■ 平安朝の、要らん知識、いろいろ


□ 平安時代とは?

実を云わなくても在原はまるで日本史音痴で、日本史に関する資料が家にありましぇえん。間違ってても怒っちゃいやんです。
幾つになっても学習する意思は必要で…(なら学生の時やっとけアホ)

ええと、平安時代とは時代呼称のひとつ。8世紀末から12世紀末に到る約四百年間を、政権の 所在地、平安京によって名付けたもの。
なくようぐいすへいあんきょう、ですね。
いつ始まっていつ終わったかっていうのは諸説あるが、普通781年から1185年と解釈する。ふーん、知らなかったなあ。まあ大体四百年、でいいや。(受験生の皆さんはちゃんと覚えるように)
で、四百年もあったわけだから血沸き肉踊るレキシドラマがあったんだが、この頁の趣旨じゃないので(っていうか単純に知らん)割愛。
とにかく平安時代というのは現在までの時代区分で最も長い時代であり、時代を荷っていたのは貴族達であった。
そしてその名の示す通り割合に争いの少ない時代であり、芸術文化が栄えたんであり、その作風は時代を反映してか穏やかであり、大陸風ではなく国風のものであった、と。


□ 平安京ってなあに?

本当はカンム天皇は平城京のあとに長岡京をつくったんである。
しかし色々と縁起の悪い出来事があったりしたので、やめちゃったらしいんである。
それなので山背の国(後、山城に改名)に巨大な計画都市を作った。
超余談ですが、この縁起でもない事件の所為で、カンム天皇はすっごく縁起に気を使って都を選んだらしい。
風水ってやつですが、東西南北にあてはめた四神にのっとって、北は比叡山、東は鴨川とかいうように守護対象のある場所を選んだっていうのですが、本当かどうかはわからない。
ちなみにこの考えというのは江戸遷都の時にも反映されていて、風水的には東京なんてめっちゃくちゃな場所だったのを神社つくったりなんかして一生懸命磁場を安定させたらしいです。
しかし京都ってなんとなく居心地がよく、東京ってどこにいても居心地が悪いって云うのは磁場なのかね。

閑話休題。平安京について。
まず平安宮(へいあんきゅう)という宮城(きゅうじょう)が平安京の中央北部を占めていた。
内部には内裏と諸官衙が群立していた、と。 内裏には後宮という帝のおくさんたちの居る所がありました。(ずるいなあ)七殿五舎の12殿舎で成り、宮廷文芸の場となったらしいが、…佐為とかは…どこに泊まってたんだろうなあ…<をい。 やっぱり囲碁の指導に熱が入っちゃって、遅くなったりしたら内裏に泊まったんじゃないかと思うんだけど…ええと、諸官衙には八千〜一万にのぼる貴族、官人たちが出仕していたそうです。
内裏の正殿があの有名な紫宸殿、別名南殿(なでん)。
この紫宸殿の南階両側には当初梅と橘が植えられていたんだが、梅が枯れちゃったのを機会に桜に改められている。これが「左近の桜、右近の橘」で、在原でも識っている。
ところで万葉などをみると、日本で「はな」と云った場合には梅を指していたんであるが、(中国も同様。或いは梨)このころからはなといえば桜を指すようになった。国風文化ってやつですね。
まあいいや。で、紫宸殿の西には天皇の日常居所である「清涼殿」があった。
コレは天皇が死ぬたびにぶっ壊して組み替えたらしい。遷都の名残らしいが、勿体無いね。
そして清涼殿の南廂(ひさし)を「殿上の間」といった。
これは会議室或いは控え室みたいなもので、昇殿を赦されたものがひかえる場所だった。例の桜と橘の直ぐ前だと思っていただければ。(画像がつかえれば図をのっけるのに(泣))
ので、ここに入ることを赦された四、五位の者を「殿上人」といい、赦されないものを「地下(じげ)」「地下人(じげにん)」と云ったりした。
身分を、そのひかえる場所であらわすというのは「閣下」「陛下」なんかと同じですね。上様とかもかな??
んで、四、五位より上の者は公卿と呼ばれ、勿論昇殿できた。
公卿というのは大臣、大納言、中納言、参議及び三位(さんみ)以上の貴族。公家のこと。
殿上人の人数は『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』では25人、六位を含めても30人と定められたのだけれど、後には100人近くに増えたらしい。
藤原佐為が仕えていたのが何天皇であったのかは明記されていないが、彼も恐らくここにすんでいたのである。うらやましいことである。(平安京が)
しかし当時の内裏はたびたび羅災したので、仮の住まい「里内裏」が皇居になったりしたので、現在の京都御所は東洞院土御門殿だそうです。


