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メンバー紹介
 談話室
団長:石井 忠夫  
副団長:安藤 寛
幹事長:塚本 一幸 幹事長補佐:才田 豊
会計:近藤 雄一
会計監査:武田 実
音楽監督、指揮者:大久保 光哉 

コンサートマスター:野宮 徹
インスペクター:阿部 祐一
パート・スーパーバイザー:戸田新吾(高音部)、
野宮 徹(低音部)
1st Tenor
<パート・リーダー:阿部 祐一
<パート・マネージャー:佐藤忠雄
秋元 通晴 阿部 祐一 足助 哲郎
木村 倶捷 木村 禧夫 佐藤 忠雄
関口 秀雄 戸田 新吾 古川 信幸

(パート寸描)下部3声の支えのもとに、メロディーを気持ちよく歌わせてもらっている。心癒す美声のおじさん天使でありたい、と願いつつ、実は釈迦の手のひらの上で踊っている悪ガキをご紹介します。
▽佐藤=パートリーダー、家庭菜園5段 ▽阿部=高音部スーパーバイザー、人事異動16回、引越し13回 ▽木村サチ=常連ソリスト、前我孫子合唱連盟会長 ▽関口=都県境ぐるり一周歩き、風景写真の虫 ▽平林=デジカメ命、FOX行事で活躍中 ▽角田=恋愛小説を書いているらしい、FOXのムードメーカー ▽足助=我孫子の景観!緑と鳥と鰻とで再生するは合唱で共鳴にあり! ▽秋元="ゴルフと人生"のエッセイスト? ▽木村トモ=昔トラさん、いまトモさん。目を大きく開くのが課題 (パートマネージャー木村倶捷)

2nd Tenor
<パート・リーダー:塚本一幸>
<パート・マネージャー:山田敏彦>
相川  健 小高根正義 近藤 雄一
斎藤 公誉 塚本 一幸 原田 泰弘
綱川  渡 前田  毅 山口 正雄
山田 敏彦

(パート寸描) ダーク・ダックスでいうと「マンガさん」の担当です。目下7名で、50代・60代・70代(但し前半)と各年代をとりそろえています。ありがたいことに、大久保先生の指導を一番受けているパートです(裏をかえせばヘタクソと言うことか)。音域・音の変化が多く、やりがいのあるおもしろいパートです。(前パートマネージャー近藤雄一)
(スーパーバイザーからひとこと)学生時代名門グリーで大活躍した筋金入りの小高根。FOXの精神的支柱の齋藤、温顔に情熱を隠す塚本、練習熱心で笑顔自慢の近藤、東南アジア演奏旅行を夢見る商社OB綱川、語らずして知性を醸し出す相川、歌も芋煮も任せて安心の山口、歌もゴルフも安定感抜群の原田、鋭い音楽センスを持つ山田の9人が、難しい中声部を受け持つ。FOXのハーモニーが著しく向上したのは、この9人の努力である。(阿部祐一)

Bariton
<パート・リーダー:湊秀次郎>
<パート・マネージャー:本橋靖弘>
安藤  寛 市川 和男 川路 義文
才田  豊 実松 靖之 高橋 英二
多田 正志 湊 秀次郎 本橋 靖弘
森  滋

(パート寸描) 洋の東西を問わず、渋く艶があり、世の淑女方を惑わす“男の声”はバリトンと相場が決まっております。わがバリトンの面々も、面相は兎も角、いずれ違わぬ美声(?)の持ち主ばかりです。現在10名。平均年齢は68歳と相当なものですが、みなカクシャクとして練習に励んでいます。(前パートマネージャー実松靖之)

団員暦30年、今や団の顔でエージシューター間近の石井団長、多芸多才で博学な市川さん、エネルギッシュなパートリーダーの湊さん、二代目料理長の才田さん、ホームページ管理人の多田さん、豪放で面倒見の良いサツマッポの川路さん、見かけによらずロマンチストな実松さん、カメラが趣味の好々爺、森さん、パソコン得意のニューフェース、本橋さん、歌よりお酒が好きな・・・・(パートマネージャー 安藤)

Bass
<パート・リーダー:山元正治>
<パート・マネージャー:大田仁一郎>
石井 忠夫 泉 隆彦 尾内 俊之
大田仁一郎 大貫 博 武田  実
田中 祥元 野宮 徹 山内 一郎
山元 正治

(パート寸描)バスのマネージャーですが、歌は、ユニークな音程で、メンバーには迷惑のかけっぱなしです。何回、音取りをしても正確に歌えなくて、先生も頭をかかえておられるんじゃないかと思いますが、合唱のハーモニーを求めて練習に参加しています。4つのパートのハーモニーが一致したときのすばらしさは、なんともいえず心地よいものです。ぜひバスにご参加ください。(パートマネージャー泉 隆彦)
(スーパーバイザーからひとこと) ♪田舎のバスはオンボロ車〜、だったけれど、FOXのバスは7人のツワモノが揃ったハイブリット車(その割には燃料(お酒)喰い過ぎ!)。合唱歴60年余の山内マエストロ、小唄長唄が粋な武田御家老、これがBass Voiceなのだ!の山元さん、甘い声と音程(?)で絶妙なハーモニーを醸し出す大田さん、舞台に登れば手抜きはしない大貫さん、ほっとけない仏の泉マネージャー、いつも脱線気味な私です。(野宮徹)



           談話室  


初盆
バリトン 川路 義文

 早いもので昨年11月妻が心筋梗塞で急逝し初盆を迎えることになりました。子供や孫、妻の兄弟などとささやかな供養をすることができました。仕事(在宅翻訳業)のほかいろいろな活動は従来通りやっていますので、時間をもてあますことはありませんが、誰もいない自分の家に帰るのはすこしつらいところもあります。
 さて私の所属する地元の俳句同好会(1年間の我孫子市民講座を終了後、約6年前同級生の賛同を得て立ち上げた「おみの会」)に出した最近の俳句をご披露します。

  1.つかの間の闇も育たず揚花火
  2.新盆の過ぎ行く日々の早かりし
  3.新涼のすずめの声に目覚めけり
  4.初盆や土間の灯も皓皓と
  6.親の手を真似て幼の盆踊り
  7.施餓鬼寺平家を語る薩摩琵琶
  8.梅雨晴間審判の笛鳴渡り
  9.なき人の便りもあらむ落し文
  10.飛び立ちてやがて輪になる鶴の舞

 日本の俳句人口は多く、平均年齢は76歳だそうです。それに比べると、フォックスの年齢はまだまだ若い。男声合唱にまた俳句にこれからも精を出そうと思っています。


「あづまやの」の元歌に遭遇

バリトン 多田 正志

第9回定期演奏会での清水重道作詞・信時潔作曲「沙羅」の歌詞集を編集しながら、第2曲「あづまやの」の意味深長な内容が気になっていましたが、先日、足助さん(トップ)などと御一緒に運営しているシニアの学び舎「ふれあい塾あびこ」での「源氏物語講座」の西村さち子講師の資料で、その元歌と思われる催馬楽(平安時代、民謡を雅楽風に編曲したもの)に遭遇しました。 ご存じだった方はいまさらとお思いでしょうが、そうでなかった方のご参考までにご紹介いたします。

