ルネサンスの父ペトラルカ

  
    ペトラルカは自分の代表作を『アフリカ』Africaと『有名偉人伝』De
  viris illustribusと考えていた。『アフリカ』は、古代ローマの英雄スキピ
  オ・アフリカヌス(Scipio Africanus, Publius Cornelius, B. C. 236-c.
  183)についてラテン語で歌った長編叙事詩である。また『有名偉人伝』は、
  ローマ建国の祖ロムルスRomulusから始めて、古代の英雄たちの伝記を記し
  たラテン語の散文である。『アフリカ』も『有名偉人伝』もペトラルカの古
  典古代に対する熱狂的崇拝から生まれたものであって、その意味でヒューマ
  ニズム的作品と言えるであろう。彼がローマの元老院で月桂冠を授与された
  のは、主としてこの二つの作品の著者としてであった。しかし後世において
  代表作として尊重されたのは、むしろ彼のまったく個人的な心情を吐露した
  彼の『カンツォニエーレ』と『秘密』であった。こうした評価の推移は、古
  典主義時代からロマン主義時代への変遷によって強められた。

    『カンツォニエーレ』は当時の俗語、つまりイタリア語で書かれた叙情
  詩集である。しかも大部分の作品は、ラウラLauraと呼ばれる一人の女性を
  めぐって歌われたものである。ペトラルカがラウラに出会った日は、1327
  年4月6日とされているが、彼が俗語で詩を書き始めたのはもっと早い時期
  であると言われている。また彼のすべての俗語詩がこの詩集に集められたわ
  けではない。この詩集の正式の表題は、さまざまな写本に記されたところに
  よると、Francisci Petrarche laureati poete Rerum vulgarium frag-
  mentaである。直訳すると、「桂冠詩人フランチェスコ・ペトラルカの俗な
  事柄の断片」という意味である。

    ラッファエレ・アマトゥーロによると(Raffaele Amaturo: Petrarca,
  Roma-Bari, 1974, p. 241)、この表題はペトラルカの『秘密』の最後の
  方で、フランチスクスがアウグスティヌスに向かって言う言葉、「できるだ
  け自分自身のことに心を配りましょう。私の魂の散らばった断片を集めて、
  一所懸命自分自身のことを見張っておりましょう」(Francesco Petrarca:
   Prose, a cura di G. Martelloti ed altri, Milano・Napoli, 1955,
  p. 215.)という言葉を思い起こさせる。またその詩集の序をなす最初のソネ
  ットにおいて彼は、rime sparse(統一なく書き散らした詩句)と言って
  いるが、この言葉がfragmentaという言葉に相当するものであろう。つま
  り後者はfragmentaの客観的あり様を、また前者はそれの主観的あり様を
  示したものと言えるであろう。

    この最初のソネットは、彼の告白と祈願を表現している。
          I

  ひとよここに書き散らした詩句の中に、
  われ若気のあやまちの折心をば
  はぐくんだため息の音を聞かれよう
  今とやや別人として過ごした頃

  恋の道を通い知った者が居れば
  空しい期待と苦しみとのはざまで
  泣き口説くわがさまざまな歌いぶりに
  赦しのみか憐れみを給えと願う

  けれど今は知るもろびとにとりわれは
  久しい間うわさの種であったと
  かくてしきりにわが身を恥じらうばかり

  わが妄想の果実は恥じらいであり
  後悔 また世の人の気に入ることは
  うたかたの夢とはっきり覚ったこと

    この詩は、ペトラルカがその詩集の二度目の編簒をおこなった1347年
  から1350年頃にはすでに詩集の冒頭に置かれていた。その内容からすると
  、その詩に続く詩集全体は彼が若気のあやまちを犯した折の嘆きの歌という
  ことになるであろう。そしてこの序をなす詩を書いたときには、それらの「
  空しい期待と苦しみ」に悩んだころの自分を、今とは別人のようだったと反
  省している。そして恥じらいと後悔と覚りについて語っている。それゆえ、
  この詩は詩集全体の序をなすと同時に、エピローグ(結び)であるとも言え
  る(F. Petrarca: Le Rime, a cura di G. Carducci e S. Ferrari, Firenze,
   1957, p.3. カルドゥッチによる注釈参照)。

