狐の叫びあれこれ
                                                  トップページに戻る
 

 2年おきの定期演奏会のプログラム、同時配布の機関誌「the FOX」などから拾ったフォックスの合唱論議、自画像、演目解説などのあれこれです。練習不足や、団員高齢化を嘆くジョークなども混じっていますが、この20余年のフォックスの足取りと、終始変わらぬ合唱への情熱やユーモアセンスを汲み取っていただけると幸いです。

第8回定演

(プログラムから)

ごあいさつ

本日は我々の演奏会にようこそお運び頂きました。一同、厚く(熱く)御礼申し上げます。

我孫子に巣くい何かとお騒がせしております我々シャウティング・フォックスは今年設立25年を迎え、
また1991年以降、2年に1回の割合で催しております定期演奏会も今回で8回目となりました。
まさに、「はるばる来つる旅をしぞ思ふ」との感慨がありますが、
ここまで来れましたのも皆様のいつも変わらぬ暖かいご声援の賜物と深く感謝しております。

さて、本日は我々なりに趣向を凝らした(?!)三つのステージをお届けいたします。
「生への執着と死の受容」を歌った短歌に新しい感覚の作曲がなされた『子規短歌集』
盟友ヴィヴァ・マンドリーノとの競演でお届けする懐かしの『ロシア民謡』。
そして、永・いずみ・デュークの名作『にほんのうた』。

平均年齢61歳と、大勢は「老練」の域に踏み込みつつあるFoxですが,
今日ばかりは気持ちも若々しく、精一杯歌います・動きます。
どうか最後までお楽しみ下さい。



プログラム・ノート 正岡子規について

セカンド 綱川 渡

<略歴とその背景> 
慶応3年(1867年)9月17日(陽暦10月14日)松山藩士正岡隼太常尚の次男として生まれた。本名「常規」。幼名「処の助」、のち升(ノボル)。幼少より習字、漢詩の素読など習い、又、絵画も好んだ。松山中学時代には、漢学者河東靜渓の指導も受けたが、折からの自由民権運動の最中で、政治にも興味をもち、演説に熱中した。又、儒学を学びながら、欧化教育も受けた。

明治16年、念願の上京、翌17年には、久松家の育英事業、常盤会給費生にも選ばれ、東京大学予備門(第一高等中学校)に入学。同級生に夏目漱石がいた。その後、東大哲学科、後に国文学科に転科して、明治25年に日本新聞社(創刊者、陸羯南)に入社、文芸記者となり、東大を中退する。28年4月、日清戦争従軍記者として中国に赴いたが、記者に対する不当な扱いに怒り、帰国を決意。翌5月の帰国の船中で激しく喀血して神戸の病院に入院。退院後、松山に戻り、当時松山中学校で英語教師として赴任中の漱石の下宿に約2ヶ月間同居する。その帰京の途中、法隆寺で詠んだ句が「柿くへば鐘がなるなり法隆寺」。

晩年は病床にありながら、俳句、短歌の革新など多分野に跨る旺盛な活動を行った。特に、写生による新しい俳句を指導、また写生文による文章革新を試みるなど、近代文学史上に大きな足跡を残した。明治35年(1902年)9月19日午前1時頃、35才の誕生日を前にして死去。

<病魔との闘い>
明治22年に多量の喀血に見舞われた際、初めて、「子規」と号すようになった。以来、時々病床に伏せることがあり、28年5月、日清戦争従軍記者から帰途の船中にて第二回目の多量の喀血、翌29年には左腰が腫れて痛み、歩行困難となり寝たままの状態になった。脊椎カリエスや痔瘻とも診断されたが、30年5月、再び病状が思わしくなくなって一時虚脱状態に陥る。明治32年、病は確実に子規の体をむしばんでいったが、肱ついてまでも執筆活動を続けた。執筆中に伸ばすことができない左足の膝があたらないようにと、板の一部が切り取られた机が今でも子規庵に残されている。
子規の後半生は病弱の身をおして、まさに病魔との闘いであったが、晩年の「病牀譫語」では、それを振り返って、次の様な記述(原文は文語)あり。
「政治家となろうか、文学者となろうか、我は文学者を選ぼう。政治家というものは、40歳を超えなければ、天下を動かすことはできない。朝夕の命も定まらない身で、どうして40歳を待つことができようか。しかし、文学はそうではない。40歳を待たず、30歳を待たず」
又、「俳諧大要」によれば、奥州はじめ各地を旅行したとき、ある画家が「空想で描けば、熟達した老人が若い者に勝つ。しかし、写生ならば、若い者でも老人を驚かすほどの作品を描くことができる」と語ったとあり、ますます写生に傾注するようになっていった。

<子規庵>
明治27年2月、陸羯南(新聞「日本」創刊社長)宅の東隣、下谷区上根岸82番地に移転、ここが終の棲家(現在の子規庵)となる。子規はここで終生、句会、歌会、蕪村句集輪講会など頻繁に開催。河東碧梧桐や漱石、虚子のほか森鴎外、さらには伊藤左千夫や長塚節など豪華な顔ぶれが集まって俳句や短歌の革新に邁進した。
明治31年12月には、虚子の手配により病室の障子がガラス張りに変えられ、いつでも外の景色が見られること、特に寒い冬でも障子や戸を開けずに外の様子が分ることを子規は殊のほか喜んだ。
子規の末期に居合わせたのは、母八重、妹律、陸羯南、虚子、碧梧桐たちであるが、
子規は自由に動かぬ体を介助されながら、筆をとって書き記した次の三句が絶句となった。
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」 
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」 
「をととひのへちまの水も取らざりき」
死去の前々日(9月17日)は子規の誕生日で赤飯を炊き、陸家に配ったと妹律は述べているが、子規の誕生日は陽暦では10月14日となっている。 
尚、現在の財団法人子規庵保存会の初代理事長には子規の妹、正岡律が就任している。


演奏曲解説 ロシア民謡

バリトン 市川和男

カリンカ
カリンカはカリーナの愛称で、赤い実をつけるスイカズラ科の植物で花嫁・処女の象徴とされる。またマリンカは木イチゴの実のこと。曲はゆっくりとしたイントロから民族舞踏風のテンポの変化に富んだ曲で、結婚式などで盛んに歌われている。作曲ラリオノフ
 ソロが可憐な娘へ“緑の松に さざめく風よ、伝えよわたしの心を”とカリンカに託して歌えあげる。
途中に入る“アイリュリ リューリ”とは ロシア民謡特有のはやし言葉。


コサックの子守歌
 “眠れやコサックのいとし子よ 空に照る月を見て眠れ
やさしい言葉を歌と聞き 静かに揺り籠に眠れよや”
 ロシアを代表する子守歌として世界で愛唱されているが、原詩は19世紀ロシア・ロマン派詩人 M.レールモントがコーカサス滞在中、その地のコサック民謡を聞き、作った12編に及ぶ長編詩の一編がいつか民衆の間にひろまったもの。
 いつの日にか立派なコサックの戦士となるであろう幼児を抱きながら、涙で見送る日の来ることに想いを馳せる 若い母親の気持ちを歌っている。

白樺は野に立てり
  18世紀から女性の輪舞とともに歌い継がれてきた曲で
“遠い野にたつ白樺の枝を折るのは だれ? 
折った枝から出来る三っの横笛 それを吹くのは だれ?”  と、女心を歌い上げる。 
この曲の旋律はチャイコフスキーの第四交響曲の第四楽章にも使われてることでも知られ、ロシア音楽特有なメロディとされる。

バルカンの星の下に
 この曲もカチューシャと同じコンビ作詞イサコフスキー、作曲ブランテルにより作られ、映画「大祖国戦争」の中で歌われ日本に広まった。
  “わが故里いずこ。ここは遠きブルガリア、ドナウの彼方”
と歌われ、映画の中でバラライカがふんだんに使われ、日本でも馴染みとなった楽器である。

アムール河の漣
 ロシアでは母なるヴォルガに対して父なるアムールとして愛されてる河で、中国では黒龍江と称される。1903年キュッスが「平和の守り」の名で吹奏曲として作られ、1930年代にヴァシリフ・ポポフにより詞が付けられ、曲名もアムール河として定着した。編曲ソコロフ。

トロイカ
 雪原を疾走するロシア特有の三頭立て馬車をイメージし、軽快な旋律でジプシー音楽から出たとも言われるロシアを代表する古い民謡。原題は「郵便トロイカは走る」で地主に恋人を奪われた御者の嘆きの歌。旋律的な要素が強くやるせない哀愁を込めた叙情性たかく独唱曲としてもよく歌われている。
 *トロイカから派生した語として「ペレストロイカ」がある。これは当時のゴルバチョフ首相が称えた改革、立て直しを図り @情報公開 A議会の民主化 B市場原理をテーマに世界経済化・軍縮を推進し、欧米諸国との協調を実現させた。

ステンカ・ラージン
 1670年 ヴォルガ流域に起きた大規模な農民暴動の首領ステパン・ラージンの物語り歌で民族的史歌とされる。サドーヴェニコフ原詞は長く11番まである。編曲アレクサンドロ・中山英雄。 
歌は“ザペーフ”と呼ばれる音頭とりの独唱と“プリペーフ”(リフレイン)との合唱が続く形式はコサック独特のものとされる。日本語訳は与田準一(童謡作家)。“久遠に轟く・・”の名訳で親しまれているが、舞台はドン河にあらず、ヴォルガ河流域の話であり、ヴォルガ・コサックの物語である。  
*ステンカは“ステパン”の通称。 