「あづまや」はご承知の通り

あづまやの
まやのあまりに
立ちぬれて
殿(とん)の戸あけと
云ひし人もが

鎹(かすがい)もとぎしもなしと
云ひし人もが
五月雨(さみだれ)に
わが訪ひくれど
門(かど)ざして
君はいまさず
憎くや
この君

というものです。
この元歌らしい催馬楽「東屋」は、光源氏が、好色の老女房源典侍(げんないしのすけ)と、歌を詠み交わして戯れる「紅葉賀」(もみじのが)でのきわどいやりとりで引用されているもので、西村講師資料によると、

(男)
東屋の
真屋のあまりの
その 雨そそき
われ立ち濡れぬ
殿戸ひらかせ

(女)
かすがひも
とざしもあらばこそ
その殿戸
われ鎖さめ
おしひらいて来ませ
われや人妻

というものです。
最後の「われや人妻」は、一見不倫の歌のようにも見えますが、これは「私はほかの人の妻ではありませんよ」、つまり「あなたの妻ですから、遠慮なく押し開いてどうぞ」と、愛する人に答える純愛の歌とのこと。
西村講師は清水重道の「あづまやの」について、
「”云ひし人もが”の部分ですが、”もが”は他への願望をあらわす終助詞といって、通常”・・・であってくれたらなあ。”などと訳すものです。ですから、”・・・と云ったというその人が、今現在いてくれたらなあ。”と素直に思いを述べ合って恋をし、その恋を成就させた古代の恋のあり方を催馬楽の歌詞から偲び、懐かしむもののような気がします。
清水先生ご自身の思いが述べられているのは、”五月雨に・・・”以下の部分と思われます。”その「東屋」の歌のように、私の恋も実るかと期待を抱いて雨の中、いとしい人を訪ねてきたが、残念ながら君は留守、門は閉ざされたままだった。”こんな感じでしょうか・・・?」
とコメントしてくださいました。

吼える狐の仲間入り
セカンドテナー 山田 敏彦


 私は2ヶ月前(2007年12月)に入団したばかりです。どうしてシャウティング フォックスに入団したのか?話を聞いていただければ幸いです。

 サラリーマン生活も40年近くなり、転籍後の職場で快適に仕事をしていた矢先に突然病魔に襲われ、勤務を続ける事が出来なくなりやむなく退職しました。描いていた定年後の計画も見事に頓挫、環境の激変に茫然自失の状態で病気と向き合う生活を2年間過ごしてきました。気持ちが萎えていく中で飲食時の誤嚥やしっかりした声も出せなくなり、このままでは本当にやばいと実感するようになりました。ある日たまたま観ていたTV番組の中で、誤嚥や肺炎の防止には舌の筋肉を鍛えることが必要であり、大声で歌うことで効果が上がると紹介されていました。

 その時突然ひらめきました。“そうだ!合唱団へ行こう”。

 手始めに生涯学習センターのパンフレットや幾つかの合唱団のサイトにアクセスしましたが、その中でシャウティング フォックスのホームページでは多様な個性・経歴をもつ団員達や楽しそうな雰囲気が感じられる団活動などが紹介されており内容も充実していたこともあり、早速練習現場を見学し即入団を決めました。もっぱらカラオケ道のみに精進してきた私でしたが快く受け入れていただきました。

 大久保先生(ドクター)の指導のもと、唇・舌・頬・顎・声帯・横隔膜はもとより全身を駆使した発声法や本格派の歌唱力を磨いています。肺の強化・難病克服という私の不純な入団動機に対しても予想以上の効果をもたらしつつあり強い援軍を得た思いです。練習時における、年季が入った生徒と先生の掛け合い(ボケとツッコミ)も絶妙でまさに阿吽の呼吸。各パート間の呼吸が合わない時もありますが、楽しみながら練習しようと全団員が心掛けており正に“音楽”を実践しているグループです。シニア世代が中心のグループですが、他の合唱団とは一味違う‘コク’のあるハーモニーは一見ならぬ一聴の価値があると思います。

 話は全く変わりますが、私は1988年から6年間インドネシアに駐在していましたが、その頃五輪真弓の「心の友」が現地で大ヒットしていました(日本では全くヒットせず)。先日放送された「絆・被災地に生まれた心の歌」という番組でスマトラ島沖地震から復興に立ち上がった現場でインドネシア人の小学生達が「心の友」を日本語で合唱している姿が映し出されました。歌が持つ力の強さをあらためて感じさせられました。

 さて、このサイトに私と同じように迷い込んで来られた皆様、騙されたと思って1度、吼える狐の練習風景を覗きに来ませんか? 叩けよ(コンコン)!さらば開かれん。


二足のわらじ・・・本業を忘れる定演前

セカンド・テナー 塚本 一幸

私は2001年6月、シャウティング フォックスに入団、その10月に第6回定演があったので、今回は4回目のステージとなる。入団から7年、今年は団塊の世代大量退職による各方面への影響が騒がれている。高齢化の伸展に伴い「長生きのリスク」が@経済面A健康面B生きがいと、3つあるそうだが、私のFOX生活は生きがい面でのリスクをカバーしてくれていると思う。とは言え会社勤め現役、本業との二足のわらじも定演まじか追い込みともなると大変。健康リスクを考えつつ頑張っている。

 最近「わが人生の歌がたり」(五木寛之著)を読んだ。私もそうだが懐かしい歌はその時代の自分を想いださせる。印象に残っている出来事がある。何年か前、カラオケのある居酒屋で「みかんの花咲く丘」を歌い終わると年配のママさんが目に涙を浮かべていた。どんな想い出があったのだろうか。今回2・3部の舞台では皆様のよく知っている懐かしい日本のうたや映画音楽を演奏する。私は「水戸黄門」の勧善懲悪・死人が出ない・8:45の「この紋所が・・・」の場面等々でファンである。3歳頃だった長男が「水戸黄門」のテレビを見ている前を横切ってしまった。その時すかさず彼は「人生が見えないよ!」と。その長男も昨年結婚し少しは人生が見えてきたようだ。

3部の映画音楽では一部ソロや齋藤恵さんとの掛け合いを命じられた。前回定演では「ポテトプリーズ!」というせりふがソロ。それだけでも上がっていたのに、今回は家族共々真っ青。今年7月に亡くなられた臨床心理学者河合隼雄さんは「あがる心理」という項目で「『あがる』とはまさにその表現のとおり、意識が高揚し、普通でない状態になっているのだ。『あがる』からこそ、名演奏ができたり、名演技ができたりする。そして、観客の感動もまた爆発的になる」と述べている。そして、最後に「練習不足であがっていては、話にならない」としっかり付け加えている。さーて練習・練習・・・・。

大病からの生還と合唱再挑戦

セカンド・テナー 齋藤 公譽

昨年1月、旅先の札幌で「ラムゼイーハント症候群」という難病で、55日に及ぶ壮絶な入院生活をしました。「帯状疱疹」のウイルスが右反回神経、右舌咽神経等を侵し、12日間四六時中シャックリが止まらない、めまいが酷く歩けない、高熱が続き、声が出ない、食事が咽喉を通らないという激烈な症状で、誤嚥性肺炎も併発、薬の副作用か尿が出なくなり、気張るので痔が出て肛門科にもかかりました。

