日常生活の仏教語 
「ありがとう」は、一般に感謝やお礼の心を表す日常用語として常識になっています。
有り難いは、文字通り「有ること難い」「めったに会うことができない」という意味です。そんなに希なことに出会ったのですから、かたじけない、もったいない、恐れ多いという感謝の気持ちを表すことになります。
「次の時間にテストをします」といえば、教室中が「エエーッ」。初めて聞くような話しでもすれば「ウッソー」の大合唱。女子校では、こんな風景は日常茶飯事です。まさに、異口同音の世界です。
「以心伝心」という語句は、日常会話の中でも、よく使われますが、もともと、不立文字(ふりゅうもんじ)・教外別伝(きょうげべつでん)と並んで、禅の主旨をよく表現した有名な仏教語です。
得意の絶頂になっていることを、「有頂天になっている」といいます。喜びに夢中になって、他をかえりみない状態のことをいうのでしょう。
「殿、天下の一大事!」などというと、天下のご意見番、大久保彦左衛門でも登場しそうな情景ですね。 「わが社の一大事」「大事の前の小事」など、日常でも使われる言葉です。
普通、ちょっと頭をさげて軽くおじぎをすることを「会釈をする」といいます。 しかし、本当は、もっと深い意味があるのです。仏教の教えは、たいへん広いものなので、その中には、一見矛盾しているように思われる教えがあります。そのときそれらの相違点を掘りさげ、その根本にある、実は矛盾しない真実の意味を明らかにすることを、会釈というのです。
「お陰様で」は、感謝の心を表す日常語です。 「お陰」とは、神仏の助けや加護のことで、そこから、人から受ける恩恵や力添えをいうようになりました。
めんどうくさくて気の進まぬことをよく「おっくう」といいますが、これは仏教語の億劫(おっこう)がなまったものです。
国土開発・電力開発・産業開発・技術開発などと使われているように、開発とは、山地などを切り開いて、天然資源をとり出し、産業をおこすことや、知識をひらき導くことを意味している日常用語です。
世間一般に「覚悟」といえば、あらかじめ心構えをすることや、心の用意をするという意味で使われています。 また、「覚悟しろ」などという場合は、あきらめることや観念することのようです。 本来、覚悟は眠りからさめること、目がさめていることを意味する言葉ですが、もともと、「覚」も「悟」も「さとり」ということですから、迷いを去り、真理を体得し、さとりの知恵を得ることを意味する仏教語だったのです。
仏教では、学生は「ガクショウ」と読み、学匠とも書きます。もとは寺院に寄寓し、仏教以外の学問を学ぶ者に名づけられたようですが、日本仏教では、仏教を学ぶ者に用いています。
我慢は、辛抱をすること、堪え忍ぶことを指し、よい意味に用いられています。 この我慢は、仏教語なのです。自分の中心に我(が)があるとの考えから、我をたのんで自らを高くし、他をあなどることと説明しています。仏教では、そのようなおごりたかぶる心を7つ挙げ、七慢と称していますが、我慢もその1つです。その後も、我意を張るさま、強情、高慢という具合に、好ましくない意味のものばかりなのです。
普通、「歓喜」はカンキと読み、大変喜ぶことを意味しますが、仏教語としてはカンギと読み、宗教的な満足を、全身心をあげて喜ぶことを意味します。仏典には、仏の教えや仏の名号を聞いて、歓喜踊躍することが、よく説かれています。
病人を看護することを看病というのは、誰でも知っていますが、これが仏教からきた語であることを知っている人は少なく、むしろ死んでからが僧の仕事だと思っている人さえいます。
「ごきげんよう」「機嫌をとる」「機嫌をなおす」「ご機嫌うかがい」とか「坊やはご機嫌ななめ」などと、機嫌は気分のよしあしを言う日常用語として、一般によく使われています。
