ペトラルカ「ヴァントゥー山登攀」の書簡

  
      2.翻訳

    聖アウグスティノ会士にして聖書の教授であるディオニジ・ダ・ボルゴ
  ・サン・セポルクロ(1)に宛てた書簡
        ----自分自身の配慮について(2)(第四巻一)

    今日(3)わたしは、ただいちじるしく高い場所を見てみたいという欲
  望に駆られて、この地域の最も高い山に登りました(4)。その山はヴァン
  トゥー(5)と呼ばれていますが、それも当を得ぬことではありません。長
  年の間、わたしはそこへ行く夢を抱いておりました。それというのも、ご存
  じの通り、人々の境遇を左右する運命によって、わたしは子供のころからこ
  のあたりに住まっておりましたから(6)。しかもこの山は、どこからでも
  広々と見られますので、ほとんどいつも目のあたりに見ておりました。わた
  しは、しようと毎日思っていたことを、ついに実行しようという衝動にとら
  えられました。ことにいく日か前、リウィウスのローマ史(7)を読み返し
  ておりますと、たまたま次のような章句に出会いました。そこには、マケド
  ニアの王フィリッポス----彼はローマの人民と戦争を行ないましたが----
  は、デッサリアのハイモス山に登った、とあります(8)。その山頂からア
  ドリア海と黒海との二つの海が見えるといううわさを、彼が信じていたから
  です。それが本当か嘘かわたしは知りません。なぜなら、その山はわたした
  ちの地域からは遠いですし、著作家たちの意見の不一致がその事を疑わしい
  ものと致しますから。それらの意見のうちただわずかばかりを披露致します
  と、地理学者ポンポニウス・メーラ(9)はためらうことなくそれを本当だ
  と報告しておりますし、ティトゥス・リウィウスはそのうわさを嘘だと思っ
  ております。もしその山がこのヴァントゥー山と同じほど容易に登ってみら
  れえましたならば、わたしはそのことを長く疑わしいままにしておきはしな
  いでありましょう。

    ともかくかの山のことはさておき、ヴァントゥー山のことにもどるとし
  まして、年老いた王においてとがめられないことをすることは、若き私人に
  おいて許されうるように思われました(10)。ですが道づれのことを考え
  ますと、奇妙なことと言われましょうが、友人たちの中であらゆる面で適当
  だと思われる者はほとんどおりませんでした(11)。親しい人々の間でさ
  えも、すべての意志や習性がまったく調和するというのは、きわめてまれな
  ことです。この人はあまりに怠惰ですし、あの人はあまりに活発です。この
  人はぐずでありすぎますし、あの人はすばしこくありすぎます。この人はあ
  まりに陰気ですし、あの人はあまりに陽気です。この人は愚かすぎますし、
  あの人はわたしの望んでいた以上に賢いのです。この人の寡黙、あの人の厚
  顔。この人の重いことと肥満していること、あの人のやせていることと虚弱
  であること。そうしたことがわたしを恐れさせました。それらの短所は、た
  とえ重大なものであるとしましても、家にあっては忍びえられます----な
  ぜなら、思いやりがあらゆることを耐え、友情がいかなる重荷をもこばみま
  せんから(12)----。ですが旅にあっては、同じ短所がいっそう重大な
  ものとなります。このようにして、わたしの繊細な魂、しかも健全な楽しみ
  を欲する魂は、周囲を見まわしながら、友情にいかなる傷をも決して負わせ
  ることなく、個々のことをおもんぱかりました。そして計画した旅に厄介の
  種となりうると予見したものはどんなものでありましょうとも、ひそかに退
  けました。あなたはどうお思いになりますか。結局、わたしは家族に援助を
  求め、あなたのよくご存じになっておられる(13)わたしの唯一の肉親で
  ある弟に(14)、その事柄を打ち明けました。彼はこの上なく嬉しいこと
  を聞くことができ、わたしのもとで兄弟と同時に友人の位置を占めることで
  喜んでおりました。