 コーカサスに住む詩人ガムザートフが広島原水爆禁止世界大会に参加したときの感動をもとに詞(アヴォール語)を書き、1969年フレンケリが作曲し世界に広まった名曲。ロシア語訳はゲレーブニェフ。編曲中山英雄。
 “ふと思うことがある。 群れの中に 小さな空間がある。
 それは私の居る場所なのかも。  
 異郷の地で斃れ 帰還せぬ兵士たちは  
 白い鶴に姿を変えたのか。”
戦争で亡くなった2千万人とされる兵士への鎮魂・追悼の歌とされる。

黒い瞳
 ジプシー音楽に発する曲で、コンチネンタルタンゴとしてアルフレッドハウゼ楽団演奏により世界に広まり、ルイ・アームストロングのジャズ唱法によりスタンダード曲となった。日本では戦前に宝塚歌劇で歌われ(堀内敬三訳詞)さらに浅草ジャズとしてポピュラーとなった。

カチューシャ
 第二次大戦直前に作られ(1938年頃)、国境へ向う守備隊の兵士に想いを馳せる可憐な村娘の心根を歌ってる曲。作詞イサコフスキー、作曲ブランテル。
 歌い方としては“陽気に、元気に”ではなく、“情感を込めて”という。この曲は大戦中どの地、いかなる時にも歌われ、国民的歌謡として愛唱された。このコンビは 「バルカンの星の下に」、「前線の森にて」、「りんごの花咲く頃」等多くの名曲を生んでいる。
*カチューシャとは“エカチェリーナ”の愛称で、トルストイ作品「復活」の女主人公であるが、また独ソ戦において大活躍した自走ロケット砲にも名付けられ、ソ連時代を代表する名として愛着高い存在である。
    ☆ 資料提供 山之内重美  (女優・歌手・舞台演出家メイエルボリド研究者)


コサックCossack 英語読み、ロシア語ではカザークKhazar
*主にロシア、ウクライナのステップ地帯に住み、拍車を使わぬ剽悍な騎馬技術を有する集団はまた雇われ軍団として重用された。
・15世紀農奴制の強化を嫌い、辺境に住み着いた人々のことでトルコ語の<自由の民>とされる。土地を共同所有し、選挙で選ばれたアタマンを首長とした軍隊的な自治組織を形成した。16世紀 ロシア皇帝の支配下に入るが、その自治と対立の抗争を繰り返し、多くの物語を生んだ。
・コサックはそれぞれ住み着いた流域の名が付けられ呼ばれ、ヴォルガ河、ヤイール河、ドニュエプル河流域と各地に点在し、その河の名称で区別される。特にドン河流域の“ドンコサック”はノーベル賞作家ショーロホフ「静かなるドン」として世界的に有名である。従ってステンカ・ラージンの歌詞に“ヴォルガの流れ・・のあとに、ドンコサックの群れにいま湧く謗り”とあるのは適切ではないが、曲に合わせた処理と見られている。
・かような騎馬技術を持つコサック軍団は皇帝の尖兵としてシベリア開発を始め国境警備に派遣され、日露戦争では日本軍は大いに悩まされた。さらに革命戦争では赤軍・白露軍とに別れて闘い、多数の亡命者を産み出す悲劇を惹き起こした。


第7回定演


(機関誌「the FOX」から)


「ホネ」「コツ」大論争顛末記 

 それは、定演も間近になったある日、シャウティング・フォックスのメーリングリスト(仲間内の電子メール網)での佐藤晄さん(バリトン)の突然の提案で始まった。定演演奏曲「5つの断章」(北原白秋の詩による)第4曲「朝明」の「われこそいまし、妹の骨ひろひにと来しものを…」というくだりの「骨」を、「ホネ」と読むか、「コツ」と読むかの大論争である。

 佐藤さんは言う。
「Dear guys: 前から気になっていたことがあります。“妹の骨ひろひにと来しものを”のくだりです。楽譜では妹の”ホネ”と読ませ、洞谷吉男((注)「5つの断章」独唱版を歌った歌手)も”ホネ”と歌っています。でも、昭和一桁の小生としては、そのなまなましい語感に抵抗がありました。"来しものを”を、楽譜の表現や洞谷吉男の歌い方も拘わらず、”こしものを”と読ませたのに、どうして"ホネ”をそのままにしたのだろうと、かねがね不思議に思っておりました。
 ふと思いついて、田川さん((注=定演プログラムの「5つの断章」解説者=ファーストテナー)の解説を読み返してみると、なんと、”コツ”とルビがふってあるではありませんか! わが意を得たり! 明治の人、北原白秋が、自分の肉親のそれを、魚の骨や傘の骨なみに扱うはずがありません。ペットの骨だってもっと大事に扱います。”奴の骨を拾ってやるぞ”などと世間では言います。これは俗な表現です。遺骨、納骨、骨壷など、音読みは勿論のこと、訓読みでも、コツ拾い、コツ納め、コツ揚げなどと言います。
 そこで提案。コツと歌いましょう、コツと! あのナイーブな泉下の白秋先生を悲しませないで下さい。もし、プログラムに歌詞を紹介するのなら、この部分には是非ルビをふって下さい。」

 さあ、それからは喧喧囂囂。メーリングリストでは、コツか、ホネかをめぐって、骨肉の大論争になった。

 まず口火を切ったのは何にでも反応の早い川路義文さん(バリトン)。
「佐藤さん。川路です。
確かに「骨のある」問題ですね。大辞泉や広辞苑を調べてみると、骨(ほね)=遺骨となっています。意味上は「ほね」と読んでも遺骨ということです。原作者は「こつ」と読ませたかったのでしょうが、その当時これが曲になるとは思っていなかったのではないでしょうか?「お骨(こつ)」「納骨」など2文字以上になると「こつ」と読む例が多いのですが、今回の場合、独立した1語であり、語呂よりも「ほね」と読んだほうがいいような気がします。昭和2桁時代に生まれたものの意見です。」

 すぐに物知り博士のインペク市川和男さん(バリトン)が加わった。
「「骨」の読み方、あれはたしか大久保先生、コツよりホネが判りやすとの判断でされたように思います。未確認につきたしかに、コツが原作に近いと思われますが、いまの時代に合わせると川路説のように、この場合ホネでよろしいと考えます。」

 こうなると、何事にも徹底するコンマス北澤和郎さん(バス)もひとことなからんや。次のような大考察を展開した。
「「骨」問題(少数参考意見)
(1)この論争をFOX内での「骨肉の争い」とはしたくないので、あくまで参考程度に疑問点等を下記します。
(2)最終的には音楽監督たる大久保先生に決めて頂き、それに素直に従う事としては如何でしょう?
(3)まずフリカナは次の蕪村の句に対するフリカナですよね。
   「骨拾う人にしたしき菫かな」
  (これは確かにコツの方が江戸情緒が出ますね。落語の世界にもある如く)
『白秋抒情詩抄』(岩波文庫)を紐解くと、後書きで編者の吉田一穂が、「昨今の状況に鑑み、原作の意味を正確に受け取るべくルビを振って見た」と書いています(昭和8年初版だったかな)。ところが肝心の「骨」にはルビ無し。竈(カマ)や朝明(アサアケ)や妹(イモウト)にはちゃんと振ったのに、 Why ?
  @「骨」を「コツ」と読むのは当時の常識だったゆえ(?)、敢えて振らなかった?
  A「コツ」とは読まず一般的な「ホネ」と読むので、敢えて振らなかった?
余談ですが、白秋は「骨と菫」の取り合わせは蕪村から拝借したのかな?だとすると、何と、したたか!
(4)作曲家のみならず随筆家としても名を馳せた(『パイプのけむり』シリーズ等)大教養人で言葉使いにも非常に厳しかった團さんが、何故「ホネ」と(敢えて)読んだのか?
彼ほどの人なら当然こういうシーンでの「骨」は伝統的には「コツ」と読む事もある事を知らなかった筈は無いのでは?そうだとすると、やはり伝統語法とは別に「ホネ」と読みたかったのか?メロディー・ラインは「La-Do」と音が上がっているので、アクセントからして「ホネ」ですよね。誤植ではないな。「コツ」だったらアクセントが逆ゆえ、音は下がる筈。だから團さんはやはり「ホネ」と読んだ事は明らかでは?
   なお、関西育ちの愚生は関東アクセント不案内のため、一応「東京人」に「コツ」のアクセントを確認しましたが、正しいか否かは?
(中略)
(6)團さんも今や黄泉の国。こんな事なら生前に聞いておくべきでしたね。今ごろは触発されて、白秋と二人で「こつほね論争」をしているかな? 
(7)愚生の好みは「ホネ」。
  当初は確かに「生々しい」と感じましたが、「かなしきすみれ」や「色あかき煉瓦の竈」(この時点では何の竈か解らず)、更には「朝明の露」などをさりげなく出しておきながら、ドカンと「妹のホネひろひにと来しものを」と大逆転させるための「ホネ」(おどろおどろしく効果的)かと納得していました。この観点では、「妹のコツひろひにと」だと、やや江戸情緒が勝ちすぎて(或いは抹香の匂いが勝ちすぎて)少々ズッコケルかなというのが率直な感想です。但しこれはあくまで愚生の個人的好みです。

