あまり知られることがなかった史実を求めて・・・
イギリスとフランスの間で100年以上も断続的に続いた百年戦争(1339〜1453年)も、 ジャンヌ・ダルクと言う名の少女の出現により終結した。彼女の強みは信仰心ではなく、従来の戦法やしがらみに囚われなかったことだった。 当時の新兵器であった大砲による砲撃でイギリス軍を打ち破っていく。
剣も格闘技も軍事さえも素人だったが、問答や行動力、大局的な見方に優れていた。 これがあったからこそ、シャルル王太子をはじめとする人々の信用を得、 部隊を率いることができたのだ。常に最前線で行動し、軍の士気を高めた。 当時のフランス軍は士気が大きく低下していたのだが、軍紀を粛正したこともあり、 士気が大きく向上した。
しかし、ランスで戴冠式をあげてフランス国王(シャルル7世)となったシャルルは ジャンヌ・ダルクの存在に危機感をおぼえ、与えていた軍を引き上げてしまう。 自己資金で軍を雇ってフランス解放に向けて戦いを続けたジャンヌ・ダルクであったが、 最後にはイギリス軍の捕虜となった。1431年5月、宗教裁判によって魔女と判定され、 火あぶりの刑に処せられた。
シャルル7世によって復権の裁判が開かれ、正式に復権したのは1456年のことだった。
- 参考:「こんな作戦誰が考えた?」 P.30
- 夢文庫
- 歴史の謎を探る会編
- その他参考
中世の騎士は忠誠や武勇を尊び、その倫理を騎士道として重んじた。 しかし、それ以上に女性に対して憧れ、奉仕する事を重視した。憧れの対象となったのは、身分の高い貴族の夫人である。 騎士達は精神的に対象の女性を敬い、奉仕する事を理念とした。 しかし、それで済まずに肉体的な関係に進む事も珍しくなかった。 また、貴婦人の中にも、性的に貪欲な女性も少なくなかった。 時には貞淑な女性を堕落させた騎士の話も残されている。
評判の貴婦人の心を射止め、 ベッドに誘いこむ事に成功した騎士は自慢しあったが、 それは狩りで大きな獲物を得た時のようであった。
騎士達のモラルはかわっており、妻は自分に従順に使える女だが、 恋人は男の夢と考え、恋人を女主人と呼んだ。 しかも、恋人とされた貴婦人達も寝室の中だけでなく、 森の木に寄り掛かったり、庭のベンチに座りながらでも快楽を求めたと言う。
- 参考:「世界史・おもしろすぎる性の話」 P.202
- にちぶん文庫
- 中江克己著
9世紀、男装した女性の法王がいた。ジョバンニ8世という。本名をジョバンナといい、早くから修道女となった。 しかし、恋心を抱いて駆け落ちし、男装して各地を転々と移ることになる。 ジョバンニと言うのは、男装していた時の名前である。 ほっそりとした体つきで、髪を切れば男のように見えた。
ジョバンナは学問に励んだことから、博識ぶりが評判となった。 この博識ぶりで法王の心をつかみ、神学教授となるほどであった。 やがて、学院の学生達が熱心に運動した事もあって法王となる。 それまでずっと女であることを隠していた。
しかし、性の誘惑には勝てず、若い侍従と関係を持つようになる。 やがて妊娠し、あろうことかミサの最中に僧衣の下から赤ん坊を 産んでしまった。
カトリック界としては、不名誉極まる大事件である。 このため、公式記録からは抹殺され、伝説上の人物とされたと言われる。 その後のジョバンナと赤ん坊の行方は諸説あるがはっきりしない。
「愛の年代記」(塩野七生 著)の最終章に「女法王ジョヴァンナ」が登場する。 その他、小説「女教皇ヨハンナ」(ドナ・W・クロス著、阪田由美子訳)もある。
- 参考:「世界史・おもしろすぎる性の話」 P.205
- にちぶん文庫
- 中江克己著
中世欧州での異端弾圧の標的となったのは、ユダヤ教やイスラム教ではない。 キリスト教の中の宗派間の争いだった。 キリスト教の中での解釈の違い(三位一体を認めるか、など)から異端弾圧が起った。
14〜15世紀まではロンドンやパリ市内は舗装もされておらず、 粗末な木造家屋ばかりだった。その他の都市や都市間の道路はもっと悲惨だった。雨水が道にたまって池となり、旅行者が溺れ死ぬこともあった。 当時の旅行は命懸けだったのだ。
中世は「入浴しなかった千年」とも呼ばれる。 裸は罪との教会の指示によるものである。上下水道やゴミ処理が進んでいない中世の都市や宮殿は悪臭が漂い、 貴族や王族は香水が必須だった。
イギリスではじめて石鹸が作られたのが1641年。 既に宗教的制約は緩んでいたが、課税が重く、産業的な発展は遅かった。
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」 P.190
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
