「国立銀行」
〜東京三菱銀行と横浜正金銀行〜


1 取り上げた理由
 東京三菱銀行は我が家のメインバンクであり、個人的にも財布のように頻繁に利用している一番身近な銀行であったため今回取り上げることにした。

2 設立者・株主
 中村道太ら22人。

3 設立目的
 横浜は、安政5年(1858)の日米修好通商条約の締結により、翌6年(1859)に開港した。横浜は居留地として外国商人らが溢れる町となった。当時は、輸出品として生糸・茶、輸入は綿織物、毛織物が主であり、取引は、日本の商人と外国商人との間で行われていた。そのため、外国商人との取引の不便さや紙幣と正貨の差価に悩まされたことから、正金(現金)による堅実な金融と取引の円滑化、さらに貿易の増進と促すために、福沢諭吉と大隅重信大蔵卿の力添えにより、横浜正金銀行は国立銀行条例に準拠し、中村道太を初代頭取として明治13年(1880)2月28日に開業した。
 また、丸善商社(現、丸善)など諸企業も創立にも参画した。なお、丸善商社の前身、丸屋商社は福沢諭吉が早矢仕有的にすすめられ、明治2年1月に創立されたものである。丸屋商社は、わが国で初めて元金社中(株主)と、働社中(社員)で構成した会社組織を採用した企業である。
 横浜正金銀行の組織作りは開国後日本で営業活動を開始した最初の外資系銀行の1つである香港上海銀行(HSBC)を規範としたと言われている。当初、日本における外資系銀行は、拡大しつつあった日本の対外貿易に資金面で協力しており、対外貿易額は1860年代から20世紀初期までは10年ごとに倍増した。HSBCの支店は、横浜に続き、神戸(1869年)と大阪(1872年)、長崎(1896年)、そして東京(1924年)にも開設された。貿易金融に加えて、HSBCは大阪造幣局で大規模な金銀通貨造幣にも協力し、日本企業に資金融資を行った。中でも1880年には、「大切な顧客」であった三菱財閥の創始者に融資を行った。また、三菱は、1912年からHSBCが東京に支店を開設する1924年までの間、東京での同行の代理人としての役割も担っていた。

4 経営状態
(1)初期経営状況
 横浜正金銀行の初期の資本金は300万円であったが、政府は300万円のうち100万円を「御差加金」として銀貨で出資した。民間側からは銀貨40万円、紙幣160万円が資本金として出資された。また明治13年(1880)年10月、政府は直輸出奨励のための輸出前貸資金である「御用外国為替」300万円を貸下するなど手厚い保護を与えた。しかし、16年、インフレによる銀と紙幣の差の拡大により同行は107万円余の損出を計上した。また一部株主の不満が噴出し、同行の日銀への業務譲渡もしくは閉店案まで出された。これに対し政府は一部の株を買収して行内統一をはかるとともい、翌年には外国公債元利払事務などを委託して一層の保護を加え正金の危機を救済した。
 20年3月30日、株主臨時総会の決議により、資本金300万円を増加し、600万円とする。そして同年7月6日、勅令第29号をもって横浜正金銀行条例を公布され、常に政府の保護監督を受け政府は管理官を派遣して、本行諸般の営業及び事務を監視される特殊銀行に格上げされた。同条例は、正金が政府御用の海外特殊銀行であることを明示するとともに、同行が専門的に外国貿易関係業務をおこなう銀行であることを規定した。22年、御用外国荷為替の取扱が満期となり、日銀との間で外国為替手形割引資金として1000万円まで使用可能な契約を締結した。これにより為替リスクが政府負担であったものが同年以降は正金の自己負担となった。そのため正金は2年間に渡り損出を生じたが、以降の経営は順調に推移することになる。

(2)居留地外商と売込商との関係における横浜正金銀行の役割
@明治10年代
 貿易の発展にともなって、横浜には輸出品を外商に売り込む売込商と、輸入品を買い取る引き取り商といわれる商人が形成された。初期の横浜貿易を牛耳っていたのは居留地外商であった。文久3年(1859年)当時、ジャーディン=マセソン商会の横浜店はイギリス3人、中国人買弁5人、日本人19人、中国人”ティー・マン”5人、ほかに門番や給仕ら18人、合計50人にも達する人員を擁していた。同商会は、日本商人への前貸しによる産地買付けや売込問屋への生糸を担保にした貸付け、茶の再生・加工をおこない、欧米へ生糸・茶を輸出していた。しかし、大商人による日本貿易独占は欧米の金融機関が横浜に支店を設け、運輸通信手段が整備されると次第に揺らぎ、中小の外商が進出し、横浜に店舗をもつ外国商社の数は激増した。明治9年(1876)にはイギリス54社・フランス36社を中心に合計158社に及び、居留地に住む外国人も15年には692戸・3512人に達した。
 外国商人は欧米金融機関の豊富な資金と治外法権・協定関税に守られて横浜貿易では圧倒的な力をふるった。売込商は弱体な資金を補強するために政府の対策に対応して横浜為替会社、第二国立銀行を組織し、あるいは横浜正金銀行に結集して外商の豊富な資力に対抗し、また地方荷主に対する金融的支配力を強化していった。外商の"拝見"(品質検査)や"看貫"(量目検査)料撤収などの不正取引の強制に対しては、売込商や地方荷主は明治14年(1881)に生糸荷預所を設置して商権を回復しようをした。かれらの波乱に満ちた、精気あふれる活動が開港場横浜の発展を、そしてまた生糸輸出の発展をもたらしたのであった。