 この丁重な呼びかけに、問題提起した佐藤さんも、「一応」は矛を収めたが・・・。
「北澤コンマス殿:
本件につき早速ご検討いただき、まことにかたじけなし。仰せのとうり、大久保師匠の決定に従うことに致しまする。
(声の色、ここで変わる)
大久保先生様;この年寄りのたわ言、あわれと思って、何分、お慈悲の心でのお考げえをお聞かせ下せえまし。」

 この雲行きに、市川さんが追加コメント。
「『骨』 閑話辞典では「ホネ」 イ 身体の骨組みをさす ロ(からだの)芯、中心 ハ 人柄などをさすとき(骨惜しみ、骨休み、骨身にこたえる)などと。
「コツ」 イ 要領 /骨子、骨幹 仕事のコツ ロ 死人の白骨 に使う、とあるが、熟語でみると骨格、骨盤、骨相など身体の仕組みに使われている。古来、民びとは コツ上げ(揚げ) 使用が一般的で、多分原文もコツだと思う。が 川路さんのいうように、近頃はホネ上げに変わってきたようだ。
聴く側には 北澤コンマスのいうアクセントから「ホネ拾ひに」 がよろしいかと。」

 ここにいたって、大久保先生から初めてのコメントが流れた。
「解答が遅くなり、失礼致しました。N響の本番のため、ごちゃごちゃしておりました。
「骨」の件
  私の考え:「ホネ」としたい
  理由:北澤さんのおっしゃるように、言葉のイントネーションの問題。
しかし、流石フォックス!このような話が出てくること自体がすごいことだと思います。「五つの断章」選んで良かったと感じています。今後も素晴らしい詩をテクストとした曲に出会いたいものです。わたしも勉強させていただきます。
余談:最近の詩(特に合唱)はつまらないものが多いですね。とても世界が浅いように思います。だから、合唱曲もいいのが出てこないのかな?」

 という裁定で、定演は「ホネ」でけりがついたが、再度火をつけたのが、川路さん。
「皆さん、川路です。
大久保先生の意向で「骨(ほね)ひろい」におつきましたこと、ご存知のとおりです。
 さて、このような詩を作曲する場合下記問題があります。本日別の会でこの問題を議論してみました。私の敬愛するM女史(御茶ノ水女子大国文科卒、都立高校の校長を長年勤め、現在清心女子高(清心女子大大学の高等部)副校長)の意見は下記の通りです。
「骨(こつ)ひろい」が正しい。なぜなら「骨(こつ)ひろい」は日本語として認められ辞書にも載っている。骨(ほね)ひろいはありえない。また辞書にも載っていない。「骨(こつ)ひろい」=「骨(こつ)揚げ」として使われることが多い。
 手元の広辞苑には「骨(こつ)ひろい」=骨(こつ)揚げとして掲載され、骨(ほね)ひろいはありません。したがい、佐藤さんご指摘の「読み方」が正しいといえます。 但し詩が作曲された場合、漢字の読み方でどちらを選ぶかその旋律により変り得るということを指摘いたしたくメールしました。個人的には、11才の妹(骨肉のあらそいなど知らない)の骨は「こつ」より「ほね」と読みたいところです。」

 これを追いかけて、「回向院」周辺の商店街の名前まで調べ上げて、論争「終わり!」と宣言したのが、北澤さん。
「川路さん、北澤です。更なるご調査結果拝受。謝々。音楽或いは作品的には既に大久保師匠の判定が出ていますので、もう蒸し返す事も無いのですが、興味があるので念の為の質問です。
 この先生にはどのようにお尋ねになりましたか?「骨ひろい」という名詞なら誰もが「こつひろい」と読むでしょうね。これは正に常識。既に指摘されている如く、「骨あげ」「骨壷」「骨牌」「納骨」などなど、「遺骨」に関する名詞の読み方はあらかた「コツ」ですよね。これは自明。今回の興味深い問題は、「白秋の近代詩」としての中で、そしてこの文脈の中で、「骨」をどう読むんだろう?というのが、誠に興味深いと僕は思いました。「正しい日本語」という、文部省・教科書立場からの判断・判定(これならコツが妥当でしょうね)ではなく、まさしくこの詩の中で、この流れの中でどう読んだら一番ピッタリくるかという問題ですよね。語感の問題ももちろん含めて。
 「コツって読むのをガキは知らねえだろう」という次元の話ではなく、「皆、全てを知っているという前提の上で、この具体的な詩の中でのふさわしい読み方を探す」って言うのが今回の面白い趣旨ですよね。團さんは全てを踏まえた上で「ホネ」と読んだと思いますが、・・・・・・・買いかぶりすぎかな。
 話は変わりますが、南千住駅前に「回向院」というお寺があります。周囲をマンションやビルや住宅に攻め立てられ、お墓が肩を寄せ合って遠慮がちに佇んでいるというちょっと気の毒なほどの状態ですが、ここが「ターヘル・アナトミア」(『解体新書』)発祥の(?)地。ここにかの有名な「小塚っ原刑場」があり、ここで本邦初の「腑分け」をしたのですね。一応記念碑もありますが、何とも肩身狭く立っている感じで誠に残念です。あんな大事業の所縁の場所なのに。歴史が打ち捨てられている感じ。
あっ、何故こんな話になったかというと、あそこの商店街はなんと『骨通り商店街』って言うんですよ。小塚っ原も元を質せば『骨が原』でしたっけ。
 いやー、面白いですね。余り人が好まない(むしろ避けたい)「骨」という名を、商店街の通りの名にしっかり残すなんて。偉い!! 「すずらん通り」とか「○○ロード」とか何とか、しょうもない名前にするのが一般的ですが、こちら庶民の方は、敢えて歴史を消さずに、よそ者には余りイメージの良くない『骨通り』という由緒のある名前をしっかり残すなんて、「見上げたもんだよ、屋根やの褌!」。
 もちろん両方とも「コツ」って読みますよね。かように僕は「コツ」にも多大な愛着を抱いているので「何が何でもコツコツ反対」っていう事ではありませんので、念の為。
 どなた様も「恨み骨髄に達す」こと無き様に。おわり!」

(中略)

 かくして、論争は外野席にまで飛び火し、川路さん経由で、ご友人の元文学少年という方のメールも舞い込んで来ました。
「川路さん
 なかなか「ほねの折れる」問題ですね、この場合は「こつの折れる」とは言いませんね。広辞苑と広辞林をめくっていて気づいたのですが、「こつ」と読ませる言葉は火葬に関係があるようです。「こつ」とは単なる「ほね」ではなく、「火葬にした死者のほね」という特別な状態をいうようで、名詞には骨壷・骨箱・骨瓶・骨堂・骨仏・納骨・遺骨などがあり、動詞が名詞化した「骨揚げ」「骨拾い」があります。子供の頃、「おこつを拾う」「おこつ拾い」と使った記憶があります。「ほねを拾う」というと、別な意味に転化して「(遺骨を拾いおさめる意から転じて)人が仕事をやりかけて倒れた後を引き受けて、その始末をする」(広辞苑)しまうようです。「こつを拾う」とはいいません。」

 以上で、定演本番になりました。どなたか、正解をご存知の方は、シャウティング・フォックスまで、ご連絡ください。



海の男のシーシャンティー解説
バリトン 才田 豊

え−、次の出し物はシーシャンティーですな。つまり船乗りの歌。船乗りと来ると、外国船社にはいって30年、世界を股に船と海とに付き合ってきた、こちとらには黙っておれない世界。おおそれながら、ひとつ解説させてもらいやしょう。

シーシャンティーの船乗りは、ネイビーブルーに肩章のついた制服、制帽を被った格好の良い海軍士官さんや外国航路の航海士ではなくて、大体が下級船員ばかり.とにかく帆船の昔から一旦海に出てしまえば、仕事は辛いことの連続、来る日も来る日も回りは海ばかり、はたまた海が時化に遭遇すると当直の船員はもちろんのこと非番の船員も駆り出されます。
 ちなみに船は24時間動いていますが、船員は24時問働きづめは出来ない訳ですから3組に分けシフト制になります。午前は0-4時、4‐8時、8‐12時、午後は再び4時間ごとに分けます。従って午前0-4時に当直した船員は昼12時まで非番、その後再び12-16時まで当直という具合。楽しみと言えば非番中に飲む酒か博打、たまに上陸した時の飲む、打つ、買うの三点セット。毎日ロープを引っ張ったり、錨を巻き上げたり、下ろしたりの力仕事の時に歌ったり、また夜中に当直中に遠く離れた家族や彼女のことを思い感傷に浸りながら歌ったりと独特の味のある歌が多いのが特徴です。