    わたしたちは定められた日に(15)家を離れ、夕方にはマローセーヌ
  に着きました。その場所は山の北側のふもとにあります。わたしたちはそこ
  に一日とどまり、ついに今日それぞれ一人ずつの召使をつれて山を登りまし
  たが、たいへん難儀をしないわけにはいきませんでした。実際、岩ばかりの
  山塊はけわしくてほとんど近寄りがたいのです。しかしながら詩人によって
  (16)適切に言われております通り、

    辛抱づよい努力は
    すべてを克服する

    ながい日、おだやかな風、魂の活気、身体の強健と機敏、そして他のそ
  のような事柄が、登山者たちに味方しました。ただその場所の自然だけがわ
  たしたちをはばんだのです。わたしたちは山の谷間で、多くの言葉を費やし
  てわたしたちに登山を思いとどまらせようと努めた年寄りの羊飼いに出会い
  ました。彼の語るところによりますと、彼もまた五十年前に同じ若々しい情
  熱に駆られて、いちばん高い頂に登ったのですが、後悔と労苦のほか何もそ
  こから持ち帰らず、体と衣服は岩やいばらの茂みで引き裂かれてしまったと
  のことです。そしてそのときの前にも後にも、だれかそこで同じような冒険
  を行なったという話は聞いたことがないそうです(17)。彼がわたしたち
  にこうしたことを叫びましたのに、禁止されることによってわたしたちの欲
  望はいや増しました。若者たちの心は忠告者の言うことなど信じないもので
  すから。このようにして老人は彼の努力の空しいことを覚りますと、崖の間
  をいくらか進んでいって、険しい山道を指でわたしたちに示しました。そし
  て多くの忠告をわたしたちにあたえ、すでに遠く離れてしまってさえ背後か
  ら何度もその忠告をくり返しあたえてくれました。わたしたちは彼のもとに
  衣服や邪魔になる物を残し、ただ登るだけの身支度をして快活に登り始めま
  した。

    しかしながら通常そうなるように、大いなる努力の後につづいて速やか
  な疲労がやってきました。それゆえわたしたちは、そこから遠くないある岩
  のところで足を止めました。そこからふたたび出で立って歩みを先に進めた
  のですが、前よりももっとゆっくりとでした。そして特にわたしは、さらに
  いっそう抑えた足どりで山道をたどってゆきました。ですが弟は、近道をし
  て尾根づたいにますます高い所へ向かって登っていったのです。もっと虚弱
  なわたしは、低い方へ下ってゆきました。そしてわたしを呼びもどしてもっ
  と正しい道を指示する弟に、わたしは他の側のもっと容易な登り口を見つけ
  ることを望んでおり、もっと容易に進んでゆけたらもっと長い道でもかまわ
  ないのだと答えました(18)。こうした口実でわたしは無精の言い訳をし
  たのです。そして他の者たちがすでに高所に到り着いておりましたのに、も
  っと楽な登り口がどこにも見当たらないものですから、わたしは谷間をさま
  よっていました。道のりは増し、無用な労苦がかさんでゆきました。そうこ
  うするうちに、わたしはもうあちこちと混乱してさまようことにうんざりし
  て、どこまでも高所をめがけてゆこうと決心しました。そしてわたしを待っ
  ている弟のところに、疲労困ぱいして到り着いたのです。彼は長い休息をと
  って元気を取りもどしておりました。そこでわたしたちはしばらく同じ歩調
  で進んでゆきました。その丘を立ち去るや否や、先程まわり道をしたことを
  忘れてしまって、より低い方へと駆り立てられてゆき、また谷をたどって長
  くはあるが楽な道を追い求めたところから、わたしは大きな困難に遭遇して
  しまいました。すなわち、わたしは登る労苦をひき延ばそうとしたのですが
  、事物の本性は人間の才覚で取り除かれるものではありません。身体的なも
  のが下がっていながら、高所に到り着くなどということはありえないのです
  。それ以上どう言ったらよろしいでしょうか。弟はあざ笑い、わたしは腹を
  立てました。こうしたことが短い時間に三度(19)かそれ以上わたしに起
  こったのです。

