用語事典

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A-Z 数字
最終改定日 2001年04月05日(金)

あ〜お
麻田剛立(あさだごうりゅう)
1734〜1799。豊後杵築藩の儒学者の子として生まれる。 元の名前は綾部妥彰(あやべやすあき)。脱藩して大阪に居を構え、医を生業としながら自由な立場でイエズス会系の西洋天文学を研究していた。 高橋至時間重富の師匠。
イスラム暦
イスラム暦参照。
インディクティオ
ローマ帝国の15年周期の単位で、ディオクレティアヌス帝の時代よりローマの金銭関係や法律関係の取引の日付を記するために用いられていた。
例)敬虔なる君主、皇帝マウリキウス・ティベリウス・アウグストゥスの治世、コンスルを務めて以後18年、インディクティオ第四年、六月十七日(「暦をつくった人々」P.127より)
インド太陽暦
インド太陽暦参照。
インド暦
ヒンズー暦/インド暦参照。
エグランティーヌ(フィリップ・フランソワ・ナゼール・ファブレ・ド・エグランティーヌ/ファーブル・デグランチーヌ)
詩人。フランス革命暦の日の名前を制定した人物で、360日にそれぞれ異なる名前を制定した。
陰陽寮
天文・暦数のことをつかさどる朝廷の役所。天文は、天変地異がおきた時に、その天意を調べ、密封して天子に密奏する専門職。過去の事例をひも解いて、天意を判断するため、過去の天変地異のデータを貯えておくことにもなる。安倍(土御門)家が代々任ぜられる。は、暦を作成する専門職。賀茂(幸徳井)家が代々任ぜられる。漏刻は、時を告げる。陰陽は、いわゆる占いの分野の専門職。
分類役職名人数
行政職陰陽頭従五位下1
陰陽助従六位上1
陰陽允従七位上1
陰陽大属従八位下1
陰陽少属大初位上1
天文天文博士正七位下1
天文生10
暦博士従七位上1
暦生10
漏刻漏刻博士従七位下1
守辰丁20
使部20
直丁2
陰陽陰陽博士正七位下1
陰陽師従七位上6
陰陽生10
中山茂著「日本の天文学」を参考に作成。時代により、若干違いがあるようだ。

「貞享暦書」には、「天文生 保井算哲源春海 編著、陰陽頭 安倍朝臣泰福校正」とある。

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か〜こ
干支 / 六十干支
十干、十二支の組み合わせ。年や日に六十干支のいずれか(以下の表の順番通り)が割り振られる。日本では暦法が変更されても、干支は変更されず、継続している。
0 甲子 1 乙丑 2 丙寅 3 丁卯 4 戊辰
5 己巳 6 庚午 7 辛未 8 壬申 9 癸酉
10 甲戌11 乙亥12 丙子13 丁丑14 戊寅
15 己卯16 庚辰17 辛巳18 壬午19 癸未
20 甲申21 乙酉22 丙戌23 丁亥24 戊子
25 己丑26 庚寅27 辛卯28 壬辰29 癸巳
30 甲午31 乙未32 丙申33 丁酉34 戊戌
35 己亥36 庚子37 辛丑38 壬寅39 癸卯
40 甲辰41 乙巳42 丙午43 丁未44 戊申
45 己酉46 庚戌47 辛亥48 壬子49 癸丑
50 甲寅51 乙卯52 丙辰53 丁巳54 戊午
55 己未56 庚申57 辛酉58 壬戌59 癸亥

寛政暦
寛政暦参照。
儀鳳暦
儀鳳暦参照。
クリフトフ・グラヴィウス
1537年3月25日〜1612年。イエズス会の天文学者。グレゴリオ改暦において、リリウスの改暦案を後押しする。ガリレオ・ガリレイも彼に自説の正当性を認めてもらおうと訪れている。ただし、本人はプトレマイオス説をとっていた。ポルトガルのコインブラ大学に学び、イエズス会のローマ学院で教鞭を取り、数学教授になった。
グレゴリオ13世/グレゴリウス13世
ローマ教皇。1572〜1585年在位。1582年、ユリウス暦をグレゴリオ暦に改暦。
1585年3月23日(土)、日本の遣欧少年使節(天正遣欧使節)と謁見(在ローマは1585/3〜1585/6)。(→「天正遣欧使節」松田毅一著、講談社学術文庫1362より)
グレゴリオ暦
グレゴリオ暦参照。
元嘉暦
元嘉暦参照。
小出修喜
1797〜1865。徳島藩出身の算家。
五紀暦
五紀暦参照。
コンスタンティヌス大帝(280頃〜337)
古代ローマ帝国の皇帝(在位306〜337)。313年、「ミラノ勅令」を発して、すべての宗教に信仰の自由を認め、キリスト教を公認した。 暦法に関しては、以下のに影響を与えた: 復活祭の礼拝日は、キリストの復活がユダヤの過越祭の日に起きたが、この日はユダヤ暦の月の満ち欠けによって日付が決まっていた。初期のキリスト教徒には、月の満ち欠けを太陽年に正確に同期させる天文学的な技術がなかった。また、反ユダヤ主義の台頭でユダヤ教に依存する日付をもちいることへの反感が出るようになった。そこで、コンスタンティヌスが開いたニケア公会議では、日付の固定されていない復活祭の行事を、ユダヤ教の暦にリンクしないですむように、「春分の後の最初の満月の後の最初の日曜日を復活祭に行う」ことにした。 別の資料では、春分の日を3月21日としたとあるので、事実関係を調査中 ただし、当時の廃退していたローマの科学技術では、正確な春分の日を決定することができず、3月21日に固定してしまう場合がほとんどであったとされる。そのため、グレゴリオ改暦につながっていった。

