そのよこがおが、
私を振り向けばいいと思った。
それだけだった。
「急にお呼び立てして申し訳ありません」
「いいえ、御多忙な帝が、打とうと思ってくださるだけでもうれしいことです。
私はいつだって参内致します、
なんどきでも、なにをおいても」
「ありがとうございます。
…藤原殿はおやさしいですね」
「いいえ、
私はやさしくなんてありませんよ、
ひどい男です」
出迎えた使いにそう微笑んで、
白の狩衣が朱雀門をくぐった。
裾と、長い黒髪が、季節はずれのつめたいかぜに揺れる。
「…………」
彼はそれをじっとみつめ、
ちいさな吐息でなにかつぶやいた。
なにか。
寒い皐月でした。
春の遅い都はしらず、比叡にはまだ雪ものこると聞いていました。
私は帝のお召しを受けて間がなく、
都はずれの、寄る身もない私にとって、はなやかな内裏はもの珍しく、
所在のない場所でした。
勿論、私のために遣わしてくださった牛車や衣、調度の類は有り難く、
帝の側近の方々も親切にして下さいましたが、
やはり私にとってはなにもかもが違いました。
すれ違い、過ぎてとどく香の薫、
優曇華縁の神々しさ、
御簾を透いた女官の微笑、
破れ寺のような屋敷の隅の、
葎も忘れた離れに慣れたわたしには、
それは眩暈のようでした。
帝のやさしいことばも、親しげなそぶりも、
嬉しいと共に身の震えるここちがしました。
囲碁を、
はじめたばかりでいらした帝は気付かなかったかもしれません。
けれど私は急いていました。
恐れていました。
それは私の手を乱していました。
なにかを失いそうで、
傍目には、あらゆるものを手に入れたわたしだというのに、
かけがえのないものを奪われてゆくようで必死でいました。
けれど恐れたまま、
内裏は離れ難かったのです。
夜更けや、節会の日でさえ、
それを理由に断ることはしませんでした。
一度断ってしまえば、
もう二度と、ゆけない気がしたのです。
あの場所は不思議でした。
今の地位を、喪うことがこわかったのではなかったのです。
たとえ帝のお召しでなくても、
其処へ行けるということが私にはたいせつでした。
大路を北へのぼり、
桜橘の守る都へ……都の中の都へ居るということが、
わたしには特別でした。
それは恐ろしいというのに、
必要でした。
きっと、時折教えて差し上げていた貴族のどなたかが、
帝に奏上なさったのでしょう、
日の落ちかけた時分に一人の方が…狩衣を召しておいででしたが振るまいのあてな…殿上の方であろうと察せられた方がいらっしゃったのです。
強い方でした。
ただ、ひどく慎重に打っておられました。
久方ぶりの背筋ののびるような対局に、
わたしは嬉しくなりました。
今まで、弟子をとることや、指南にあまり熱心ではありませんでしたが、
もっと外へ出て碁をうつのなら、またこんな対局が望めるのかもしれないと思うと、もっと嬉しくなりました。
灯りをともす者もないうすやみのなか、
はばたきのようにゆったりと風をおくる白扇を、
わたしは見詰めていました。
羽根をやすめるこの蝶は、
なにを慕ってやってきたのでしょう。
ここは咲かぬ曠野、
花の香を、
まごうたのではありませんか。
懐の扇にかきつけて、
わたしはそれを渡しました。
傍仕えの手を介さずに、
うたを書きつけたのはあとにもさきにもあれ一度きりです。
あなたの澄んだ香は蝶の都に及んでいます。
わたしは使者、
そして葎の只中に咲きぞめの花を見つけました。
あなたは花の中の花、主のもとへおつれしたいと望んでいます。
「…………」
「私の負けです。
藤原佐為殿、
明日、お迎えにあがりますが、
御一緒していただけますか?」
それがはじめでした。
十二日の月をながめながら夜を明かし、
夢ならず、現れた牛車に私は身を入れました。
牛車は大路をのぼってゆきます。
目的地を、
私はしりませんでした。
秋でした。
童が髪にさした花、
金の菊の花に、
私は気がつくべきだったのかもしれません。
きなれた白の狩衣に、紅の単で私は帝の前へ進み出たのです。
今は皐月、
青の単と、やはり狩衣は白でした。
白の狩衣は、
帝が下さったものでした。
「白が似合うから」
帝は仰り、
わたしは目を伏せて、
下手な礼を申し上げただけでした。
帝の傍にいらっしゃる、紫や緋の束帯の方々の中で、
白い狩衣はとても目をひくものでした。
しるしのようでした。
それでも私は其処にいたかったのです。
成り上がり者と罵られても、
其処にいたかったのです。
ただ。
「………藤原殿?」
「………」
「藤原殿、
……藤原…佐為殿では?」
「…………はい…?」
「そんなところでどうなさいました、
いま、誰かに沓を…」
「いえ、
………いいえ」
二度めの声で、その方の呼んだのが私だと知れて、
ふりかえりました。
一時ほどではありませんが、藤原の者は宮中には多かったのです。
「しかし、おみあしが汚れますよ」
「いえ、
………いいえ…」
私は藤の花房のしたにいました。
つめたい風のためにながらえた、あおの色が美しかったので、
藤棚へむかって素足でおりたのです。
勾欄をこえて。
花房は長く、昨夜の雨をふくませた花弁が私の顎にふれるほどでした。
とっさに花のかげに隠れたので、
私からはその方はさだかに見えませんでした。
ただ、深緋の束帯だけがうかがえました。
四位の装束です。
私に、そのような高位の知り合いがいたはずもなく、
お見かけしたこともない方でした。
私の行動がよほど奇異にうつったのでしょう、
庭に身をのりだすようにしてこちらをご覧になっていました。
「お手を?」
「いえ!
