彼の一人のおそらく嫡子ルキーノ・ノヴェッロ(Luchino
  Novello)は彼の母の同意を得て庶子と宣言された。そしてジョヴァンニ大
  司教がミラノ領の支配者としてルキーノの後を継いだ。

  (6)ヴィスコンティ、ジョヴァンニ(Visconti, Giovanni)
    大司教にしてミラノの領主。1290年に生まれ、1354年10月5日に死
  去。青年時代は軍歴にしたがうことを望んでいたが、彼の父マッテオ1世イ
  ル・グランデ(Matteo I Il Grande)によってその代わりに教会歴を始める
  ように説得された。彼はいくつかの教会の職務を保持した。彼がミラノの大
  司教にされた時、対立教皇ニコラウス5世(Nicolaus V)のもとで枢機卿
  とされた(1339)が、その職務をそのなかに含んでいた。クレメンス4世
  (Clemens VI)が彼をこの職務において確認した時までに、ミラノにおい
  て指導的な政治的人物となるために、彼はその職務と彼の影響力を利用して
  いた。彼は彼の兄弟ルキーノ(Luchino)とともに彼の甥アッツォの相続人
  であったが、そのルキーノの死後、しだいに国務に積極的になった。彼の政
  策は、彼の近隣諸国と和解して、離れた地域や諸都市の統御によってミラノ
  を強大にすることであった。1350年に彼はボローニャをその支配下に置い
  た。このことは彼を教皇と衝突させることになった。クレメンス(Clemens
  )は、彼が当時教皇庁の座のあったアヴィニョン(Avignon)へ来るように
  命じた。ジョヴァンニは1万2千の騎兵と6千の歩兵の先頭に立って到着する
  だろうと答えた。彼はその左手に十字架をもち、右手に抜き身の剣をもって
  ミラノの大聖堂におけるその玉座に向かって行進した。十字架が霊的権力の
  象徴であるように、剣は彼の世俗的権力を擁護するために用いられるだろ
  う。----これが、彼が聖職者総会に向かって行なった告知であった。教皇
  は彼を破門した。しかしジョヴァンニの機敏な外交と金と脅迫が、彼に赦免
  を勝ち得させた。教皇は1万2千フロリンでボローニャを彼に引き渡した(
  1352)。彼はフィレンツェに戦争を仕掛け(1351-1352)、条約を結ん
  でそれを終えた。1353年に、ヴィスコンティ家がそれから彼らを救助した
  悲惨な戦争の後、ジェノヴァ人はミラノに屈服した。ジョヴァンニがペト
  ラルカを、「われわれに名誉をあたえることになるあなたの当地への滞在」
  だけを望むと言って、無条件で彼の客としてミラノに招待したのはこのころ
  であった。彼はペトラルカに家と平安を約束した。ペトラルカは彼の公表し
  た自由に関する信念にもかかわらず、その招待を受け入れて、ジョヴァンニ
  の死んだ後もながくミラノにとどまった。トスカーナ連盟の形成に帰着した
  ミラノとフィレンツェとの間の条約は、ヴェネツィアに警戒心を呼び覚まし
  て、反対連盟が形成された。ジョヴァンニはヴェネツィアへの使節としてペ
  トラルカを送った。ペトラルカはそのラテン語の演説でヴェネツィア人に感
  銘をあたえたけれども、その使命は決定的なものとならなかった。そのすべ
  ての政治的活動としばしば仮借ない権力の行使のために、ジョヴァンニは教
  会の職務を怠ることはしなかった。彼は聖職者の生活を改革しようと試み、
  宗教的工事を奨励し敬虔な仕事を促進することにたずさわった。彼の死の時
  までにピエモンテ(Piemonte)、ヴェローナ(Verona)、マントヴァ(
  Mantova)、フェッラーラ(Ferrara)、およびヴェネツィア(Venezia)
  を除き、北イタリアすべてにわたってヴィスコンティ家の支配を打ち立てた
  。そしてヴィスコンティ家を教皇からも皇帝からも独立したものとして、専
  制君主として打ち立て、その最悪の敵は彼ら自身の家族の成員となった。彼
  の死に際して彼の土地は、マッテオ、ベルナボ、およびガレアッツォという
  彼の甥たちの間に分けられた。