ギリシャ火薬の成分や製法は謎のままである。 だが、これがなければ7〜9世紀のイスラム教徒の侵攻から コンスタンチノープルを守ることは難しかったろう。そして、ピザンチン帝国(東ローマ帝国)が敗れていれば、 東欧などヨーロッパの多くはイスラム帝国の支配下になったはずである。
記録によれば、ギリシャ火薬は水によって燃料力が高まり、 海上戦闘で大いに役立った。
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」 P.284
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
エルサレムを陥落させた十字軍兵士達は神に感謝しつつ、 略奪行為と殺戮を続けた。異教徒は隣人とは思わなかったらしい。そもそもエルサレム巡礼者の保護の為に十字軍が出兵したわけだが、 巡礼者が迫害されていたわけではなかった。
ノストラダムスは昔から予言者として有名だった。 そのため、ノストラダムス著と伝えられる「諸世紀」は、 当時の権力者の都合が良いように、何度も追記されている。 それだけでなく、読み間違いがかなり含まれていることがわかっている。占星術を元にノストラダムスが正確な予言をしたとも伝えられるが、 それはありえない。なぜなら、数少ないがノストラダムスが残した ホロスコープがあり、このホロスコープを見ると、 どれも月と水星の位置が間違っている。
諸世紀に対しては「これは遺跡を見て古代への思いをはせた詩集」 だとする説もある。
ノストラダムスは当時としては広く欧州を歩きまわっており、 偉大な旅行家だと言える。 ノストラダムスを予言者ではなく、偉大な旅行家と見た方が、 正しい理解なのではないだろうか? 医者としても優秀だったが、 これは幅広い旅行を通して得た知識によるものであった。
- 参考:TBSテレビ「神々のいたずら」
- その他参考
1745年、オルフィレウス(本名ヨハン・エルネスト・エリアス・ベスラー) は65歳の生涯を閉じ、自動輪も彼と共に消えた。オルフィレウスはかなり才能ある人だったらしく機械・医学・絵画を学んだ。 時計職人をしていたと記録にある。
1712年、はじめて自動輪とも言われる永久機関(と称する)を展示した。 はじめは直径90cm、厚さ10cm。後にもっと大型の物を作成した。 この自動輪は軽く押すと回転をはじめ、やがて一定の回転速度に達し、 数kgの物を持ち上げる仕事をしたと言う。
1716年、カール大公のもとで最大の自動輪を作成する。直径3.6m、厚さ35cm。 大きさの割に軽かったと言う。多くの者が自動輪を調査したがインチキらしき ものを発見できなかった。 錠前をかけた部屋に3ヶ月間密封したが動き続けていたと言う。
オルフィレウス自身が作成したと説明書が残されている。 「勝利のオルフィレウス永久運動機関」(1719年)がそれだ。 これによると非平行型車輪という力学的な永久機関と説明されているが、 このタイプの永久機関が永久機関となりえないことは当時の科学者にはわかっていた。
自動輪が永久機関でないことは間違いないだろう。 ただ、ばね仕掛けなどで3ヶ月間動かし続けるのは難しい。 そのカラクリは永遠の謎だろう。
- 参考:「世界不思議百科」 P.60〜
- 青土社発行
- コリン・ウィルソン著
14世紀には、ポーランドは強国だった。 17世紀のオスマントルコによるウィーン包囲時にも、 まとまった援軍を期待できたのはポーランド王国だけだった。しかし、後に国力が衰えドイツやロシアからの侵略を受けるようになった。
- 参考:「遊牧民族の知恵」
- 講談社現代新書
- 大島直政著
- その他参考
地球は丸いとする説は当時既に知られていた。 問題だったのは地球の大きさであり、コロンブスは小さめの説を信じていた。コロンブスはアメリカ大陸には上陸していない。 今日に東インド諸島と呼ばれる所を、当時の欧州人としては初めて発見した。 死ぬまで自分が発見した土地をインドの一部と考え、 東インド諸島とインディアンなどの名前を後世に残した。 また、タバコと梅毒はコロンブスの船団が欧州に持ち帰ったものである。
「コロンブスの卵」という言葉があるが、これはコロンブスと関係ない。 後世の人が作った話である。
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」 P.235
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
- その他参考
イギリスのエリザベス一世(在位1558〜1603年)の後年は白粉の厚化粧で有名だった。 その厚さは半インチ(約1.3cm)もあったと言う。 1桁間違っているとしても、厚すぎる。かつては洋の東西を問わず、高価な白粉は鉛白だった。 鉛白は古代から20世紀に入るまで使われてきたが、 鉛は有毒であり、長く使用していると皮膚を痛めてしまう。 鉛白で痛んだ皮膚を隠すためにますます厚化粧するようになってしまったのだろうか?
