ミラノの領主ヴィスコンティ家系譜(2)

  
  (10)ヴィスコンティ、ジャン・ガレアッツォ(Visconti, Gian
  Galeazzo)
    ミラノの支配者。1351年10月16日に生まれ、1402年9月3日メレニ
  ャーノ(Melegnano)で死去。彼はガレアッツォ2世ヴィスコンティとサヴ
  ォアのブランシュ(Blanche de Savoie)との息子であった。そして物静か
  で臆病で勉強家の青年であった。彼の知的な業績はペトラルカの称賛を勝ち
  得た。1360年に彼の父は彼のために、フランス王ジャン2世の娘ヴァロア
  のイザベラ(Isabelle de Valois)との縁組をととのえた。ガレアッツォ
  は彼の息子の結婚式の際に40万スクーディ以上をフランス王にあたえた。
  それにもかかわらず、ヨーロッパの支配層の家柄とのこの縁組は、ヴィスコ
  ンティ家の力と重要性の承認であった。彼女の嫁資の一部としてイザベラは
  ガレアッツォに、シャンパーニュの一つの郡であるヴェルチュ(Vertus)
  の伯爵領をもたらした。そこから彼の称号はヴェルチュ(Vertus)あるい
  は、もっと軽べつ的に表現されたように、ヴィルトゥ(Virtu`)の伯爵と呼
  ばれた。ブランシュは彼に、ヴァレンティナ(Valentina, 1366)、アッ
  ツォ(Azzo, 1369)、およびカルロ(Carlo, 1372)を産んだ。彼らのう
  ちヴァレンティナだけが生き残った。彼の父の指導のもとにジャン・ガレア
  ッツォは政務にいくらか参加し、ほとんどつねに行われている戦争に時とし
  て参加したが、彼は戦士ではなかった。彼はむしろ勉学や文学や瞑想を好ん
  だ。1375年に彼の父は、彼が彼のものとなるであろう相続財産を支配する
  のを準備するために、いくらかの領地を彼にあたえた。1378年にガレアッ
  ツォ2世は死んだ。そしてジャン・ガレアッツォは、理論上、彼の叔父ベ
  ルナボとともにロンバルディアのヴィスコンティ領に対する共同支配者とな
  った。多くの年月の間彼はパヴィアの彼の城のなかに静かにとどまり、彼の
  研究をつづけ、外見上は宗教的観想に熱中した。彼はいちじるしく臆病であ
  た。ベルナボは彼を軽べつしてみていた。そして彼の相続財産を自分の息子
  のために奪い取ろうと計画した。ジャン・ガレアッツォはいくつかの陰謀を
  発見し、その裏をかいたが、何も言わず、彼の信心に没頭した。イザベラは
  死んで(1372)、彼はベルナボの娘のカテリーナ(Caterina)と結婚した
  (1380)。その結婚はベルナボの利害を強化もしなければ、守りもしなか
  った。ジャン・ガレアッツォは身体的行動に面して臆病であったと同じくら
  いに精神において無情で大胆であった。ミラノよりも北のある社へ巡礼に行
  くという口実のもとに、彼は途中で彼に会ってくれるようにベルナボに懇請
  した。ベルナボと彼の息子たちのうちの幾人かがそうするために、馬に乗っ
  て出かけた(1385年5月6日)。彼らは恐ろしいジャン・ガレアッツォの
  護衛の規模に驚き、彼の恐怖について彼らの軽べつを示した。ジャン・ガレ
  アッツォはその叔父に挨拶するために馬から跳びおり、それから彼の部下に
  ドイツ語で合図を発した。彼らはベルナボとその息子たちを捕らえ、彼らを
  トレッツォ(Trezzo)に連れ去って、投獄した。ベルナボはその年もっと
  遅く死んだが、おそらく毒殺されたものと思われる。彼によって抑圧された
  人民は彼の喪に服することなく、彼の宮殿を略奪し破壊した。ジャン・ガレ
  アッツォはその軍隊でもって秩序を打ち立て、自分をすべてのヴィスコンテ
  ィ領の主人とした。

