| 暦法名 | 開始年 | 継続年 | 編者 | 太陽年(日) | 朔望月(日) |
| 元嘉暦 | 持統天皇6年(692)(より以前) | 5年(以上) | 何承天 | 365.24671053 | 29.530585106 |
| 儀鳳暦 | 文武天皇元年(697) | 67年 | 李淳風 | 365.2447761 | 29.53059701 |
| 大衍暦 | 天平宝字8年(764) | 94年 | 一行 | 365.2444 | 29.530592 |
| 五紀暦 | 天安2年(858) | 4年 | 郭献之 | 365.2447761 | 29.53059701 |
| 宣明暦 | 貞観2年(862) | 823年 | 徐昂 | | |
| 貞享暦 | 貞享2年(1685) | 70年 | 渋川春海 | | |
| 宝暦暦 | 宝暦5年(1755) | 43年 | 安倍泰邦 | | |
| 寛政暦 | 寛政10年(1798) | 46年 | 高橋至時 | | |
| 天保暦 | 弘化元年(1844) | 29年 | 渋川景佑 | | |
| 太陽暦 | 明治6年(1873) | | | | |
日本暦法の流れ
グレゴリオ暦などの洋風?太陽暦の場合は年、日付を数字で表記し、日本の暦法による年、日付の場合は、漢数字を用いています。
- 553(欽明天皇十四)年
- 暦博士の任期が切れたので交代の博士を派遣するように百済に使者を送る(日本書紀)。日本書紀の記述からすると、すでに暦博士は国内に派遣されており、暦法自体(元嘉暦と思われる)は、すでに伝わっていたのではと思われる。百済は、高句麗、新羅との対抗上、宋の元嘉暦を採用していた。
- 554(欽明天皇十五)年
- 百済より、暦博士固徳王保孫(ことくおうほうそん)ら来日(日本書紀)。当時の日本(日本人)には、計算によって暦を作る実力がなかったので、百済より暦の専門家を招いて作製してもらったらしい。
- 602(推古天皇十)年
- 百済より観勒(かんろく)という学僧が、暦本、天文地理書、遁甲方術の書をもって、来日。暦法については玉陳(たまふる)という人物が習う(日本書紀)。
- 604(推古天皇十二年)年
- (自国人によって編纂された?)暦日を初めて用いる(政事要略)。これも元嘉暦に基づくものだった。文武天皇元年(697年)まで使われる。604年は「甲子」であり、前年603年の冠位12階、604年の十七条憲法などの聖徳太子らの刷新事業と連動か。
- 643(皇極天皇二)年
- 五月十六日、日本最古の月食の記録(日本書記)
- 645(大化元)年
- 日本における元号(大化)の初め
- 660年
- 日本における漏剋の初め
- 663年
- 白村江の戦い。百済滅亡。
- 671年
- 漏剋の使用(時の記念日の制定根拠)
- 675年
- 初めて占星台を設置
- 690年(持統天皇四)年
- 元嘉暦と儀鳳暦の併用の採用(を発布)(日本書紀→「三代実録」には若干違う記述あり)。
- 692年(持統天皇六)年
- 元嘉暦と儀鳳暦の併用を実行?→元嘉暦と儀鳳暦の併用期間については、諸説あり。
- 697年(文武天皇元)年
- 儀鳳暦採用、実施は翌年から。
- 701(大宝元)年
- 大宝律令制定。中務省の陰陽寮を置き、造暦にあたらせる。十一月一日に頒暦の儀式を行ったのち、各官庁、地方官庁に配布された。(大宝律令)
- 727(神亀四)年
- 頒暦の筆写装釘などに要する細かい材料、費用が書かれている。(延喜式)
- 729年(唐・開元十七年)
- (唐)麟徳暦(儀鳳暦)を廃し、僧・一行が編纂した大衍暦を採用。(6年後の735年の項参照)
- 730(天平二)年
- 陰陽、医術、七曜(天文学)、頒暦は、国家の要でありながら、これらの指導者は、高齢のため、弟子をとって教授させるように、太政官が聖武天皇に上奏。(日本書紀より)
- 735(天平七)年
- 入唐留学生 吉備真備、大衍暦経1巻(大衍暦の理論を記す)、大衍暦立成12巻、太陽の影を測る鉄尺1枚などを持って帰国。(続日本紀)
- 757(天平宝字元)年