I’ve got Six Pence
 これは多分、沿岸警備隊の船員や荷役人夫(沖仲士ともゴンゾーとも言います)などの港湾労働者が週に一回の給料日に心ワクワクしている様子を歌ったものと思いますね。遠洋航海の船乗りならば−航海ごとの精算ですし、19世紀中頃の商船の船員の月給が50-60シリングだったそうで、6ペンスではあまりにも差がありますね。多分6ペンスも金額の意味ではなく、ちょっとまとまった金という意味ですかね?
 ところで私のように船屋稼業をやっていますと色んな隠語が生まれます。
 典型的なのが退社後に仲間から北千住あたりに Deviation(離路、正規の航路から離れること)してBunkering(燃料補給)しないか?というお誘い。まあこれは説明しなくても解りますよね。そして歌じゃないけど、月が明るいうちに帰ればいいんだからと−杯が二杯、二杯が三杯となり気が付けば午前様、帰ったら港長(カミサン)から夜間入港禁止。しょうがないから玄関先で沖待またはAnchoring(港の外でヴイに泊めるか錨を降ろして港が空くのを待つ事)してひたすら港長の入港許可を申請するしかない。

Homeward Bound
 帰り船なんて言うと演歌っぽい、復航なんていうと味気ない。とにかく故郷の港を出て数ヶ月あちこちの港に寄り、ようやく故郷にもどりつつある。セールに風を一杯受けて帆走している様子がよく歌われていますね。

What shall we do with the drunken sailor
 イギリスの海の労働歌としてはもっとも古いもので、17世紀頃から歌われていたそうです。久しぶりに陸に揚がり、酒を喰らって羽目をはずしてグデングデンの状態。本船は朝の出港予定、それまでに戻らなければ見知らぬ港町に置いてきぼり。仲間の水夫が当惑してなんとか酔いを醒ませて戻ろうとあせっている様子が感じられますなあ。
 ちなみに貨物船は港での停泊時間を出来るだけ縮めようっていうんで夜中でも荷役作業を行ないます。ただ夜中の12時過ぎまで荷役に時間がかかるようであれば、そのまま朝まで停泊しますんで勢い早朝の船出がおおくなります。昭和30年代まで横浜には朝8時まで開いていたバーがあったそうで、なかにはこんなグデングデンになってしまった船員もいたでしょうね。誰ですか? Foxの連中と変わらないじゃないかと言っている人は?

Lowland
 これはドサ回り大衆演劇の Sea Schanty版?
 あっし、生国発しますところスコットランドはローランド、船乗りジョンと申しやす.船に乗り、はるか彼方の波の上たまに立ち寄る港には、帰ってこいとの母の文。帰りたくとも帰れねえ、日々の稼ぎが1ドル50セント独り寝の、波路の果ての夢枕あの娘の姿に去るを知る。ああ、お袋に逢いてえ、あの娘にも一目逢いたかったなあ。だけどしがねえ、この稼ぎ泣かせるじゃござんせんか? 思っている人が亡くなる時、夢に現れるって言いやすが世の東西いずれも同じなんでやんすね〜。

Spanish Ladies
 これば英国海軍の水兵さんの歌ですな、多分スペインはジブラルタル海峡にあるイギリス海軍基地のことではないかと思います。スペインの最南端ジブラルタル海峡は北アフリカとの間の海峡で地中海と大西洋とを結ぶ最重要国際海峡です。1713年イギリスはスペインからここを分捕っちゃた。面積は5.8平方キロ、長さ4.8キロ、幅1.2キロの半島だそうです。地図をみれば解りますがここをおさえれば地中海と大西洋とを航行する全ての艦船を行動を監視できます。数年前の映画の名作「U−2」でもここが舞台のひとつになっていたと思います。
 そんな訳で英国海軍は常時ここに軍艦を駐留させており、酒場で水兵とスペイン女との◇+?(Trip Charter)の想像に難くありません。永い勤務期間を終え本国に帰るうれしさと情熱のスペイン女を征服したという満足感?さすが海賊国家、なんの衒いもありませんな。 ところで歌詞のなかに From U-shant to Scilly is   thirty-five  IeagueとありますがU-shantというのはフランスのブルターニュ半島の先の島、 Scillyは英国の最南西端の沖の島、イギリス海峡の先端ですな。その幅は35リーグ、1リーグは約3マイルだそうですから約105マイル(約190キロ)・ジブラルタルを出港してポルトガル沖を北上し、ビスケー湾を超えればU-schantが見え、彼らにとっては永い艦隊勤務を終えいよいよ故郷の英国に近づいたという具合。

Good-Bye, Fare Ye Well
 上の Homeward Boundが大海原を風を一杯受けて帆走する様を描いているのに比べて、これは復航で出帆の準備に追われる中、いよいよ船出するぞ−とボースン(甲板長)あたりが叫んでいる様子。
 
 シーシャンティーは船乗りの歌ですが本質は男の思いを昇華した世界を歌ったものだと思います。
 ほぼ毎日家に帰れる陸の男と違って、海の男は一旦船出すれば何ヶ月も、昔であれば一年以上も家に帰れません。顔を会わすのは毎日同じ、船の連中に言わすと集団生活に適した奴は良いが適さない奴にとってはまさしく監獄と同じになる。カミサンや恋人への募る思いとそれを振り払う酒でのうさばらし、そして長い場合は数週間ぶりの寄港、カミサンや恋人への思いはロッカーにしまいこんで異国の酒場での一時的恋愛、そして別れ。陸(おか)の男は海に憧れるが、海の男は陸に憧れるんです。今回の6曲のうち6ペンスとdrunken sailerを除いていずれも故郷への思いまたは故郷へ帰る歌です。 FOXのシーシャンティーは、1991年の第一回定演での演奏以来12年ぶりの発表ですが、選曲して良かったと思います。

 ところで今日の皆さんは陸の方ですから海に逃げ出したい方もいらっしゃるでしょう、演奏終了 後大会議室でBunkeringしていきませんか? 本船出港は明後日の朝ではないですか。


(歌詞集から)

第2部     シーシャンティー

訳詩 佐藤 晄(バリトン)


I’ve Got Six Pence(稼いだ6ペンス)

ポケットに、稼いだ6ペンス。
握ってうれしい6ペンス。
此れで一生寝て喰える。
2ペンスは小遣い。2ペンスを仲間に貸して、
残りの2ペンスは、腹へらしの家の女房に送金だ。
心配事なんか何んにもねェ。

色眼をつかう娘っ子も居ねェ。
船でのんびりゆられながら、
王様みてェに俺は幸せだ。

お月さんの銀の光に洗われながら
故郷(くに)を目指し、うねりを越えて船が進む。
よろけながら列に並んで
給料もらう楽しみがこたえられねェ。

ポケットの中は空っぽ。
ウーイ、見ん事スッカラカン。
一生寝て喰える筈が今は文無し。
小遣いゼロなら、金貸しなんてとんでもねェ。
腹をへらした女房の生活費だって、一文もねェ。

だけどさあ、俺には心配ごとが何んにもねェ。
色眼をつかう娘っ子だって居ねェ。
甲板でよろけながら
やっぱり王様みてェに俺は幸せさ。

お月さんの銀の光に洗われながら
故郷(くに)を目指し、うねりを越えて船が進む。
よろけながら列に並んで
給料もらう日が待ち遠しいぜ。

Homeward Bound(故郷を目指して)

ホラホー、 ホラホー、 ホラホー、
窓に砕け散るは、風に逆巻く怒涛。
風が吹く、吹きすさぶ。
大海のうねる波涛をかすめて、
風が吹く、飄々と吹きつのる。

ホラホー、 ホラホー、 ホラホー、 ホラホー。
ちぎれんばかりに帆が風をはらむ、
夜となく、昼となく、風が吹く、吹き荒れる。
港はまだ遠く、はるか潮の彼方。
風が吹く、瓢々と吹きつのる。

ホラホー、 ホラホー、 ホラホー、 ホラホー。
陸(おか)の影はまだ見えぬか。
風が吹く、吹きすさぶ。
恋人を抱(いだ)くのは明日か、明後日(あさって)か。
風が吹く、瓢々と吹きつのる。

ホラホー、 ホラホー、 ホラホー、 ホラホー。
地球を一巡りの航海は長かった。
風が吹く、吹き荒れる。
神よ、嬉しや、船は故国を目指して、
今、ひた走る。

風が吹く、瓢々と吹きつのる。
風が吹く、嵐となって、吹きすさぶ。
風が吹く、狂ったように吹き荒れる。
ホラホー!