……大夫の方のお手を煩わせることでは」
「では、誰かお呼びしますか?
…そのようなお姿は、風評にのると厄介ですよ」
「いえ……」
「………」
彼は微笑いました。
そして云いました。
「お手を」
彼の手と、勾欄にすがって私は屋根のしたにもどりました。
はずみで烏帽子が傾き、裾は汚れ、
顔は上気していました。
私はそれを羞じ、扇で顔をかくすと、立ち去ろうとしました。
「藤原殿」
「………」
「佐為殿、
沓を」
「…恐れ入ります」
「お急ぎですか?」
「いえ、
いいえ私は…」
「ここでお目にかかれるとは思っていませんでした。
佐為殿のお越しは突然ですから」
「…………」
「本日は帝のお召しで?」
「ええ、
今日は指南の日ではなかったのですが、
この手を見て欲しい、と…」
「そうですか」
彼がまた微笑った。
「…何故、私の名をご存知なのですか?」
「佐為殿が、非凡でいらっしゃるからですよ」
「………」
「それに……私も藤原の家の者ですから」
「藤原?
………北家の…中将殿?」
私のような、出世にはまるで縁のないものにも、
藤原氏の殿上人の噂は入ってくるものでした。
たしか父上が大納言でいらしたでしょうか、今の藤原氏で最も将来を嘱望されている、同年の中将殿がいらっしゃると。
いずれ藤原の名を負って立つかたになるだろうと。
「ええ、この春になったばかりです。
佐為殿がご存知とは、思いませんでした」
「そんな!
宮中で中将殿を知らない方はいらっしゃらないでしょう?
私のような者にも噂が届くほどですから」
「とんでもない、
佐為殿の方が名をしられていますよ、
中将なんていくらもおりますが、
帝の囲碁指南はほんのお二人」
「しかし、私の召抱えは最近です。
先任の方がいらっしゃいます」
「それでいてさえ、佐為殿がお呼ばれになったのは、
才能の為でしょう?
……ああ失礼、
先ほどから名前でお呼びしたりして」
「いえ、構いません。
氏が同じでは藤原、とお呼びになるのも不自然ですし」
「そうですね、
では私も…」
「私は地下のものですから、
どうぞ佐為、と呼び捨てに」
「…………」
「どうなさいました、
中将殿」
「…いいえ、
この後、ご予定がおありになりますか?」
「私ですか?」
「ええ、
宜しければ、私にも指南をお願いしたいのですが、
不相応でしょうか?」
「いえ!私のようなもので宜しければいつなりとも……
…もしお力になれるのなら」
「佐為殿でなければ」
「…中将殿は、いつ頃から囲碁を?」
「いえ、嗜む程度です」
「そうですか。
ではじき帝とも置石なく打てるよう、
尽力致しますね」
「帝と?」
「ええ、帝はとても上達がおはやいんですよ。
とても熱心でらっしゃるし。
指南役が増えるかもしれません、私と先任の方だけでは、
情熱におこたえすることが難しいくらいですから」
「…………」
「…これから伺えばよいのですか?
門に、牛車を待たせてあるのですが……」
「え、ああ、
そうですね…少し用が残っておりますので、
私が後ほどお宅に伺います。
うちはなにかと、あわただしいもので」
「わかりました、ではお待ちしていますね、
中将殿」
「……ええ、
佐為殿」
私を渡殿まで見送って、
中将殿はすこし、こうべを傾げてほほえんでいらっしゃいました。
袍の八藤丸の文様が、ひどくあざやかでした。
私は、足早に渡殿をすぎようとしました。
しかし気紛れな風は、
それを拒むように私の袖や、髪をあおるのでした。
横顔をかくすように長く髪が流れたので、
それは返って良かったかもしれません。
きっと私はひどく、
おかしな顔をしていたのですから。
それなのできっと、
あの方は私をいつまでもいつまでも見送ってらしたのですから。
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