■ 碁の、要らん知識、いろいろ


□ 碁とは?

碁盤と碁石を使う室内遊戯(別に外でやったっていいんだけど)。
古くは乱碁、弾碁、格碁などを含めた遊戯の総称だったが、格碁が連珠に発展した以外は殆ど消滅したので、現在では囲碁と同義。
ふーむ、なるほど。囲碁と碁はどうちがうんだろうと思ってたらやはり違ったのだね。
ちなみに連珠というのは所謂五目並べのことだそうです。


□ 用具について。

↑にあるように、碁盤と碁石を用いる。ただし石には器が必要なので、碁笥(ごけ)というものを用いる。
碁笥のフタはアゲハマ(取った相手の石)をのせるのに使うので、正確には囲碁用具はこの三つですね。

碁盤は縦約45cm、横約42cmで、厚さは15cmほどが標準。
どうして横の方が短いのかはわからな、かったんだけどわかりました。
盤面というのは手前からむこう側を見るので、縦に長細い方が見やすいからだそうです。
TVとかだと真上からうつすので、縦が長いのがよくわかります。
盤には九つの「・」(星という)があり、そのうち中央のものを「天元(てんげん)」、隅にある四つを「隅(すみ)」、間にある四つを「辺(へん)」といいます。
ええと、足はクチナシの実を模った形をしています。これまた由来はわからない。
そして碁盤のウラには「血だまり」と俗称されるくぼみがある。
これまた由来ははっきりとしないらしい。
実際に見てみたんですが、うちのは四角いくぼみのなかにピラミッドがたの出っ張りがありました。
囲碁盤をひっくりかえして使うことはないのだし、一体なんの要なのだろうかと訊いてみたところ、
勝負に命を賭けるということのしるしだという返答が返ってきた。
つまり不正をはたらいたら相手を斬るとかなんとか、しかしこれも俗信のひとつなので信じてはいけない。
ついでにいうとこの厚さ15cmっていうのはなーんでこんなに分厚くなければならないのか不思議で仕方ない。別に中が空洞になっていて碁笥をしまえるということはない。
もっと薄ければ膝が入って勝負がしやすいと思うんだが、或いはそういう無礼なことをしないように分厚いんですかね??
材質はカヤを最上とし、イチョウ、カツラ、輸入材なども用いられる。
中でも「四方柾目(しほうまさめ)」といい、盤の表、横、裏、側面がすべて綺麗な柾目になっているものが珍重されるそうです。(クリスマスメールで佐為が欲しがってたね
値段はピンキリで、高いものは数百万、うちにあるのは二万だそうです(笑)
また足のない「板盤」も使用され、これは普通の机などに乗せて勝負ができるので在原のような無粋な人間は合理的だと感じる。

碁石は直径約2.2cm。黒石181個、白石180個を以って一組とする。
どうして黒石の方が多いのかはわからない。と思ったんですが19×19は二で割れないので、0.5を先手である黒に1として足したということらしいです(汗)<算数できなくてすいません。
材質は、白石がハマグリで、特に日向産が珍重され、黒石は三重県熊野市付近原産の那智黒が最上とされるそうです。(蛤碁石は一万六千くらいする<任天堂)
ところで、黒石はつやけしで、白石はつやつやしています。
どうして黒石もつやつやしていないのだろうと子供心にふしぎでした。
アマチュア用には硝子製、陶製、プラスチック製のものもあるそうで、ヒカ碁にも硝子石とプラスチック石が登場しますね。
硝子石は割れやすいそうですが、ハマグリと石製のも割れます。あぶないです。

碁笥(ごけ)は碁石を入れる円形の器、
平安の碁笥は円筒状をしていて、わりご(むかしの弁当箱)みたいなものでできているように見えます。多分竹製?
現在ではほんとにまんまるの形をしていて、可愛らしいです。
材質はクワが最上、ほかにサクラ、ケヤキ、カリン、クリなども用いられるそうです。
でもなんでまるいんだろう?
よくヒカ碁をみたら、四角い碁笥も出てきました。わからん。