(2003.07 追加)
- 参考:「化粧せずに生きられない人間の歴史」 P.89
- 講談社現代新書
- 石田かおり著
- その他参考
エリザベス一世は当時の欧州でファッションリーダーであり、 新たな流行として広めたものの一つに赤毛がある。イエス・キリストを密告したユダが赤毛だったと言い伝えられたために、 それまでの欧州では赤毛は嫌われていた。 ところが、エリザベス一世によってイギリスで赤毛が流行し、 脱毛する人すらいた。
(2003.07 追加)
- 参考:「化粧せずに生きられない人間の歴史」 P.90
- 講談社現代新書
- 石田かおり著
- その他参考
歴代スコットランド王は、 『運命の石』(Stone of Destiny)と呼ばれる大きな石に腰を掛けて戴冠する慣例があった。 その石は、スコット族の先祖がアイルランドから持ってきた縁起のよい夢見石と言われてきた。844年頃、スコット王ケネス・マカルピンはピクト人の国を併合して統一国家アルバンを建設した。 ピクト人の国を併合したケネス・マカルピンは、 それまでのスコット人の首都オウバンから、 ピクト人の宮廷があったスクーンに遷都した。 846年、『運命の石』は新首都スクーンに移され、『スクーンの石』とも呼ばれるようになった。 11世紀の初頃にはスコットランド(スコット人の国)の呼び名が登場する。
1296年、『運命の石』はスコットランドに遠征してきたイングランド王エドワード1世に持ち去られ、 以後はイングランド王の戴冠の椅子にはめ込まれることになった。 つまり、その椅子で戴冠した者は、イングランドとスコットランド双方の 王位を兼ねることになったのである。
1996年7月になって、700年ぶりに『運命の石』はスコットランドへ返却された。 ただし、国王が戴冠する時はロンドンへ運ぶという条件が付いている。
(2005.08 追加)
1533年、メディチ家のカトリーヌ・ド・メディチがフランスのアンリ2世に嫁いだ。 料理にうるさかった彼女は料理人をたくさん連れていたこともあり、 多くの食文化がイタリアからフランスへ入った。 当時、イタリアは屈指の文明国であり、フランスはド田舎だったのだ。フランス料理に必要な多くのもの、フォークもこのときにフランスへ入った。 それまでは手掴みで食べていたのだ。
17世紀のフランスの宮廷料理人ヴァテール、 一般の人の間での知名度はそれほどでもないが、 シェフの間ではよく語られる人物である。 ホイップクリームやホワイトソースの考案者であり、 ヴァテールの名前がついた料理が幾つも存在する。また、「メーン料理用の魚が調達できなかったために自決した」 誇り高き信念の人としてフランスの論理の教科書にも登場する。
ヴァテールはコンデ大公に仕えていた。 コンデ大公はルイ14世にかつて謀反したが、王の信頼を取り戻すための大勝負に挑む。 1671年4月、王を招いて3日3晩の大饗宴を開いたのだ。招待者の数は3千人、 総費用は20世紀末の日本円換算で三兆五千億円あまりと伝えられる。
オレンジが出されたが、 当時のヨーロッパにあったオレンジはバスコ・ダ・ガマが持ち帰った3株しかなかった。 また、ドーバー産の舌平目の料理が出されたが、 当時の流通手段を考えると、急ぎの馬車でも9時間以上を要したと思われる。
料理だけでなく、ゴンドラを使った大掛かりなオペラ、 4千発の花火などの余興もすべてヴァテールに任された。 幹事長、サービスマンの総責任者として主人の死活を左右する立場にあったのだ。
ヴァテールの自決後、 パリのホテル・リッツでは魚料理の欄に卵料理を載せるようになったと言う。 そして20世紀末、映画「宮廷料理人ヴァテール」が作製され、 これは2000年カンヌ国際映画祭オープニング作品となった。
1732年1月26日、トルコと戦っていたオーストリア軍は吸血鬼の報告を送っている。 一度死んだ男が吸血鬼となって墓から出て人を殺したと言うのだ。 その男の墓を開けて心臓に杭を打ったところ、男は悲鳴をあげ、 やっと死んだと言う。一度死んだ者が墓から出ると言う点など、 この報告は現在に至る吸血鬼伝説と共通点が多い。
吸血鬼伝説はペスト流行が作り出したものと考えられる。 吸血鬼に襲われた者が吸血鬼となる点など、これは伝染病を思わせる。 ペストで死んだ者はすぐに埋葬されたが、 よく確認されずに埋葬されることもあり、死ぬ前に埋葬されてしまった可能性も高い。 そのような者が墓から脱出した場合、蘇ったと誤解されたこともあったのではないだろうか?
- 参考:テレビ朝日「たけしの万物創世記」
- 2000.5.2放映 20:00〜21:00
フランス革命時代を舞台に男装の麗人オスカルが活躍する「ベルサイユのばら」 (池田理代子原作)。これのモデルを思わせるような人物が実在した。シュバリエ・ド・エオンは18世紀末のフランス宮廷を舞台に活躍した人物だが、 女装して女性として活躍することもあった。 男性か女性だったか正確には不明と言うべきだろう。 フランスの人名辞典には男性の部と女性の部の両方にエオンの名前がある。
ルイ15世はロシア宮廷のエカテリーナ女皇へエオンを派遣する。 女性としてロシア宮廷に出入りしたエオンは、 その美しさでロシア貴族達を虜にした。 エカテリーナ女皇にも大変かわいがられ、 女王のプライベートなつきあいもしたらしい。 寝室にも誘われたと言うのだが、何があったのかエオンの回顧録には詳細が記述されていない。 ともかく、エオンの活躍もあって7年戦争においてロシアは親フランス的態度を決定する。
当時の宮廷政治において、 ハンサムな男性を使節や大使として派遣し、相手国の女王を色仕掛けで虜にするという手段はありがちであった。それでもエオンは特別な例だろう。
エオンは騎士に相当する位を持っていた。 7年戦争には男性として戦場に出て、竜騎兵部隊の隊長として功をたてた。 戦後、エオンは大使秘書としてロシアを訪れるが、その時は男性として振舞った。
エオンは、ルイ15世と肉体関係を持つ同性愛者であったとする説もある。 確かに恋文のような往復書簡が残されているが、エオンは妻を持っている。 ただ、他人にはその妻を妹として紹介しているのだが?