    このようにしばしば期待を裏切られてわたしは、ある谷間に腰をおろし
  ました。そこで有体的なものから形体のないものへと、飛翔する思考によっ
  て飛び移りながら、わたしは次のような言葉で自分自身を責めました。---
  -「今日おまえがこの山を登るに際してこのようにしばしば経験したことは
  、祝福された生活へと近づくに際して、おまえにもまた多くの者にも起こる
  ことを知らねばならない。だがそのことが人々によってそれほど容易に考慮
  されないのは、身体の運動はあらわであるが、霊魂の運動は目に見えず、隠
  されているからである。わたしたちが祝福されたと呼ぶ生活は、たしかに高
  い場所に位置している(20)。ひとの言うように、狭き道(21)がそこ
  へ導く。また多くの岡もその間にあって、わたしたちは徳から徳へと気高い
  足どりで進んで行かなければならない----(22)。頂上にはあらゆるこ
  との終極があり、わたしたちの遍歴がそれへ向けられている目的地がある。
  そこに到達することをだれもが欲している。だがオウィディウスが言うよう
  に、

    『欲することでは不十分である。目的を達するためには熱望することが
  必要だ』(23)。

    おまえはたしかに  もしおまえが、他の多くのことにおけるように、
  このことにおいても自分をごまかしているのでなければ  ただ単に欲して
  いるだけではなく、また熱望もしている。それでは何がおまえを引き留める
  のか。明らかに、地上的な最低の快楽を通じてのいっそう平らな道、しかも
  一見したところいっそう容易な道以外の何ものでもない。しかしながら、は
  るかに邪道に外れてしまった場合には、おまえはいたずらに長びいた労苦の
  重荷を背負って、祝福された生活の頂へと登ってゆくか、あるいはおまえの
  罪の谷間の中に力なえて倒れてしまわざるをえないであろう。そしてもし思
  うも恐ろしいことながら『闇と死の影』(24)がそこでおまえを見いだす
  ならば、おまえは絶えざる責め苦の中で永遠の夜をすごさねばならないであ
  ろう」。こうした考えが、なお残っている道のりに対して、心と体をどれほ
  ど力づけたことか、言っても信じていただけないでしょう。ついにあらゆる
  困難を克服して、今日の道を体の足で歩きぬいたように、日夜あこがれるあ
  の旅路を心で踏破できればよいのですが。そして、死ぬさだめのはかない身
  体の従順さのおかげで、また四肢の重荷の下で、時間の継続において行なわ
  れるはずのことよりも、機敏で不滅な霊魂を通じて、いささかの場所の移動
  もなくまたたく間に(25)なされうることの方が、はるかに容易なはずで
  はないでしょうか。

    すべてのうちで最も高い山は、山びとたちが「息子」(26)と呼んで
  いるものです。なぜなのか、わたしは知りません。他の場合に時折なされる
  ように、反語としてそう言われているのでないかと思う、ということを別に
  すれば。実際それは、すべての近隣の山々の父親のように見えるからです。
  その頂には小さな平地があります。そこでやっと、疲れきったわたしたちは
  休息しました。そして登るに際してどんな悩みがわたしの胸にわき起こった
  かあなたはお聞きになったのですから、神父よ、残りのことをもお聞き下さ
  い。そして何とぞあなたのひと時を、一日のうちにわたしが行なったことを
  読むことに費やされますように。最初は、空気が異常に希薄で清らかなこと
  や、雄大な光景に感動させられて、わたしはほとんど呆然として立っていま
  した。ふりかえって見わたすと、雲が足の下にありました。そしてアトス山
  やオリュンポス山(27)のことが、それらについて聞いたり読んだりした
  ことを、それほど有名でない山において認めて、今やわたしには信じられな
  いものではなくなりました。それからわたしは視線をイタリアの方へ向けま
  した。心はなおいっそうそこへ傾きます。アルプスは凍って、雪で覆われて
  おりました。もし言い伝えを信じますならば、かつてローマの名のあの残酷
  な敵が、酢によって岩石を破壊しながら、それを越えて行ったのです(28
  )。そのアルプスはかなり遠く隔たっているのですけれども、わたしにはす
  ぐ近くにあるように見えました。告白しますが、わたしは目によりもむしろ
  心に現われたイタリアの空に向かってため息をつきました。そして友人(2
  9)や祖国に再会したいという計り知れないほど大きな熱望が、わたしに襲
  いかかったのです。ですが同時に、わたしはまだ一人前の男らしからぬこれ
  ら二つの願望の軟弱さをとがめました。たとえいずれの場合にも、すぐれた
  証人たちの援助に支えられた言い訳がないわけではありませんでしたけれど
  も。