□ 囲碁の歴史。

まあそういうよくわからん由来の用具は、長い長い歴史のなかで確定していったものなのでしょう。
起源については諸説があり、易(うらない)から発したとするもの、天文暦法(こよみ)をかたどったとするもの、計算具の変形(そろばんか?)とするものなどがあるが、よくわかってないらしい。
誕生したのは中国、尭の創始という説もあるが、もっと古いとかなんとか、
とりあえず孔子の時代にはよく知られた遊戯だったので、中国4000年の歴史だと思っておけばそうはずれてはいないにちがいない(乱暴な)。
『論語』には「『博エキ』っていうのがあって、これを為るのはやめるよりもよいことなんだ」とか書いてあるんですが勿論この訳は間違っているので信じては行けない。自分でも何書いてんだかわかりません。
それにこの「エキ」という字が出ない(コードがない)。奕という字の親戚だと思ってください。(超乱暴な)

博(ハク)というのは碁石とさいころを使う遊戯で、正確には六博(リクハク)、双六の一種だそうです。
この双六というのは今の双六ではなくて、昔のそれ、つまり一種の陣地争いで、平安貴族の遊んでいた双六とはこちらの双六です。

奕(エキ)というのが碁の古語だそうです。
漢字源曰く、「碁石や将棋のコマを並べて勝負する、またその勝負ごと」として、例の↑の論語の一節が引いてある。会意兼形声で、同じものが同じ間隔で並ぶ意を含み、つまり「石を等間隔に並べて」打つことだと思うので、やはり将棋よりは囲碁にふさわしいことばなのですね。

えーっと、脱線しましたが古い時代の碁盤は17路だったそうで、(今は19)チベットには17路の碁法が現存しています。
しかし現存する最古の棋書である『忘憂清楽集』(12世紀初頭)に採譜された打碁は既に19路をとっており、その間の事情は不肖。
日本に伝来した時には既に19路になっていたというから、変革は7世紀以前だったことがわかるそうです。
つまり佐為が打っていたころには既に19路だったのだね。随分歴史が長いんだなあ。
ところで当時のボード・ゲーム(盤上遊戯)というのは基本的に卜占に関係があったそうで、リクハクも、そしてエキも、そうなんじゃあないかなあというのは在原の持論なので余り気にしないで下さい。
白石を「陽」、黒石を「陰」に見たて、陰陽の気の流れに関係しているとか、
宇宙の法則に則っているという説もあります。多分に呪術的な要素があったということは事実らしい。
ヒカ碁の元タイトルが「九つの星」であり、「神様になるんだ」とヒカルが云う根拠もこのあたりからきているようです。


□ 囲碁がやってきた、ヤアヤアヤア!

そういうわけで、囲碁の日本への渡来。
遣唐使の吉備真備が735年に帰朝した際に持ちかえったというのは誤伝だそうです。なんだか尤らしい話なのになあ。
それよりも前、六世紀の半ばに朝鮮を経て仏教が伝来したころ、書物とともに入ってきたらしい。
日本史をさぼりまくったつけがこんなところに出てきますが、たしか当時の日本は中国(トウとかズイとか)にはちーっとも相手にされず、殆どの文明を朝鮮半島の国々を通して学んで行ったような覚えがかすかに。
えーっと、これまた日本語にあらずという理由でさぼりまくった万葉集にも「碁師の歌」2首が収録されているそうです。しらなかったなあ。
でもこの碁師というのが囲碁打ちを指すのか、碁具作りを指すのかわかっていないんだそうです。
しかし正倉院には聖武天皇愛用の碁盤という「木画紫檀棊局」(もくがしたんききょく)が所蔵されているし、『源氏物語』や『枕草子』にも碁が登場することから、囲碁は宮中の遊戯として定着していったようです。
藤原佐為(もちろん彼は架空の人物なのだが)が活躍したのもこの時代なのでしょう。
作中で彼が「佐為の君よ」と女房たちにさざめかれるシーンがありますね。当時女性も囲碁を打ちました。男性と差し向かいで打ったとは思えないんだが、どう?(すいません、平安にも疎いんです)


□ 本因坊ってなあに?