    ヴィスコンティ家の紋章は、その口から一人の子供が出かかっている蛇
  であった。こうしたことからヴィスコンティ家は、その子供は飲み込まれて
  いるのだと言った彼らの敵たちによって、「ミラノの蝮」(the Vipers of
        Milano)と呼ばれた。ジャン・ガレアッツォはとりわけ蝮(毒蛇)であっ
  た。彼は有能で、野心的で、悪賢く、まったく無情な男であった。その彼は
  必要とあらばどんな手段を用いても、北および中央イタリアのすべてを、ミ
  ラノとヴィスコンティ家の支配のもとに統合することに思いを巡らせた。そ
  の位置によってミラノは戦略上重要であった。すなわち、ミラノを支配した
  者は誰でもイタリアを支配することができた。ジャン・ガレアッツォはその
  領地を拡大し、その支配を中央集権化することに着手した。彼はどのように
  して副官たちを選び、彼らを彼に忠実にしておくかを知っていた。イタリア
  における最良の隊長たちは彼に雇われ、あるいはただちにそうなる覚悟をし
  ていた。なぜなら、彼はすばやく支払ったし、古い兵隊や隊長たちに年金を
  あたえて退職させたからである(彼は彼らが軍役を去った後もながく彼らの
  名前を思い出すことができた)。彼は彼の所帯や彼の政府の支出について正
  確に記憶していた。そして彼の厳格な管理のもとでの官僚制を打ち立てた。
  彼のしっかりした手のもとに統合された領土は、第一級の政治的および軍事
  的力を構成した。彼はその領土を増大させようと決意した。次の7年間彼は
  、彼を封じ込めようとする努力においてイタリアにおいて起こったり倒れた
  りした移り変わる同盟国たちの数多くの連盟と戦ったが概して成功した。
  1387年に彼は、パドヴァの領主たちがヴェロ−ナと戦った際にパドヴァ側
  に味方し、それからヴェロ−ナとヴィチェンツァを自分のために略取した。
  次いで彼は、ヴェネツィアの黙認を得て、パドヴァに刃向かい、その領主を
  追放した(1388)。その後遠からずしてトレヴィ−ゾをも勝ち得た。陰謀
  と中傷によって彼は、フェッラ−ラのエステ家(Estensi)とマントヴァの
  ゴンザ−ガ家(Gonzaga)を彼に従属するものとした。フィレンツェは彼に
  反対する他のイタリア人たちを結集しようとした。ヴェネツィアは、その国
  境に彼が地域を得るのを勧めることにおいて、過ちを犯したことを知った。
  そして彼はパドヴァの喪失を妨げることができなかった(1390)。フィレ
  ンツェ人によって組織された反ヴィスコンティ連盟を妨害するために、彼は
  自分のために強力な同盟国を求めた。彼は娘ヴァレンティナ(Valentina)
  をフランス王の弟ルイ・ドルレアン(Luis d'Orleans)に嫁がせ(1386)
  、皇帝ヴェンツェスラウス3世(Wenceslaus III)からミラノ公爵の称号
  とパヴィア伯爵の称号(1396)を買った。その授爵のなかにふくまれた、
  しかも世襲的なものとなるはずであった地域は、ほとんどヴェネツィアにい
  たるまでの北イタリアをふくんでいた。彼はミラノ公爵という称号をもった
  ンブロジウス(Sant' Ambrogio)広場で行われたが、壮観であった。
  1396年に彼はアンギエラ(Anghiera)の伯爵となり、1397年にはロン
  バルディア(Lombardia)公爵となった。シエナ(Siena)は彼に統治権
  (the sovereignty)をあたえた(1399)。そして彼はそれを慎重に支
  配し、そこでの彼の代理人たちの権力を厳格に制限し、その制限が念入りに
  守られるように取りはかられた。彼は無類の裏切りでもってその領主の殺害
  を手に入れた後、ピサの統治権を買った。彼はジェノヴァやルッカ(Lucca)
  をふくむ北部のほとんどに対していちじるしい権威を行使し、イタリアを征
  服し統一しようとする計画においてその時代に先んじていた。しかしながら
  、フィレンツェはなお彼に抵抗し、またドイツの新しい王、バイエルンのル
  ペルト(Rupert)は敵対的であった。しかしルペルトのイタリアへの侵略
  は、よく訓練されたイタリア人たちの前に敗走した。イタリアの聖ジョルジ
  ョ騎士団の創立者でジャン・ガレアッツォの最も有能な隊長たちの一人であ
  るアルベリ−コ・ダ・バルビア−ノ(Alberico da Barbiano)は、ボロ−
  ニャを屈服させ(1400)、ペル−ジャは占領された。フィレンツェはヴィ
  スコンティの環によって包囲され、絶望したが、その時奇跡的に救われた。
  疫病がミラノに発生したのである。ジャン・ガレアッツォは伝染を免れるた
  めに逃げたが、メラニャ−ノ(Melagnano)においてその伝染病に追いつ
  かれ、その地で1402年9月3日に死んだ。

