みんな違ってみんないい
平成15年7月28日夜。
“ハッピーバースデー”の歌が終わり、バースデーケーキの上の3本のローソクを浩子が一息で吹き消した。家族から「浩子さんおめでとう!!」の拍手。
30年前の暑い夏の日に浩子は生まれた。今日でちょうど30歳。
元気でよくここまで育ってくれました。本当に色々な事がありました。いつもいつも浩子から学ぶことばかりでした。

「ダウン症かも知れません。」生まれて2日目、娘に障害があることを婦長さんから告げられ、主人の顔を見た途端涙があふれ出た。
浩子が生まれた当時は、生まれてすぐに新生児異常が判明することは珍しかった。4日目、医師から検査の結果、ダウン症に間違いないと診断された。ダウン症の特徴として、「寿命が20歳位であろう、感染症にかかりやすい、ダウン症を治療する方法はない、なるべく刺激を与えて下さい、それが唯一の治療方法です」と医師に説明された。動揺しないと思っていたが、我が子が健やかに育つだろうか、先の見えない不安に押しつぶされそうだった。「優しい2人のお姉ちゃんたちもいるし、大事に育てていこう。」と言う主人の言葉が力強く心にひびいた。
母乳を吸う力が弱く、風邪を引くと一週間は治るのにかかる。予防注射も医師からやんわり拒否された。生きることの一つ一つに困難が生じることが予測された。

浩子が暮らしやすい環境を地域に作りたい、浩子の成長の為ならどんなことでも可能にしていこう。2歳の時、青梅の移動図書館(現在廃止)と秋川市から600冊の本を借りて応接間で『こども文庫』を開設した。当時、浩子は文庫に訪れる子どもたちと遊び、自分の好きな本を選べるまでになっていた。
「抵抗力が弱く病気にかかりやすい」と言われた浩子だが、私はあえて、どこへでも連れて歩いた。そのほうが、浩子に病気に対する抵抗力がつくと考えたからだ。しかし、当然行く先々で好奇の視線にぶつかることになった。そんな時、私は意識して浩子と話をした。浩子がはきはきと答える様子を見て視線が和らいでいくのがわかった。「周りの人は偏見だけで見ているのではない。ダウン症のことを知らないだけなのだ。」

このように浩子を育てながら、2人の姉たちが通う幼稚園の行事にも、当然浩子を連れて参加するようにした。そこで子どもたち一人一人の持ち味を認め、それを伸ばし、のびのびと保育をしている信頼できる保母さんに出会った。その後、その先生は浩子と出会ったことがきっかけになって、障害児を受け入れられる保育園を作ろうと決意されたことを打ち明けて下さった。
私はこのお話に、出来る限りの応援をさせてもらいたいと、保育園建設の為の署名を地域の人たちに呼びかけ、秋川市(現、あきる野市)に陳情し、その願いが叶って、2年後、保育園が建ち、そこへ浩子と他に2名の障害児が入園した。秋川市で最初に障害児保育を受入れる保育園が完成したのです。先生の情熱に多くの人々が動かされたのです。夢のようでした。

園長となった先生は、浩子の保育に給食の介助や運動訓練の面で手間を必要とすることを、園児たちに説明して下さり、浩子は時間はかかるが少しずつ着実に成長していきました。お遊戯会や運動会を通して、その様子を保護者の方は勿論園児たちも温かく見守って下さった。園長をはじめ保母さん達や給食の先生方の、気が遠くなるようなかかわりの中で育てていただいた2年間が、あとの生活の基盤になっていると確信しています。

小学校は草花小学校の障害児学級、中学校は東中学校の障害児学級に通い、主に体力作りを中心とした生活の中で個性に合った授業の取り組みがおこなわれました。音楽、料理、美術、琴の練習、畑仕事、など。中学校からは社会性を育てること、集団生活の規則を守ること、目的を達成することに重点がおかれ、障害を持つ子どもたちにとって、厳しいことも出てきました。
中学生活で浩子は、何よりもまず自主登校出来るように取り組みました。
高校は羽村養護高等部に通い、福生駅から羽村駅まで一駅ですがバスと電車の通学訓諌に取り組みました。数ヵ月間浩子と一緒に登校し、繰り返し道順を教えました。
いよいよ一人で登校する日。私はホ一ムの少し離れた柱の陰から娘を見守りました。「乗るかしら?」娘の目の前でドアが開いたのに乗ろうとしない。次の電車は車両が短く、気づいて走ったが間に合わなかった。3回目でやっと乗れた。私も慌てて隣の車両に飛び乗った。ドアの傍に立って外を見ている。駅に着きドアが開いた。
降りるだろうか、小さな体だから押されて転びませんように。「降りた!」急いで隣のドアから私も降りた。「やったー、一人で出来た!」追いかけて誉めてやりたかったが、人混みに紛れて先に改札を出て浩子を迎えた。
「浩子、ここよ。」と手を振ると安心したように笑顔で近寄ってくる娘を抱きしめ、「浩子一人で来たの?」「うん。」と自信に満ちた顔。
失敗を重ね成長していく娘がいとおしかった。
ある日、学校の帰り、近くのプールの自転車置場から子ども用の自転車に乗って羽村駅まですっ飛ばし、駅前の銀行の駐輪場へ自転車を隠して、すまして帰ってきた。
「あれ、浩子じゃないか?」と思って振り返ったらもう姿が見えなかった。と、出張から帰った先生からの目撃の報告が入った。
後日、担任の先生と一緒に浩子を連れて自転車の持ち主にお詫びに行ったこともありました。
また、学校のそばのバス停から羽村駅までタダ乗りをしたこともありました。学校から駅まで50分も歩くのは私でも嫌になったかも知れません。

高等部では浩子が好きな事と出会いました。刺し子(木綿の生地に描かれた模様の通りに細かく差し縫いするもの)です。

現在、浩子はあきる野市の福祉作業所にバスで通っています。 バスでの通所も羽村養護へ通学した事が大いに役立つことになりました。
作業所での仕事は、草木染め、畑仕事、アルミ缶・牛乳パックの回収、市の高齢者サービスの配食ボランティア、などです。学習として、絵画教室、音楽教室、スポーツ教室、市内の小学校との交流、買い物学習などがあります。

帰宅途中浩子は、家からすぐの商店の公衆電話に立ち寄り、「もしもし浩子です。今、お店の前。これから帰ります。チャオ。」と必ず自宅に電話をしてきます。自転車、買い物、アイロンかけ、刺し子、・・・すべて浩子が地道な努力の末に習得したものです。

障害のあるなしに関わらず、こどもにとって一番大切な事は、根気よく子どものもつ可能性を探し、引き出す努力を諦めずに続けていくことだと思っています。
『わたしと小鳥とすずと』

わたしが両手をひろげても
、 お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
じべた地面をはやく走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

これは私が好きな金子みすずさんの詩です。

『浩子さんのお母さんより』