治療も、首の前側にある自律神経「星状神経節」を摘まんでのブロック(遮断)注射21回、MRI検査2回、レントゲン、血液、聴力、めまい(バランス)検査は数知れず。点滴は頻度が多くて血管が硬くなり物凄く痛い、入浴は出来ないという難行苦行で、体重は一気に10kg減りました。

  3月からリハビリへ。呼吸、発声方法の訓練(これは合唱で鍛えていたので、医師に褒められました)。喉の筋肉を鍛える嚥下体操、基礎体力を回復させるストレッチ、自転車ペダルこぎなど、点滴のチューブをぶら下げながら必死で励みました。入院55日目に久し振りの入浴、15日ようやくシャバに戻り、17日我孫子に帰還いたしました。

その後は柏の病院でリハビリと、投薬も続けると同時に、自宅近くの遊歩道を歩きながら毎日約2時間30分、ベンチを利用してのストレッチ、嚥下体操、ゴルフクラブの素振りなどで基礎体力の回復に努める一方、発声訓練と小学校から大学までの校歌、応援歌、フォックスでの合唱で覚えた数々の曲を歌って咽喉を鍛えた結果、幸いにも10月頃から声が正常に出るようになり、体重も5kgは戻りました。

 そして、ことしの正月、ほぼ1年ぶりにフォックスの練習にも参加出来るようになり、1991年の第1回定演以来の定演連続出演も出来そうな状態にまで回復しました。まだ後遺症として歩き出すときの若干ふらつき、咽喉の違和感、右耳の痺れ感はありますが、日常生活には影響なく、健康のありがたみを満喫しています。第9回定演、この日を皆様と共にエンジョイ出来ますこと、元気になってよかったと心底から思います。合唱をやっていたことが、生還の大きな励み、助けになっていた、確かにそうだと思います。



「千の風になって」に寄せて

バリトン 川路 義文

数年前、我孫子在住の老婦人よりアメリカの英詩の和訳を依頼されたことがある。お姉さんが米国人と結婚され、ガンで亡くなる前後のことを米国人の隣人が書いてくれた手紙に同封されていた詩である。お姉さんはガンに侵された体の苦しみを一切口にせず、他界されましたと、手紙には書いてあった。同封の詩は埋葬式のとき参列者に配布されたものである。詩を訳しながら、いい詩だなと思っていた。その訳詩をお渡ししたとき、美しい詩ですねと感想を述べられたことを鮮明に覚えている。この詩こそ荒井満氏の作詞・作曲になる「千の風になって」の原詩である。

最近親しい友人や先輩などの通夜に参列することが多い。でもお別れするのではなく、死者は再生し、自分の周りにいると思うと、肩の荷が少し軽くなる。荒井氏は文芸春秋9月号に次のように書いている。「12行ほどの長さしかないこの詩を一読して、私は心の底から驚いた。なぜかといえば、この詩の作者が“死者”だったからである。生者が死者の気持ちを慮って書いた詩はいくらでも見たことがあるが、これほど明確に死者が生者に向かって発したメッセージを目にしたのは初めてのことだった。」

今年5月のミニコンサート(湖北台公民館)で「千の風になって」を団員と一緒に歌った。同じ団のコンサートマスター野宮徹氏の編曲もよく、つい先日他界された先輩を偲びながら歌ったら感無量であった。残された日々は少ない。人生の最終楽章をどのように締めくくるのか、悩み多いこのごろである。

FOXで磨く大鍋料理の腕

バリトン 才田 豊

 FOXの板長であった堀さんが休団されてハタと困った。私の場合は団活動意欲の半分以上は練習後の飲み会という非常に動機不純かつ単純な理由でしたから。もっとも石井団長も同じ思いだったらしく。「才田、何かやろうよ。乾き物と酒があればいいから」と言ってきた。「そうですね、何か適当にあつらえてみますか」と引き受けたものの、一人の参加費1000円で、何ができるか。取りあえず団長と一緒に天王台のスーパーで買出ししてみたが、どう見ても、予算はオーバーしてしまう。

ふと気がついたのは10丁目会館にある大鍋。昔から私は具沢山の鍋物・汁物が好きでこれを酒のつまみにしている。よし!これだと思ってカミサンに作り方を聞いたら、魚を主体にするなら昆布だしに醤油味、肉だったら豚汁みたいに味噌味かしらね、とのこと。早速、スーパーへ買出しに出陣。何でもありと、豚・鮭・油揚げ・大根・白菜・玉ねぎ・人参・牛蒡・こんにゃく・しいたけ・モヤシなどなど片端から買い込み、家で適当に切って、だしの元・醤油・味噌を会館に持ち込みました。

大鍋に適当に水を入れ具材を放り込んだら、皆が「何が出来るの?」。「俺にもわからん」と答え、恐る恐る味見をしたら豚汁でも、おでんでも、寄せ鍋でもない七色の味。椀に取り、きざみネギをのせ唐辛子をパッパッとふりかけ出来上がりとしたら、皆の評価は、「ウン、意外といける」。「これはやみ鍋だ」とも、「男の料理だね」とも。 お陰で鍋はきれいに空になり、星三つ! 費用もなんとか4000円を切ることが出来ました。

 以来、いかに限られた予算、時間(練習の合間と練習終了後の10分程度で準備)のなかで味のハーモニーとボリュームを満足させるか、狐族の「コンコン鍋」と格闘中。賞味期限間近の面々も混じっているFOX。木の葉っぱを小判に見せ、馬のションベンを酒に見せかけ人を騙すが何故か憎めない狐。これはFOX合唱の精神と相通じるところがあります。どなたでも一度騙されたつもりで湖北の十丁目会館に食べにいらっしゃいませんか?


ドイツ演奏旅行の記
高音部スーパーバイザー 阿部祐一

 母校の男声合唱団OBを主体としたマーキュリー・グリー・クラブのドイツ演奏旅行に家内を伴って参加した。団員35名平均年齢65歳、同伴者(夫人)18名、指揮者、ピアニストを含めて総勢55名。現地在住の大先輩F氏とアシスタントのSさん(ケルン歌劇場専属合唱団員)がアテンドしてくださった。F氏は今回の演奏旅行のプロデューサー。

 7月22日(土)出発、30日(日)帰国。フランクフルト郊外のバート・ナウハイムに4泊、古都フライブルグに3泊、7泊9日の強行軍だった。演奏会の合間にライン川下り、フランクフルト、ハイデルベルグ、フライブルグ、国境を越えてフランスのコルマール、ストラスブールの観光までおこなう欲張りスケジュール。おまけに現地は観測史上例のない35度近い猛暑の日々。ホテルは冷房なし!よくぞまぁ全員無事帰国できたものだ。

 およそ1年をかけて準備したプログラムは次のとおり。

  第1ステージ 宗教曲
      ジョスカン・デ・プレ ミサ・マーテル・パトリスからキリエ、サンクトゥス
      G・フォーレのレクイエムからアニュス・デイ(吉岡弘行編曲)