    1348年に彼の恋人ラウラがペストのために死去した。だがそのことは
  彼がラウラを歌うペンを置く理由にはならなかった。彼は生涯まさに永遠の
  恋人を歌い続けた。そのため、「カンツォニエーレ」は「ラウラの生」と「
  ラウラの死」の二部に分かれることになった。彼が初めて彼女と出会ったの
  は、すでに見たように、1327年4月6日聖金曜日、アヴィニョンの聖クラ
  ラ教会においてであった。ラウラはすでに人妻であった。一説によると、ド
  ゥ・サド伯爵に嫁いでいたと言われる。聖金曜日とはキリストの十字架上の
  死を記念する日で、キリスト教徒が大斎を守って主キリストの死を嘆き悲し
  む日である。その日に教会の中で人妻を見初めることになったということが
  、彼の恋愛の前途を悲劇的なものとする前兆となった。彼はその宿命的な出
  会いを次のように歌っている。

       III

  そのつくり主の受難を悼むあまり
  陽の光の色さえあせた日であった
  あなたの美しい目に縛められて
  君よはからずもわれはとりことされた

  愛神(アモル)の攻撃にそなうべき時とは
  思いもよらず心安けく行けば
  主の死をしのび人みな嘆くさなかに
  かくしてわがわざわいは始まったのだ

  われ防備(そなえ)なきことを愛神(アモル)はみとめた
  目から心へ道のひらかれたことも
  その目は今涙の通い路となった

  だが武装した君には弓をも示さず
  かの様のわれに矢傷を負わせたとて
  思うにかれの名誉とはならなかった

    ペトラルカの情熱にもかかわらず、貞潔なラウラはついに彼の望みをか
  なえることがなかった。そのため彼はつねに涙にかき暮れなければならなか
  った。第5のソネットによれば、彼がその愛する人の名前を呼ぶと、その溜
  息がおのずからラウラの名前になると歌いながら、次のように恐れている。

    さりながらアポローン神は憤らん
    僭越にも死すべき舌が常緑の
    かれのいつくしむ枝をば語らんとは

  この常緑の枝とはラウラLauraが意味する月桂樹のことである。しかもアポ
  ローン神がいつくしむ月桂樹とは、アポローン神が詩の神であるところから
  、詩の栄冠のことである。そこからペトラルカが永遠の恋人として歌ってい
  るラウラは、実在の人間のことではなく、むしろ詩人が獲得することを熱望
  している詩の栄冠のことではないかという説が生まれることになった。若い
  頃望んだこの栄冠を、ついに彼は1341年4月8日、36歳にしてローマの元
  老院から授かった。彼がラウラと初めて出会ってから17年目である。彼がラ
  ウラと巡り合った日が4月6日であり、月桂冠を得た日が4月8日というの
  も、何か運命的な意味を感じさせる。あるいはそこに文学的意図が隠されて
  いるのかも知れない。

    ラウラという名前に寓意的意味があるにせよ、彼が彼女を歌い上げてい
  る感情には真実の生きた響きが感じられる。そのことを19世紀の偉大な批評
  家フランチェスコ・デ・サンクティスは次のように述べている。「ラウラは
  つつましく、貞潔で、気品があり、美徳のすべてに飾られている。だがそれ
  らは観念的なものである。彼のポエジーはここにはない。恋する者の胸を高
  ならせ、詩人の心に詩情を呼びさますものは、金髪で、乳色のうなじ、赤ら
  んだ頬、澄んだ眼、やさしい顔のラウラなのである。詩人は彼女にさまざま
  な姿をとらせ、それによって新しい肖像画を次々に引き出す。美しい風景、
  緑の野辺、花の雨、囁くせせらぎに囲まれて、自然にラウラの声をこだまさ
  せながら、彼女の絵が浮き立つ。一切の迷いを離れて、美しい形式や、美し
  い女性や美しい自然を慕うこうした感情がペトラルカのミューズなのである
  」(Francesco De Sanctis: Storia della letteratura italiana, a
  cura di Benedetto Croce, Bari, 1964, vol. I, p.251. 邦訳『イタリ
  ア文学史、中世』現代思潮社、p. 364.)。