□ 狩衣についての謝罪。

間抜な在原は彼の髪型に惑わされて水干じゃねえかとか云ってたんですが(恥)、
水干というのはまあ狩衣から発展したもので、前を袴の中に入れた軽装。
云い訳がましいですが、平安後期になるとこの男子平服である水干を女性が纏い、 歌舞をするという「今様」が流行しました。彼女たちを「白拍子」といいます。
平清盛もファンで、仏御前とか祇王とかも白拍子から清盛の愛人になったのです。
で、白拍子の魅力というのは今様の斬新な節回しだけではなく、「男装」という点にもあったんじゃないかと在原は思って居る。
立烏帽子に白と赤の目にも絢な水干姿…髪形は長い束ね髪(烏帽子の外)…すっごくセクシイではないでしょうか。
そう。藤原佐為の格好と同じなのです!(袴の色は違うけど)


□ 佐為の髪形。

男性が立烏帽子をかぶる際には、肩くらいまでの髪をひっつめて結い上げ、帽子の中に入れておくのです。(冠下という髪形。殿様髷みたいなもんです)
が、佐為は腰まで(!)の髪を、一応結ってはいるものの殆ど垂らしています。
当初、ヒカ碁をひろいよみしていた在原は、彼を「水干姿の女性」だと思い、
その誤解が尾を引いており、アレを水干だと…
どうもすいません(こぶへい)。
しかしそれにしても彼の髪形は異様(失礼)です。
当時、少年少女は髪を伸ばし、「ふりわけがみ」にしていました。
振り分け髪というのはワンレングスで、真中でわけた髪形。
伊勢物語にも幼馴染の男女が振り分け髪の長さを比べあったことが出ています。長髪だったわけです。
元服すると男性は髪を結い上げ、冠をかぶります。それを「初冠(うひかうぶり)」という。
大体11〜15才くらいですが、元服というのは「成人式」なので政治的問題で元服ができないこともあったのだ。
例えば在原業平は、天皇の孫にあたるやんごとない血筋にも関わらず、権力争いに負けた家柄だったので24まで元服ができなかった。当時の24っていったらイイトシである。
24まで成人とはみなされず、冠をかぶれず、長い髪をしていたのである。(結ってはいただろうけど)
ボンノーですね!!!(もしもし?)<だから在原氏が好きというのも有。
ええと、そういうわけで藤原氏(名門)でありながら権力的には恵まれなかった彼は、業平のように「元服をしていないのではないか?」ということも考えました。
ちなみにあの髪形は束ね髪。いや勿論女性の髪形。白拍子もしてた髪型よ。
未元服の場合は烏帽子をかぶるわけはないのだが、帝の指導にあたるので無帽では失礼である、とか…
むむむ、謎です。この辺は後日藤原佐為論で。
ちなみに束帯、衣冠の際には烏帽子じゃなくて冠をつけました。ヒカ碁でも帝は冠をつけてますね。
束帯、衣冠については↓で。


□ 佐為の衣装。勉強しました!新事実発覚!(笑)

狩衣です(笑)
正確には、狩衣とはあの上衣のこと。佐為で云うとあの白い奴。
ですが後には「狩衣装束」(つまり上下フルセット)のことも「狩衣」と呼ぶようになった。
そのフルセットの内容は(通販みてえ)
烏帽子、狩衣、当帯(あておび)、衣、単(ひとえ)、指貫(さしぬき)、下袴(したばかま)、扇、帖紙、浅沓(あさぐつ)の10点セット。(以下、資料によって差異があるもんで見逃して下さい)

元々は上代(万葉、記紀の時代)に民間服であったものが、平安時代に貴族の狩のスポーツ・ウエアとして用いられ、公家の常服として定着したのが10世紀ころだと考えられているそうです。
つまり佐為の生きていたのは平安中期以降というわけですね。
狩衣の特徴は、袖と身ごろが離れていて、袖くくりの紐(つゆ)があること。
つゆは15才以下は毛抜形(不明。毛抜のさきのようにぴったり合わされた布地のことらしい)、若い者は薄平組(不明。薄くて平たい紐か?)であったという。少なくとも佐為は15歳以上だろう。
そして盤領(まるえり)で、脇を縫い合わせず、(縫い合わせた衣は縫腋袍(ほうえきのほう)という)括袴(くくりばかま)を用い、裾を袴の外に出して着た。
指貫というのは袴の一種で、すそに組緒をさし通して、足のくるぶしの上で結んだ、活動的な袴。
単というのは下着のようなもので、裏地のない着物のこと。
浅沓というのははじめは皮製に黒漆塗、後には桐を彫って黒漆を塗り、甲の内側に綿入りの白い平絹を入れ、底に衣布を張ったものになったそうです。どっちにしてもすごく歩きにくそうだなあ。