  第2ステージ 日本の歌
      箱根八里、早春賦、浜辺の歌(以上林光編曲)
      からたちの花、八木節、斉太郎節(以上クリークラブアルバム)

  第3ステージ 間宮芳生の合唱のためのコンポジションV

  第4ステージ 世界の歌
      ナブッコから「囚人の歌」、アメージング・グレース、黒人霊歌Ride the Chariot、
      ロシア民謡カリンカ、シューベルトの菩提樹、フランクのPanis Angelicus

  アンコール
      柴田南雄「修二会讃」から抜粋
      ウェルナー「野ばら」

 現地紙の記事をご紹介しよう。

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   教会の内陣を揺るがせた日本人(の歌声)

 Riedern im Waldのバロック造りの修道院教会の荘厳な堂壁に極東の仏教僧侶の声明(しょうみょう)が響き渡ったのは嘗てなかった出来事である。 しかし7月27日にPfarrkirche St.Leodegarで開かれた音楽会が示したコントラストはこれにとどまらなかった。 日本の合唱団Mercury Glee Club-Tokyoは日本の古典および現代の歌のみならず欧州の歌曲も演奏した。欧州の音楽、なかんずくドイツ歌曲は日本においても重要な文化財である。 したがって、40人の男声歌手の喉からシューベルトの有名な菩提樹がドイツ語で響き、そこから日出る国日本の仏教の僧侶の声明(しょうみょう)まで大きな弧を描いて結んだのは不可思議なことではない。

 ドイツ演奏旅行の途中、当教会のオルガン修復資金獲得のための慈善音楽会を開いたこの合唱団は1999に一橋大学のコールメルクールの旧メンバー達により創立された。レパートリーの重要な部分は日本の現代作曲家の作品である。多くの日本の民謡と共に現代日本の作曲家間宮芳生の『合唱のためのコンポジション第3番』が演奏された。この曲は日本の歌のリズムやメロディを材料に創られたものである。極東の歌の響きが当夜の聴衆の耳にはかなりエキゾチックであったとすれば、替わってVerdiの囚人の合唱、アイルランドのAmazing Graceやロシア民謡カリンカなどの欧州の歌も歌われた。

 永井宏の指揮による歌手達の声量は圧倒的なものであって、この40人の歌声に内陣の壁が震えたほどである。 ピアノのきびきびした伴奏は中野マリ、そして彼女の9歳の男の子が日本太鼓を叩いて日本民謡の演奏に雰囲気を加えた。 日本の歌手達はアンコールなしでは退場させてもらえなかった。東洋の祈祷の合唱が、それはグレゴリヤ聖歌を想起させるものだったが, Riedernのバッロク教会へのオマージュとして歌われた。 聴衆は総立ちの拍手で彼等を見送った。   Werner Steinhart
   
  写真は新聞記事のときのものです。11世紀ころ建てられた古い教会でした。

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 この演奏会のあと、F先輩は「スタンディング・オベーションを頂いたというのは大変なことだよ。」とおっしゃった。ドイツを訪れる日本の音楽団体(オーケストラ、合唱団)は少なくない。しかし西洋音楽をそれなりに上手に演奏することはあっても、日本の音楽、日本の文化を発信し、主張することはあまりないという。今回最も評価されたのは間宮芳生と柴田南雄の演奏であり、ぜひ楽譜をいただきたいと望まれたほどである。西洋音楽だけが音楽ではない。それぞれの文化の中にそれぞれ立派な音楽があることを認識したことだった。

 どの演奏会場にも日本人の姿を見かけた。浜辺の歌、早春賦など日本の歌が始まると、時には涙を浮かべて一緒に口ずさんでくれた。「懐かしかった、嬉しかった。」と手を握り締めてくださった。長く異国の地に暮らして体の奥深く眠っていた郷愁が沸き上がってきたのだろう。こちらも胸が熱くなる。

 難しい話はさておいて、旅のエピソードをひとつご披露しよう。

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 バスはハイデルベルグに向けてアウトバーンを快調に突っ走る。トイレ休憩を取ったあと、ふと見ると斜め前の席がぽっかり空いている。黒人霊歌Ride the chariotのソリスト、バリトンのT氏のいた席だ。彼の美声がAre you ready, my brother?と問うと、コーラスがOh, yes!と応じるのがこの曲の聞かせどころ。

 なんとなく胸騒ぎ。団長に「あの、Tさんは席を替えられましたか?後ろのバスにでも移られましたか?」とお伺いする。「いや、知らんねぇ。後ろに聞いてみよう。」・・・「おい、居ないそうだぞ。」これは事件だ。「そういえばトイレで後ろのほうに並んでいたがなぁ。」「買い物していたような気もする。」いろんな声が聞こえる。とにかく置いてきぼりにしたことは間違いない。さあ困った。どーする?アイフル。冗談じゃない。

 首脳陣の顔が深刻になる。ここは取って返すしかない。2台のバスは側道に入った。そこへすっとベンツが割り込んできた。これはほんとの高級車のほうだ。ドアを開けて出てきたのは笑顔のT氏ではないか。我が目を疑う。歓声に迎えられて無事戻った彼曰く。「何で俺を置いてったんねん。わしゃ必死に200メートルも追いかけたのに誰も気いつかへん。あんたら、あのときのわしの絶望感分からんやろ。」「途方に暮れとったらな、英語の分かる親切なトラックの運ちゃんがベンツの女性にドイツ語で説明してくれよって、彼女が190キロですっ飛ばして追いついてくれたんねん。美人やったぞ。」「助手席に座ろうとしたらな、後ろの席に座れ言われたんや。」こういうときには関西のアクセントは迫力が出る。

 これに対するほかのメンバーの反応がすごい。「あんたに200メートル走れるもんか。せいぜいええとこ50メートルだ。」「その顔じゃ助手席には乗せてくれんわな。」「今日は本番なしでよかったぞ。あんたがAre you ready?言うたら、みんなひっくり返って笑うてしまうで。」「明日からわしらがAre you ready, my brother?言うて、あんたがOh, no!いう風に変えよか。」多勢に無勢、気の毒なT氏はご婦人方の同情も得られず、一人憤懣やるかたなき風情であった。

 終わりよければすべてよし。腹を抱え、体をよじり、涙を流す大笑いとなった。団長の「無事帰還できたのも、これみな声明を唱え、アメージング・グレースを歌い、ミサまで歌っているわれわれの精進のおかげであろう。」との総括をいただいたところで無事ハイデルベルグに到着したことであった。

 

ミシシッピーの夏 2001年
高音部スーパーバイザー 阿部祐一

 2001年6月ミシシッピー州オクスフォード市にある子会社に出向した。タイに勤務している時に一度訪問したことはあるが、数年後にまさか自分が赴任するとは思いもせず「ひどい田舎だな。」と呆れて帰ったものだ。