    だが本当のところ、すでに見た冒頭の詩の宗教的性格と、最後の詩が処
  女マリアの賛歌であることを思い起こすとき、また無数に散りばめられた古
  典からの引用を顧みるとき、この詩集の本質は、ヒューマニストであり、聖
  職者であり、叙情詩人であるペトラルカの三位一体的作品ではないかと推察
  されるであろう。まさにこのようなものとしてこの詩集は、告白を主題にし
  た作品と言えるであろう。

    (2)告白の書『秘密』とアウグスティヌス
    すでに見たように、ペトラルカがローマの元老院から月桂冠を授与され
  たのが、1341年4月8日であったが、それから2年後の1343年に『わが悩
  みの秘めたる争いについて』De secreto conflictu curarum mearumとい
  う著作の最初の草稿を書いた。この書物は通常『秘密』Secretumと略称され
  ている。実はこの年、彼の弟ゲラルドが、モントリオーのカルトゥジオ会の修
  道士となった。ゲラルドはその恋人が死去したことに絶望し、ペトラルカの説
  得も振り切って、厳格な規律で有名なカルトゥジオ会の修道院に入ったのであ
  った。その同じ年にペトラルカは、名も知れぬ女性との間に庶子フランチェス
  カをもうけた。こうしたことから彼は深い精神的衝撃を受けた。『秘密』とい
  う告白の書は、そうした危機的状況から生まれたものと思われる。この本は『
  世の蔑視について』De contemptu mundiという別名をもっている。

    先ず序のところで、ボエティウス(Boethius, c.480-c.524)の『哲学の
  慰め』De Consolatione Philosophiaeの出だしを思わせる仕方で、真理の女
  神がペトラルカの過ちを憐れんで助けるために下ってきて、教父アウグスティ
  ヌスにペトラルカを死にいたる物憂い病いlanguoresから救ってくれるように
  頼む。そして真理の女神を仲立ちにして、アウグスティヌスとペトラルカとの
  対話が繰り広げられる。真理の女神がペトラルカを救うためにアウグスティヌ
  スを選んだことに注意をする必要がある。その理由を真理の女神は次のように
  語っている。「多くの人たちの中で私に親愛なアウグスティヌスよ、あなたは
  この人(ペトラルカ)があなたに献身的であるのを御存知です。.........この慈悲
  深い仕事にたずさわるにはあなたが一番ふさわしい方です。なぜならこの人が
  あなたの名前にいつも熱狂しておりますから。.........それからまたあなたは.......
  肉体の牢獄に閉じこめられていた間に、彼と似たたくさんの苦しみを受けられ
  たのをお思い出しになりましょうから。ともかくあなたはみずから経験なさっ
  たこの情熱の病の名医であります」(Petrarca: Secretum, in Prose, p.
  24. 渡辺友市訳「わが心の秘めたる戦いについて」『ルネサンス文学集』世
  界文学大系、昭和39年発行、p. 111.)。

    つまり、ペトラルカがアウグスティヌスを大変敬愛していること、および
  アウグスティヌス自身が若い頃ペトラルカと同じ情熱の病いを経験したことが
  問題である。さらに言うならば、アウグスティヌスがペトラルカと同じ情熱の
  病いを経験したことこそは、ペトラルカがとりわけアウグスティヌスを敬愛し
  ている所以である。