この辺は問題ないですが、
問題が出てくるのが烏帽子と襪(しとうす、或いはしとうず)です。
烏帽子というのは帽子の一種で、風折烏帽子、折烏帽子、侍烏帽子など時代によって様々なかたちのものが有りますが、当時狩衣に用いられたのは「立て烏帽子」という、円筒状の烏帽子でした。
佐為がかぶっているのもコレですが、これはモノの本によると「殿上人以上が」用いたそうなのです。
(この件に関しては後述)

そして襪(しとうす)。
コレは今でいうくつしたのようなものなんですが、
モノの本によると「衣冠(束帯の略服)、直衣(勅許を得て着る、参内の時の通常服)の装束では、老齢または病弱の時に限り、勅許を得てはいた」とあるのだ!
続けて、「したがって、礼服、束帯以外の装束では素足。」当然、狩衣装束のときも素足に靴を履いたのです。
さて皆さん、ヒカ碁の1巻、3局の表紙をみましょう。
ハいてます。
襪は、礼服の時では錦、それ以外では白絹だったようですが、佐為、しろい足袋はいてますねえー。
ん?足袋??
そう、アレは襪ではないのです。何故なら、襪とは現在の足袋のように指が割れていなかった、靴下状態のはきものだったのです。
うーん、小畑っち、どうした(笑)
なので江戸時代、秀策が
「佐為殿、いつも素足では寒いでしょう」
「いえ、私は幽霊ですから」
「いいえ、これをおはきください」
とかいうこころあたたまる(そうか?)会話があったということにしときましょう。

そしてもう一つ、超重要なポインツが。
狩衣とは貴族の普段着であり、宮中には出入りできず、例外として蹴鞠の際には認められた。また、貴族の微行、野外への出行または院参の時に用いた
がーん。


□ 佐為の衣装からうかがえるその身分と背景。

そういうわけで、囲碁指南役を決める御前試合で狩衣を着るなんてありだろうか。
とかぶつぶつ云ってたら友人が有職の資料を教えてくれました。
(一般人はユウソクの意味なんて知らなくてよいです(笑))
友人曰く、

狩衣は公家の私服なので、当然参内は不勅許であったわけですが、武官系の地下官人には公服たりえるものであったそうなり。
実際に漫画を読んでないのでよくわかりませんが、芸能関係の人々などは地下でも殿上の間への出入りが許されていたので、そういうひとにとっての公服は狩衣であったと考えられます。
また、院政期に上皇の譲位後、狩衣(烏帽子)着用の儀式である御布衣始が行われるようになってからは臣下は烏帽子(直衣・狩衣)での院参が可能になり、院政期以降は狩衣が院参装束となった。
て書いてあった。


つまり、
1:佐為は武官系(対:文官)の地下(対:殿上)人である。
2:官職のない芸能人である。
3:院政期以後の時代背景である。

のいずれかの場合、佐為の狩衣装束は肯定されるのですが、これには各々弱点があります。

1:囲碁指南役が武官を勤めたのか?(あの優男が(笑))
2:前述したように、立て烏帽子は殿上人がかぶるもの。
(しかし帝の前で無帽では失礼であるということはありえるが、身分のない芸能人に帝が指導されるということは、メンツ的にまずかったかもしれない)
3:話において帝の発言権が強く、御前試合が行なわれたことから、院政期というよりは政治が平穏(親政)で国風文化まっさかりの「延喜・天暦の治」あたりではないかと(友人が云ってた)。

えっと、教えてもろたんですが、院政期ってゆーのは貴族社会から武家社会の転換期だったので、のうのうと囲碁打ってる場合ちゃうそうです。
みんなまったりと囲碁観戦してたし、村上帝くらいの時代を想像するのが一番自然なんじゃないか、と日本史な友人が申しておりました。

注:「そんな、史実に忠実なまんがなのかあ?」というツッコミを一度しちゃうと切りがないので、一応、小畑っちはすっごく勉強して、忠実に描かれているということにして話を続けます。

そのため、ごく普通に思い描いてきた、佐為=殿上人=五位以上の貴族という説はかなり曖昧になってきました。
藤原氏でありながら殿上人にもならず囲碁でほそぼそとごはん食べてた貴族という佐為の新解釈がうまれたわけです。
(藤原佐為考にもかかわる重要なテーマである!)