 テネシー州メンフィスから南東におよそ80マイル(130km)、日本の教科書の地図には載ることもない人口2万弱の学園都市。日本人は会社の同僚2家族、大学にも教授と研究留学の人が少数いるだけ。ディープサウスと呼ばれる米国でももっとも貧しい南部諸州のひとつ。公民権運動の渦中にあって1960年代にはミシッシッピー大学に初めて黒人学生を受け入れる際に反対する白人を鎮圧すべく州兵を出動させるほどの暴動があったという。差別運動を描いたという映画「ミシシッピー・バーニング」は未だ上映禁止という土地柄だ。レストラン、床屋、買い物で私自身陰湿な東洋人に対する嫌がらせを何度か味わった。建前と本音、人種差別の根は深く広い。

 ちなみにメンフィスは、公民権運動の指導者マーチン・ルーサー。キング牧師が暗殺されたところ。先日わが国の総理大臣がプレスリーの旧居を訪ねて日本でもちょっとは知られたかもしれない。

 着任して2ヶ月同僚の日本人から誘いがあった・「ウォーターメロン・フェスティバルにいきませんか?」「ん?西瓜祭り?何があるの?」隣町のウォーターバレーまで日本人2家族にまじって出かける。青い空、入道雲、眩しい太陽の光。綿畑はまだ緑の葉を揺らせている。牧場では牛や馬がのどかに草を食む。隣町でも時速80km渋滞なしで20分以上のドライブというのがアメリカの田舎。

 まず聞こえてきたのが町の衆の歌声。特設の舞台でカントリー調、ゴスペル、ブルース次々に自慢ののどを披露してくれる。ミシシッピーはブルースの本場、プレスリーだって生まれはミシシッピーだ。どこに行っても下手の横好きがいて思わず苦笑してしまう。聴衆のノリはさすがというべきで、上手下手にかかわらず盛り上げてくれる。ゴスペルを歌う黒人の発音がこういうものかと感じ入る。

 縁日は土地の陶芸作家の作品、手作りの民芸品、フリーマーケット風の古着、骨董品が並ぶ。当然ながら御神輿もなければ金魚すくいも蛸焼きもない。ソース焼きそばなら沖縄から帰還した兵隊さんに好評だからうけるかもしれないなどと思ってしまう。はしゃぎまわってしかられる子供、可愛い女の子にちょっかいかけるアンちゃんなんかはどこも同じ。

 「ハーイ。ミスター・アーベ」と声をかけてきたのは、会社のメンテナンス担当のマーク。当地の住人。巨大なお腹をゆすりながらやってきた。こやつがいると私はやせて見える。おらが町の自慢話をひとくさり。我輩の理解力など気にしないでしゃべりまくる。「ふーん、そうかい・・・。ほぉーすごいんだ・・・。いい町なんだねぇ。」よくわからなくてもそう答えるのが礼儀というものだ。

 日本人なぞめったに来ない町だから、こっちも見物の対象だ。見渡せばあちこちに会社で見る顔が手を振って挨拶してくれる。教会前では役員が冷えた飲料水のペットボトルをサービスしてくれる。何がしかの喜捨は当然のこと。小銭がなくて高いものについたなどといっては罰があたる。

 何が西瓜祭りかと思いきや当地の畑で取れる西瓜にちなんだだけ。この西瓜もやたら大きくて水っぽく、タイの西瓜のほうがずっとおいしい。アメリカにうまいものなしだからと自らを慰める。この町は何年か前に竜巻に直撃され死者もでる大きな被害を被ったところで、マークからも生々しい体験を聞かされた。

 単身赴任の無聊を慰めてくれた初めてのアメリカのお祭り、この時期西瓜を見るとあののどかな南部の風景と、お節介で気のいい人々を思い出し、時たま味わった差別なんぞはどうでも良くなるのである。

 下の写真は別の町のお祭りを見たときのもの。次回は、ドイツへの合唱演奏旅行を書きます。




「バルトの楽園」試写会出演の記
ファーストテナー 木村禧夫

 JORDAN会で以前、男声合唱による「第九」をやろうという話がありました。日本における第九の初演が徳島県鳴門市にあった坂東捕虜収容所のドイツ兵によって行われたことから、その再演をしてみようということでした。この話はつぶれましたが、今年2月の国技館5000人の第九(および1000人の男声合唱)に出演したあと、同じ主催者(国技館すみだ第九を歌う会)から、この第九初演にちなむ東映映画「バルトの楽園」のNHKホールでのプレミア試写会で第九を歌わないか、との要請がありました。FOX森さんや取手男声合唱団の安本さんからの電話とJORDAN会会長安藤さんからメールによる案内で、私もNHKホールで歌ってみようと思い立って出演しました。

 この映画は、第1次世界大戦で、日本の捕虜となったドイツ兵と、収容所長(松平健)など日本人との交流を取り上げたものです。日英同盟で参戦した日本軍3万の青島(チンタオ)猛攻で捕虜となったドイツ兵4700名は日本各地に送還されました。そのうち環境劣悪な久留米収容所で過酷な2年間を過ごし、固く心を閉ざしたドイツ兵は、徳島の収容所に移送されてからは、地元民と捕虜の融和を図ろうとする収容所長の寛大な待遇によって、パンを焼くことも、新聞を印刷することも、ビールを飲むことも、楽器演奏することも許されました。また所員や地元民の暖かい心に接して、次第に心を開き、第一次世界大戦の敗戦国となり、意気消沈しながらも、帰国するに当たって所長や地元民にたいする語り尽くせぬ感謝の思いをこめて「歓喜の歌」を坂東の空に響かせたという物語です。ちなみに「バルト」とは髭のことで、髭の松江所長は自身の髭について「会津人としての誇りです」と語ったとのことです。

 NHKホールでの試写会は、6月8日に行われました。試写会を見に来た人達には、事前に「第九」が演奏されることなど知らされていなかったため、松平健の合図で幕があがり、オーケストラと250人の合唱団員が現れると観客から「わー」という驚きの声が あがりました。主演者たちも合唱しましたが、演奏後、松平健いわく「いやぁサンバのようには行きません。冷や汗をかきました」。所長の妻歌子役の高島礼子は「練習したんですが、楽譜がよく見えませんでした」とのこと。映画出演者は二人のほかに所員に阿部寛、久留米の収容所長役に坂東英二など。坂東英二は実際に坂東収容所での実生活経験者とのことです。

 この合唱には、FOXでもほかに山内さんなども参加されていましたが、私は、たまたま松平健など主演者のすぐそばで歌ったため、翌朝の民放モーニングショーで、ばっちり映し出され、FOXの連中に、団内メールで「画面の松平の背後に 我孫子を代表とするテナーのキムタクが第九を唱っていた」、「いや〜。私も今朝、飯を食べながら10CHのTVニュースを観ていたら松平健の隣で 堂々と歌ってらっしゃる木村さんを発見して、思わずオヨヨ! カミサンも6chで観たそうでそのうち全国からフアンレターが殺到するかもしれませんよ」などずいぶん冷やかされました。この「映画」は6月17日から全国ロードショーで、東映系の映画館で見られます。FOXやJORDAN会の皆様、映画を見て、次は、サントリーホールあたりでの「第九」に挑戦してみませんか?


