| ■いいかげんでも堅苦しくもない集まり |
| 「桜狩」(主宰・光栄堯夫)に入会すると、驚くことが多いと思う。まず、指導といったものがないこと。雑誌に掲載される作品に対して、選歌はもちろん添削がなされることはないし、歌会では、相互に意見交換を行うが、主宰などからの助言はない(顔を知らなければ、ロの字型にテーブルを配した部屋の入り口近くでせっせと雑用をこなしている人物を主宰とは思わないだろう)。こんな雰囲気に慣れてくると、今度は会員の入退会の激しさに驚くのではないだろうか。どんどん入ってくるけれど、どんどん辞めていくのである。 |
| こう書くと、なんだかいいかげんな会と思われるかもしれないが、けっしてそんなことはない。会則や会員名簿の整備、主宰・編集委員などの運営体制や会としての意思決定の方法の整備はもちろん、年度ごとの会計報告など、社会的な信用を得られるための体制は整えられている。こう書くと、今度は堅苦しい会と思われるかもしれないが、いいかげんでも堅苦しくもないのが「桜狩」であり、それを実践しているところが「桜狩」の素敵なところである。 |
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| ■自由であることを大切にする集まり |
| ところで、「桜狩」は結社なのだろうか、同人誌なのだろうか。おそらく、こうした問いかけからとても遠いところにあるのが「桜狩」なのだと思う。こうしたことばでは名付けられない、いやそもそもどのようなことばでも名付けることの難しい、そんなルーズな形態の集まりなのだ。一つの価値観で統一されているのではなく、多様な価値観が同時に存在しているのが「桜狩」。だから、ある価値観に基づきなされる指導といったものも、ないのである。 |
| 「桜狩短歌会は超流派的に短歌文学を研究し、各自の歌境を深めることを目的とする」。会則の第一に掲げられている条項である。「各自の歌境を深めること」というなにげないフレーズに、「桜狩」のすべてが込められている。つまり、自由であるということ。むろん、勝手気ままということではない。各自が自立し、各自の責任においてその歌境を深めること。それが「桜狩」の目的である。だから、「桜狩」は組織としての体裁は整えているものの、意味的には「いま・ここ」という場なのだと思う。そう、「場」なのである。「いま・ここ」を共有しながら交流を行う「場」。それが「桜狩」なのだ(つまり、形式的な安定や統一を図る必要=システムがなく、そのため、会員の入退会が激しく見えてしまうのだろう)。 |
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| ■「いま・ここ」を共有したい人のための「場」 |
| 今年(2005年)7月、「桜狩」第108号を20周年記念号として発行し、9月17日(土)、東京・浅草で20周年記念会を開催した。記念号は165ページになった。約70名という会員数を考えればかなりのボリュームである。記念会には、首都圏在住者を中心に各地から、またとくに親しくお付き合いいただいている外部の方にもご参加いただいた。ともにとてもうれしいことだった。 |
| 今後、25周年、30周年に向かって、「桜狩」はどう発展していくのだろう。誤解を恐れずにいえば、「桜狩」は発展していかないのだと思う。常に魅力的な「場」であること。力や勢いをめざすのではなく、「いま・ここ」を共有したい人のための「場」であること。それが「桜狩」の役割なのだから。 |