■ 藤原佐為考


□ はじめに

(しょっぱなから論文形式ではじまる。いやーんなかんじー!)
形式はアレですけど軟らかく行きましょう。在原は論文なんてだいっきらいっすから。
えっと、まず確認しておきますが、藤原佐為っていうのは架空の人物です。
原作者であらせられるほったゆみ先生がお考えになった人物でありましょう。
性別は、男。
在原は一目みて女性(しかも白拍子)だと思ったのですが、男性。
未だに読者の中には女性だと思って居る人がいて、99年のクリスマスメールでも彼は「よく女の人と間違われるんですが、一応オトコです」とか云っちゃってああっ!カワイイよ可愛すぎる!!!!
……ってなもんですが、男です。


□ 佐為性別論

まあクラピカさんとちがってそう云う論争はないんですが、一応佐為が男性だという根拠を述べてみましょうかいの。
1:服装。
以前、平安時代の要らん知識コーナーで書いたんですが、狩衣というのは男性の装束です。
平安後期から鎌倉にかけて、「白拍子」という芸人が水干(狩衣の一種)を纏ったのも男装であって、一般人や勿論貴族はしなかった。ダンサーだからこそ許された格好なのですね。道化師の変な格好と同じようなものです。一目でカタギじゃないことがわかるしね。

2:名前
割に有名な話ですが、平安時代(っていうかもっと後にも)女性には基本的に名前がありませんでした。
いや、呼名はあったんだけど、正式にはない。
「源氏物語」作者紫式部も、「枕草子」作者清少納言も、官名に通称をつけたもので、清少納言は正式には「清原元輔女(きよはらのもとすけのむすめ)」って云いますよね。
当時の女性は**の娘、とか**の母という風にしか呼ばれなかったんである。だから更科日記の作者も「菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)」。蜻蛉日記の作者は「右大将藤原道綱母(うだいしょうふじわらのみちつなのはは)」彼女は「ふじわらのともやすのむすめ」とも呼ばれるんだけれど、普通は身分の高い身内に付属して呼ばれる。
天皇のおくさんとかになると名前ありました。紫式部の仕えた中宮「彰子(しょうし)」、清少納言の仕えた中宮「定子(ていし)」等。
で、この例を見てもわかるんだけど、女性には苗字はなかったです。基本的に。
苗字を継ぐのは男性で、しかも長男。次男三男も名乗るんだけど、跡継じゃないから養子に出されて苗字がじぇんじぇんちがうとか云うことは後世ますます盛んになりました。明治くらいまであったです。
乃木大将の弟とかもそうじゃなかったかな。
閑話休題。
えっと、そう云う訳で「藤原」姓を名乗り、「佐為」というあきらかな名前のある彼は、どうやら間違いなく男性であるようだぞ、と。
すごく碁のうまい女性が男装して囲碁を教えている可能性は、多分ない、んじゃないかなあ。


□ ふじわらの・さい?

超どうでもいいんですが、在原蝙蝠は「ありわらのこうもり」と読みます。
決して「ありはらのこうもり」ではないし「ありはらこうもり」でもなく、「ありわらこうもり」でもない。
これは在原の筆名が平城天皇の血を継ぐ業平と同じ在原氏(ありわらうじ)から取っているためで、当時は苗字と名前っていうのが不可分であったから「の」がつくわけです。
だから「ふじわらさい」じゃなくて「ふじわらのさい」。
で、「在原」も「藤原」も「あり」+「はら」、「ふじ」+「はら」なのにどうして「ありわら」「ふじわら」なのかというとコレが例の「音便変化」ってやつで、歴史の中で「云いにくいじゃあん!」つって変わっていったものです。
だから昔は音便というのはなかったのです。恐らく「藤原氏」も「ふじはらうじ」だったのかもしれないし、藤原佐為も「ふじはらのさい」だったのかもしれない。
この辺は不明。今では「ふじわらのみちなが」って云うもんね。
でも古い人だと、「ふじわら」じゃない!「ふじはら」だ!とかに拘っていたりする。俺も同じです(笑) しかし言葉って変わって行くものだしね。
またもや閑話休題。
苗字はまあ「フジハラ」或いは「フジワラ」でよいとして、今度は下の名前です。
「えっ!?サイでしょ?」
そうです。原作でも「さい」とルビが振られていますが、ここで一つ上の段落に目を移して頂きたい。
『中宮「彰子(しょうし)」、清少納言の仕えた中宮「定子(ていし)」等』の辺りです。
ここの読みに注目していただきたい。そう、音読みなのです。
訓読みすると前者は「アキコ」さん、後者は「サダコ」さん。道長は「ドウチョウ」とは云いませんよね。
基本的に、当時は訓読みが基本だったので、ショウシ・テイシじゃなくてアキコ(あるいはアカイコ)・サダコだったんじゃないかと習ったような。高子はタカコ、或いはタカイコ。なにしろ読みの資料は残っていないが多分そうだったはずです。
例:業平(なりひら)行平(ゆきひら)家康(いえやす)信長(のぶなが)等。
家系図とかをみていくとわかるんですが、男子の名前は軒並み訓読みです。
「実資」とかを訓読みしろとか云われても「さねすけ」と直ぐは読めないよねえ。
この名残かどうか知りませんが、今でも男性の名前って当て字的で読みにくいのがすごく多い。
「*央」で「*チカ」とか読めとか云われても困ります。

当時はすべて訓読みであった(国風文化だから)
という法則に則ると……そうです。「サイ」は変。。
訓読みしなければなりません。「佐為」は「スケタメ」。
つまり「ふじわらのすけため(あるいはフジハラノスケタメ)」が本名だったと考えられます。
えーっ!なんでよ待って!という声が聞こえます。


□ では何故「サイ」なのか?