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さ〜そ
朔望月
(月と太陽の経度が等しくなったとき)と次の朔の期間。約29日半。朔望月は、一定ではなく、長くなったり短くなったりする。その長短を平均化ものが平均朔望月という。その平均朔望月を順次加算することよって、次の朔を求めることを経朔平朔という。一方、長短を計算し、朔の時刻を求めて朔日を決めることを定朔という。日本の暦法では、元嘉暦が平朔で、儀鳳暦以降が定朔となっている。
渋川景佑(しぶかわかげすけ)
1787〜1856。高橋善助。高橋至時の次男。 高橋景保の弟。のちに渋川家の養子となり、 渋川助衛門景佑と名乗る。天保暦の改暦に当たった。
渋川春海(しぶかわはるみ)
1639〜1715。江戸の天文方の開祖。京都四条室町生まれ。父は碁方で幕府に仕えた。本人も14才で碁所勤め。七段。碁方としての名前は算哲。中国の授時暦をモデルとして、初めて日本人の手になる貞享暦改暦に成功。京都にいるときは山崎闇斎を師として垂加神道を学び、 陰陽頭土御門泰福(やすとみ)について土御門神道を学ぶ。 (→より詳細な経歴は、「渋川春海の活動期」参照) 保井、安井、渋川の名前の使い分けがまだ理解できていません。
シーボルト(Philipp Franz von Siebold)
1796〜1866。長崎オランダ商館付きのドイツ人医師。診察の傍ら医学を教授。 あわせて日本の歴史・地理を研究し、多量の資料を収集した。 文政11(1828)年、高橋景保から伊能図を入手し、 持ち出そうとして発覚、いわゆるシーボルト事件を引き起こして文政12年、国外追放。 結局、持ち出していたらしい…
授時暦
授時暦参照。
貞享暦
貞享暦参照。
進朔
午後六時以降に、朔が発生するときに、朔日を翌日にする手法。
スカリゲル(ヨセフ・ユストゥス・スカリゲル Josephus Justus Scalger)
1540年〜1609年。カルヴァン派のフランス人学者。グレゴリオ改暦の議論の最中に、ユリウス積日暦を考案。ユリウス日の最初の日をキリストの生まれた日に関する計算に基づいて、紀元前4713年1月1日正午に始めている。(「暦をつくった人々」P.290〜が詳しい。)
世界暦
1837年(1834年というもある)、ローマ・カトリック協会の聖職者アベ・マルコ・マストロフィニが提唱した暦。(1903年ドイツのジハルトが提唱したものと同じというもある)。1年は3ヶ月ごとに4等分され、1月(1番目)は31日、2、3月(2,3番目の月)は30日で、1月は日曜日、2月は水曜日、3月は金曜日に始まるようになっている。毎年12月(12番目)の月の最後(12月30日)の後に世界の日を入れ、また閏年の場合は、6月30日の後にも世界の日を入れる(世界の日には曜日がない!)。国連でのグレゴリオ暦から世界暦への改暦が検討されたが、(さまざまな理由から)採用にいたらなかった。 世界の日を除けば日付と曜日が固定されるが、誕生日が13日の金曜日のままずーっと続く人が出るなぁ…、毎年同じじゃ暦業者も困るしなぁ…
節気
季節24気名太陽黄経
立春 正月節315°
雨水 正月中330°
啓蟄 2月節345°
春分 2月中
清明 3月節15°
穀雨 3月中30°
立夏 4月節45°
小満 4月中60°
芒種 5月節75°
夏至 5月中90°
小暑 6月節105°
大暑 6月中120°
立秋 7月節135°
処暑 7月中150°
白露 8月節165°
秋分 8月中180°
寒露 9月節195°
霜降 9月中210°
立冬 10月節225°
小雪 10月中240°
大雪 11月節255°
冬至 11月中270°
小寒 12月節285°
大寒 12月中300°
宣明暦
宣明暦参照。