1763年のパリ条約をお膳立てした後、女性としてイギリスへ渡り、 女性として帰国した。その後のフランスでは女性として過ごしていた。
寵愛を受けていたルイ15世が亡くなると、エオンの出番は失われていた。 フランス革命前夜、エオンは男性として戦場へ出ようとするが、 フランス貴族達の冷ややかな反応に落胆して、イギリスへ亡命する。 その後、回顧録などを書きながら貧窮のうちに死を迎えた。
- 参考:「トンデモ一行知識の逆襲」 P.93
- 大和書房
- 唐沢俊一著
ジャガイモは南米から欧州に伝えられ、多くの人を飢饉から救った。 ところが、そのジャガイモが病気におかされ、多くの人が餓死したことがある。1845年6月、イングランドでジャガイモの疫病が発生する。 1846年にはアイルランドでジャガイモが壊滅してしまう。 100万人以上の餓死者を出し、100万人以上がイングランドやアメリカへと渡った。 アメリカへの移民の中に、ケネディ一家の先祖の姿もあった。
- 参考:「毒の話」 P.6
- 中央公論社
- 山崎幹夫著
スペインによる激しい宗教弾圧、過酷な税金取り立てに対する反発から オランダ独立戦争(1568〜1648)がはじまる。 オランダ側の中心となったのがゴイセン党であり、 農村部の中小貴族の団体だった。しかし兵力に勝るスペイン軍に圧倒され、ゴイセン党は窮地に陥る。 そのゴイセン党の最後の手段が、国土を水没させる方法だった。 干拓で作り上げ、堤防で守る国土をである。 堤防を決壊させてスペイン軍を水攻めにした。
さらにゴイセン党は海上封鎖を行い、 当時世界最大の商業都市であったアントワープは経済が壊滅状態となる。 ついにスペイン軍を撤退させ、オランダの独立を手にした。
ゴイセン党の抵抗運動は世界で最初の市民革命運動となった。 独立戦争の中で様々な社会改革を進めたオランダは独立達成後、世界の強国となる。
- 参考:「こんな作戦誰が考えた?」 P.85
- 夢文庫
- 歴史の謎を探る会編
- その他参考
17世紀、オランダのアムステルダムは経済の中心地として栄えた。 そのときにチューリップの球根が高値で取り引きされるようになった。 時には、芽をこれから出すチューリップ畑が取り引きされたこともあった (先物取引!?)。 しかしバブルはいつかはじける。1637年、チューリップの値が下がり、 オランダ経済は大打撃を受けた。
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
- 参考:「聞いてビックリ!値段はいくら?」 P.188
- 夢文庫
- びっくりデータ情報部著
17〜18世紀のアメリカは完全なる男女平等だった。 同一の賃金。ただし、仕事も同様に行われた。
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」 P.161
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
18世紀のベニスは今から見れば乱れた社会だった。 夜も昼もギャンブルがなされた。 ある神父は、ルーレットで身ぐるみはがされ、裸で修道院に帰った。 貴婦人は、愛人を兼ねた召使いを持たないと恥とされた。
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」 P.117
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
ハワイ諸島併合の時、プロテスタントの伝道師達が騒ぎをあおった。 中国では、カトリック宣教師達のために義和団事件(1900年)で軍隊が出動した。キューバではスペイン支配に反抗するプロテスタント伝道師達が 米西戦争の原因を作った。スペインはカトリック教の国だったから。
アジア諸国へキリスト教布教を行っていた宣教師達の最大のスポンサーは、 スペインやポルトガルの王室だった。 スペインやポルトガルの王室は植民地獲得を目指しており、宣教師達がそれを知らないわけがない。 日本へのキリスト教布教も植民地化の布石の1つだった。 イエスズ会の日本における中心人物だったペドロ・デ・ラ・クルスは、 長崎から総会長に次のような書簡を送っている。
「日本は海軍力が弱く、兵器も不足している。九州、四国を奪い取ることは容易」
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」 P.163
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
- その他参考
教会にはパイプオルガンがある。 ところが、1818年にクリスマスイブを控えていた、 オーストリア西部の山間部の町にあった教会でパイプオルガンが壊れてしまった (壊れた理由には洪水説とネズミ説がある)。ミサの準備をしていた司祭は困り、オルガン演奏を担当するはずだった小学校校長と相談する。 そして、オルガン抜きにコーラスだけでミサをすることにした。 そのために司祭が作詞、校長先生が曲をつけて出来たのが「きよしこの夜」だった。
オルガンが壊れていなければ、この曲が出来ることはなかっただろう。
- 参考:「やっぱり裏があったのか!!」 P.238