What shall we do with the drunken sailor(どうするこいつ、酔っ払い水夫)

どうするこいつ、酔っ払い水夫
(*)くりかえし

夜が明けて、
お日さま出たら、
しらふになるまで ボートにぶちこみ
(*)くりかえし
底栓抜いて、濡れ鼠
(*)くりかえし
ホースで縛って 排水溝
(*)くりかえし
逆さに吊るし スボッ! スボッ!
(*)くりかえし

Lowlands(ローランド)

おいらは船乗りのジョン、
ふるさとのローランドを後にして、今、大海原の波の上
ローランドでひとり留守を守る、おっかあの便り
早く帰ってきておくれ、と、また書いている。
手のひらには今日の稼ぎの1ドルと2シリング6ペンス。
ローランド、ローランド、ローランド。

牛や馬を殺している連中でも1ドルは稼ぐ。
それがおいらは1ドルと何がし。
たったそれだけだよ、おい、おっかあ。
ローランド、ローランド、ローランド。

夜中においらの女が現れた。
夜っぴいて、おいらの側にいた。
でも、それは、おいらの眠っている間だったんだなあ。

目がさめたら、女が――いない。
あいつは夢枕に立ってたんだなあ。
あいつは、あの世に行っちまったんだなあ。
畜生!いまいましいこの1ドルと何がし!
ああ、ローランドは遠い、おっかあも遠い、女はもう居ない!
ああ、ローランド、ローランド、ローランド――
(うなだれる)
ああ、手のひらの1ドルと2シリング6ペンス――(更にうなだれる)

(ローランドはスコットランド低地地方の総称)

Spanish  Ladies(スペインの娘達)

さよなら、アデユー、スペインの女達、
さよなら、アデュー、スペインの姫達、
イギリスに帰れとの指令が出た、
でも、近いうちにまた会いたいよなァ。

雄叫びだ、まことのイギリスの船乗りのように、
雄叫びだ、汐吹く大海原を乗り越えて、
イギリス海峡で測深の錨を降ろす迄、
ウーシャントからシリーまでの航海35リーグ(*)。

南西の風に逆らって舵をとる、
測深のチャンスをねらって船首を転じる、
やがて全船、投錨の合図、
その夜は全船、ダウンズに停泊。

サア、グラスにあふれる酒を呑みほせ、
器になみなみの酒を呑みほせ、
呑んで、騒いで、悲しみにしゃくりあげ、
そして唱って、サア、
心美しき人達すべてに、
乾杯!!

(*)1リーグ=3海里=5.5キロ

Good-bye,Fare  Ye  Well(さよなら)

さよなら、達者でな。
さよなら、さよなら、さようなら、
さよなら、かわいい娘達、
さあ、みんな、国に帰るんだ。

爺さんが叫んでいるのが聞こえるかい、
さよなら、さよなら、さよならって、
今日こそは家に帰るんだ、
さあ、みんな、国に帰るんだ。

さあ、帰ろう、聞こえるだろう、
さよなら、さよなら、さよならのあの叫びが、
キャプスタンを廻せ、ぐるぐる廻せ、
さあ、帰国だ、家に帰るんだ。

錨は巻き上げた、帆も張った、
さよなら、さよなら、さようなら、
残すあの娘この娘気がかりだが、
エーイ、みんな、国に帰るんだぞォー。




第6回定演

(プログラムから)

演目随想
 民謡による「北国の歌」に寄す
 Bass  北澤和郎

「この曲はNHKの委嘱により1958年から1959年(昭和33年から34年)にかけて完成した」とあるから、
高田御大45歳、組曲『季節と足跡jに続く男声合唱曲である。
御座敷唄ではない鄙びた元唄を重視し、随所に日本和声の試みがなされており興味深い。

1. 曲目解題

(1)「南部牛追歌」(岩手県)
 「約400年も前からのものと言われているこの『牛追い歌』は、岩手県の北上山地や、太平洋岸の放牧地帯に伝わるものである。数十頭の牛を追って行く牛方が幾日かの旅の途中で、うたって旅路をなぐさめるものであろう。悠々たる中に牛への愛情も込められており、牛方の心情をしのばせる旋律である。」(作曲者)
清水脩や外山雄三の作品に取上げられ、音楽の教科書にも登場する「南部牛追歌」はいわゆる「沢内牛追歌」(角館一沢内~黒沢尻ルート)であるのに対し、これは「九戸牛追歌」(小本一岩泉一盛岡ルート)で歌詞・旋律とも全く異なる。盛岡のせり場まで牛を追う牛方の道中唄。

 『小川出っ時ア、コデ(牡牛)くり(ばかり)ぼってんがな(追っていた)。
 町村沢口でコデ三つ(牡牛三頭)めんねがな(見失った)
 塚の沢くだりの岩洞(がんべ)の宿でな、牛方の賄(まかね)に ゆるけ鍋(薄粥鍋)かけたがな
 薮川街道の長沢の谷地でな、黒斑(くろぶち)踏んどしたがな、などしたらよがんべな)

(小川出た時は牡牛ばかり追っていた
町村沢口で牡牛三頭を見失った
塚の沢下りの岩洞の宿で牛方の賄に薄粥鍋を火に掛けた
藪川街道の長沢で黒斑牛が谷地に踏み込んだ。どうしたらよかろうか)

(2)「草刈り歌」(秋田県)
 秋田県由利郡のもの。夏の未明に、露を踏んで山野に朝草刈りに行く時、馬上で歌う「馬方節」の一種。この地方では、これを盆踊りにも用いているようである。

『駒に跨り、由利原往けば、山は気高い秋田富士(鳥海山)
姿優しき姫百合なれど、嫌な薊(アザミ。頑固親父か?)は側に咲く
押せや、押せ押せ、平沢までも、押せば港に近くなる』

(3)「野良歌三階節」(新潟県)
 「御座敷三階節」(「米山さんから雲が出た今に夕立が来るやらピッカラチャッカラドンガラリンと音がする」)に相対する、柏崎地方に古くから伝わる盆踊唄・純粋形。

『ア柏崎から椎谷まで逢いに、荒浜荒砂、悪田の渡しがなかよかろ』
〔柏崎から椎谷まで逢いに行きたい。間に荒浜荒砂悪田の渡しが無ければなあ〕
『ア 野尻野沢のあの池にゃ、鴨が、お鴨が九つ、白鷺三羽に、鵜が七つ』

純化雪国哀愁。

(4)「田植歌」(青森県)
 津軽藩の平曲伝承者、館山甲午氏が西津軽郡木造町地方で採集した珍しい田植唄。岡本敏明の「どじょっこふなっこ」も恐らくこれを元唄としていよう。

『春くれば田堰小堰サ水コ出る、泥鰌コ.河鹿コサ喜んで、 海サ入ったなと思ふべナ
夏来れば田堰小堰サ温〈なる、泥鰌コ河鹿コサ喜んで、湯コサ入ったなと思ふべナ
秋来れば野山小山は赤くなる、泥鰌コ河鹿コサ首出して、山コ火事だと思うベナ
冬来れば田堰小堰サ薄氷(スガマ)張る、泥鰌コ河鹿コサ考えて、天井コ張ったなと思ふべナ』。

 実に泥臭い、ユーモラスなメロディー。我らがNativesの発音を聴いてケレ。

2.日本和声の試み

  「ミ.ソ.ラ・ド」、「ソ・ラ・し」、「ド・ファ・ソ・ラ」、「シ・レ・ミ」等、2度を含む不協和音が、いわゆる日本和声の試みとして随所に使われている。元々日本民謡には和声が乏しいが、前出の清水脩・外山雄三等と共に高田三郎も雅楽風和声を試みている。従って本ステージに限り、不協和音は下手な FOXのせいでは(多分)無い。
不協和音が作曲者の意図通り清々しく響くか否かは、これを我慢強く2年間に渡って求め続けた指揮者・大久保光哉の執念に、老獪 FOXがどう応えるかにかかっている。


The 3rd Stage 演目随想 聞き逃せても 見逃せない
Bass 野宮 徹

  「いつも青春 シャウティング・ポップス」−−−なかなか良いタイトルだと悦に入っていたら、「いつも“清純”の方がいいんじゃない?」だと。図々しいのもいい加減にせい! ともあれいつも清純、じゃなかった青春を躯歌している FOXの面々が第V部でポップスにチャレンジします。(只のなつメロじゃねえのか−とお思いでしょうがFOXにとっては充分にナウい楽曲なのでありますよ、ハイ)

 ・先ずは懐かしの(言っちゃった)グループ・サウンドから『ブルーシヤトー』。 GSの代表曲の一つであるブルーコメッツのこの曲は、 GSで唯一レコード大賞を受賞した名曲です。 FOXには限界ともいえる4ビートのハイテンポ(?)で盛り上げますぞ。
 ・ショーケンといえば『エメラルドの伝説」。ソロは元“証券”マンでとの案もまったくウケずにポツ。替わって商船マンと銀行マンが皆さんをシビレさせます。失神しないようくれぐれもお気ををつけあそばせ。
 ・団の貴重な若キツネにソロを託し、得意のシンコペーションに四苦八苦ヨックモックしながら、化粧品には縁のないおじんキツネは『君のひとみは10,000ボルト』に感電中。(そこの舞台のオジサン、手拍子は裏拍!それから、その手もみ手拍子だけはやめてくんな)
 ・ステージ半ばで何の脈略もなく西部劇の世界へ。昭和30年代の TVではアメリカの西部劇がよく放映されていましたが、子ども心に「外人なのに日本語がウマいなあ」と感心したものでした。(吹き替え、知らなかったのね) 「遥かなるアラモ」は昭和35年に公開された劇場映画。ジョウン・ウェイン演ずるデビー・クルケット、リチャード・ウイドマーク演ずるジム・ボーイがシブかつたですな。時は1836年、独立をかけて7千名のメキシコ自由軍。総攻撃を受ける前夜のアラモ砦に流れる印象的なテーマ曲はブラザーズ・フォーの素朴なハーモニーでヒットしました。本日は FOXの粗雑なハーモニーで、最後は全滅することになるのでしょうか。ご容赦。
 ・ TVから流れてくる )ろ−れん、ろ−れん、ろ−れん〜の響きに心躍らせた『ローハイド』。本日は FOXが己が姿を重ね合わせて)老練、老練、老練〜と高らかに老廃人を歌いあげます。
 ・昨年から今年にかけて「TUNAMI」が大ヒットしたサザンオールスターズの名曲といえば『いとしのエリー』。どう見ても FOX向きでないこのお酒落な難曲をどう料理するのか。オイ、これスゴイ字余りだぞ。呂律まわるか?こりや、聞き物、いや見ものですな。これが、あのFOXなのか!本日のラストナンバーは.・・・・「ひ・み・つ」まあ、ドギモを抜かれないよう、腰を抜かさぬよう、入れ歯を落とさぬよう、アゴをはずさぬよう、心してお聞きあれ。