  (7)ヴィスコンティ、マッテオ2世(Visconti, Matteo II)
    ミラノの支配者。1319年ごろに生まれ、1355年9月に死去。彼はステ
  ーファノ・ヴィスコンティ(Stefano Visconti)の息子であり、マッテオ
  1世イル・グランデ(Matteo I Il Grande)の孫であった。ベルナボおよび
  ガレアッツォ2世という彼の兄弟たちとともに、彼は彼の叔父ジョヴァンニ
  大司教(1354年死去)の相続人であり、ミラノ領のヴィスコンティ家支配
  への継承者であった。マッテオの分け前は、ボローニャ、ローディ、ピアチ
  ェンツァ、パルマ、およびモンツァの諸都市を含んでいた。兄弟たちはミラ
  ノとジェノヴァの支配を共有することに同意した。マッテオは彼の個人的な
  快楽のために彼の責任をないがしろにした。ボローニャが反乱へと燃え上が
  った時、彼はその都市を防御するために何もしなかった。彼の兄弟たちは、
  彼がその怠慢と行き過ぎによってヴィスコンティ家の遺産を失わないように
  、彼を暗殺した。彼らは彼の分け前を彼らの間で分割した。

  (8)ヴィスコンティ、ガレアッツォ2世(Visconti, Galeazzo II)
    ミラノの支配者。1320年ごろ生まれ、1378年8月4日パヴィアで死
  去。彼はステーファノ・ヴィスコンティ(Stefano Visconti)の息子で、
  マッテオI世イル・グランデ(Matteo I Il Grande)の孫である。おそらく
  毒殺されたステーファノの死後、ガレアッツォはしばらくの間母といっしょ
  にミラノにとどまり、それからパレスティナへ行った。後に彼の兄弟マッテ
  オ2世とベルナボとともに、彼の叔父ルキーノによってミラノから追放され
  た(1346)。兄弟たちはルキーノの死に際してミラノへ帰った(1349)
  。そしてルキーノの弟でルキーノの後を継いだジョヴァンニ大司教の相続人
  として認められた。ジョヴァンニが死んだ時(1354)、三人の兄弟たちは
  遺産を分け合った。ガレアッツォの分け前は、コモ(Como)、ノヴァラ(
  Novara)、ヴェルチェッリ(Vercelli)、アスティ(Asti)、アルバ(
  Alba)、トルトーナ(Tortona)、およびアレッサンドリア(Alessan-
  doria)を含んでいた。兄弟たちはミラノとジェノヴァを共同で支配するこ
  とに同意した。1355年にガレアッツォとベルナボはマッテオ2世を暗殺し
  て、彼の土地を彼らの間で分割した。皇帝カール4世(Karl IV)がイタリ
  アへ降下すると、皇帝はガレアッツォとベルナボを皇帝代官に任命した(
  1355)。だが後に彼らの野心を信用せず、彼らに対する連盟を組織した。
  ガレアッツォは彼の都市のいくつかを連盟の成員に失ったが、後にそれらの
  ほとんどを取りもどし、加えてパヴィアを得た(1360)。1365年に彼は今
  なおパヴィアに建っている大きな長方形の城を建て、彼の宮廷をそこに移し
  、比類なく豪華に暮らした。有能な男として彼は、官僚制を組織し、彼の領
  土を構成したさまざまな領土の異質の集積を統一国家へともたらし、しっか
  りと支配し、ベルナボの支配に傷跡を残した残酷さにふけらなかった。彼は
  書物の愛好者であり、自分を文学者や芸術家たちで囲った。ペトラルカは彼
  の名誉ある客たちの一人であった。彼はパヴィアに有名な図書館を創設し、
  その教育の質のために有名となった大学を創設した(1361)。平和は彼に
  とって不愉快なものではなかった。彼はその娘ヴィオランテ(Violante)
  を、イギリスのエドワード3世の息子(3ヶ月後に死んだ)に嫁がせた。ま
  た彼の息子ジャン・ガレアッツォをフランス王の娘イザベッラ(Isabella)
  と結婚させた。それらの結婚は、ヴィスコンティ家が有力な支配階級の家柄
  の水準に自分自身を高めたことを示している。彼がその子供たちの結婚式に
  おける客たちに行なった祝祭や贈り物は、見せびらかしや気前のよさや、彼
  がそうする余裕があったということを別にすれば、彼の時代に匹敵するもの
  のなかった大盤振る舞いへの趣味を示している。客たちになされた贈り物に
  は、絹や銀の馬飾りのついた馬や、そろいの甲冑や、宝石で飾ったベルトや
  外衣や、金襴の巻物などが含まれていた。金箔をかぶせた果物は食べ物の一
  部であった。冷静で熟練した外交官であった彼は、彼の支配下にある土地に
  秩序と平和をもたらした。それらの土地は、弟のベルナボの土地とともに、
  ロンバルディア全土と北イタリアの多くを含んでいた。彼はその息子ジャン
  ・ガレアッツォによって継承された。