- 株式会社青春出版社発行
- 珍雑学博士協会著
バチカン市国の衛兵はスイス人傭兵である。これはかつての名残である。独立したばかりのスイスの輸出品は傭兵だった。 山国で農業も鉱工業もふるわず、出稼ぎに人を送り出すしかなかったのだ。 時には、スイス人傭兵部隊同士が敵として向かい合い、 双方全滅したこともあったという悲しいこともあった。
やがてスイスは観光や精密機械業、金融などの産業を育成させていく。
男性は声変わりによって高音が出しにくくなる。 しかし、去勢によって大人になっても高音を出せるように出来る。 中世ヨーロッパでは去勢歌手が活躍し、それはカストラートと呼ばれた。カストラートは女性の高音と男性の声量を併せ持ち、 その声域は3オクターブ半に達したとされる。 また、特殊な去勢技術によって妊娠は不可能だが性生活は可能であり、 それが故に貴婦人から求められたとも言われる。
しかし、20世紀になって去勢が禁止され、 それと共にカストラートも消えた。
欧米が先進国となったのは産業革命の後である。 それまでの地球上では、イスラム帝国と中華帝国の2つが最も栄えていた。
小説「宝島」をはじめ、海賊が隠した宝の伝説は多いが、これはありえない。 海賊が得るものは長持ちするものが少なく、 金貨や宝石などがあると分けて使ってしまう。手下を使って人目につかない所に大量の財貨を隠すことなどありえない。 有名な海賊の一人である黒髭(本名:エドワード・ティーチ)でさえ、 死後に残した財貨は木箱1つに過ぎない。
海賊の宝があるとすれば、宝を積んでいる海賊船が嵐などで沈んだ場合だけだろう。
- 参考:「世界不思議百科」 P.341
- 青土社発行
- コリン・ウィルソン著
コートジボアールは「象牙海岸」を意味する。 その他にも、アフリカのギニア湾には「黄金海岸」「奴隷海岸」など、 当時の輸出品目にちなんだ名前がある。奴隷として売られた者はアメリカ大陸へと運ばれたが、 劣悪な環境の船内に閉じ込められて運ばれ、航海中に命を落す者も多かった。
そのような奴隷は他部族の捕虜だった。強い部族が弱い部族を襲い、 その捕虜を輸出品としていたのだ。奴隷商人は労が多い人間狩りをすることはなく、 港で取り引きするだけだったのだ。
- 参考:TBSテレビ「世界ふしぎ発見」
- 21:00〜22:00
- その他参考
アフリカ南部にあるジンバブエ共和国は1980年に独立した。 ジンバブエとは現地語で「石の家」を意味する。 これは、この国にある巨大石造遺跡に由来する。建築技術はすばらしいものであり、特に神殿の壁は高さ9メートル、 長さ240メートル。花崗岩のブロックをモルタルを使わずに巧みに積み上げており、 総重量は1万5000トンにも達する。
11〜12世紀のこの地にはショナ人が移住してモノモタパ王国をつくっていたが、 この王国が巨大石造遺跡を建てたらしい。
- 参考:「地図から消えた古代文明の謎」 P.50
- 成美堂出版株式会社 発行
- 吉村作治 著
- その他参考
19世紀、西インド諸島のうち、キューバに次いで大きなハイティ島に 黒人による黒人王国が誕生した。 一代王国ではあったが、当時のハイティは熱帯植民地として成功した後であり、 世界有数の富裕国であった。アンリ・クリストフは27歳のときに、黒人暴動に参加し、 反乱軍の将軍となった。 1806年、クリストフはナポレオン統治のフランスから独立して独裁者となり、 1812年には国王となった。
クリストフは史上まれにみる暴君であり、 国民のこの世での主な目的は働くことであるとして、 命令には絶対服従を求め、ブラブラしている者は捉えて銃殺した。
そのクリストフが1820年に倒れると、すぐに暴動が起った。 クリストフは自らの心臓を打ち抜いて果てた。 クリストフの死後、王国は崩壊し、ハイティは原始の状態へと戻った。
- 参考:「世界の奇談」 P.49
- 現代教養文庫
- 庄司浅水著
フランス革命当時、「軍隊は民主主義の学校」と呼ばれた。 軍隊生活は民衆の意識改革に貢献しており、 「徴兵制度がなかったら民主主義は定着しなかっただろう」とも言われる。西欧での工場組織は軍隊組織を手本にして作られた。 第二次大戦後の日本でも、軍隊組織や軍事作戦の手本書を参考に会社組織が作られていった。
- 参考:「世界の戦争史」 P.24
- 株式会社日本文芸社発行
フランス革命により、多くの宮廷料理人が失業した。 彼らはレストランで(比較的裕福な)一般大衆を相手に料理を作るようになった。 これが後のフランス料理となる。それゆえ、フランス料理には豪華な料理が多い。 一般のフランス人がフランス料理を自宅で食べることはなく、 レストランでごくたまに食べる。
1855年、ナポレオン三世の命を受けたセーヌ県知事オースマンはパリ市改造計画を開始する。 その計画には地下水道の整備も含まれていた。それ以前にも地下排水路はあったが、系統だっていなかったのだ。 地下水路網が完成すると、地下水路ツアーが企画された。 ブルジョワ婦人が台車に乗って地下水路を見学したと言う。
21世紀になった今、一ヶ所だけ一般人が見学できる場所がある。 セーヌ川アルマ橋の南詰に入口があり、ガイド付きのツアーで共同溝へ入ることができる。