渡辺直己に出会う
バリトン 多田正志

広島県呉市で開かれた大学の同窓会のついでに立ち寄った呉市海事歴史科学館(通称大和ミュージアム)で、FOX第5回定演(1999年6月)で歌った「渡辺直己短歌集」(高田三郎作曲)の渡辺直己に出会った。

 いま戦艦大和の10分の1模型などで人気のこの館には、地元呉市の歴史をたどる展示もあり、その一角に、戦争の悲惨を詠んだアララギ派歌人として知られる渡辺直己のコーナーがあった。この曲を歌った当時は、FOX入団早々で、作詞者の経歴など考える余裕もなかった時期だったので、この歌人が同じ広島県出身と知り、驚いた。

 同コーナーには、渡辺直己の経歴や遺品が展示してあった。それによると、渡辺直己は明治41年呉市生れ、広島高等師範学校を卒業した後呉市立高等女学校教員に。10歳から始めた短歌でも、昭和10年呉アララギ会に入会して活躍しているときに、召集を受けて昭和12年、中国大陸に向かい、いわゆる支那事変で転戦3年の後、昭和14年、天津付近で兵舎浸水による石灰爆発事故のため殉職。時に32歳であったという。

 この出征から転戦中の短歌のなかから12首を選んで、高田三郎が、「同じ年配でありながら召集令状も来ず、今も生き残っている私が、鎮魂の歌としたいと願って作曲した」のが「渡辺直己短歌集」である。

 同コーナーには、昭和13年、「涙ぐむ母に訣れの言述べて出で立つ朝よ青く晴たる」に始まり、転戦中の歌計20首を達筆で自ら書いた「歌の遺書」など(写真左)が陳列されており、同館の歴史の展示が軍都呉の足取りを中心としたものであるだけに、ひとしお心を打たれた。

 短歌集の最後の歌「校庭に泰山木も咲きつらん三年を遠く戦いて来し」の泰山木は尋ねることができなかったが、その前の一首「すでに三年戦い来つつ麦秋の夕べは恋し故里の山」の季節に、その「故里」の地で、大陸で散った若き歌人を偲んだ。呉港を見下ろす小高い「歴史の見える丘」には、「ほそぼそと虧(か)けたる月に対(むか)ひつつ戦は竟(つい)に寂しきものか」という歌碑もあった。

 なお、戦艦大和は、同ミュージアム売り物の10分の1模型(写真右)、「歴史の見える丘」から眺めた建造ドックでも、もうひとつぴんと来なかったが、帰りに立ち寄った江田島の旧海軍兵学校名物の2階建て赤レンガ旧生徒館の約2倍の大きさと聞いて、改めてその馬鹿でかさが実感できた。



                              アメリカ南部の思い出
                           高音部スーパーバイザー 阿部祐一 

 2001年7月から2004年2月まで米国ミシシッピー州のオクスフォードという町におりました。一番近い空港がメンフィス(テネシー州)かツペロ(ミシシッピー州、プレスリーの生まれた町)でどちらも約80マイル(およそ130KM)、運転中に携帯電話の電波が届かなくなる田舎でした。ニューヨークの同僚から「インドからかかってくる電話のほうがよっぽどクリヤーに聞こえる。」と馬鹿にされるほどでした。秋になれば綿花畑が雪野原のようになる、オールドブラックジョーの世界がありました。州の人口の50%以上が黒人、平均所得は米国のワーストファイブの常連。人件費が安いのがとりえというところでした。ミシシッピー・デルタには町の全人口が黒人というところもあります。ディープサウスといわれる地帯です。

 ディープサウスの生活は単調そのものでしたが、着任してすぐ同じ町にあるミシシッピー大学で野外コンサートがあると教えられ、胸を躍らせてその日を迎えました。オーケストラはメンフィスの隣町「ジャーマンタウン」のセミプロ、指揮者はメンフィス大学の音楽の教授、メルボルン交響楽団の足元にも及ばぬ腕でしょう。
 さて本番2時間前、とてつもない豪雨が襲来しました。ハリケーン「カトリーナ」でなくてもご当地の豪雨、夕立は、突風、雷も伴うもので、熱帯地方のスコールに負けず劣らず凄いものです。時には勢いがつくとあのトルネードに変身する暴れ者です。ついでに脱線しますと中学校で教えられたTVA(ニューディールの一環として行われたテネシー河流域の再開発計画。いまだこのTVA事務所の看板がテネシー河に沿ってあちこちに見られます。)がなぜ必要か、住んでみて納得しました。左の写真は、テネシー河の橋のたもとで撮ったものです。これでも中流です。これから下ってミシシッピー河に合流するのです。
   
 本題に戻りましょう。野外での開催はあきらめ、構内の古めかしいホールでの開催になりました。セントルイスブルースはさすがにノリが良かった。変な音も出さず、いや楽しいものでした。途中でマーチが演奏され始めると、何人か年配のおっさんが立ち上がり、周囲の聴衆が拍手を送り始めました。メドレーで次の曲になるとまた別の何人かが立ち上がりました。私の怪訝な顔を見たのか、隣に座っていた会社の同僚が教えてくれるました。立ち上がったのはみな退役軍人で、海軍、陸軍、空軍それぞれ代表的なマーチが演奏された時に起立するのだそうです。「あたしのダディはネイビーだったの。」と誇らしげに教えてくれました。改めてこの国は軍事大国なんだと思いました。

 それから2ヵ月後、ニューヨークのテロ事件が勃発しました。すべての交通手段が途絶し、メキシコに出張中だった私は1週間現地に足止めされました。120名足らずの小さな会社でしたが、黒人の青年がアフガン戦争に出征していきました。州兵の訓練に召集される人も何人かでてきました。イラク侵攻が始まったとき「阿部さん、個人的にはこの戦争はやばいと思うよ。」と言う男もおりました。ミシシッピーのようなところでテロの対象になるものがあるかと思ったら、「原子力発電所があるくらいかな。」という返事。「白い粉に気をつけなきゃね。」といえば、「こんなところにそんなもの送りつけるあほなテロリストなんぞいませんよ。」と軽くいなされる始末。残業していると野生の鹿の家族が窓から顔を覗かせます。そんなのんびりした田舎です。今ごろは家々の庭先にナシの花が満開になっていることでしょう。鯰釣りに、キャンプに家族そろって繰り出していることでしょう。

 昨年10月リタイヤの挨拶を兼ねてこの田舎町まで行ってきました。秋はフットボールシーズン、宿敵アラバマ大学との試合にキャンパスは大賑わいでした。何しろ人口1万5千、プラス学生1万5千の町に大学が所有するフットボール専用の6万人収容のスタジアムがあるのです。マーチングバンドのパフォーマンスに拍手を送り、可愛いチアガールに鼻の下を伸ばしたことでした(上の写真右をご参照あれ)。試合前日はお金持ちのOBが自家用ジェット機で大学の飛行場に降り立ちます。それも1機や2機ではありません。私はこれも大学が所有するゴルフ場でプレーしながら、この自家用機の離着陸を眺めたものです。 
  かつての同僚たちの変わらぬ「サザンホスピタリティ(南部のやさしい心遣い)」に楽しい数日を過ごしました。