家の正面で入り口を「玄関」と呼んでいます。表入口という意味なのでしょう。みえを張って外観だけを豪勢に見せようとすることを「玄関を張る」といい、面会させないで客を帰らせることを「玄関ばらい」といいます。 この玄関が仏教語なのです。本来は建物の名前ではなく、[玄]妙な道に入る[関]門という意味で、奥深い教えに入る手始め、いとぐちを指していました。「禅門に入る」などがそれです。 この仏教語が建物の名前となり、禅寺の客殿に入る入り口を指すようになりました。
仏教では、仏の教えを受ける者としての、宗教的素質、能力や性質のことを、根性といいます。根性には優劣があって、仏はその人の根性に応じて、教えの内容や説法の仕方を変えたといわれています。
「もう金輪際いたしません」というように、金輪際は、ふつう「絶対に」とか「どんなことがあっても」とかいうような意味に使われています。 仏教の宇宙観によれば、虚空のなかに風輪という円筒状の気体の層が浮かんでおり、その上に水輪という水の層、さらに、その上に金輪という個体の層があって、それが大地を支えているということです。
仏教では、「覚」は「さとる」ことですから、「自覚」はみずから覚ることです。さらに、みずから覚るだけでなく、教えを説いて他人を覚らせることを「自覚覚他」といいます。これは菩薩の実践行です。
仏教では、文字通り志して願うことで、心の底から深く願うことをいいます。 『無量寿経』というお経の中に「世自在王仏、その志願の深広なることを知らしめして」とあるように、大事な願いのときに用いられている語なのです。
お釈迦さまは、最初の説法で「人生は苦である」と教えられ、その姿として四苦八苦を説かれました。 四苦とは、生・老・病・死という人間としての根本的な苦を指しています。
仏教では、あらゆる束縛から解き放たれた境地を「自由」といいます。悟りの境地のことです。他のものの影響や支配を受けることなく、独立自尊で、それ自身において存在することのできる、安らかな境地をいいます。自由であれば、自分の思い通りの存在となれるので、これを「自在」といいます。 仏や菩薩はそのような力を具えているので、仏のことを自在人といい、観世音菩薩のことを観自在菩薩といいます。その自在の力には、世の中を見抜く自在、説法・教化をなしうる自在、自由に種々の国土に生まれ、国土を清浄にする自在、寿命を伸縮できる自在など、種々の自在が説かれています。
出世(しゅっせ)
出世とは、本来、仏が衆生を救うために、かりに人間の姿となって、この世に出現されることをいいます。「仏出世本懐」などと説かれるのも、この意味です。
仏教では、仏道の修行に関係のない無用な対話を、冗談と呼んでいます。冗とは、むだ、不要、あまっているという意味ですから無駄話という意味なのでしょう。
お釈迦さまが初めての説法のとき、八聖道という、仏教の実践方法を示されましたが、その一つが「正念」で、邪念を離れて仏道を思い念ずることをいいます。
この食堂は仏教語で、お釈迦さまの時代からあったようです。ただ、仏教ではこれを「ショクドウ」といわずに「ジキドウ」と呼んで、七堂伽藍(がらん)の1つでした。 禅宗では、浴室(風呂)・僧堂(しょくどう)・西浄(べんじょ)を三黙堂といって、話をしてはいけない場所になっています。
「世智辛い」は計算高い、小賢しい、抜け目がないなどの意味です。「世智辛い世の中だ」とは、人々が打算的になって、世渡りがしにくくなることをいいます。 この「世智」が仏教語です。世智は「世間智」ともいい、俗世間の凡夫の智恵のことです。そこから、世才、俗才、世渡りの才能の意味となっていきました。
退屈は、もともと仏教語で、仏道修行の苦しさやむずかしさに屈して、仏道を求める心が退き、精進努力する心を失うことを意味しました。
『涅槃経』というお経に、「五味」が説かれています。それは、「牛乳を精製していくと、その味は、乳味(にゅうみ)→酪味(らくみ)→生酥味(しょうそみ)→熟酥味(じゅくそみ)と、しだいに美味なものに変化し、最後の醍醐味になると、最高の味となる。その最高の味こそ涅槃の境地である」というのです。