    ジャン・ガレアッツォは有能な組織者であり、萌芽的な領邦国家(a
  rudimentary territorial state)を建設し、イタリアを統一したかも知
  れなかった。(しかし彼の娘ヴァレンティナの結婚によって、彼はその世紀
  の終わりに災難へとみちびいた要求の権利をフランスにあたえたのである)
  。彼は自身では戦士ではなかった。実際彼は、自分の身を守るためにこっけ
  いなことまでもした。ちょっとの物音で跳び上がり、彼の近くのどんな予期
  せぬ動きによってろうばいし、暗殺を恐れた。彼もまた恐れられたかもしれ
  いが。そうであっても彼は鉄の意志と精神をもっていた。彼はただ一人の君
  主の規律と組織化を課することによって、その領土を成り立たせていたさま
  ざまな御しにくい領有を統合強化しようと試みた。彼は壮麗な宮廷を保持し
  、パヴィアの城を美しくし、そこに豊かな蔵書を増し、大学の偉大な後援者
  となり、芸術家や文学者たちに保護をあたえ、いくつもの壮大な建物の建築
  を企てた。1386年にミラノの大聖堂の建築を始め、彼の男子継承者、すな
  わちカテリ−ナの息子ジョヴァンニ・マリア(Giovanni Maria)の誕生を
  感謝して、「赤ん坊のマリア」(Mary the Babe)にそれを捧げた。それ
  以後マリアという名前はヴィスコンティ家の子供たちの名前の一部となっ
  た。有名なパヴィアのカルテジオ会修道院(Certosa di Pavia)は1396
  年に始まり、次の2世紀を経て完成した。霊廟(mausoleum)がそこにあ
  る。政治的および知的な彼の業績は、彼自身の時代において彼を恐れさせ、
  また賛美させた。カテリ−ナは彼に二人の息子を産み、彼の遺言で彼の家の
  伝統にしたがって彼は自分の築いた国家を分断した。すなわち、ジョヴァン
  ニ・マリアはミラノの公爵領を相続し、フィリッポ・マリアはパヴィアを相
  続し、ガブリエレ・マリア(庶子)はピサをあたえられた(彼はまもなくそ
  れを失った)。ジャン・ガレアッツォが死んだ時、彼の息子たちは子供だっ
  た。そして彼がそのような巧妙さと同時に無情さでもって築き上げた公爵領
  はばらばらになった。すなわちそれは、彼の強い手がないことから反乱のえ
  じきとなり、また彼の息子たちを守ったかもしれない彼の以前の隊長たちの
  えじきとなった。それらの隊長たちは、かつて彼が勝ち取るのを助けたそれ
  らの都市を、熱狂的に略奪した。