                  初の定演に子規を歌う
                            ファーストテナー 足助哲郎

 私は今年シャウテイング・フォックスに入団した新人で今回がはじめての定演です。昨年11月、我孫子第九を歌う会への参加が入団の切っ掛けになりました。それまで合唱とはほとんど縁がありませんでしたが、第九で経験した合唱の感動をもっと持ちたいと思ったからです。

 入団早々発表になった定演の主演目が子規の短歌組曲と聞き、40数年前にあるサークルに参加した時手にした子規の「歌よみに与ふる書」が本棚に入れてあることを思い起こしました。当時はおざなりに読み流していたものをあらためて読んでみて候文であることを除き100数年経った今でも全く色あせない内容に「写生」を提唱した改革者としての子規の偉大さを再認識しました。その他の著作でも子規の文章は心の闊達な動きがそのまま表現されていて虚飾誇張がなく女々しさや不平不満を述べた暗さ悲壮感がないのはその思想が高潔だったいう事なのでしょう。 

 主旋律を担当するファースト・テナーには指揮の大久保先生から「小学唱歌を歌っているのではない!」「それで子規の思いが伝わると思うか!」と熱心な指導を頂きながら音符を追うのが精一杯という状態が続いているもどかしさ..。いくらかでも子規の思いに触れてみれば表現にも役立つかと思い、6月の晴れた日、南千住で下車し隅田川沿いに待乳山聖天を経て隅田公園から浅草寺、上野、根岸の子規庵へとおよそ10キロメートルのそぞろ歩きをしてみました。子規が見た100数十年前の佇まいを残しているのは待乳山と浅草寺の一角ぐらいだろうと思いながら、たどり着いた子規庵はすっかりラブホテルに囲まれてしまっていましたので、子規も草葉の陰でさぞかし驚いていることでしょう。

 子規庵には小一時間ほど過ごし往時を偲んでみました。とりわけ「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」など死去14時間前に書いた絶筆三句の碑を前にして、いささかのふるえも迷いもない闊達な書体と俳味にしばし釘付けでした。どうして子規は自分の死をこんなに客観視できるのだろうとただただ感嘆するばかりで、これぞ究極の「写生」だとの思いを強くしました。

 子規庵から日暮里への道すがら子規が好んで食べたという芋坂団子を食べてみました。子規のきついいい付けで妹律が団子を買いに走ったのはこの道だったんだろうかと思いつつ子規の旺盛な食欲を思いました。
  「間食 芋坂団子を買来らしむ(これに付悶着あり)
  あん付三本焼一本を食ふ」(仰臥漫録、明治34年9月4日の記述より)              
 子規の魂の独白に曲がつき、初めての定演で歌うことができるのは幸せですがどこまで表現でき共感していただけるか怖さも感じています。                        


                    歌の心は一つ
                               バリトン 実松靖之

 一昨年、大学の集まりに出演頂いて以来、馴染み深くなったシャウテイング フォックスに、この四月念願かなって入団を許され、やっと数ヶ月が経ったばかりの新人です。指揮者の大久保先生始め、素晴らしい皆様に囲まれて楽しい雰囲気の中、本当に久し振りにハモる喜びを感じております。

 遠い日々・・・・ 大学二年の夏、菅平での一ヶ月の合宿に参加するか、帰省するかで散々悩んだ挙句、誘惑に負けて帰省を選んだ結果、グリークラブを退団する事となったホロ苦い思い出。それでもアジア大会閉会式や東西四大学合唱祭にもその他大勢で出たつけ。滞米中、若々しいエールやハーヴァードのグリークラブ、ノーマン・ルボッフの黒人霊歌にも鳥肌の立つ程感激したつけ。

韓国では、美しい旋律の国歌や素晴らしいハーモニーのノレにも出会った。イラクでの5年、真夏は60度を越す酷暑の中、毎夕響くモスクからの少し気だるげなコーランの声。夕食後のささやかな一時、下請けのフィリピンの人達の歌の穏やかで余韻のあったこと。同じく中国の諸君の歌は、哀愁を帯びてどこか懐かしかった。

 それから、イラン・イラク戦争が始まり、我々の居たバスラは連日砲撃や空爆に晒され、覚悟を決めた折にも日本の唱歌やコーランの祈りなど決して絶える事の無かった心からの歌々。そして、満5年の帰国の日、前夜遅く迄残る人々との別れを惜しんだ翌朝、まだ夜の明けやらぬ中、宿舎を出た道に何やら人の影、やがて道の両端から苦楽を共にして来たイラクやフィリピンの友人達の別れの歌声 が静かに響いて来たのでした。アラブの古い歌「さらば友」やラテンの別れ歌「ラ・ゴロンドリーナ」・・・・万感の思いが瞼に去来して一生忘れ得ぬ思い出に今でも目頭が熱くなります。

 歌の心は、肌や言葉の違いを超えて一つであることを信じて、これからも練習に励む積りです。


                                 声音交々
                                  バス 武田 実

 長い戦争が終わって軍需工場の動員から開放され、−年ぶりに復学したのが旧制中学四年生であった。早速の音楽の試験は、何と、校歌を譜面に現せ、と言う問題で、ガリ刷りの五線紙を渡された。1時間の悪戦苦闘のすえ、見返す暇のないまま答案を提出した。

 結果は、二学期の成績に反映されたのか、成績表には何と「優」のゴム印が押してあるではないか。今まで軍歌ばかり歌ってきたにしては上出来である。

 翌年、四年で繰り上げ卒業でき、ミッション系の旧高専にはいった。ここでは賛美歌をうたわされた。わけても S教授が経済学の講義のあとに歌ったミサ曲は忘れられない。レンガ造りのチャペルに響きわたる美声には感動させられた。カルチャーショックである。

 職場では、労働運動盛んなりし時で、仲間と歌うことになった労働歌。そして、歌声運動が起こって、職場に女性指揮者を招いてコーラスグループをつくり、ロシヤ民謡などのフォークソングを合唱した。その外、詩吟を岩淵先生に、宝生流謡曲を佐野先生にお教えを受けた。さらに、小唄、端唄がある。この2つは一杯飲み屋で酒杯を傾けつつ酒場のばあさんに教わった。運のよいときには長唄のお師匠さんの三味線がついた。

 こんなことで貴重な青春時代を過ごしてしまった私だが、でも、この声音交交の人生、無駄でなかったと思っている。虚弱体質が治ったこと。そして、何よりもFOXに入団できたこと。もう入団して7年経つ。
 

最年少団員の弁
  セカンドテナー 出沼 哲 

 えー はじめまして。シャウティング・フォックス 最年少の出沼サトルと申します。公の場を借りましてのごあいさつははじめてすね。高1の若さでFOXの門をたたいてはや3年。やっとメンバーの一員として認知されてきたころでしょうか。