    ペトラルカによるこうしたアウグスティヌスとの出会いは、実はペトラル
  カとアウグスティノ会士ディオニジ・ダ・ボルゴ・サン・セポルクロとの出会
  いを契機にして起こったものであった。二人は1336年頃アヴィニョンで知り
  合い、ペトラルカはディオニジからアウグスティヌスの『告白』の小型の写本
  をもらい、どこへ旅するにせよつねにこの写本を携えていった。ヴァントゥー
  山頂上で弟ゲラルドを前にして読むのは、この『告白』の写本である。ディオ
  ニジはかつてパリ大学の有名教授で、新しい教皇座のアヴィニョンにおけるア
  ウグスティノ会の学校に招聘され、その地でペトラルカのパトロンである枢機
  卿ジョヴァンニ・コロンナを介してペトラルカと知り合ったと思われる。それ
  というのも、ディオニジはパリ大学の古典学の教授であったし、若きペトラル
  カは新進気鋭の古典学者であったから。しかもディオニジは、ペトラルカが新
  しい文献学的方法によって編纂した古代ローマの歴史家ティトゥス・リヴィウ
  ス(Titus Livius, B.C. 59-A.D.17 or B.C. 64-A.D. 12)の『ローマ建国史』
  Ab urbe condita libriの通暁者であり、またリヴィウスとキケロの影響のも
  とに書かれたヴァレリウス・マクシムスの著作『記憶すべき言行録』Facto-
  rum ac dictorum memorabilium libri IXの注釈書を書いて、ペトラルカ
  のパトロンである枢機卿ジョヴァンニ・コロンナに献呈している。従ってペト
  ラルカとディオニジは、先ず古典研究というヒューマニズム的な共通の関心に
  よって結びつけられたと思われる。

    だがそのようにして二人の関係が親密になるにつれて、アウグスティノ会
  の修道士にして司祭であるディオニジは、若きペトラルカの道徳的生活が当世
  風の危険なものであることを知って、自分の修道会の偉大な師であるアウグス
  ティヌスによって彼の魂を救済しようと努めたと思われる。そのためディオニ
  ジは、ペトラルカにアウグスティヌスの『告白』の携帯に便利な小型の写本を
  あたえ、折に触れて開いて読んで魂のより所とするように諭した。それまでの
  ペトラルカの研究上の関心は異教的古典に限られていたのを、この時からキリ
  スト教的古典にも目が開かれ、殊に自分の境遇と似ているところから聖アウグ
  スティヌスを魂の師として敬愛するようになった。こうしてディオニジはペト
  ラルカの学問上の師であるのみならず、また霊的告解師ともなった。それゆえ
  、『秘密』におけるアウグスティヌスとフランティスクスとの対話は、罪の懺
  悔をするペトラルカと霊的告解師ディオニジとの対話からインスピレイション
  を得たものと解釈することもできるであろう。

    ディオニジはやがて学芸に通じたナポリ国王ロベルト・ダンジョRoberto
  d'Angio(1278-1343)に招かれて、その宮廷にペトラルカの名を広めたとこ
  ろから、ロベルト王の審査による推薦状を得て、ペトラルカはローマの元老院
  から月桂冠を授与されることになったのである。それゆえディオニジは、若い
  頃から熱望していた月桂冠をペトラルカに得させてくれた大恩人であった。ペ
  トラルカがディオニジ神父に宛てた有名な「ヴァントゥー山登攀」の書簡の中
  で、ヴァントゥー山の頂上で、弟ゲラルドを前にして、ディオニジからもらっ
  たアウグスティヌスの『告白』の写本を開いて読む文章を書いたのは、そうし
  た背景があったからである。

    (3)『秘密』における「愛と栄誉」への欲望
    『秘密』は三巻からなっている。第一巻の冒頭でアウグスティヌスはペト
  ラルカに対して、「現世の誘惑を蔑み、世間の多くの嵐の中で心を静めるため
  には、自分の悲惨を思い出して、死を熱心に省察することほど有効なことは見
  出されない」(Petrarca: Secretum, in Prose, p.28.)と勧めている。し
  かしながらペトラルカは、「貧窮、苦痛、不名誉、病気や死、またこの上なく
  悲惨だと見なされるこの種の他の出来事は、大概われわれの意に反して起こる
  のであって、意志して起こることは決してない」と言い返す。それに対してア
  ウグスティヌスは、「何人も自発的にでないならば悲惨に陥る者はない」(
  Ibid., p.36.)と言い、悲惨であるのは罪によるのであって、罪は意志の行為で
  あるゆえ、人間は自分の意志によって悲惨になるのだとしている。従って、自
  分の悲惨なことを完全に認識して、それから立ち直ろうとすることを熱望しな
  ければならない。そのためには、「人間は理性的であって、死すべき動物であ
  る」Homo est animal aut rationale aut mortale.という人間の定義に則っ
  て、理性に従って自分の生活をととのえ、死について深く考えるとよい。そう
  すれば、滅びゆくものを蔑み、彼岸をあこがれるようになる。