    それから別な新しい考えが心を占め、場所のことから時間のことへと心
  を導きました。すなわち、わたしは自分自身に次のように申しました、「お
  まえが少年期の勉学をやめてボローニャを去ったときから、今日で十年経っ
  た(30)。おお不滅の神よ、おお不易の知恵よ。この間におまえの習性の
  変化は、何と多くまた何と大きかったことか。数えられぬほどのことをわた
  しは言わずにおいておこう。なぜなら、わたしはまだ港の中にいないので、
  過ぎ去った嵐のことを安らかに思い出すことができないのだ。おまえのアウ
  グスティヌス(31)の次のような言葉を前置きとしながら、すべてのこと
  を起こった順序にしたがって逐一述べるときが、おそらく来るであろう。『
  わたしの過去の醜い行ないとわたしの魂の肉的堕落を思い起こしたいと思う
  。それらのことを愛するゆえではなくして、わが神よ、あなたのことを愛さ
  んがためである』(32)と。だが今なお、あいまいでわずらわしいことが
  沢山わたしに残っている。かつて愛するのがつねであったことを(33)、
  わたしはもはや愛さない。わたしはうそをついている。それを愛しはするの
  だが、より控え目に。ほら、またわたしはうそをついた。それを愛しはする
  けれども、より恥じらいながら、より悲しみながら。今やとうとうわたしは
  本当のことを言った。それはまさに次のような具合である。わたしは愛する
  、だが愛さないことを愛したいようなことを、憎むことを欲したいようなこ
  とを。それにもかかわらずわたしは愛する、だが心ならずも、強いられて、
  悲しみにみちて、嘆きながら。そしてわたしはあわれにも、あのきわめて有
  名な詩句の意味を自分自身の中に経験しているのである。

    できることなら憎みたい。
    それがかなわぬとあれば、
    心ならずも愛するだろう(34)。

    わたしをすべて所有し、反対者もなくわたしの心の中を支配した、あの
  邪悪で下劣な意志が、反逆的で反抗的な別な意志をもち始めた(35)とき
  から、まだ三年と経っていない(36)。これら両方の意志の間ではずっと
  以前から、また今でも、わたしの思考の戦場で、わたしの中にいる二人の人
  間(37)の支配のための戦いが、きわめて労苦にみち勝負のあいまいな戦
  いが、交えられているのである」(38)。このようにわたしは、過去まる
  十年間のことを回顧しました。それから自分の関心を未来に向けて、自分自
  身にたずねました。「もしもう十年間この飛び去ってゆく人生(39)を長
  びかせることができるならば、そしてもし、この二年間古い意志に対して新
  しい意志が衝突したために、おまえが以前の強情から遠ざかった分だけ、時
  間の割合で美徳へと近づくことができるならば、そのときおまえは、たとえ
  確実さをもってではないとしても少なくとも希望をもって(40)、四十歳
  で死を迎えることができ、老衰へと去ってゆく人生の残りを、平静な心で軽
  んずることができるのではなかろうか」(41)。それらのまたそのような
  考えが、わたしの胸の中に再三生じました、神父よ。わたしは自分の進歩を
  喜び、自分の不完全を嘆き、人間の行ないに共通した変わりやすさをあわれ
  みました。そしてわたしがいた場所やわたしがやって来た理由を、いくらか
  忘れたように思われました。