パリの地下ツアーと言えば、カタコンブもすごい。 モンルージュ墓地の再開発により掘り出された大量の遺骨、 数百万の無縁仏を地下通路に沿って、壁に並べて供養したものである。
(2003.6.6 追加)
- 参考:「EURASIA」 Vol.128 P.11
- 発行元 株式会社ユーラシア旅行社
「民主主義は、人民の、人民による、人民の為の政治である」 牧師パーカーの1850年の著書にあり、説教でもしばしば使った。 1857年7月4日、エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincohn, 1809-1865)はその部分をメモし、 後にゲティスバーグの演説中に使った。このゲティスバーグの演説は聞き取りにくく、その評判は当初ひどかった。 シカゴのタイムズ紙は「退屈で、うんざりする表現で、みっともない」だった。 その他の新聞もからかい半分の評価だった。
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」 P.132, P.271
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
清貧の人、エイブラハム・リンカーンは一生をつつましくすごした事で知られる。23歳のとき、はじめて州議会議員に立候補した彼は、不幸にも落選した。 その結果、もともと貧しかった彼の生活はますます苦しくなった。 しかし、ホイッグ党(現在の共和党の前身)から候補者として推され、 選挙にのぞんだ。
ところが、貧しいリンカーンが選挙資金を捻出できるはずがない。 後援者達はホイッグ党に交渉して、やっと200ドルを手配できたが、 この金額ではどうにもならないと、当選をあきらめていた。
ところが、リンカーンは当選し、 数日後にホイッグ党の本部にリンカーンから手紙が届いた。 職員が開けてみれば、中には199ドル25セントが入っていて、 選挙資金は75セントで間に合ったから、 残額はお返ししますという内容が書き添えられていた。
この75セントであるが、選挙運動中に手伝ってくれた有志が喉を乾かし、 その者のために飲料水のアップルサイダーを買った金だったという。 演説会場や食費などは有志によって全てまかなわれ、移動は馬、 多額の選挙資金を必要としなかったと言う。
この私心のなさが人々の敬愛を集めたわけだが、 選挙資金にしか目が向かない現代の政治家はこれに大いに学ぶ必要があるだろう。
- 参考:「聞いてビックリ!値段はいくら?」 P.200
- 夢文庫
- びっくりデータ情報部著
エイブラハム・リンカーンがひげを生やしたのは大統領選挙戦の時である。 それは小さな支援者からの手紙がきっかけだった。当時、ライバルであるダグラスは背丈こそ低いもののがっしりとした体格で 「小さな巨人」と呼ばれていた。一方、リンカーンは背が高いもののやせており、 頼りなく見えた。リンカーンは上院議員選でダグラスに破れたことがある。
リンカーンを支持するグレイス・ベデールは当時11歳。 リンカーンのポスターを見ているうちに、ひげを落書きしてみた。 そうすると、頼りなさが消え貫禄がついて見えるではないか。 早速ベデールはリンカーンへ手紙を送り、リンカーンはひげを生やした。
少女の手紙が無ければリンカーンは大統領になれなかったかもしれない!?
- 参考:「リンカンがひげをはやしたわけ〜開拓期を生きた少女の話〜」
- フレッド・トランプ/キット・レイ著 1997.12
- 偕成社出版
- 参考:フジテレビ「世界ゴッタ煮偉人伝」
- 2000.5.12放映 20:00〜21:00
エイブラハム・リンカーンのはじめての仕事は船こぎだった。 当時、ミシシッピ−河は物流の大動脈で巨大な蒸気船が行き交っていた。 手こぎの小さな船は蒸気船をさけて河の縁を航行する必要があり、 しばしば浅瀬に乗り上げていた。リンカーンは政治家になってからも独自に平底船の設計を進め、 1849年に「浅瀬を航行するための船の構造」と題する特許を提出、 同年5月22日に認められた。これは米国特許題6469号である。 当時は模型の提出が義務付けられており、 リンカン−ンも全長50cmの模型を提出した。 この模型はスミソニアン博物館に展示・公開されている。
リンカーンのこの特許は今から見れば実用新案に近いという声もある。 しかし、特許についてリンカーンがよく理解していたことは確かだろう。 リンカーンが発明家であり、発明や新技術に強い関心を持っていることは、 大統領就任前からアメリカ国民の多くに知られていた。
南北戦争がはじまると自称「発明家」が新型兵器を携えてリンカーン大統領のもとへやってきた。 リンカーンは自らチェックし、役立ちそうな新型兵器を投入した。 連発式ライフル銃、地雷、重臼砲、潜水艦、軍事観測気球などなど。 北軍勝利の裏には、リンカーンが選定した新兵器があるとも言われる。
南北戦争後、リンカーン大統領は全米の工業化に着手するが、 そのために特許権の保護を強化する。 アメリカでは、 南北戦争終結の1865年から大不況が到来する1930年までを 「第1次プロパテント時代」と言う。
- 参考:「プロパテント・ウォーズ」 P.58
- 上山明博著 2000.5