A明治20年代
 貿易の形態は、明治20年代中ごろまで貿易額の8割から9割近くまでを居留地貿易が占めていたが、20年代の後半から外商を通さない直貿易が発展しはじめ、33年には横浜港湯主知のうち23%、輸入のうち29%が直貿易となり、42年にはそれぞれ42%、45%まで上昇した。横浜の直貿易を担ったのは三井物産や生糸合名会社・大倉組・原輸出店など東京や横浜に本社をおく有力な商社であった。輸出入、また産地から横浜港へ、横浜港から消費地へと向かう商品の輸送と金融のために、多くの銀行や倉庫・運輸会社が設立された。
 明治12年に外国為替専門銀行として設立された横浜正金銀行は、20年の横浜正金銀行条例によってその性格をいっそう明瞭にし、第2銀行や横浜七十四銀行は大売込商の原商店や茂木商店の機関銀行としての性格を強めた。また中小の銀行もつぎつぎに創立され、36年には市内に本店を置く銀行が26行を超えた。

(3)貿易金融と国際金融の展開
 横浜正金銀行の初期貿易金融は、日本商人への融資や国内前貸金融が中心であった。しかし16年の経営危機以降、その中心は外国為替金融となった。このため正金の貿易為替の取組比率は13年には合計で1%にも満たなかったが、20年には輸出為替40%、輸入為替6%、合計で25%を占め、金額では13年の約40倍に相当する2391万円にまで達した。正金の貿易為替取組比率は以降も順調に推移し、44年には輸出入両為替とも45%を占め、金額では4億3259万円を記録するまでにいたった。
 国際金融では、正金は日清戦争の賠償金受け取りと送金において中核として活躍した。また30年の金本位制確立によって同行の国際的地位が上昇したことをうけ、ロンドンの各銀行とコルレスを締結し国際金融のの中心に信用網を形成し、32年には外国為替銀行3行とシンジケートを組み、日本外債1000万ポンドの発行を成功させた。正金はこれ以降、日露戦争をはさみ40年までに総額1億4000万ポンドの外債発行を成功させている。正金はまた旧満州地方にも進出し、日露戦争を契機として店舗を拡大、35年には天津支店において初めて一覧手形(=銀行券)を発行している。
 なお、明治末期の横浜正金銀行は、払い込み資本3000万円、貸出額1億1659万円、預金額1億4122万円、ロンドン、ニューヨーク、リヨン支店など海外25支店を含む30店舗を有する世界有数の外国為替銀行に成長していた。1920年には海外支店30、資本金1億円で、香港上海銀行・チャータード銀行とならぶ為替銀行と称されるようになる。

(4)満州での経営
 1899年に横浜正金銀行は営口支店を開設したが、業務不振に陥る。1904年大連出張所を開設し、奉天、長春、ハルピンなどに出店する。その目的は、鈔票発行で満州の中国人社会全般に日系通貨を流通させることと、銀円のよる幣制を統一させることであった。しかし、それは実現しなかった。その理由は、官銀号をはじめとする中国系の金融機関の勢力拡大と日本側の各金融機関が関東都督府の収支、日本軍人の俸給、満鉄料金を金建てに変更したことと、銀と金の相場変動を嫌ったため。1917年5月、閣議決定で東洋拓殖(拓殖金融機関として)に移管される。1918年、日本の国庫事務が朝鮮銀行に移管され、各支店は朝鮮銀行に譲渡した。正金銀行全体の為替ポジションを調整する目的で鈔票発行額を変動させる操作を行った。このような大連の金融情勢を軽視した正金銀行の鈔票発行姿勢に対して、満州特産物輸出商の間で不満が広がっていた。

(5)戦後の復興
 復興という言葉につれて、終戦後、立ち上がった人々は、本当に無からの出直しと云う形で働き出した。しかし、日本橋一帯の町々は、やはり江戸から明治・大正と東京の商業地の中心であったので、何とか持ちこたえ、戦後につながって見事に復興を遂げた。昭和55年に出版された『中央区三十年史』の上巻には「現在の本石町一丁目は幹線三三号線が町を縦走し、南部を東洋経済新報社新社屋と東京銀行ビルが占め、北部は東京銀行本社ビルの巨大な近代的ビルが占めている。」と述べている。戦前の特殊銀行は閉鎖機関に指定されたが、横浜正金銀行は昭和21年10月新銀行設立の改組案がGHQによって承認されるに至り、大蔵大臣の免許を得て、資本金5千万円の株式会社東京銀行として発足することになった。昭和29年になって、外国為替銀行法が制定されると、外国為替銀行に改組、八月に外国為替専門銀行となり、従来、外国銀行だけに限られていた政府保有外貨の預託銀行に指定され、外貨金融、外国為替取引の分野で外国銀行と肩をならべる地位に発展した。

5 合併の経緯
 年表参照。

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