    それからわたしは思い悩むことは止めにして----それには他の場所の方
  がもっとふさわしいでありましょう----自分の見ようとしてやって来たもの
  を顧みてみるために----実際、太陽はすでに傾き、山の影はのびていました
  ので、退去すべき時間が迫っていることを告げ知らされ、目を覚まされたか
  のように(42)、後ろをふりかえって、西の方をながめました。フランス
  とスペインとの境、ピレネー山脈の頂は、そこからでは見分けられません。
  間にある障害物のためにではなくて、ただわたしたち人間の視力の弱さのた
  めにのみ、そうなのだと知ってはいるのですが。しかしながら、右手にはリ
  ヨン地方の山々が、左手にはマルセーユの海やエーグ・モルト(43)の岸
  を打つ波が、歩いていく日かの距離なのに、きわめてはっきりと見えました
  。ローヌ河はわたしたちの目の下にありました。そしてそれらのものを一つ
  一つ感嘆し、あるいは地上の物事を味わい、あるいは身体の例にならって魂
  をいっそう高尚な物事へと高めているうちに、わたしは、あなたの友情の贈
  り物であるアウグスティヌスの『告白』という書物をのぞいて見ようという
  気になりました。それはわたしが著者と贈り主の記念に保持し、いつも手に
  たずさえているものです(44)。それはたいへん小型ではありますが、無
  限に甘美な小冊子です。現われ出たところをどこでも読むつもりで、わたし
  はその本を開きました。実際、敬虔で信心深いこと以外に何が現われえたで
  しょうか(45)。ところで、はからずもその著作の第一○巻が示されたの
  です。弟はわたしの口を通じてアウグスティヌスから何かを聞くことを期待
  し、注意して耳を傾けておりました。わたしは神を、またそこに居合わせた
  弟を、証人に呼びます。わたしが最初に目をとめたところには、次のことが
  書かれてありました。「そして人々は、山の高い頂や、海の巨大な波浪や、
  河の広大な流れや、大洋の広漠たる周囲や、星々の回転を驚嘆しに出かけて
  行って、自分自身のことをなおざりにしている」(46)。告白しますが、
  わたしは唖然としました。そしてさらに聞きたがっている弟に、わたしの邪
  魔をしないように頼み、今なお地上の事柄に驚嘆している自分自身に腹を立
  てて、本を閉じました。なぜなら、霊魂を除いて驚嘆すべきものはないので
  あり、それの偉大さに比すれば何ものも偉大ではないということを(47)
  、異教徒の哲学者たちからさえも(48)、ずっと前に学んでおくべきであ
  りましたから。

    今や山を見たことで十分に満足して、わたしは自分自身の中へ内的な目
  を向けました。そのときから、わたしたちがふもとに着くまで、わたしが話
  をするのを聞いた者はおりませんでした。アウグスティヌスのその言葉は、
  それほどわたしを沈黙の物思いにふけらせたのです。それが偶然に起こった
  とは想像できませんでした。むしろわたしがそこに読んだことはすべて、わ
  たしに言われているのであって、他の誰に言われているのでもないとわたし
  は思いました。かつてアウグスティヌスが彼自身について同じことを考えた
  ということが思い出されました。そのとき彼は使徒の書を読むに際して彼自
  身述べておりますように  、先ず次の言葉に出会ったのです。「酒盛りと
  酩酊、淫乱と好色、争いと嫉妬の中にあることなく、主イエズス・キリスト
  を着よ。そしてあなた方の肉の欲を満たすことに心を傾けてはならない」(
  49)こうしたことはすでに以前にアントニウスにも起こりました。次のこ
  とが書かれている福音書の言葉を聞いたときに。「もしあなたが完全であろ
  うと望むならば、行って、あなたの持っているもののすべてを売り払い、貧
  しい人々に施しなさい。そして来てわたしに従いなさい。そうすればあなた
  は天に宝を持つであろう」(50)と。彼の伝記の著者アタナシウスが言う
  ように、「あたかもこの聖書の言葉が彼自身のために唱えられたかのように
  、彼は主の命令を自分のものとして引き受けた」。そしてアントニウスがこ
  れらの言葉を聞いてそれ以外のことを求めなかったように、またアウグステ
  ィヌスがこれらのことを読んで、それ以上先へは進まなかったように、わた
  しの読んだすべてのことは先に挙げたわずかな言葉の中に限られたのです。