思えば、こないだジャンプで「本能寺炎上」をやってくれたことは在原の囲碁学習の理解に非常に役に立った。粋なことをするものよのお。フフフ。
さて、ヒカ碁を読んでいる方は「本因坊秀策」を、知らなかったとしても「なんかすっごくつよいひと」として理解しているのではないでしょうか。
在原は「本因坊」の号自体それまで知りませんでした(笑)
ええと、まず「本因坊」とはなにか。
これはもともと苗字ではなく、京都寂光寺の塔頭(タッチュウ、と読む。この場合大きな寺の境内にある小さな寺のこと)の名です。
ここにすんでいた僧が、「日海」。「本能寺炎上」で筒井さんのやった彼です。
1603年に、すんでいた塔頭の名をとり、本因坊算砂と改名。本姓加納、幼名与三郎。
碁技を持って信長、秀吉、家康の3代に仕え、(ほほう、在原のヤヲイ妄想に書いたとおり、実際に長生きしたのだな。知らずに書いたが。)特に家康の庇護のもとに、江戸期における碁の黄金時代の礎を固めた、と。
なるほど、本当に信長の言を…(だからそれはお前の妄想だってば(笑)<史実はちがうで!)
しかし「初代名人」を信長に与えられた日海が、後の「本因坊算砂」です。
「初代本因坊」ですね。


□ 碁の発展

ヒカ碁にもありますが、佐為の打っていた平安の囲碁と、
本因坊算砂の活躍した戦国の囲碁というのは碁法に違いがあるのです。
在原は囲碁うてないので(脂汗だらだら)うまく説明できないのですが、
室町時代末期から戦国時代にかけて、従来の互先(ハンデなし)事前置石制から、自由棋法への転換が行なわれた、そうです。
ええと、ごく簡単に云うと、それまで中国の碁というのは、黒白2つづつ、朝鮮は8個ずつというように、碁盤にはじめから石をおいてから打ってたのです。
これを「事前置石制」というのですが、日本の碁はあるときから置石を取り去ってしまったのです。
(理由はわからん)
しかしそのために、小目、高目、目はずし(安心してください、在原にもわかってません)など任意の手が選べることとなり、定石、布石が高度な発展をみせた、と。
つまり規制緩和みたいなもんでしょう(すっげえ乱暴)。
しかしこの「自由棋法」の採用が碁に与えた奥行きは計り知れず、今では中国も朝鮮も自由棋法になってるんだって。へえー。やるじゃん、日本。

しかし本因坊時代と今の碁にも棋法に違いがあるので、(佐為曰く、「一手目が星とは…」)
こういうことはどんどん代わっていくのでしょうね。


□ 戦国〜江戸時代の碁

棋法にも変革が見られましたが、囲碁社会にも変革が見られました。
1588年、秀吉は本因坊算砂(当時はまだ日海)に20石10人扶持を与えて「碁の法度を申付」けました。
この辺り、在原のだいっきらいな日本史チックなのでヒカ碁変換をかけます。

加賀(信長)が三谷(光秀)に討ち取られたあと、世の流れをはかっていた岸本(秀吉)があっというまに三谷をうちとり、筒井(日海)をかっさらってしまったのです!
「葉瀬中(尾張の国(笑))のことなど忘れなさい。
あなたは乱世に埋もれる器ではないはずだ。……わが居城(海王)へ…」
「………あなたは、…上様(加賀)のご恩を忘れたのですか…!」<どんなだよ。
「彼は天下人の器ではなかった。(将棋部だしね)
しかし私はちがう。あなたもだ。
……私はあなたに、…加賀のような手荒な扱いはしない…」
とかなんとかいう話があって、日海は秀吉のモノになるのです。
岸本×筒井!!
それはいいんだが、三谷が筒井をモノにできた期間があまりにも短くて可哀想なんですが。
やはり少々乱暴な加賀の(筒井への)扱いを見かねた三谷がしばしば筒井にやさしくしていたとかいう事前の了解があるべきよね(おいおいおい!!)それに勿論、三谷(光秀)を岸本(秀吉)が討つときにはそりゃもう(自主規制)

まあそういうわけで、岸本(秀吉)から、筒井(日海)に申しつけられたものが碁所(ごどころ)の開始とされています。
しかし実際に碁所制度が確立するのは、徳川幕府の基礎が固まり、家元制のもとに碁将棋衆に扶持を与えて碁将棋を奨励する政策がとられるようになってから、だそうです。
ちなみに碁所というのは場所のことではなくて、地位の名称だそうです。紛らわしいわい。

