BIOGRAPHY
自己紹介
◆名前
福代秀洋(ふくしろひでひろ)
◆住所
島根県出雲市
◆生年月日
昭和41年6月25日出雲市に生まれる。ちなみに次男です。
◆血液型
A(+)型、
◆履歴
昭和54年
出雲市立高浜小学校卒業
昭和57年
出雲市立第三中学校卒業
昭和60年
島根県立出雲高等学校卒業
平成元年
島根大学理学部地質学科卒業
同 年
応用地質株式会社入社
平成5年
応用地質株式会社入社退社
同 年
帰郷、大福工業株式会社勤務
平成11年
出雲市議会議員
平成13年
株式会社ダイニ代表取締役社長
平成15年
出雲市議会議員(2期目)
同 年
出雲市議会総務常任委員長
平成17年
出雲市議会議員(新市1期目)
同 年
広報委員長
◆所属団体等
ラグビー出雲クラブ
出雲市ソフトボール協会会長
◆家族
8人
◇Biography
昭和41年6月25日に島根県出雲市で、福代家の次男として生まれました。名前は、優秀の秀と太平洋の洋をとって、秀洋(ひでひろ)と付けられたようです。兄弟は兄と妹が一人ずついます。父親の転勤で幼稚園の時仁多郡横田町へ、引っ越しました。それ以前のことはほとんど忘れたので書けません。横田の暮らしは、とても楽しかったのを覚えています。川や山で友達と、日が暮れるまで遊んでいました。横田は大変自然が豊かで、そして自然が厳しいところでした。
小学校にあがる年に、出雲市に帰ってきました。そして高浜小学校に入学しました。家から小学校まで3kmぐらいだと思います。毎日1時間ぐらいかけて通いました。おかげで持久走が早くなりました。高浜小学校は小規模校と言われる、市内でも小さい方の小学校で、我々の学年は一クラスしかありませんでした。1年から6年までずっと同じだったので、同級生はみんな家族のようでした。人数が少ないので、スポーツ大会の選手にはほとんど選ばれました。陸上、サッカー、剣道、体操、オリエンテーリング、などです。小学校卒業の時の文集を見ると、将来の夢は、科学者と書いています。アインシュタインにあこがれていました。
中学校は市立第三中学校です。中学校では剣道部に入りました。体育館が狭くて、1年生は体育館で練習をさせてもらえませんでした。グラウンドも使えず屋上で靴をはいて練習をしていました。2年生の後半から体育館を使わせてもらえるようになりましたが、ボロで、打ち込むとき踏み込むとよく床に穴があきました。そのたびに先生が、釘で板を打ち付けていましたが、凸凹のある体育館でした。また、合唱部にも、先生に頼まれて入っていました。そして、科学部にも入っていました。それぞれ一生懸命こなして、けっこういいところまでいっていたと思いますが、よくまあ掛け持ちでやっていたものだと思います。2年生のとき、生徒会長の選挙に立候補してみごとに落選をしました。そして回ってきた役が、書記長と応援団長でした。今思うと、ひ弱な応援団だったと思いますが、応援練習とか壮行式とか、懸命にやっていました。
出雲高校に入った年に、祖父が死にました。とてもショックだったのを覚えています。
入学した昭和57年はちょうど国引き国体の年でした。中学校の時、合唱部を手伝っていたと言うことで、半強制的に国体のコーラス隊にかり出されました。そして気がつくと、いつの間にかコーラス部に入部していました。青山恵子さん、錦織健さんのほか多くの一流歌手を生み出した伝統ある出雲高校コーラス部です。3年生の時、県大会を勝ち抜き、中国大会を勝ち抜き、全国大会まで進み、大阪の中之島フェスティバルホールでうたいました。全国大会の結果はそれほどでもなかったのですが、今でもあのステージで歌ったことは自慢のひとつです。
大学は、島根大学に入学しました。地球物理学がやりたくて、地質学科を選びましたが、地球物理学は島大地質学科では教えていませんでした。しかし、地質学科としてみたときに、日本を代表するような地質学者が先生として集まっておられ、その道の人の間では、有名な教室だったようです。地質学は私にとってとても難しい学問でした。完成された統一理論がなく、一つ一つの事象が全て特別なものに思えました。部活は小学校からの友人に誘われてラグビー部に入りました。部員が少なかったので秋には試合に出れるようになりました。練習は大変厳しいものでした。また先輩にいわれてかなり無茶なこともしたと思います。地質・ラグビーとも奥が大変深く、難しいものでしたが、大変魅力的なものでもありました。多くの良い友人もできました。
大学四年生の時、先生にどこでも良いので就職先を紹介してくださいとお願いをして、紹介していただいたのが応用地質株式会社でした。先生からは合格するとは思わなかったとのお話を後に伺いましたが、ちょうどバブルの最中で、また我々が生まれた昭和41年は丙午で出生者が少なく、全国的に人材不足です。見事合格、入社することになりました。入社が決まってから、友人や先輩から”地質屋殺し”と呼ばれるほど、仕事が厳しい会社だと脅かされました。
平成元年に大学を卒業し、応用地質株式会社に入社、広島支店に配属になりました。応用地質は地質調査・コンサルタントを主体とした会社です。ダムの調査、橋梁の調査、トンネルの調査、崩壊のおそれがある斜面の調査など行いました。要領が悪かった事もあり、0時をすぎるまで仕事をすることが多々ありました。徹夜をすると極端に集中力が低下するので、仕事は朝4時までと決めていましたが、忙しいときには、午前9時から次の日の朝4時まで、数週間仕事をしたこともありました。時間が遅いことも大変でしたが、一番つらかったことは、自分の能力不足で、上司や先輩に迷惑をかけてばかりいたことです。一生懸命だけでは仕事はできない、実力が無いことは社会人として、恥じるべき事だと思い知らされました。
平成5年、高知への転勤の話がありました。私は、行くつもりでしたが、父が病気になり、兄が出雲には帰らないと言ったため、出雲に帰ることにしました。十分に仕事をできるようになる前に退社することは、仕事に負けたような気がしました。
出雲に帰ると同時に大福工業に入社しました。大福工業では道路、河川、トンネルなど土木工事の現場管理を行いました。平成8年に市議会議員の福代昭さんが亡くなりました。平成9年頃から多くの方から、市議会議員立候補の要請を受けるようになり、平成11年4月、市議会議員に立候補し、当選しました。平成15年4月2期目に挑戦し、当選しました。議会活動については、ほかのページを参照してください。
2003.6.29 福代秀洋
(随時加筆)
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