    自分自身の最も高貴な部分をなおざりにして、非常に多くのことの中に
  散漫になり、空しい光景にうつつをぬかして、内側に見いだされうるものを
  外側に探し求める死ぬべき人間たちには、どれほど思慮が欠けているかとい
  うことを、わたしは沈黙の中で考えました。そして、わたしたちの魂が自発
  的に堕落して自分の原初の期限から遠ざからなかったとするならば、また神
  が彼に名誉となるようにとあたえたものを、恥辱に変えてしまわなかったな
  らば、わたしたちの魂の高貴さはどれほどであったろうかと感嘆いたしまし
  た。この日わたしは帰途をたどりながら後ろを向いて、何度山の頂を眺めた
  と思いますか。もしその観想が浮世のけがれの泥の中につかっているのでな
  いならば、その山の頂は、人間的観想の高さと比べてほとんど腕の長さほど
  の高さがあるようにも見えませんでした。次のこともまた、一歩一歩歩みを
  進めるにつれて心に浮かびました。「もし身体がもう少し天へ近づくために
  、多くの汗をながし労苦を忍ぶことをひとが厭わないとするならば、尊大さ
  の増長した極みとか人間の宿命を踏みつけて、神に近寄ろうとする魂を、い
  ったい鈍どんな十字架、どんな牢獄、どんな拷問が恐れさせるはずがあろう
  か」と。また次のことも考えられました。「苦難を忍ぶことを恐れてかある
  いは逸楽を欲して、この細道から外れてゆかないような者たちが、どれほど
  いようか(51)。ああ、きわめて幸いな者だ、もしどこかにそのような者
  がいるとしたら。詩人が次のように書いて言わんとしたのは、そのような者
  のことだと思う。

    幸いなるかな、事物の原因を知りうる者、そしてあらゆる恐怖、無常な
    運命、貪欲なアケロンテのとどろく音を踏みしたがえる者は!(52)

    より高い土地を征服するためではなく、浮世の刺激によって高ぶった欲
  求を足下に押さえつけておくためには、ああ、どれほど懸命に苦労しなけれ
  ばならないのだろうか」と。

    わたしは波立つ胸のこれらの感動の中にあって、けわしい道に気づくこ
  ともなく、夜明けにそこから出立した小さな田舎じみた宿屋に、深夜になっ
  てもどりました。そして月は夜通し(53)歩行者たちに好意を示しました
  。そこで、召使たちが食事の支度に精を出している間に、わたしひとりだけ
  家の一隅に退いて、あなたに急いで即席にこの手紙を書きました(54)。
  もしそれを書くのを後に延ばせば、場所の変化のために恐らく気分も変わっ
  て(55)、手紙を書こうという気持が冷めてしまうことを恐れたからです
  。このようにして、最愛の神父よ、わたしの中における何ものもあなたの目
  に隠されてあることをわたしは望まないのだ、ということをご覧下さい。わ
  たしは自分の全生活のみならず、また個々の思いさえをもこれほど細心にあ
  なたに打ち明けているのです。願わくはこれらの思いのために祈って下さい
  (56)。長い間さまよって定まりなかったそれらの思いが、いつかしっか
  りと腰をすえますように。またそれらがいたずらに多方面に駆り立てられて
  いたのを、一なるもの、善なるもの、真なるもの、確実なるもの、確固たる
  ものの方へと向いますように。お元気で。

  四月二十六日(57)、マローセーヌより。

 ペトラルカの「ヴァントゥー山」1.テキスト
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