第5回定演

機関紙「the FOX」から

合唱祭の思い出
バス 片倉 武

 我がシャウティング・フォックスは第二回の合唱祭に初登場している。同期生は布佐ポピーズ、湖北台東小お母さんコーラス(現コール・ピュア)だ。 最初の合唱祭に参加し、尚元気に活躍しているのが我孫子市民合唱団、葦笛、あびこエコーズ、アンサンブル・レオーネ、青山台コーラス(現”道“)、フラワーズ・エコー(現”蒼“)そしてプリムラ・コーラスである。
 そういえば、指導してくださった先生方も大分代わられて、いまだ健在はヴィクセンズ、我孫子バッハ、フォックスの野村秀美先生のみとなった。
 第二回における当団は、メンバー十三名(経験者一名)で、指揮者がトップテナーを歌わないと四部合唱にならないという状態でのデビューであった。この時は男性合唱の定番「遥かな友に」を歌ったのだが、同じ曲を演奏した同期生の「東小お母さんコーラス」に大きく水をあけられた。周囲も私たちを「合唱連盟の異邦人…」といった目で見ていて、マァ異質な存在として光彩?を放っていた。それでも、第四回に我孫子の辺境の地・布佐平和台から登場してきたラ・メールのメンバーあたりが「この人たち(決して男声合唱団とは言わなかった)オモシローイ!」などと宣った頃から評価が次第に変な方向に定着してきたように思う。
 さらに、第六回の合唱祭では、講評にきたあのブルー・アイランド、青島広志氏から「声が揃っていないんだから、せめてユーーフォームくらい揃えたら?」とハッキリ言われ、「なるほど :」と妙に納得した面々、次の回からブレザーコートで登場するハメとなった。講師の言った通りすぐさま実行するあたり、本当に素直ですなあ。この頃の青島さん、本当に歯に衣着せぬおつしやりょうで、それはそれで気持ちが良かった。
 そこへゆくと、第五回に講評に来られた田中信昭さんは少々違っていた。当時の団長(初代、紅林明氏)をなくし、悲嘆のどん底にあったメンバーを気遣って、「つらいときにしみじみとした歌を聞かせて戴いてとても感動しました。さらに良くなるにはここの所をこう歌うと良いのではないでしょうか。:」。
 下手な合唱団にこの言葉は中々言えませんよ。この時の田中さんの励ましがあったお陰で未だ何とか存在しているんですから、正に千金の重さを持つお言葉でした。この人の合唱、音楽を聴いていると、底の方にヒューマンなものが流れていますものね。
 さて、ガナリ続けて二十年、周囲の人たちにいろいろご迷惑をお掛けして来ましたが、これを無言の応援と勝手に解釈し、これからもズーーーーつとガナリ続けて行く所存です。これからも宜しくお願い申し上げます。

(プログラムから)

3rd Stage 演目随想 戦後歌謡史に寄せて
Bariton  木村倶捷

 “ラジオ体操、昼のいこい、のど自慢、三つの歌、笛吹き童子、とんち教室、おらぁ三太だ、知恵の輪くらぶ、アチャコのおとうさんはお人よし、民謡を訪ねて、音楽の泉、そして、日曜娯楽版"…・突然、昔のラジオ番組のタイトルを並べてしまいましたが、おそらく皆さんは戦後まもない茶の間に流れるテーマソングを思いうかべ、その頃のなつかしい光景が、家族が目にうかんできたのではないでしょうか?その頃の社会は“喰うこと”に精一杯で、我々子供たちもそうした大人たちの背中を見ながら気の毒なような、反面活気あふれる世間の動きにワクワクしながら子供時代を過ごしてきたような気がします。
そのような世相の中で、戦後歌謡はラジオ、映画、テレビなどのメディアの発達とともに、様々なブームが起っては消え、移り変わってきました。
   ◆アメリカ映画、特にプレスリーに始まるロカビリーブーム。
  ◇歌声喫茶全盛時のロシア民謡ブーム。
  ◆アメリカンポップス、和製ポップスブーム。
   ◇深夜放送とフォークソングブーム。
などが次々と起こり、我々の青春の一頁となりました。
 今回のFOXの選曲については色々とこだわりと思い込みの多いおじさん達の意気込みを調整して、出来るだけ幅広いジャンルから選曲したつもりです。戦後はリンゴの唄とともに始まりました。皆さんの青春の想い出はどんな歌でしょうか?このひとときをゆっくりお楽しみ下さい。最後に、皆さんの思い出をたどる手がかりとして戦後約三十年間の代表的な日本歌謡を年毎に、独断と偏見でリストアップしてみました。これから三十年後には安室もスマップもモーニング娘も、若い人には“ナツメロ”となって懐かしがられるでしょう。

   ヒットパレード

     世相…移り替わり

20(1945

りんごの唄

<第二次大戦終了>  米配給/10kq6

  21

泣くな小嶋よ/東京の花売り娘

婦人議員39名当選  ピース7

  22

星の流れに/鐘の鳴る丘

米価格10kq149円  六三制スタート

  23

異国の丘/湯の町エレジー

ロングスカート  古橋世界新記録

  24

青い山脈/銀座カンカン娘

トヨペット発売  アジャパー

  25

東京キッド/白い花の咲く頃

平均年齢男58/女61才  千円札発行

  26

上海帰りのリル/民放ラジオ発足

紅白歌合戦スタート    LP発売

  27

ああ、モンテンルパの夜は更けて/テネシーヮルッ

アンネの日記ベストセラー

  28

君の名は/映画シェーン

エヴエレスト初登頂  電気洗濯機(三洋)

  29

岸壁の母/お富さん

映画ゴジラ  ローマの休日  パートタイマー

30(1955

ガード下の靴みがき/

神武景気  太陽の季節  トランジスターラジオ

  31

若いお巡りさん/ここに幸あり

人ロ8927万人  団地誕生  三種の神器

  32

東京だよ、おっ母さん/バナナボート

南極昭和基地開設  週刊女性創刊 太陽族

  33

有楽町で逢いましょう/からたち日記

東京タワー  長島デビュー  ロカビリー旋風

  34

黒い花びら・・レコード大賞

岩戸景気  カミナリ族  新聞(月)390

  35

潮来笠/誰よりも君を愛す

即席ラーメン発売  ダッコちゃん

  36

上を向いて歩こう/君恋し

植木等のスーダラ節  アンネ発売

  37

いつでも夢を/王将

堀江謙一太平洋横断  てなもんや三度笠

  38

こんにちは赤ちゃん/鉄腕アトム

海外渡航自由化    NHK・花の生涯

  39

あんこ椿は恋の花/オバケのQ太郎

東京オリンピック  赤穂浪士

40(1965

二人の世界/柔/涙の連絡船

JALパック  エレキブーム  大閤記

  41

バラが咲いた/ビートルズ来日

ミニスカート  源義経  おはなはん

  42

ブルーシャトー/小指の想い出

イエイエ娘  怪獣ブーム  三姉妹

  43

恋の季節/天使の誘惑

昭和元禄  東芝3億円事件  竜馬がゆく

  44

黒ネコのタンゴ

東名高遠開通  ボーリングブーム  天と地と

  45

走れコータロー/今日でお別れ

デイスカバージャパン  樅の木は残った

  46

戦争を知らない子どもたち/また逢う日まで

ガンバラナクチャ  春の坂道

  47

女のみち/喝采/瀬戸の花嫁

ベルサイユのバラ  新平家物語

  48

学生街の喫茶店/夜空/神田川

オイルショック  巨人V−9  国盗り物語

  49

あなた/襟裳岬

狂乱物価  ノストラダムス  勝海舟

50(1975

シクラメンのかほり

長島G最下位  元禄大平記

  51

およげタイヤキ〈ん/北の宿から

ハガキ20円、封書50円  風と雲と虹と

そして1999

だんご三兄弟/字多田ヒカルのFirst Love

 

                                                                                                                                                                                                             


第4回定演

(プログラムから)