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た〜と
大衍暦
大衍暦参照。
大統暦
大統暦参照。
高橋景保(たかはしかげやす)
1785〜1829。高橋至時の長男、 渋川景佑の兄。 のちに書物奉行を兼ね天文方筆頭となる。国禁を犯して、 シーボルトに外国の資料と交換に伊能図を渡して捕らえられ、 入牢させられて獄死。
高橋至時(たかはしよしとき)
1764〜1804。高橋景保、(渋川)景佑の父。 大阪定番玉造組の同心だったが、麻田剛立について暦学を学ぶ。 寛政七(1795)年、改暦のため江戸に召し出され、天文方(旗本)となる。 弟子に伊能忠敬がいる。
天保暦
天保暦参照。
な〜の
ニケアの宗教会議・ニカエア公会議
325年、小アジアのニケア/ニケーア/ニカエア(現トルコのイズニク)で開かれたキリスト教会初の総会議(第1回目)。教義を統一するために、ローマ皇帝コンスタンティヌス帝が開く。ローマ皇帝治下にあった1800名の司教のうち、318名が参加したといわれる。神・イエス・聖霊の三位一体説を唱えるアタナシウス派を正統、イエスの人間性を主張するアリウス派を異端として追放した。前者は以後、ローマの国教となり、後者はゲルマン諸民族の間に広まった。さらに復活祭の主日の決め方や、アレクサンドリア(エジプト)主教の東方教会における権限などが決議された。

この会議で決められたとする内容に関する記述(未整理):

地球が太陽を一周する期間。一周の基準をどこに置くかで回帰(太陽)年、恒星年、近点年などがある。
名称日数基準
回帰(太陽)年365.2422日春分点
恒星年365.2564日恒星
近点年365.2596日近日点

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は〜ほ
間重富
1756〜1816。大阪の質商で天文学者。高橋至時と ともに麻田剛立に学ぶ。大阪に自前の観測所を持ち、 至時、景保親子を支え、伊能忠敬を鞭撻して全国測量をなさしめた。
1960年から「一太陽年の期間の3155万6925.9747分の1」(国際度量衡委員会)。1967年から「セシウム133原子の固有運動の91億9263万1770周期」。
ヒンズー暦
ヒンズー暦/インド暦参照。
復活祭(Easter)
イエス・キリストが死後3日目に復活したことを記念して祝う、キリスト教最大の祭日。イースター。
復活祭をいつにするかという論争は2世紀末からあった。325年のニケア/ニカエア(nicaea)公会議は、春分の日をアレクサンドリアで実施されていた3月21日とし、(暦の上の)春分後の第1満月後の日曜日を復活祭の日ときめた。しかし、当時キリスト教圏がもちいていたユリウス暦と天文時との間にずれが生じたため、465年ごろ、教皇ヒラルス(在位461〜468)の要請によって天文学者ビクトリヌスが復活祭の決め方を改正した。この方法のいくつかの要素は現在もひきつがれている。7世紀にイギリスとケルト系の教会は、この算出方法に反対してローマ教皇庁とはげしい論争をひきおこしている。 1582年に教皇グレゴリウス13世(在位1572〜85)は、閏年(うるうどし)などの調整によってユリウス暦を改正し、グレゴリオ暦を制定した。だがプロテスタントの地域ではすぐには新暦をうけいれず、最後までのこったイギリスとアイルランドが採用した1752年から、ようやく西方教会では同じ日に復活祭がおこなわれるようになった(→グレゴリオ暦採用の歴史)。東方教会ではグレゴリオ暦を採用せず、今でもユリウス暦をもちいている。
フランス革命暦
フランス革命暦参照。
宝暦暦
宝暦暦参照。
保科正之(ほしなまさゆき)
1611〜1672。徳川二代秀忠の第三子。三代将軍家光の異母弟。会津藩23万石藩主。 名君と言われる。貞亨暦改暦の最初の推進者。老中稲葉美濃守正則に改暦のことは 安井(渋川)春海に仰せ付けるように遺言して死去。

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ま〜も
マヌ暦
マヌ暦およびマヌ暦の改暦参照。

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や〜よ
ユダヤ暦
ユダヤ暦参照。
ユリウス周期
7980年の周期。スリカゲルが考案したユリウス暦(ユリウス積日暦)に採用された周期。太陽周期28年、月の周期19年、古代ローマ人が用いていた15年周期(インデクティオ)を掛け算して求められた。
ユリウス暦
ユリウス暦参照。

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ら〜ろ
リリウス(アロイシウス・リリウス)
グレゴリオ暦を考案した人物。1510年頃〜1576年。小資産家に生まれ、ナポリで医学と天文学を学ぶ。ベローナに定住し、ペルジア大学で教鞭をとる。グレゴリオ改暦前に死去。死後、弟のアントニウスが改暦委員会に改暦案を提出。(「暦をつくった人々」P.265〜が詳しい。)
ロムルス暦
ロムルス暦参照。

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A-Z

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数字
24節気
節気参照.
60干支
干支参照.

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