- 暦生の学ぶべき書として、漢書・晋書の律暦志・大衍暦議、九章、六章、周脾、定天論の書をあげる。(続日本紀)
- 758(天平宝字二)年
- 陰陽寮を大史局と改める。(続日本紀)
- 764年(天平宝字八)年
- 儀鳳暦を廃し、大衍暦を採用する。(続日本紀)
- 778年
- 羽栗翼(第十二次遣唐使として唐に渡る)、「宝応五紀暦」を学び帰国。「宝応五紀暦」を採用するように建言するが、「習学する人無く、業を伝うることを得ず」ということで採用見送り。(→上田雄著「渤海国の謎」P.233より)
- 857(天安元)年
- 暦博士の大春日朝臣真野麻呂が、五紀暦採用を進言(日本文徳天皇実録、天安元年正月17日の条より)(→「天文学史」P.215より)
- 858年(天安二)年
- 五紀暦採用(→わずか4年で廃止)
- 862年(貞観二)年
- 清和天皇、宣明暦採用。以後800年あまり改暦されず。
- 1402年
- 明の建文帝(太祖・朱元璋と世祖・永楽帝の間)、足利義満を日本国王と呼び、「大統暦を与え正朔を奉ぜしめる」旨の国書を使者を通じて渡す。
(→宮崎正勝著「鄭和の南海大遠征」P.68より)
(→今泉明著「室町の王権」P.117にも同様の記述あり。この大統暦がどう扱われた(無視された)のかについての記述はなし。また、翌年には「靖難の役」で永楽帝が即位。)
- ==渋川春海の活動期(青色)==
- 1643(寛永二十)年
- 螺山(朝鮮の人)と岡野井玄貞(医師、渋川春海の暦法の先生)とが暦法について討論する。
- 1667(寛文七)年
- 会津藩主保科正之、「授時暦」への改暦の意図を持って安井春海を会津藩に招く。春海、このころすでに、岡野井玄貞より授時暦を学び、かつ自らも研究し授時暦支持者となっていた。
- 1669(寛文九)年
- 表を立てて、冬至を決定する観測を始める。
- 1672(寛文十三)年
- 保科正之、死去。
- 1673(延宝元)年
- 春海、授時暦による改暦を請う上表(「欽請改暦表」)を提出。宣明暦、授時暦、大統暦による3年間6回分の食予測(蝕考)を出す。岡野井玄貞、暦学者の松田順承らに問題を審議させ、速やかに改暦するように請願。
- 1675(延宝三)年
- 五月朔の日食が、宣明暦ではあい、授時暦、大統暦があわず、改暦の件、いったん頓挫。宣明暦は、取りこぼしがないように可能性を広くとり、逆に授時暦、大統暦は、厳密に予測しようとするため、宣明暦では、蝕予測が当たらないことも多々あるが、逆に蝕が「ある」ことを「ない」と取りこぼすこともない.
- 1683(天和三)年
- 授時暦を改良した(元と京都の里差を考慮した)「大和」暦を作り、改暦を上表する。
- 宣明暦が月食予報を誤ったため、年末に改暦の勅があり土御門泰福(やすとみ)が改暦にあたることになる。泰福、春海の上洛を求める。
- 1684(貞享元年)
- 公家らによって「大統暦」を採用する旨を決議し上奏。
- 3月3日霊元天皇は、大統暦への改暦の詔を発布する。
- 春海は、裏工作の上、3度目の上表を行う。
- 十月二十九日「大和暦」採用の宣下があり、「大和暦」改め「貞享暦」を施行することに決定。改暦が年末であったので、貞亨二年暦の一部は、宣明暦で作られ、翌三年より貞亨暦による暦になったものもある。
- 渋川春海は、碁方を辞めて、天文方となる。
- 1715(正徳五)年
- 渋川春海死去。
- 1716(享保元)年
- 徳川吉宗、将軍職につく。春海の死の翌年に、西洋風暦法への改暦を希望する吉宗が登場することが興味深い。
- 1755(宝暦五)年
- 宝暦暦採用
- 1795(寛政六)年
- 1月1日(寛政六年閏十一月十一日)大槻玄沢、芝蘭堂でオランダ正月を祝う新元会を開く。
- 1798(寛政十)年
- 寛政暦採用
- 1844(弘化元)年
- 天保暦採用。
- 1872(明治五)年
- 十一月九日 太陽暦採用を布告(十二月三日を明治六年一月一日にする)
- 十一月十五日神武天皇即位日を紀元とする。
- 1873(明治6)年
- 太陽暦(グレゴリオ暦を意図する)を採用。
- 1876(明治9)年
- 3月12日太政官達第二十七号により、公務の休暇が休日になった。