  (11)ヴィスコンティ、ジョヴァンニ・マリア(Visconti, Giovanni
  Maria)
    ミラノ公爵。1389年に生まれ、1412年5月16日にミラノで死んだ。
  彼はジャン・ガレアッツォとカテリ−ナ・ヴィスコンティの長男であり、
  14歳でミラノ公爵としてその父の後を継いだ。彼の母はタフな戦士ベルナ
  ボの娘として、彼と彼の弟フィリッポ・マリアの摂政としてふるまった。し
  かし実際は、ジャン・ガレアッツォによって創り出された公国は、彼の以前
  の隊長たちの襲撃のもとに急速に分解していった。それらの隊長のおのおの
  は、できるだけのものを略奪した。ボロ−ニャ、ペル−ジャ、およびアッシ
  −ジは教皇に失われた(1403)。ジョヴァンニ・マリアはその母とけんか
  して、彼女はその都市をから逃げることをよぎなくされた。(彼女はその地
  で事実上囚人となっていたモンツァで1404年10月17日に死んだ。たぶん毒
  殺された。)彼の父の隊長だったファチ−ノ・カ−ネ(Facino Cane)は若
  い公爵に仕えて、彼の相続したものを保持するためにできるだけのことをし
  た。しかしながらジョヴァンニ・マリアは性格において倒錯しており精神病
  的に残酷であった(彼がその所産であった近親結婚が重要であったかもしれ
  ない)。彼の祖父のベルナボは狩猟のために5000匹の猟犬を飼っていた。
  ジョヴァンニ・マリアはその猟犬を飼うのに人肉でやしない、猟犬たちがそ
  うするのを見て気違いじみた満足を得た。彼は統治するのに不適任であり、
  ミサにあずかっている間に幾人かのギベリン党の貴族によって暗殺された。

  (12)ヴィスコンティ、フィリッポ・マリア(Visconti, Filippo
  Maria)
    ミラノ公爵。1392年9月3日にミラノに生まれ、1447年8月13日に
  その地で死んだ。彼はジャン・ガレアッツォとカテリ−ナ・ヴィスコンティ
  の次男であった。そして彼の父が死んで、彼にパヴィアの伯爵領を残した時
  10歳であった。しかしジャン・ガレアッツォの死に際して、彼がそのよう
  な練達の業で建てた公爵領はばらばらになった。彼が忠実にまた制御して保
  っていた隊長たち、また彼がその子供たちのためにその領土を保持しようと
  して頼りにしていた隊長たちは、彼らのできるかぎりの地域を略奪した。他
  の領地は反乱し、自分たち自身の領主のもとでの独立を宣言した。カテリ−
  ナ公爵夫人は自分でミラノを支配しようと試みて、毒殺された(1404)。
  ミラノそのものは、ジャン・ガレアッツォに仕えた著名な将軍ファチ−
  ノ・カ−ネ(Facino Cane)の支配下にあった。フィリッポ・マリアは名目
  上パヴィアの領主であったけれども、彼の兄の治政の間事実上の囚人だっ
  た。1412年5月16日に、フィリッポ・マリアの兄でミラノの公爵ジョヴァ
  ンニ・マリアが暗殺された。ベルナボ・ヴィスコンティ(フィリッポ・マリ
  アの祖父)の二人の息子たちが、彼の代わりに領主として歓呼して迎えられ
  た。同じ日にファチ−ノ・カ−ネもまた死んだ。しかし彼は死に瀕していた
  折りに、彼の妻ベアトリ−チェ・ディ・テンダ(Beatrice di Tenda)に彼
  と結婚するように要請していた。彼女はそうした。そして金と、彼女の夫が
  略奪していた諸都市と、とりわけ彼の軍隊からなる評価できないほどの嫁資
  をフィリッポにもたらした。これらのばくだいな利益をたずさえてフィリッ
  ポ・マリアはミラノに入り(1412年6月16日)、ベルナボの息子たちを捕
  らえ、彼らをモンツァの地下牢に閉じこめた。(十分体を伸ばして立つこと
  も横になることも不可能なこれらの地下牢は、ヴィスコンティ家自身によっ
  て建築された。そしてかつてはバイエルンのルイ(Louis)の命令で、ガレ
  アッツォ1世、彼の息子アッツォ、および彼の兄弟ルキ−ノとジョヴァンニ
  をとどめていた。)ふたたび支配を取り戻そうとするフィリッポ・マリアの
  努力は、抵抗されなくはなかったが、肉体的に狂気のきわみにいたるまで臆
  病であり、迷信深く、誰をも疑った彼は、しかしながら野心的で、不実であ
  り、大胆な戦略家であり、熟練した外交家であった。彼は有能な人材を選び
  、最良の隊長たちを選ぶことにおいて彼の父と同様に有能であったが、決し
  て彼らを信用しなかった。