- 文藝春秋出版
1775年、アメリカ人デビッド・ブッシュネルは世界初の軍用潜水艇タートル号を製作した。 木造で一人乗り。動力は人力(!)だった。 その攻撃は、時計仕掛けの爆薬(68kg)につながるロープを敵艦へねじ込むことだった。 独立戦争で2回出撃しているが、戦果はあげていない。南北戦争の最中の1862年に潜水艇H・L・ハンレーが完成する。 鉄製で8人乗りだが、これも動力は人力だった。 この潜水艇は古いボイラーを流用したものだった! 事故が多く、少なくとも4回は沈み、30人以上が帰らぬ人となった。
1864年2月、チャールストン沖で北軍軍艦ハウサトニックを沈める。 これが世界初の潜水艇による攻撃成功だった。 しかし、爆薬に点火したときの距離が小さすぎてH・L・ハンレーも沈んでしまった。 それがH・L・ハンレーの最後の事故となった。
(2003.07 追加)
- 参考:「世紀の失敗物語」 P.42
- 株式会社グリーンアロー出版社発行
- 西村直紀
- その他参考
旅行も行動も自由、仕事も制限なし、結婚して家庭を作ってもいい。 こんな自由な収容所が実在した。帝政ロシア時代のシベリアである。 レーニンもここで結婚した。
- 参考:「アシモフの雑学コレクション」 P.254
- 新潮文庫
- アイザック・アシモフ著
- 星新一編訳
「フランダースの犬」とは、 ベルギーのフランダース地方を舞台として、 アントワープとホーボーケン村の間を牛乳を運ぶネロ少年とパトラッシュの物語である。 アニメ化されたこともあって日本では知らぬ人が少ないが、 長い間、地元ではまったくの無名だった。作者「ビーダ」(1839〜1908)は、 ベルギー人の父とイギリス人の母を持ち、イギリスで生まれ育った女性だった。 当時のアントワープでは荷物を引く犬が確かに存在し、 それを見たビーダが小説の題材にした可能性は高い。
しかし、ベルギーの人達には相互に助け合う精神があり、 小説のような悲しいラストシーンはありえない。 そのこともあり、地元では評判が悪く、忘れ去られていた。
20世紀後半、日本人観光客の増加と共に「フランダースの犬」の舞台を探す人達からの問い合わせが増える。 アントワープ観光局の人達は日本で出版されていた「フランダースの犬」を読んで、 調査をはじめ、舞台の観光地化がはじまった。
1985年、ネロとパトラッシュの銅像がホーボーケンに建てられた。 アントワープの聖母(ノートルダム)大聖堂には、 画家を志したネロが見たいと願ったルーベンスの「十字架昇架」があるが、 ここにはネロ達のステンドグラスが用意された。
- 参考:TBSテレビ「世界ふしぎ発見」
- 21:00〜22:00
- その他参考
アルフォンス・ドーデの短編に、『月曜物語』におさめられた「最後の授業」がある。 普仏戦争後にプロシャ領土へ併合されたアルザスの寒村の小学校での、 フランス語での最後の授業の光景を描いた作品であり、 一時は日本で国語の教科書に採用されることが多かったこともあって、かなり知られている。「自国語を愛するフランス人を象徴する作品」として神話にもなりつつあるが、 アルザス地方の人にとってフランス語とは別の意味を持つ。
アルザス地方の人達にとって、フランス語とは中央政府から押しつけられた言葉なのだ。 アルザス地方で伝統的に話され、現在も日常的に流通している言葉はアルザス語であり、 それはドイツ語系の方言である。
フランスは中央集権制が強いが、1971年になると七つの地方語の授業が実施されるようになった。 その7つの地方語とは、バスク語、ブルトン語、カタロニア語、コルシカ語、フラマン語、 アルザス語、オクシタニア語である。
かつてお茶が中国から喜望峰を経由してヨーロッパへ運ばれていた時代、 船倉の高温のためにお茶が発酵して紅茶ができたというのが紅茶誕生伝説である。 しかし、これはありえない。その頃に中国から運ばれていた緑茶は釜炒り茶だった。 これは茶葉の酸化酵素の活動を完全にとめてあり、高温でも変質しない。
16世紀の中国では様々な製茶方法が試みられていた。 発酵度合いの高いウーロン茶系の武夷茶(ボヘアティー)がヨーロッパへ緑茶と共に送られ、 緑茶(グリーンティー)に対してブラックティーと呼ばれるようになる。 この武夷茶(ぶいちゃ)が紅茶の原点である。
中国はその他にも輸出用に様々な茶を生産するが、 イギリスはインドで紅茶の自力生産を開始し、 完全発酵の紅茶を生産するようになった。
- 参考:「紅茶 つい喋りたくなる博学知識」 P.39
- 夢文庫
- 暮らしの達人研究班 編
- その他参考
20世紀初頭まで、イギリスではティーカップに入れた紅茶を受け皿に移してから飲んでいた。 恋愛小説の古典「嵐が丘」にもそのようなシーンがあるが、 そのシーンは1783年の出来事と考えられている。1701年にオランダで上映された喜劇「ティーにいかれた御婦人たち」 にも同様のシーンがある。さらに、紅茶を音をたててすすっていた。 当時はこれが、結構な紅茶を用意してくれた主人に対する感謝とお礼の表現方法だったらしい。
紅茶だけでなく、18世紀のフランスではコーヒーをソーサーに移して飲んでいたことを示すような絵も残されている。