ちなみに本来重要な儀式以外、宮廷では「衣冠」と呼ばれる服装をしました。
重要な儀式の時には「束帯」という服装をした。
衣冠は束帯の略装で文官、武官の区別はないんですが、束帯は文官は裾を引いて笏を持ち、武官はヤナグヒ(字が出ません…)<矢入れ。をさしてたりというなんかすごい格好です。
で、ギャラリーの皆さんはどうやら衣冠姿のようです。
「衣冠」というのは「狩衣装束」のようなトータル・コーディネートで、
曰く、冠、縫腋袍(ほうえきのほう)、指貫、下袴(したばかま)、浅沓(あさぐつ)からなるもの。
手に持つものは笏。作中のギャラリイズも笏を持っていますが佐為とライバルは扇です。
ちなみに檜扇ではなく、蝙蝠扇で、これは狩衣のときには蝙蝠扇(かはぼりあふぎ)と決められていた譚です。
ヒオウギというのは檜の薄木でできた扇。女性用のだと美しい絵がかかれていたりした。
カハボリアフギというのは今の扇子と同じで竹に紙を張った扇。
いやあ、佐為は蝙蝠を手に持っているのだね♪<超どあほう。


□ 襲色目と文様

ところで、平安の装束を語る時に避けては通れぬ襲の色目です。
これは衣を重ねるときや衣の表と裏の配色を云うもので、季節の自然美との調和が重んじられ、マクラノソーシとかにも「三月にもなって「紅梅」の襲なんてダッサ!」とか書いてあったような。
佐為の単と狩衣の色合わせも多分それだと思うのですが、狩衣には色柄の規定がなく、その為に普及したという一面もあるので一概には云えない…(面倒だなあ)
それに佐為の単はカラーによって違って困ります、が、青の方は「菊」が一番近いかと。表は白、裏は紫。
紫といっても当時の紫は限りなく紺に近い色です。これは秋の襲色目で、紅葉散り、彼岸花が咲き、薄が風に吹かれていた一巻の描写を見るに、彼が御前試合をし、入水したのは秋であるらしい。
しかし二巻表紙では赤である。むむむ???
とか思ってたらこれまた新事実が発覚しました。
平安時代や有職をかじったことのある方ならご存知だと思うのですが、襲色目というのは「「紅梅」といえばコレ一つ!」と決まっているものではないのです。
地方差なのか時代差なのかわかりませんが、沢山の説があり、「**や++や@@を用いたもの」という漠然とした説明をされるものなのです。
そして当然、人気の有る襲色目ほど多様のバリエーションを持っていて、「菊」もその一つなのです。
(がっくり)
調べたところによると、表が「白」であることは共通しているのですが、ウラは「紫」の他に「青」「蘇芳」なども用いられたそうなのです。
以前ここで書いていたように、「表白、裏紅」で「雪の下」という冬の襲色目、「表白、裏蘇芳」という「紅梅」という春の色目も存在し、「おいおい小畑あー、そらねえだろ」とか思っていた在原が愚かでした。
偶然かもしれませんが、確かに「表白、裏赤系」の「菊」襲色目も存在していたのです。
このことによりますます、小畑大先生のデザインした佐為の、一見けったいな装束や髪形も信憑性をおびてきてしまったのでした。とほほほほ。

衣の話が出たので更に混乱する事実を一つ。
狩衣には色目の規定がないことは前述しましたが、年齢、四季によって様々な色目、文様地質が用いられたそうです。
そして恐ろしいことに、五位以上は織文、六位以下は無紋………
佐為の狩衣、織り模様ねえ…(漫画だから省略しているということを鑑みても)
ヒイイイイ、ひょっとしてこれは佐為が六位以下であることを示唆しているのか!?(泣)


■ まとめ。

10年ぶりくらいに勉強しまくって追加しましたが、いかがだったでしょうか。
最後まで読んで呉れた方がどれだけいらっしゃるのか甚だ疑問ですが、
一生懸命書きました。SSより苦労して(笑)よんで呉れた人、有難う。
佐為のことについては後日、藤原佐為考で書きますが、これまた超要勉強なので、
書いてはいるんですが難航中です。とほ。