    彼はヴェロ−ナとヴィチェンツァへの彼の権利要求を放棄することによ
  って、ヴェネツィアの中立を勝ち取った。ジェノヴァとは条約を結び、サヴ
  ォアのアマデウス8世(Amadeus VIII)とは和解した。彼の将軍カルマ
  ニョ−ラ(Carmagnola)はいくつかの小さな領地を奪還することに成功し
  た。そして彼はコモ、ロ−ディ、トレッツォ、ピアチェンツァ、クレモ−ナ
  、ベルガモ、およびブレッシャを取り戻した。戦争と買収と裏切りと外交
  によって、1421年までに彼はその父の公国を事実上再建していた。しかし
  ながらこれは彼の野心の限界ではなかった。そしてみなが他国の領土を尊重
  することに同意するという同盟をフィレンツェやヴェネツィアと結んだけれ
  ども、平和は一時的なものだった。彼の野望を成し遂げるために、彼は次
  の25年間北イタリアおよび中央イタリアを騒がせた。彼の将軍たちは、ザ
  ゴナ−ラ(Zagonara)におけるように幾度もフィレンツェ人たちを打ち破
  った。ザゴナ−ラにおいては、マキャヴェッリの言うところでは、これはイ
  タリア中で有名な勝利とみなされているけれども、「馬から落ちて沼地で溺
  れたロドヴィコ・デッリ・オビッツィ(Lodovico degli Obizzi)とその部
  下二人の死を除いては、いかなる死も起こらなかった」。これは傭兵たちの
  注意深い戦闘の一例であった。彼らは戦闘において自分の命を惜しみ、粗野
  に略奪し、助けをえられない都市を荒らし、自分たちの利益となるように味
  方を変えた。フィリッポ・マリアはフォルリで、若い継承者の支配について
  の論争に介入し、その都市を取った。フィレンツェとヴェネツィアは彼を押
  さえようとしたが、彼らの将軍たちは繰り返し破れた。フィレンツェとヴェ
  ネツィアとサヴォアのもう一つの連合が形成された(1426)。(フィレン
  ツェは、もし彼女が彼に屈服することをよぎなくされたならば、フィリッポ
  ・マリアをイタリアの王とするとおどかして、参加するようにヴェネツィア
  を説得した。)彼の成功そのもののためにフィリッポ・マリアによって信用
  されず、彼の主人によって裏切られたカルマニョ−ラは、今やその時代の慣
  例によって敵の方へ転じた。彼はマクロディオ(Maclodio)において決定
  的勝利を得た(1427年10月)が、その後の無為によってその勝利を台なし
  にしてしまった。フィリッポはサヴォアのアマデウス8世にヴェルチェッリ
  を提供し、彼の娘マリアと結婚させることによって、連合からアマデウスを
  得ようとした。(1418年に彼は彼の妻ベアトリ−チェを不貞という捏造さ