- 参考:「紅茶 つい喋りたくなる博学知識」 P.72
- 夢文庫
- 暮らしの達人研究班 編
- その他参考
初期のコカコーラはコカ葉とコーラ子のエキスを混ぜた飲料だった。コーラ子とは、アフリカ原産の Cola nitida または C.acuminata の種子を乾燥させたものであり、 カフェインやテオブロミンを含んでいる。原住民は清涼剤や食欲増進剤として用いていた。
その後、コカインの毒性が知られるようになり、 コカコーラからコカ葉は除かれた。
- 参考:「毒の話」 P.125
- 中央公論社
- 山崎幹夫著
1903年12月17日、ウィルバーとオービルのライト兄弟は飛行機の初飛行に成功する。 ライト兄弟は飛行機の改良を重ね、飛行機の販売をはじめる。 ところが、まるで売れなかった。ライト兄弟の飛行機の操縦は左右二つの操縦桿で行うのだが、 左右同時に操作するのは難しすぎた。 そのため、「ライト兄弟にしか飛ばせない」と言われ、売れなかったのだ。
1908年、フランスのルイ・ブレリオ機が登場する。 操縦桿と足のペダルを組み合わせた現在とほぼ同じ操縦方法であり、 ルイ・ブレリオ機が歓迎された。
- 参考:「大笑いのプロジェクトバツ」 P.58
- 夢文庫
- 現代ビジネス研究班編
- その他参考
明治時代、旅順・大連で大々的に売り出されたエビスビールはさっぱり売れなかった。 エビとかエビスと聞くと、ロシア語で女性器を意味する言葉を連想してしまうからだ。 旅順・大連はロシアの影響を強く受けており、 そのような土地ではロシア人でなくてもエビスビールを買えないだろう。ロシア国籍で日本のボクシングジム所属の世界チャンピオンだったユーリ海老原は、 その名前を非常に嫌がり、後に改名する。
- 参考:「大笑いのプロジェクトバツ」 P.128
- 夢文庫
- 現代ビジネス研究班編
- 参考:「トンデモ一行知識の逆襲」
- 大和書房
- 唐沢俊一著
- その他参考
フロイト博物館の1つはウィーン市ベルクガッセ19番地にある。 ジクムント・フロイトが生涯の大半を過ごした家であり、 精神分析学が生まれた場所である。ところが、遺品はほとんどなく、 来場者の95%は外国人である。遺品の多くは、 フロイトが最晩年を過ごしたロンドンのフロイト博物館にあるのだ。 国立ウィーン大学には20世紀末の現在でも精神分析学の講座はない。フロイトは当時から祖国でよく思われておらず、 20世紀末になっても名誉ある人と思われていない。 その理由として2つ、フロイトがユダヤ人だったことと、 セックスについて主張したことがあげられる。 当時のタブー同士の組み合わせだったのだ。
フロイトは1886年にウィーンで開業するが、 その診療所は性の問題で悩む人で繁盛する。 精神分析医も登場するが、オーストリアの精神分析医全員がユダヤ人だった。 そのため、第2次世界大戦後も「ユダヤ人の学問」と言われ続けるようになる。 ナチスが台頭すると、彼ら精神分析医の多くがアメリカなどの海外に逃れ、 祖国での精神分析は頓挫した。
- 参考:「100人の20世紀」
- 1999年、朝日新聞日曜版連載
- テレビ朝日 日曜18:30-19:00
- 朝日新聞社 著・発行
- その他参考
蒸気機関車の時代、トンネルが近づくと客車の窓は閉められた。 そうしないと黒煙が車内に吸いこまれてススだらけになるし、むせてしまう。だと言うのに、世界初の地下鉄は蒸気機関車が牽引していた。 19世紀末のロンドンのことである。
駅の環境は最悪だし、煙を逃すために上が吹き抜けになっている所では、 地上の歩行者まで黒煙を浴びてしまった。
恐ろしいことに駅の内装は木製だった。 改札口や階段は細く、火事が起これば悲惨なことになることは明らかだった。
その後、ロンドンの地下鉄は電化されるが、 木製の内装は残り、駅ではボヤがしばしば発生していた。
(2003.07 追加)
- 参考:「大笑いのプロジェクトバツ」 P.112
- 夢文庫
- 現代ビジネス研究班編
- 参考:「世紀の失敗物語」 P.14
- 株式会社グリーンアロー出版社発行
- 西村直紀
- その他参考
古代ローマ帝国は鉛害によって衰弱したという説がある。 鉛で作られたワイングラスなどがあったが、 鉛は人間に中枢神経障害をもたらすのだ。鉛に害があることにはじめて気づいたのは 19世紀後半に産まれたアリス・ハルミトン(米)である。 彼女は個人的な研究をはじめるが、当時は環境問題という概念がない時代だった。 鉛工場へ行って従業員の健康調査を依頼しても、いい顔をされるはずがなかった。
そのような中、ナシュナル・レッド・カンパニー副社長コーニッシュが承認した調査により、 彼女の研究は飛躍的に進む。 後にコーニッシュは社長になり、鉛の人体に対する対策をとる。 そのため、ナシュナル・レッド・カンパニーは他の鉛工場より繁栄する。
1940年代頃より、自動車用燃料にアンチノック剤として鉛(四エチル鉛) が入れられるようになった。しかし警告を受け、無鉛の方向へと動いた。
- 参考:「環境にやさしい生活をするために『リサイクル』してはいけない」 P.136
- 青春出版社
- 武田邦彦著
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