そして更にどうでもいいんですけど、秀吉の時代もおわり、筒井、いや世は家康のモノになります。
家康はやっぱりアキラかなあ。
岸本×アキラだったのが下克上になるわけだ。 その辺の話も面白そうだなあ…<日本史知らないからやりたい放題。
そうやってつぎつぎと男を変えていく筒井さんではありますが(おい)、実際一番愛していたのは加賀(信長)ではないかと。彼の呉れた「名人」ということばのもとに碁の発展を目指していったのではないか、と。
愛ですね、愛。<くさりきってます。


□ ゴドコロってなあに?

↑に書いたように、ゴドコロ、とは場所じゃなくて地位、ね。(ぶつぶつ)
ええと、ゴドコロとはなにかというと、「名人でなければ就任できず」、「御城碁の組織」、「将軍の指南」、「免状の発行」など一切の行事をとりしきることができたそうです。
そのため、その絶大な名誉と特権を目指して必至の努力がつづけられ、碁の技術も飛躍的な向上を得た、そうです。
歴史的には有意義ですが、筒井の愛から発展したものが(やめなさいって)

江戸時代の家元は、
算砂(筒井)を初代とする『本因坊家』、その跡を継いで碁所に就いた中村道碵を元祖とする『井上家』、(なんで中村じゃないんだろう)準名人算哲を祖とする『安井家』、準名人門入(もんにゅう)を祖とする『林家』の四家で、四家は一年に一度の「御城碁」に家名を賭けて闘ったのです。
「御城碁」というのは将軍の御前で打つ、年に一度の公式手合。
初期は本勝負がそのまま打たれたが、長時間に渡ることが多かったので、後には下打ちし、将軍の前でそれを並べなおすのが慣例となった。
へえー。ちゃんとはやらないんだ。
でも全部の手を覚えてるって時点ですごいなあ。ヒカルも3面碁の棋譜を全部書いたけど。

ちなみに碁所の地位をえた者は8名のみ、まず
「初代本因坊算砂(筒井)」、「中村道碵」「2世安井算知」「4世本因坊道策」「4世井上因碵」「5世本因坊道知」「9世本因坊察元」「12世本因坊丈和」だそうです。

さらっとかくとどうってことないんですが、実はこの遍歴にはとんでもない争いがあって、 中村道碵の死後、空白になってた碁所を、幕府は2世本因坊算悦と2世安井算知の勝者に与えることとし、一年に一局の御城碁を舞台に争碁がはじまったのだが、打ち分けとなって碁所は決定しなかった。
しかし算悦死後、算知が突然碁所に任命される。
そこで算悦の跡をついだ3世本因坊道悦が怒っちゃって、幕府の決定に意をとなえて争碁願いを出したんだが、これは当時としては命がけだったらしい。
結局20番勝負で道悦が勝利、算悦は碁所を返上するが、恨みをはらした道悦も翌年隠居。

へえー。意地とプライドの世界なんだねえ。

えーっと、そういう因縁の碁所を継いだのは四世本因坊道策。33才の若さで名人碁所に就任したっていうんだからすごい!!!羽生さんみたいだね!
そしてこれには異議を唱えるものがいなかったことも、彼の強さを物語る逸話ですね。
彼は後世、「碁聖」と称されたが、弟子たちは殆ど20代で夭折した。
「碁聖」は現在もタイトルとしてのこっています。