  れた嫌疑で処刑させていた)。それから(1428年4月)彼はヴェネツィア
  とフィレンツェと講和し、ブレッシャとベルガモをヴェネツィアに引き渡し
  た。彼の政策は方向を変えた。そして彼はロマ−ニャに入るために、教皇エ
  ウゲニウスとバ−ゼル公会議との間の闘争につけ込んだ。彼はまたアンジュ
  ウ(Anjou)家とアラゴン(Aragon)家との間のナポリ王国のための戦争
  において流動的な役割を演じた。アラゴン家の請求者ナポリのアルフォンソ
  (Alfonso)はジェノヴァの艦隊によって捕らえられ、捕虜としてフィリッ
  ポのところに連れてこられた。しかしアルフォンソは、イタリアにとってス
  ペイン人よりもフランス人の方が危険であるとフィリッポ・マリアを説得す
  ることができた。そしてもう一つの転換において、フィリッポ・マリアは彼
  の王族の捕虜を解放した。(彼の死後、アルフォンソを彼の継承者として任
  命する真正性の疑わしい遺言状が見いだされた。言うまでもなく、アルフォ
  ンソだけがこの遺言状をまじめに取った。)彼のさまざまな戦争において、
  ミラノの将軍フランチェスコ・スフォルツァ(Francesco Sforza)は多く
  の勝利を勝ち取り、彼の報酬としてフィリッポ・マリアの唯一の子供ビアン
  カ・マリア(Bianca Maria)の手を期待した。1432年に、スフォルツァの
  熟練の業への必要に迫られて、彼の31歳の将軍への彼の7歳の娘の婚約を公
  表したが、結婚を遅らせつづけた。スフォルツァはがまんできなくなり、敵
  に転じた。彼は、フィリッポ・マリアがトスカ−ナをめざしたミラノ軍の進
  撃にひじょうに上首尾に抵抗したので、公爵は講和を結ぶことが賢明だと思
  った(1441)。彼の将軍を取り戻すために彼は、今やその娘の結婚を許し
  た。それ以後、彼は増えていく敵に直面して、彼の領土を維持することに彼
  の精力をささげた。こうしたことは、彼の新しい婿がその妻の忠実な支持を
  得て敵に寝返ったので、ますます肝要となった。ヴェネツィア人は、クレモ
  −ナとポントレモリ(Pontremoli)をふたたび手に入れようとする彼の試
  みを打ち破った。ミラノそのものがおびやかされた。スフォルツァはその妻
  が推定的相続人であったが、ヴェネツィアの増大する力を恐れ、ふたたび立
  場を変えた。ヴィスコンティ家の最後の領主フィリッポ・マリアが彼の庶出
  の娘を相続人として残して死んだ時、彼の軍隊はその義父を助けるためにロ
  ンバルディアにいた。ジャン・ガレアッツォがその称号を買った条件のもと
  では、公爵領は女系を認めることはできなかった。