  (9)ヴィスコンティ、ベルナボ(Visconti, Bernabo`)
    ミラノの支配者。1323年に生まれ、1385年12月19日トレッツォ(
  Trezzo)で死去。彼はステーファノ・ヴィスコンティ(Stefano Visconti)
  の息子であり、マッテオI世イル・グランデ(Matteo I Il Grande)の孫で
  ある。彼の兄弟たちマッテオ2世とガレアッツォ2世といっしょに、彼は叔
  父ルキーノ(Luchino)によってミラノから追放された(1346)。ルキーノ
  は彼に対する兄弟たちによる陰謀を恐れたのである。彼は、ルキーノの弟ジ
  ョヴァンニ(Giovanni)大司教が1349年にルキーノの後を継いだ時、帰る
  ことを許された。そして三人の兄弟たちは継承者として認められた。大司教
  が死ぬと、兄弟たちは遺産を分割した。ベルナボの分け前はクレモーナ、ク
  レーマ、ブレッシャ、およびベルガモを含んでいた。ミラノとジェノヴァは
  共同で支配されることになった。1355年にベルナボとガレアッツォ2世は
  マッテオを暗殺し、彼の分け前を彼らの間で分割した。ガレアッツォは彼の
  宮廷をパヴィアに移した。

    ベルナボは彼の宮廷をミラノに保ち、彼の領土を増大し強化するという
  彼の政策を実行するために、たえず陰謀を企て、戦争をした。イタリアの諸
  国家(共和国、公国、貴族領)は、彼がそれらを犠牲にして彼の政策をなし
  とげようとするのに抵抗し妨げようと努めて、同盟や連盟を変える時期に入
  った。ジェノヴァは反乱をおこし、破れ去った。反乱をおこしていたボロー
  ニャの支配をふたたび得るための彼の戦争は、教皇をして彼を破門し(1362
  )、彼に対する十字軍を説教するにいたらしめた。(ベルナボは、破門状を
  彼のところにもってきた教皇使節たちに、それを鉛の封印と絹のひもといっ
  しょに食べることを強制した。)ついに、彼はボローニャへの彼の関心を
  50万フロリンで教皇に売った。アヴィニョン(Avignon)からイタリアへ
  もどっていた(1367)教皇ウルバヌス5世は、彼を封じ込めようと努めて
  彼に対して新しい連盟を組織したが、断念してアヴィニョンへ戻っていった
  (1370)。ベルナボは、教皇との闘争においてペルージャ人を助けるため
  に、彼の傭兵隊長サー・ジョン・ホークウッド(Sir John Hawkwood)を
  送った。フィレンツェ人たちは、以前は彼ら自身へのヴィスコンティの野望
  を恐れたが、今は教皇の侵害を恐れて、ヴィスコンティと同盟を結んだ。も
  っとも彼らは戦闘にはほとんど参加しなかったけれども。陰謀と金によって
  彼はピサの従属を勝ち取った。

