ableが誕生するまで
《陽の誕生》
 我が家の次男、陽(よう)が生まれたのは平成12年10月、長男が2才になる直前でした。
 予定日よりだいぶ早めだった以外は、ごく普通の出産でした。私は、無事出産できた喜びで、安心してその日は眠りにつきました。しかし、翌日、産院の先生から「赤ちゃんの体温が低い」「ミルクの飲みが悪い」「活気がない」などと話があり、長男の時には感じなかった不安を感じました。退院の日、そのまま小児病院にかかることを勧められ、地域で一番信頼できそうな小児病院へ、小さくて頼りなげな陽を気づかいながら車で向かいました。

 それからひと月程、週に1回の通院をしました。毎回、診察や検査を受け、体重増加不良といくつかの問題点を指摘されました。しかし、どれも「要観察」ということで、今すぐ治療が必要なほどではありませんでした。私は、“はっきりとした悪いところは見つからないけれど、何かが違う、何なのだろう”と不安を抱きつつも、“体重さえ増えればなんとかなるのではないか”と考えていました。そして、授乳の記録をつけ、眠ってばかりで、なかなかミルクを飲まない陽に、1時間かけて3時間おきに授乳をしました。この頃の陽は、室温が下がると体温も下がってしまうので、部屋の室温、湿度の管理にとても気をつかいました。また、いつも下痢をしていたので、夜中は目覚まし時計をかけて、オムツを替えました。
 今振り返ると、当時は陽の健康管理を最優先にしていたので、2才違いの兄は寂しい思いをしたのだろうなぁ、と思います。

《障害の告知》
 私が産後1ヶ月検診に行った時、陽がダウン症である、という思いもかけない告知を受けました。先生は、なるべくさりげない日常会話のように「赤ちゃんね、ダウン症なんだ。お医者さんに診てもらいながら、ふつうに育てればいいから。」と言いました。私は突然の言葉に“ダウン症ってどんな障害?”“「ふつうに育てる」って、どうすればいいの?”と頭が真っ白になり、帰り道では涙が止まりませんでした。“「何かが違う」、の「何か」はこれだったのか、私が障害をもつ子の親になるなんて、人生には思ってもみないことが起こるのだ”と思い知らされた気がしました。
 仕事から帰ってきた主人と話し、「もう家族で心から笑うことはできない」、「これからは悲しい時は我慢しないで泣こう」と、二人で肩を寄せ合って泣きました。日頃はあまり弱いところを見せない主人が初めて見せた悲しい姿でした。

 その日から私は、インターネットでダウン症の文字を探しました。私にとっては、何もしないで立ち止まっていることが、一番の苦痛でした。“何でもいいから少しでも知りたい、陽は?、私達家族はこれからどうなるのか?”という不安でたまりませんでした。そして、ダウン症児の親の会や、日本ダウン症協会の存在を知り、入会しました。

 陽は体重が増える様子はなく、下痢のため脱水症状になり、入退院を繰り返しました。
入院先の先生より「ミルクが体に合わないのかもしれない。大豆が原料のミルクに変えてみましょう」と言われ変えたところ、ようやく下痢が止まり、体重が増えました。3,000g弱で生まれた陽が、4,000gを超えるのに4ヶ月かかりました。

《外に目を向けて》
 春になり、生後半年過ぎた陽の体調は以前より安定し、私達は月に1回、日本ダウン症協会が行っている発達相談に通いだしました。療育病院の先生に「家でお母さんと2人で過ごす時間が大切」と言われていたのですが、その頃の私には実感がなく、陽と2人で過ごすことに不安とあせりを感じていたのです。いろんな地域に母子通園というスタイルで発達に遅れをもつ子どもが通う施設があるのを知り、“私達も同じような不安や悩みを抱えているお母さんや子ども達と、もっと多くの時間を共有したい”と思うようになりました。
 しかし、あきる野市や通える範囲にそのような施設はなかったので、日本ダウン症協会での発達相談の時に相談してみました。すると「施設を作るのはお金のかかることだから、すぐには難しいだろう。とりあえず親の会を作ったらどうか。皆で集まってお茶を飲むような事から始めてみたら?」とアドバイスをいただきました。そこで私は、他のお母さんと共に、地域の保健師さんや市の窓口に相談してみました。しかし、当時は親の会の運営を自主運営ではなく、行政にしてもらいたいと思っていたので、話はなかなか進展しませんでした。

 そのうちに、“地域に住む発達に遅れをもつ他の子ども達や親はどうしているのだろうか、とりあえず地域の情報だけでも得よう”と思うようになりました。それまで、障害をもつ人を他人事のように見てきた私でしたので、陽がこれから地域でどのように大きくなり、どのような生活を送るのか、全く見当がつきませんでした。

 その頃、あきる野市社会福祉協議会で行っているディズニーランドの親子遠足に参加した際に、たまたま職員の方に前述のような話をしたところ、「障害をもった方達、あるいは親御さんの会はありますよ」と説明してもらいましたが、陽と同年齢の子ども、あるいは私と同年代の方が中心というのはなさそうでした。私はどちらかというと一緒に悩みを分かち合ったり、たまにはおしゃべりもできる『仲間』がほしかったのです。そのことをお話しすると、「作ってくれと待っているよりも自分達で作ってみたらどうですか?」と思ってもいなかった返事が返ってきて、ダウン症の娘さんをもつ、大先輩のお母さんを紹介してくださいました。

 そのお母さんは、今は成人された3人の娘さんを育てながら、これまで地域で色々と働きかけてきた方でした。連絡をすると「まずは今いる人達で会ってみましょう。小さいお子さんを持っている人達なので、子どもさんに無理がかからないように、子どもの事を一番に考えてあげてね」と言われました。日時、場所など集まるのに必要な段取り等、話は驚くほどスムーズにすすみ、私は、病院や療育で知り合ったお母さん達に声をかけてみました。

 平成14年11月12日、全部で8組の親子が集まり、初めての話し合いを持ちました。大先輩のお母さんの、子育ての中でのご苦労や嬉しかったこと、楽しかったこと、進路のお話などに耳を傾け、参加したお母さん達からはそれぞれの思いを聞くことができました。「遠慮なく何でも話し合える、何でも聞いてもらえる、そんな場所があるといいね」と言っていただき、“その思いは皆一緒なのだ”と確認し合えた、有意義な1回目の集まりになりました。そしてこの集まりを“会”にすることに、全員が賛成してくれました。 会の名前は、ダウン症と自閉症の青年がアメリカにホームステイする内容のドキュメンタリー映画「able」に感動した事から、これから育てていく発達に援助がいる子ども達の計り知れない可能性に思いを込めて「able」としました。

 こうして、あきる野市にableは誕生しました。

ようママ