 皆さんが気になる点は 何故にこんな未熟者が歴史のあるFOXにいるのか、でしょうね。
 自分は思うに、やっぱり人生って経験だと思うんですよ。だから、自分自身がmake progressする機会って少ないと思うのです。それは音楽的にも人間的にもですね。自分と同年代の人がいない中で、様々なことを教わり、また伝えをしていく中で、養われるものってありそうじゃないですか? ってゆーか、ありますよ、信じてます。
 そんなことを考えてるところに、FOXという合唱団に出会ったわけです。声楽のご教授をいただいておりました大久保師匠の指導のもと、精力的に活動している合唱団という紹介をうけ(半強引に?)入団にいたったわけです。

 FOXのメンバーは、ほとんどが自分の父親くらいから祖父くらいの方々です。(さすがに曾祖父ほどの方はいらっしゃいませんが。)ですから友達のように気楽に付き合えるとは言い切れないですね。それでもよいところは、こーゆう大先輩、例えば、ケータイを持たずに恋愛をした方々、地方からから出てきて我孫子という街の活性化に貢献されている方々、仕事をリタイアされ、合唱三昧の方々・・・・と一緒に歌うことができる、一つの音楽を生み出すことができる、この喜びですね。

 この環境を与えて下さっている大久保師匠、メンバーの方々、その他全ての人に感謝×2です。そしてこれからも、よろしくお願いをしたい一念です。

 P.S それでもやっぱり若い方々の入団を求む! いや、お願いいたしまーす。


 「いつも青春 シャウティング・フォックス」
 バス 北澤 和郎

学生時代に学業そっちのけで没頭した合唱(男声・混声)であったが(未だに「膨大な卒業試験を前にして困惑する」というカフカ的夢を見る!)、その後とんとご無沙汰。しかし我孫子に越して来て6年目の1991年、『シャウティング・フォックス第1回演奏会』というド派手なポスターに遭遇した時から事態が一変した。男声合唱組曲『柳河』・『月光とピエロ』等という最早「古代文字」と言っても良いような曲名を見つけて驚愕&ニヤリ(「まだこんな古臭い事をやっている奴がいるのか?しかも男声合唱団!」)。さっそく興味本位・野次馬根性で演奏会に行った。正直な所、お世辞にも「上手い!」とは言えなかったが、その「泥臭い意気と熱気」には共感、特に演奏終了後の「ロビー・コール」での日本民謡の馬力に打たれて結局フォックスの門を叩き、23年ぶりに合唱の扉が再び開いた。

 以降、一方で神山や桐谷に「経験者にしては下手糞!」と馬鹿にされ続け、一方では8分の6拍子の解説を買って出たら、ノッケから「約分すれば4分の3拍子。どうして約分せんのか!」とのお叱りを受け度肝を抜かれるという、それまでは想像できなかった振幅の大きい経験を楽しんできた。圧巻は当時は毎週あった「堀板長」の料理を囲んでの飲み会。まるで飯場のような旧十丁目自治会館の地べた(?)で、練習終了後直ちに車座を組んでの酒宴。何たるその「荒ぶり」、そしてその談論風発の新鮮さ!まるで梁山泊の如き野性的魅力にたちまちの内に虜になった。

 こんなに楽しくて野獣的ですらあった Fox Lifeも、ご多分に漏れず、自らも含む老齢化の波に洗われ始めているが、何とか「第10回記念定期演奏会」までは漕ぎ着けたいと思う今日この頃である・・・・・・・・のであるが、さて。


青年の心

 セカンドテナー 塚本 一幸

23年目の男声合唱団というと、老後の楽しみのために寄り集まったおじさん合唱団と思われるかもしれないが、フォックスは「歌も歌える合唱団」。「も」と「が」の違いに注目して欲しい。歌だけなら誰でも歌える。カラオケ全盛時代、一億総歌手だ。我々は(入団2年目の私はさておき)戦後の復興期、経済成長期、そして今の大変な時代それぞれの仕事を通して日本に貢献し、後輩を育ててきた錚錚たるメンバーだと最近思っている。

 いろいろな業種経験者の集まり、これは強い。「今度は英語の歌だぞ」と言うと会話・翻訳の専門家がいる。「新しい歌やるぞ」と言うと楽譜を調達し、男声合唱団用に編曲、パート別の練習用テープができあがる。 「酒飲むぞ」と言うと素人離れした通称「板さん」がいる。「何かやるぞ」と言うとメーリングリストを利用、普段忙しい団員から意見が寄せられ、さらっと方向が決まってしまう。何と力強い集団だろう。

 ある日、飲み会での出来事。「我々も20数年の歴史、そろそろシャウティングフォックスも頭に“ニュウ”を付けたらどうか」と座興の中で意見がでた。その反応は如何・・・。反対意見続出。最近はリストラ全盛時代。企業は生き残るために合併し名前を変え、再出発を図る。冗談じゃない、我々は今のままで変わって行こうという意見が大勢を占めた。

 練習は毎週1回湖北の10丁目会館をお借りして行われる。練習の時は年齢の区別なく大久保先生にビシビシ鍛えられる。しかし、そこは大人の集団、先生も先輩を立てながらユーモアたっぷりに厳しい事を言っている。練習中は小学校の先生と生徒の様だ。先生が満足そうな指揮をしていると我々も心豊かになり、「いいな、フォックスもここまでできると欲が出てしまう」などと言われると胸躍り頑張ってしまう。

 我々は「青年の心」を持った向上心豊かな合唱団だ。今後も暖かく見守って欲しい。


合唱と翻訳
バリトン 川路 義文

フォックスに入団して2年がすぎました。まだ初心者ですが、合唱がすこし分かってきたような気がします。指揮者の動きや意図に合わせ、各パートのハーモニーが全体のハーモニーになり聴衆に作詞者、作曲者、編曲者の意向を伝えます。上手にまた美しい声でその意向を伝えるには日ごろの練習や指揮者の伝えたいことをよく理解することが大事だと思います。また社会生活で大事なことの1つ「和」も合唱には必要です。

 さて、私はサラリーマン生活に終止符を打ち、現在「在宅翻訳業」4年目です。商社マンとして35年間の実務経験を生かした産業翻訳(契約書など国際ビジネスに関する翻訳)をやっています。英文を和訳したり、和文を英訳したりする仕事です。納期に余裕がある場合はいいのですが、場合によっては2時間以内に納品という厳しい注文もあります。注文が重なれば徹夜の場合もあります。しかし、通勤時間5秒、自分で時間管理ができるので、ある意味ではサラリーマンより楽かもしれません。

 最近「合唱」と「翻訳」に奇妙な類似性があることに気がつきました。両方とも、作者の意向を作者に代わり読者や聴衆に伝える仕事です。翻訳は訳者により文体、言葉使いなど訳文が違います。また文法どおり訳したからといって上手な訳とはいえません。訳者の知識、人生経験、感受性などすべて血となり肉となり訳文に投入されます。

 一方、合唱でもその団の構成員により、また指導者の方針により、同じ歌曲でも他の団と違った作品になります。作曲家や作者の意図することをどのように相手に伝えるか、それはそれぞれの団の方針や訳者の人生哲学に裏付けされているといえます。作品の内容を理解し、明確な言葉でその内容を相手に正しく伝達することが大事になってきます。このために我々は日ごろの練習や研鑽をしているのです。合唱や翻訳を通じ、正しい言葉を習得することがいかに重要かいままで以上に痛感している今日このごろです。