    1350年にベルナボはヴェローナのレジーナ・デッラ・スカーラ(
  Regina della Scala)と結婚した。(彼女の思い出はミラノにおける有名
  なオペラ・ハウスにおいて不朽なものとされた。それは彼女がその長男の誕
  生を感謝して建てるようにしたサンタ・マリア・デッラ・スカーラ[Santa
   Maria della Scala]教会の敷地に、18世紀遅くに建てられた。)1378年
  に彼は、ヴェローナのスカリジェーリ(Scaligeri)の子供たちの要求によ
  っておびやかされたその妻と子供たちの権利を手に入れるために、ヴェロー
  ナで戦争をした。この戦争は彼に44万フロリン支払うことで終わった。彼
  はジェノヴァを勝ち取ろうとする企てにおいて彼の古い敵であるヴェネツィ
  ア人と同盟をむすび、ナポリ王国のジョアンナ1世(Joanna I)の闘争にお
  いて陰謀を企てた。

    イタリアは連盟(leagues)と反対同盟(counter-alliances)でもっ
  て煮えたぎっていた。そうこうしている間、勝利はその結果を得ようとして
  しばしばその次の失敗によって帳消しにされたけれども、ベルナボはその領
  土を広げ、その権力を堅固にしていった。彼は17人の嫡子をもうけ、彼らを
  イタリアやドイツの領主たちの子息や娘たちに、娘たちにとっては途方もな
  い嫁資をそえて、結婚させた。彼の庶子の一人は、彼の傭兵隊長、イギリス
  人のサー・ジョン・ホークウッドに嫁いだ。ミラノの壮麗な都市に仕事でヨ
  ーロッパじゅうから人々がおとずれた。イギリスから使節の任を帯びて来た
  チョーサー(Chaucer)はその一人であった。タフで有能な戦士であるベル
  ナボは、また彼の権力を堅固にする意志をもっていた。ある種の秩序が課せ
  られた。彼の政治は抑圧的であり、租税は重かった。彼は異常に邪悪な残酷
  さをもっていた。当時の歴史家たちは、彼が狩猟のために5000頭の猟犬を
  もっていたと書いている。これらの犬たちは農民たちによって請け負わされ
  ていた。彼の役人たちによる検分の際に、もし猟犬たちのいずれかが完全な
  状態にないことが見つけられると、その世話の責任を負った農民は処罰され
  、なんらかの仕方で手足が切断された。ベルナボはまた、40日間におよぶ
  拷問の計画を設けた。その計画は、罪を犯した者たちや、国家にそむくと告
  発された者たちに適用された。彼の弟ガレアッツォは1378年に死に、一人
  の息子ジャン・ガレアッツォ(Gian Galeazzo)を跡継ぎとして残した。ジ
  ャン・ガレアッツォは勉強に専念して、いちじるしく臆病な、おとなしそう
  な若者と見られていた。ベルナボは彼を軽べつしていた。そして彼の相続財
  産を奪い取ることを計画していた。ジャン・ガレアッツォは臆病なのと同じ
  くらい無情だった。彼は巡礼の旅に出るつもりであって、途中でベルナボに
  会いたいと叔父に告げた。ベルナボはその息子たちのうちの幾人かといっし
  ょに、彼に会うために馬に乗って出かけた(1385年5月6日)。法外な数
  の護衛兵たちによって取り巻かれていたジャン・ガレアッツォは、彼の部下
  たちにドイツ語で合図をあたえた。彼らはベルナボとその息子たちを捕らえ
  、トレッツォ(Trezzo)の城のなかに彼らを監禁した。ベルナボは同年12
  月19日に死んだ。おそらく毒殺だったと思われる。ジャン・ガレアッツォ
  はミラノに意気揚々と乗り込んだ。

 ミラノの領主ヴィスコンティ家系譜(2)

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