もともと、大丈夫は人のことを指しています。丈夫、つまり、ますらお、男子をほめていう言葉ですから、偉大な人、りっぱな人、しっかりした人のことをいいました。お経のなかでは、菩薩(ぼさつ)のことをいう場合も見受けられます。
『十二礼(じゅうにらい)』というお経に「観音頂戴冠中住」とあります。観音さまが冠を頭の上に戴かれ、その冠の中に、仏がすんでいると説かれています。このように、頂戴とは、本来、頭の頂にのせることをいいます。仏さまや仏の教え、経典などを、頭にのせていただくことなのです。
仏教では、道楽とは「【道】を解して自ら【楽】しむこと」で、仏道修行によって得た悟りの楽しみを意味し、法悦の境界をいう言葉なのです。経典にも、「今己に道楽を得たり」(阿育王経)とあります。
仏教には「兎角亀毛」という言葉があります。「兎の角(つの)」や「亀の毛」は、本来実在しないものですから、現実には無いのに、有ると錯覚したり、実体が無いのに、有ると幻想したりするとき、譬喩的に用いられる語です。仏教の中心思想である「縁起」や「空」を説くときよく使われ、迷いの世界の現象を表す言葉となっています。
この「ないしょ」は、仏教語の「内証(ないしょう)」が変化した語なのです。 内証とは、自分自身のこころの内に、仏教の真理を証(さと)ることをいいます。その悟った真理そのものを指すこともあります。だから、内証とは、他人には説明できない内心の悟りをしめす言葉なのです。
「不思議」とは、もともと、「不可思議」の略です。言葉で言い表したり、心でおしはかることのできないことをいい、仏のさとり、智慧や誓願などの形容に用いる語で、仏典には、しばしば登場します。
方便とは、もともと、仏や菩薩(ぼさつ)が、衆生を救うために、相手に応じて、教理を無理に押しつけることなく、たくみな手段を用いることで、『法華経』の方便品(ぼん)は有名です。
面目が立つ、面目ない、面目を一新する、面目丸つぶれ、面目を施す、真面目など、面目は日常よく用いられる語で、大体は、人にあわせる顔、世間に対する名誉の意味です。 仏教では「メンモク」と読み、人間にとって最も肝心かなめの本性を指しています。
「油断大敵」という言葉があります。ちょっとした不注意でも、それがもとで大失敗をまねくことがあるので、気を許したり、不注意は大敵である、という意味でしょう。 『涅槃(ねはん)経』に、むかし、ある王が、1人の部下に油のいっぱい入ったつぼを持って歩かせ、「もし一滴でもこぼしたなら、汝(なんじ)の命を断つ」と言いわたしたことが書かれています。不注意は最大の敵だといういましめでしょう。この故事から、注意を怠ることを「油断」といったということです。[油]で命を[断]つということでしょう。
楊枝(ようじ)は楊子とも書き、歯を掃除する用具で、つまようじや歯ブラシのことをいいます。 インドの修行僧が持っている道具を、六物とか十八物とか呼んでいますが、楊子は、その十八物の一つとなっています。柔らかい木の小枝を取り、その枝端をかみ、その汁で歯を磨き口を洗ったので、歯木とも言いました。
「用心」は文字通り、心を用いること、万一に備えることを意味する日常語です。 仏教では、いつでもどこでもだれもが、綿密な心くばりを求められ、用心することが仏道修行の基本姿勢と考えられています。道元禅師には『学道用心集』があり、参禅者の心得を、法然上人には『往生浄土用心』があり、念仏行者の用心を教えています。 「用心」はまた「常存正念」とも訳されます。仏教では、単に心をつかうだけでなく、平素つねに正しく心をはたらかせていることを用心というのです。
「老婆心」とは〈老婆心切〉とか〈親切心〉とかいって、老婆が子供や孫を愛撫(あいぶ)し、いつくしむように、師匠が修行者に対して、あたたかく導くこと。その心が深く厚いことを意味する仏教語だったのです。