演目随想 アンファンス・フィニ―過ぎ去りし少年時代―
2nd tenor  湊 秀次郎

・・・三好達治さん、コンニチハ。シャウテイング・フオックスです。私どもの定期演奏会の録音テープが出来ましたので、お届けにあがりました。

  ・・・ヤァヤァ、よく来てくれたね。それは有難う。あとでゆっくり聴かせて貰うよ。それにしてもマァ、ワシの詩に曲をつけてくれたお人がいて、またそれを歌って下さる人達がいたなんて、光栄だし嬉しいよ。木下牧子さんというお方は美しいご仁らしいネ。それになかなかのテクニシャンだと言うじゃないの。ワシの詩の多くが、自然とか風光を対象としているからか、“自然詩人"だとよく言われているんだが、テクニシャンであるとおだてられたりもしている。ひょっとしたら、木下さんの曲想とワシの詩との相性は良いかも知れんナ。察するにさぞかし名曲になっているんだろナ。

  ・・・なに? 少し古いことも聞きたい?さてと明治三十三年に大阪で生れたことはしっているネ。いろいろ道草を食ったが、結局東京の陸士を中退して、大正十一年に三高の文科に入ったんだ。同級にネ、桑原武夫、貝塚茂樹、上級に梶井基次郎、河盛好蔵さんがいたよ。大正十四年に東京帝大仏文に入学したが小林秀雄,中島健蔵などと一緒だったよ。あ、そうそう、ワシの詩づくりについても話しておこう。「測量船」はワシの処女詩集で昭和五年のことだ。“乳母車”と“アンファンス・フイニ”が入っている。“段れた窓”は「一点鐘」、昭和十六年に出した詩集だヨ。

   ・・・ところで合唱の出来具合はどうだったの?ナニ!とても難曲で苦労しました?曲はまだ聴いてないので何とも言えんが、ワシの詩なぞ簡明そのもので、正に人と自然とのかかわりを素直に表現しているだろう。判るも判らぬもないだろうが。音読してごらんョ。それだけでもう音楽になっていると思うんだがんネェ……それとも何かネ。音楽を音学だなぞと勘違いしてやってんじゃないの?だいいちサ、シャウティング・フォックスという団体は,インテリジェンスあふれた中高年男性の集まり、という触れ込みだったじゃないか。その連中がムズカシイなんて言ってるんじや、しょうがないナア。う−ん、しかしだ、先程来キミとこうして話しているんだが、キミを見ていると、たしかに、知性とか教養とかいったものは全く感じないな。さしずめ、キミとご同類の集まりといったところなのかな。アハハ、まあ皆さんによろしく伝えてくれ給え。



第3回定演

(プログラムから)

ごあいさつ

若葉薫り、風爽やかに吹き渡るこの頃。ようこそシャウティング・フォックスの
第三回定期演奏会にお出で下さいまして心よりお礼申し上げます。
本日は、前回93年の第二回定期演奏会の「月下の一群.I」に続く堀口大學訳詩・南弘明作曲『月下の一群.U』と、
誰もが一度は歌い、アメリカよりも日本で最も親しまれているフォスター。昭和を代表される歌として、
今なお歌いつがれる古賀メロディーをお届けいたします。
今回にいたる間 フオックスは練習、特に発声に励み、多くの演奏を行って参りました。
とりわけ昨秋の我孫子市合唱祭で、湖北台中学校白樺合唱団と共演のあと、
生徒たちから寄せられた感想文には、合唱の楽しさが素直に書き綴られておりました。
これらの感動は、合唱を共にする者の感激であります。
この歓びをいつになっても失うことなく、さらなる感動に増幅するよう…
フォックスは、そんな役割を いくらかでも果たせたならと冀いつつ歌います。
本日は ありがとうございました。



あの[ふぉつくす]から「ソリスト誕生」
……内輪ほめで恐縮ながら……
Bariton 北澤 和郎

  組織には「内輪もめ」はどこの合唱団にも付きものらしいが、ことフォックスに関してはどういう訳か無縁―その秘密は「酒議一決!」にありということで、休憩時間のご無聊のお供として、「内輪もめ」ならぬ「内輪ほめ」の一席で、暫くご辛抱のほどを。
 ……団結力だけが頼りのフォックスなれど、一皮剥けば「一匹狼」ならぬ「一匹狐」の集団。有り余るエネルギーを、暴発させずに平和裡に発散させる方法の一つとして、特に小うるさい狐共には「ソリスト」なる餌を与えて、成果をあげつつあります。
 殊に1994年から95年にかけては「ソリスト大量生産」(粗製濫造の声を聴かれたカナ?)に成功。ご存じ(ないか)関口・木村・藤岡の三大「日本民謡テノールトリオ」に加えて、新人・戸田狸改め戸田狐が、 JORDAN会で光輝かしくも爽やかにデビュー。
 いずれ劣らぬ超ヴィヴラートつき美声&鼻声…阿鼻叫喚とはまさにこのことならむ。更にトップテノールのパートリーダー神山狐は、最早テノールソロは飽きたとばかり、突如バリトンに化け「シェナンドー」のソロを奪取、(公私共)職にあぶれた桐谷は、やむなく「オペラの午後」に転戦、本番でのチョイ役と練習台に甘んじる始末。 いやはや「ソリスト争奪戦」は熾烈を極めた次第です。
 因みに、これらの「ソリスト」狐共は余勢をかって、去る3月4日早朝、降りしきる雪をものともせず手勢十数人を引き連れ、桜田門いや四シ谷の文化放送第五スタジオに侵入、下条アトム氏を脅迫して翌週自らの声を電波に乗せてしまうという、早春の椿事(暴挙)まで引き起こす始末。

<この辺でいささか独特の狐語録は判りにくいとのお声もあれば、それぞれの持ち歌から、 FOXの多才な人材の一端をご紹介> ◎最上川舟歌/珍しく声と顔のイメージが一致する関口秀雄。鄙びた素朴さが持ち味です。
 ◎雨・里の秋・シェナンドー/同時に多数のソロをこなす聖徳太子ばりの神山恒夫。
 ◎斎太郎節/舞台度胸満点の戸田新吾。それもそのはず、仕事場はいつもステージの上。
 ◎大島節/新婚美人妻常時同伴的美声の持主藤岡正俊。郷土の先輩・野村秀美譲りの伊勢説りの鼻濁音が難。
 ◎音戸の舟唄/下条アトム氏に「お歳のわりに若々しいお声」と褒られ(?)絶句した木村禧夫。「オペラの午後」では突如「ノンヴィヴラート・ベルカント唱法」に開眼(でもあっという間に元に戻りました)
 ◎さて番外は、完熟婦女子のアイドルをもって鳴る桐谷和男。「オペラの午後」の本番・椿姫のドビニ侯爵役、カルメンのエスカミーリョの代役とフルオケを前に堂々たるソリスト振り。「まァこんなもんさ」といつもの自画自賛調でこなした。
 
 #さらに、我らが師匠・大久保光哉の近況をご報告申し上げます。二期会オペラ研修所の研修発表の主役をはたし、ドイツ留学の日も間近いとか。帰朝いたしますれば「本格的ソリスト」として皆様の御ん前に登場する日もありますれば、倍1日のお引立てのほど、隅からスミまでズズズッーズィートとおん願い申し上げ奉ります〜る。
 
さて本日も、今年度の「争奪戦」を勝ち抜いた狐共が皆様のお耳を汚します。なにとぞご寛容の程を。歌唱力はさておきまして、この地位を勝ちとった老檜さと歳に似合わぬ熱情をご理解賜りますれば幸い至極に存じます。


第2回定演


(プログラムから)

ごあいさつ

皆様、ようこそお出てくださいました。
本日の組曲『雨』・「月下の一群」は、いずれも代表的な男声合ロ昌曲です。
素晴らしい詩が、美しいメロディーにいだかれ、こころをゆさぶる名曲です。
ちりばめられた言葉の数々は、日本語のもつ豊かさを教えてくれます。
どれほど詩のもつ情感をとらえ、皆さまのもとへ、お伝えてきるか、どうか。
それらをこころに念じ、合宿をし、練習をかさねて参りました。
91年に第一回定期演奏会をひらいてより団員も50名をこえ、四人に一人は
新しい顔ぶれになっております。
このステージに、どれだけ日頃の実力を示し得るか、
私どもはその名に恥じぬ“力一杯歌うこと”をこころがけます。
私たちの叫びが、手賀を渡り、東葛の野をこえ、遥かな友に響かせることが
できれば、これにまさる歓こびはありません。
ありがとうございました。



演目随想 雨と曰本人
Top Tenor 木村 禧夫

 降り注ぐ太陽の熱を、エネルギーにして、風が吹き、雲が湧く、雨が降るなどの気象現象が起こる。気象衛星「ひまわり」をみると、赤道付近に沸き立つように雲が現れ、消える。これらの雲は地球の自転にともない回転をはじめ、海上の豊富な水蒸気の補給を受け、発達したものが台風になる。1個の台風が日本に接近すると、100億トンもの雨を降らせる。
 この台風や6・7月の梅雨前線、9・10月の秋雨前線による雨の恩恵は大きい。日本は、瑞穂の国とされ、日照りには雨乞いをし、雨の到来を祈ってきた。その反面、満開の桜が雨に散るのを惜しみ、梅雨の晴れ間のすがすがしさを喜び、七夕には雨が降らないように祈ってきた。
 夏の夕立、初冬の時雨。日本人は年中、雨を気にしながら生きている。この所以か世界の名曲に出てくるものが少ないのに反して、日本の曲には、あの杼情豊かな名曲「城ヶ島の雨」をはじめ、童謡、唱歌から歌謡曲にいたるまで雨の出てくる歌詞はまことに多い。
この組曲「雨』では、
    1)自然現象としての力強い雨。
     2)くぬぎの匂いのするような武蔵野の、佗しい雨。
    3)孤独感を与えるような冷たい風情の雨。
     4)悲哀感をあげてくれる、降りやまない雨。
     5)身体を凍えさせるような初冬の雨。
そして
    6)作曲者の心の、奥深く刻み込まれた鎮魂曲としての雨。
が組みこまれている。