    フィリッポは偉大な兵士や、学識者や、芸術の保護者ではなかった。彼
  は神経症的に迷信深く、自分の傍にほとんどつねに占星術師を置いていた。
  彼は自分をひじょうに身体的に醜く嫌悪をもよおさせると考えたので、けっ
  してその肖像画を描かせることを望まなかった。

    スフォルツァ(Sforza)
    ミラノの名家。その成員は1450年から1535年まで中断することなく
  ミラノの公爵として支配した。その家柄の創立者は、著名な傭兵隊長となっ
  たコティニョラ(Cotignola)の豪農の息子ムツィオ・アッテンドロ・ス
  フォルツァ(Muzio Attendolo Sforza, 1369-1424)であった。彼の庶
  子たちのうちフランチェスコ(Francesco)が最初のスフォルツァ・ミラノ
  公爵となり、アレッサンドロ(Alessandro)はペザロ(Pesaro)の領主と
  なった。彼の嫡子たちは比較的世に知られずに生き延びた。フランチェスコ
  (1401-1466)はさまざまな君主や国家に仕えた有名な傭兵隊長であった
  。ミラノのフィリッポ・マリア・ヴィスコンティ(Filippo Maria
  Visconti)に味方して戦うための誘いとして、彼はフィリッポ・マリアの
  庶出の娘ビアンカ(Bianca)を嫁としてあたえられた。結局、その結婚は
  行われた。フィリッポ・マリアの死後(1447)、男子の継承者がいなかっ
  たので、ミラノ人たちはアンブロジア共和国を設立した。さまざまな敵たち
  、特にヴェネツィアによって囲まれ、それから自分自身の利益のためにフラ
  ンチェスコ・スフォルツァによって包囲攻撃されて、共和国はその征服者に
  して救助者としてフランチェスコに屈服し、彼をミラノ公爵に任命した
  (1450)。彼の分別のある情け深い支配のもとで、ミラノは相対的平和と
  大きな繁栄を享受した。フランチェスコは彼の父よりもなおいっそう多くの
  庶子をもったが、彼の嫡出の息子ガレアッツォ・マリアによって継承された
  (1444-1476)。

    ガレアッツォ・マリアは有能で教養があった。彼は農業や商工業を奨励
  するのにたいそうつくした。彼はまた建築を行ない、芸術や文学の保護者で
  あった。彼はたぶんそのヴィスコンティ家の祖先から残忍な性質を受け継ぎ
  、精神病的に血に飢えた拷問をせずにいられなかった。自分を甘やかし官能
  的だった彼はその宮廷の成員たちから忌み嫌われた。彼がその宮廷の婦人た
  ちの名誉をけがしたからである。また彼はその残酷な仕返しを恐れられ、そ
  の突飛な言行や顕示欲のために畏怖と嫌悪でもって見られていた。彼は暗殺
  された(1476年12月26日)。彼の継承者は8歳年上のジャン・ガレアッツ
  ォであった。(彼の庶子のうちに「フォルリのアマゾン」のカテリ−ナがい
  た)。ガレアッツォ・マリアの兄弟たちは、ジャン・ガレアッツォから公爵
  領を奪い取ろうとして、たがいにはげしく争った。

    ルドヴィコ・イル・モ−ロ(Ludovico il Moro)が勝利者となり、法
  律上の継承者の死後、ミラノ公爵に任命された(1494年10月)。彼は
  1480年以来事実上ミラノの支配者だった。フランスのシャルル8世のイタ
  リア侵入を勧めたのはルドヴィコだった(1494年9月)。このことはルド
  ヴィコを破滅へとみちびいた。シャルル8世は来て去った。シャルル8世の
  後にその後継者ルイ12世がやってきた。ルイ12世はミラノにヴァレンティ
  ナ・ヴィスコンティの孫としての権利を要求した。ルイは1499年にミラノ
  を奪い取り、1500年4月にルドヴィコを捕らえ、彼をフランスへ捕虜とし
  て連れ去った。ジャン・ガレアッツォの息子もまたフランスへ送られ、その
  地に幼年にして死んだ。ルドヴィコの長男マッシミリア−ノ(Massimiliano
  , 1493-1530)は、1512年にミラノ公爵として復権させられた。マリニャ
  −ノ(Marignano)におけるフランソワ1世のもとでのフランス軍の勝利と
  ともに、マッシミリア−ノは公国への彼の権利要求を断念し、フランスへ行
  って暮らした。彼の弟フランチェスコ2世(Francesco II, 1495-1535)
  は皇帝カ−ル5世の操り人形として支配した(1521-1525年、および1529
  -1535)。彼の死後、ミラノ公国はカ−ル5世の帝国領に合体された。ムツ
  ィオ・アッテンドロ(Muzio Attendolo)と彼の後裔たちの数多くの子孫
  は、イタリアのさまざまな都市においてスフォルツァ家の分家を立てた。

 ミラノの領主ヴィスコンティ家系譜(1)

 Return to the Homepage

 Return to the Palace of the Renaissance