その後の歴史も大変にドラマチックなんだが、
とにかく江戸時代。江戸時代というのは囲碁の全盛期であった。
のちには幕府の崩壊により家元は禄を離れ、碁界にとっては苦難の時代に入るからである。
しかし江戸の碁が最後の花を咲かせたとき、その頂点に立ち、御城碁19勝全勝の記録をうちたてたのが、
今日なお「棋聖」とうたわれる、本因坊跡目秀策であります。(本名は桑原秀策)
何故「**世」ではなく「跡目」と云われるかというと、14世秀和は彼を跡目と決めていたにも関わらず、生没年は(1829−62)。佐為も云ってたが夭折で跡を継ぐことなくこの世を去ったかららしい。
↑で書いたが道策の弟子もだ。どうやら肺労咳の流行の所為らしい。
勿体無いことですね。しかしかみさまに愛されたものは皆早死になのかもしれない。 在原の生命線はすっごく長い。(手首まである)
ええと、彼の棋風は荘重堅実であり、愛用した「秀策流」布石は今もその力を失っていないそうです。
アキラの云っていた、「それこそ新しい布石を生み出すほどの…!」という読みは正しいですね。
140年も昔なのに、今にも通用する布石をつくった人物なのです。
有名な「秀策のコスミ」というのは右上の星の一個下のとこ。
佐為のはじめての一手(じいちゃんとの)もコレでした。
その秀策の碁は、石谷広策編『敲玉余韻(こうぎょくよいん)』(1897)によって紹介されました。
これがここのコーナー名です。


□ 現代の碁

っていうのは日々かわっているのでかかない(笑)<っていうかしらねえ。
タイトルは、これまでもちょいちょいと書いてきたのですが、
「棋聖戦」(秀策がそうよばれた)
「名人戦」(筒井…じゃない、日海。作中ではアキラの父が持ってます)
「本因坊戦」(本因坊家は現在はなく、タイトルのみに名をとどめてます)
「十段戦」(2巻で塔矢名人が獲得、四冠に。)
「天元戦」(天元っていうのは碁盤の中心にある星。塔矢名人がもってる)
「王座戦」(王座なんだと思う。作中では座間先生)
「碁聖戦」(道策がそう呼ばれた。作中では桑原先生)
「新人王戦」(新人なんだろう)
「女流本因坊戦」(囲碁も将棋のように女流があります)
「NHK杯戦」(将棋にもあるよね)
「早碁選手権戦」(制限時間が短いらしい)
「新鋭トーナメント戦」(ジジイは出れないのかな)
「鶴聖戦」(わからん。日本航空主催)
「NECカップ」(NCC杯というのが作中に登場する。<ヒカルと筒井が見に行った)
とかがあります。(もっといっぱいあるんだけど)
いま(H12年1月)強い人というと趙治勲二冠(名人・棋聖)<こないだまで本因坊も持っていた。とか小林光一二冠(十段・天元)とかだそうです。
タイトル戦も、↑のような妄想にあてはめれば楽しく見れるかも。

プロ棋士の殆どは「日本棋院」か「関西棋院」(どちらも財団法人)に属しており、プロ棋士になるためには両院いずれかの院生となり、厳しい修行を経て初段入段試験に合格しなければならないと。
でも院生でいられるのは18まで、試験は年に一回。3勝したら本戦。<趙二冠は11でプロになったそうです。
初段から九段まで規定により昇段、00年の資料によると、日本棋院243人だそうです。関西棋院は84年で115名。へえー、結構少ないんだね。

アマチュア碁界も戦後発展、有段者は二十万人。
アマの初段はそんなに難しくないそうですよ。(身内が持っている)
作中に登場する国際アマチュア囲碁カップのモデル、世界アマチュア囲碁選手権は世界的な碁の普及のめどどして注目され、84年には30カ国が参加したそうな。
欧米への普及は明治10年にはじまり、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、東欧諸国などに囲碁協会が設立され、オランダに本拠を置くヨーロッパ囲碁協会は年に一度、ヨーロッパ囲碁選手権大会を開催しているそうです。
コミックス四巻あたりのインターナショナルっぷりもフィクションではないのだね。 日本棋院の支部もオランダ・ブラジル・シアトル・ニューヨークにあるらしい。

ちなみに勿論中国、韓国の囲碁レベルはすごく高いそうで、日本棋院名簿みると中国、或いは韓国の棋士の名前がちらほらと見られます。↑で書いた趙二冠もそうだし、趙善津本因坊も。<身内ではないようだ。あとヨコモジ名前の方もいらっしゃいます。



■ まとめ。

在原はただいま囲碁学習中なので、追加する情報がまだあるかもしれないです。
直したら更新情報のとこで申告しますので、ご覧いただけるとうれしいなりよ。
間違ったこといっぱいかいてると思うんで(笑)
ちなみに、日本棋院発行の囲碁手帳入手しました。つかえそうです(にやり)