    第二巻では、自分の力を過信して創造主をないがしろにするほど傲慢にな
  ることを戒め、謙虚になることを勧めている。そこでアウグスティヌスは、ペ
  トラルカが自分の誇りとしていることのゆえに悲惨に陥っている事柄を列挙し
  てゆく。先ず、才能と読書と雄弁と体つきを彼が誇りとしているが、それらは
  すべて空しいものであることが指摘され、「自分自身を蔑むことが一番安全な
  ことだ」(Prose, p.82)と言われる。さらに彼が世俗的財産欲や野心や肉欲
  にとらわれることが批判され、しかもしばしば悲惨のきわみである倦怠acci-
  dia(aegritudo)の悩みに落ち込んで苦しむのは、運命を憎んでいるからだと
  諭される(110)。

    第三巻において、アウグスティヌスはペトラルカの悲惨の核心に触れる。
  すなわち、ペトラルカが「愛と栄誉」amor et gloriaという二つの堅固な鎖
  に縛られていながら、それらを富と思い込んでいることが指摘される。とこ
  ろがペトラルカはそれら二つの感情を最も高貴なものと思っていると言い返
  す。アウグスティヌスが愛はあらゆる狂気の中の最たるものだと言うのに対
  して、ペトラルカは美徳の手本のような最も美しい女性を愛し尊敬したので
  あって、しかも彼女の肉体よりも霊魂を愛したのであって、彼女のお蔭で自
  分の精神はあらゆる汚濁からまぬがれ、高いところを目指すように仕向けら
  れたのだと抗弁する。

    またアウグスティヌスは、ペトラルカが彼女のお蔭で高い名声を熱望し
  、それを誇りとしているが、彼の霊魂を圧迫する重荷の中で名声ほど汚らわ
  しいものはないのであり、被造物の誘惑にとらわれて創造主を愛するつとめ
  を怠ったと言って非難する。ところがペトラルカは、どんな療法によっても
  栄誉を得たいという欲望だけは押さえきれないと答える。しかも自分がなし
  とげようとしている仕事は光輝あるものであり、自分はそれによって神とな
  ろうとしているわけではなく、人間的栄誉だけで十分なのだ。こうして彼は
  、永遠の事柄への配慮を延期してでも、やがて滅ぶべき現在の重要な仕事へ
  の配慮に固執する。そして理性によって死すべき事柄を蔑視することを説教
  するアウグスティヌスに対して、ペトラルカは「愛と栄誉」を依然として高
  貴なものとみなして、この世にある限り求め続けることを放棄しない。アウ
  グスティヌスは、それでは論争が前に戻ってしまうと言って、この本は終わ
  る。

    弟ゲラルドが修道院に入った年に、かなり深刻な道徳的危機を感じなが
  ら書いた『秘密』の本は、『世の蔑視について』という別名をもっているに
  もかかわらず、結局修道士的な「世の蔑視」とは異なったペトラルカ自身の
  生き方を正当化する結果となった。その生き方とはさしあたり、いわゆるプ
  ラトン的愛によってラウラを愛し続け、「アフリカ」の詩を書いて栄誉を獲
  得することである。ここに中世的価値観とは異なったルネサンス・ヒューマ
  ニストの価値観が、初めて公に宣言されることになった。すなわち、神と天
  国を第一義的に目指す価値観に代わって、人間的愛と人間的栄誉を重視する
  価値観が問題である。

 Return to the Homepage

 Return to the Palace of the Renaissance