演目随想 スピリチユアルとジャズの出会い
Top Tenor 大河原 宏司

まず`思い出される言葉がある。
 「すべてのジャズは歌唱から起こり、すべてのジャズ・ヴォーカルは器楽から起こった」と。まさに至言である。これは世界的なジャズ評論家ヨアヒム.E・ベーレントの言葉であるが、前段の部分を中心に考えてみたい。
19世紀後半、今日いうところのジャズらしき演奏形態が、ニューオリンズ周辺の黒人によるブラスバンドから発生した。その重要な要素となったのは、黒人たちの歌である。おりしも南北戦争が終り、南軍放出楽器を手にまず始めたことは、管楽器を用い、自分たちの歌を歌うことで、あった。これがジャズの始まりである。
 母なる国アフリカから伝わる音楽資質は、奴隷制のもとにあっても損なわれることなく、フィールド・ハラーやシャウト、あるいはワークソングとしてプランテイションやレイルロードに響きわたっていた。

 それらジャズの母体となった「黒人たちの歌」の中でも重要なのが賛美歌、即ちニグロスピリチュアルである。雇主たちは黒人に聖書をあたえ、なかば強制的に教会に通わせた。
 そこで出会ったの力賛美歌、つまり西欧の音楽で、ある。音楽に対する鋭い感受性と独特のリズム感をもった黒人たちは自分たちの新しい賛美歌(スピリチュアル)を創造していった。記録をたどると、彼らと賛美歌の出会いは、1676年ヴァージニアが始りとされる。
 そして、ニグロスピリチュアルというジャンルとして、さらに大衆に広まるのは、黒人のためにフィスク大学が設立され(テネシー州ナッシュビル)、その資金調達のための合ロ昌団、フィスク・ジュビリーシンガーズの演奏活動によってて、あった。この活動により、ニグロスピリチュアルはアメリカ黒人の魂の叫びとして世界の注目するところとなり、合ロ昌音楽のなかに大きく位置づけられるにいたったのである。
 一方ジャズは、その発生時においてニグロスピリチュアルに大きな影響をうけたとはいえ、あくまで別なジャンルとして発展してきた。ところがジャズ爛熟期を迎えた1930年代後半から1940年代前半、ゴスペルの出現により両者の出会いが始まる。
 
ニグロスピリチュアルは、いくつかに分類される。
●牧師の説教が次第に熱がこもり、語りかける調子から歌う調子になり、会衆も熱狂して合いの手をいれる。これをサーモンという。
●さらにエキサイトし、会衆はエクスタシー状態となり踊り狂い、床を転げ回る。このような叫ぶようにして歌われる賛美歌をさしてリング・シャウトという。
 ●これを更に音楽的に整え、エンターテイメント化したものがゴスペルソングで、ある。

 ニグロスピリチュアルが西欧(教会音楽に近いのに対し、ゴスペル・ソングはよりヴァイタリティにとみ、強烈なビートでスウィングする。そこにあるのは、正にジャズそのもので、あり、大歌手マヘリア・ジャクソンを初め、幾多の名歌手の登場により、さらに芸術性が高められた。今日では、多くのジャズ・コンサートやジャズフェスティバル等で、ゴスペルソングは重要なプログラムとして取り上げられている。
 一方黒人教会では、ジャズ化したスピリチュアルーゴスペルが日常的に大衆のなかに生き続けている。



(バリトン佐藤晄さんの回想録から)

第2回定演の思い出
佐藤 晄

 @ 組曲“雨” A フランスの詩による“月下の一群”(ピアノ伴奏) B 黒人霊歌(英語) の3ステージの中では、多田武彦の“雨”シリーズの心地良さが忘れられない。6曲を演奏したのだが、堀口大学作詞の“十一月に降る雨”の低音部の勝った男らしい響きが快かった。 早稲田大学ニューオルリンズ-ジャズクラブとの共演で歌った、“Steal away”他4曲の黒人霊歌は、若干消化不良の演奏のように私には感じられた。 黒人訛りの英語が期待されたので、英語担当の私にも発音での出番は無かったが、前回同様、私の訳詩が、贅沢なプログラムの1ページを占めた。 それでも、コンサートの全体的な印象については、概ね好評を得ている。 それもその筈、第1回定演の効果か、粒よりの歌い手たちが続々と入団して、フォックスは質も量も様変わりしていた。 トップテナーでは、程なくパートリーダーになった神山恒夫さん、セカンドテナーでは、現在コンサートマスターの重責を担う北沢和郎さん、バリトンでは、現在のパートリーダーの飲み屋、じゃなかった、野宮徹さん、バスでは、豊かな声量の上林伸一さん、現在、柏市の男声合唱団“フロイデ”で歌っている戸辺光男さん、そして、当時芸大の学生でヴォイストレーナーとして入団した、現在の指揮者、大久保光哉さんの顔もあった。 他に、テノールでは田川勤さん(故人となられた)、相川健さん、才田豊さん、バリトンでは、市川和男さん、安藤寛さん達も新顔であった。 痛恨の極みは、バスのパートリーダーであり、ヴォイストレーナーでもあった井手さんが、この定演を前にして、過労で急逝されたことである。 1992年11月の我孫子市合唱祭で歌ったロシア民謡“12人の盗賊”での彼のプロ並みのソロの記憶は、今でも鮮明である。


第1回定演


(プログラムから)

ごあいさつ

皆さま、本日はようこそお出でくださいました。
私たちがこの定期演奏会を計画致しましたのが一昨年11月、
なにぶん初の経験でもあり、この一年半は紆余曲折の連続でしたが、
何とか本日を迎えられますのも、ご来場の皆様はじめ、多くの市民の方々のお陰と感謝いたしております。
メンバーの多くは入団して初めて合唱を体験した者で、
晴れの初舞台を緊張と感激の中で迎えることになりました。
20才の若者がいます。80才の青年がいます。一同心を一つにして唄います。
私たちの叫びが、皆さまの心の中に、
幸福の鐘の音となって鳴り響くことを念じて止みません。
本当にありがとうございました。


フォックス命名傳 
片倉 武

  シャウティング・フォックスの生いたちとその名前について記さなければならない。
 大分ふるい話になるが寺内君と私がはじめて会ったのが、11年前のちょうど今ごろ。野山に草花が咲きみだれ木々の間を薫風が吹きぬける、爽やかな季節だったと記憶している。
 当時、我孫子の湖北台に“音楽茶屋「道」”という喫茶店があり、近くの音楽好きが出入りしていて結構繁昌していたものだが、そこのマスターの引き合せであった。その時、たまたま寺内君がテノール、私がバスと分れていなかったら今のフォックスは無かったかも知れない。このマスター・森下氏はもともとコントラバス奏者で、翌年、現指揮者の野村氏を紹介してくれたこともあり、フォックス胎動期の功労者と言っても過言ではないと思う。
  さて、野村氏を迎えて、いよいよ本腰を入れてやろうと思ったが、そこは素人集団。一年や二年で上手になるわけは無く、どうせやるなら30年計画でやろうと言うことになった。野村氏をふくめ、みんな余程ウマが合ったのか、他人から見れば気の遠くなるような話だろうが、この考え方は今も変らない。
  その頃、湖北台にはもう一つアンサンブル・レオーネと言う先輩格の男声合唱団があり(今でも活躍しているが)、ここは当方と違って全員某大学グリークラブなど、経験者が揃っていて、 両者の差違は大人と子供、いや乳児くらいあったであろう。 
 しかし、そこは負けず嫌いのフオックスの面々、先輩に追いつけを旗印に、質じゃ勝てないからとりあえず量で勝負とばかり、猛烈なスカウト作戦を展開する。東に歌好きが居ると聞けば、カラオケスナックを襲撃し、西に飲んベェがいれば車に拉致して引っぱりこむこむ始末。
 この荒ワザが功を奏してか、団員はすぐレオーネの倍の20名くらいになった。しかしまだまだ玉石混渚(殆んど石)であった。30年計画というのは、きっとこのくらいの期間があればレオーネに追いつけると思われる年限だったのかも知れない。
 シャウティング・フォックス(叫ぶキツネ)という名も、アンサンブル・レオーネ(ライオンのアンサンブル)を多分に意識しているが、ただそれだけではない。小生が昔から好きだった「スプリングフィールドのキツネ」(シートンの動物記)に因み、我孫子にもかつてキツネが棲んでいたことを想い起して命名したものである。
 これからもレオーネとフォックスは様々な面で対比されながら、それぞれ成長していくであろう。こうした中で本日のキツネの舞台に、ライオンが2頭唸り声を挙げていることも記しておきたい。 

                    トップページに戻る