多分、日本史に詳しい方はこう仰ると思います。
「音読みで呼ばれる場合もあるだろう。シンチョウコウキとか、ギケイキとか」
そうなのです。
「シンチョウコウキ」とは「信長公紀」、ギケイキは「義経記」であります。(勿論本当はノブナガコウキ、ヨシツネキ)
じゃあ何故この二作品は信長と義経を音読みしているのだろう?
これはしばしば、男性作家が本名の音読みをPNにしたように、一種の愛称です。
名前の音読みをニック・ネームにするとかいうことは、最近は少ないですが一昔前にはよくありました。親しみを込めて呼んだものです。(最近出てきた、塔矢オヤジの本名(行洋)を「こうよう」と読むのはそれじゃないかと思うんだけど<棋士としての名前っていうか)
アベノセイメイ<(スーパー陰陽師)だって「あべのはるあき(ら)」が本名と思われます。 藤原定家(ふじわらのさだいえ)<(スーパー歌人。かなりサイケなひと)がテイカと呼ばれるのもそれなのです。
そう!サイもその類と思われる。
彼の本名は「スケタメ」、俗称として「サイ」。
もっと例を挙げてみましょう。
例えば藤原佐理(ふじわらのすけまさ)。
えええっ!誰だそいつ!!!!!?
そう、そういうやつがいたのです。


□ 藤原氏とは?

貴族、武将というのは家柄や名前を非常に大切にします。
息子は父親や祖父や伯父の名、或いは父の上司の名の一字を貰うなんてことがざらであった。
もう一目見て兄弟!一目見て親子!
徳川の「家」とか豊臣の「秀」とか(大体コイツ家柄買ったし)在原の「平」とか(もういい(笑))、ところで秀吉の「秀」は光秀から来てるんだってさ。へえー、しらなかったなあ。
そういうわけで、平安時代のオリジナル・キャラクタアに無謀な名前はおいそれとつけられないんである。 佐為は「藤原」と云う名家の苗字がばしっとついちゃってるので、藤原一族と関連のある文字を入れないと、どうにもリアリティがないわけであります。

ここで、藤原氏について学んで見ましょう。(安心してください、おれが一番ヤです(笑))
えーっと、今でもフジワラさんはわんさかいらっしゃいますが、これは大化改新後、天智朝に中臣(なかとみ)氏から出た貴族で、鎌足が病死寸前に賜った姓だそうです。<元々は地名。
奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり、平安時代になるとそのうちの「北家(ほくけ)」が摂政や関白を独占し、歴代天皇の外戚(母方の親戚)となって、平安中期は藤原時代と呼ばれるほどに繁栄した。
道長の、「この世をば我世と思う望月のかけたることもなしと思えば」って奴ですね。
伊勢物語にも宴に招かれた業平が「藤の花にちなんで藤原氏の繁栄の歌を詠んでくれ」とかいわれて、いやーな顔をして「私はなにも云わずに立ち去りましょう。この場に私と同じ考えの人はいないのだから」とか詠んでかえっちゃったとかいう話がありますが、このバカ、そういうことしてるから政治的に恵まれないのだよ。(この、媚びないアーティシズムが好き)


□ 藤原北家

えっと、↑にもあるように、平安初期の藤原氏というのは四家に分かれ、それぞれに栄達を競っていました。 南家(武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)、京家(麻呂)だそうです。
しかし南家は仲麻呂(恵美押勝)が出たために打撃を受け、式家は種継が長岡京造営中に暗殺され(前に平安京のとこで書いた不幸な事件のうちの一つ)、また種継の子らは薬子の変を起こし、京家では麻呂の子の浜成が桓武即位の当初に大宰府へ追放されたあと活躍する人材がなかったりしたので、光仁朝の永手以後は目立たなかった北家から内麻呂が出て平城朝に右大臣となり、続く冬嗣、良房、基経の三代で他家を完全に圧倒した、と。
ふー。前に平安朝のこと調べてなかったら全然わかんなかったよよかったあ…<バカ。
桓武帝っていうのは長岡京を諦めて平安京をつくったひと。
平城帝(へいぜいてい)っていうのは業平のおじいちゃん。在原氏は彼の血を引いています。

で、藤原佐理っていうのも「北家」の人だった。↑にでてくる良房の四代あとの子孫。
もうちょっとわかりやすく云うと、彼は平安中期の公卿で、生没年は944−998。
摂政・大政大臣実頼(さねより)の孫で、夭折した左近衛少将敦敏の子というから、かなり恵まれた家柄ですな。
961年、従五位下に叙し(17で殿上人)、侍従、右近衛少将(左より偉い)、五位蔵人(天皇の傍でいろいろする人)左右中弁などを経て、978年、34才で参議、以後兵部卿、大宰大弐、皇后宮権大夫などとなり、正三位にのぼった。
ひょえー!超エリートです。しかも結構長生き。(当時は幼児の死亡率が高く、平均寿命は20代)
ちなみに性格は奔放で、宇佐八幡宮との紛争で大弐を免ぜられたりした。
この辺も佐為にはじぇんじぇん似てない。あいつ出世には向かないし、めそめそしてるし気は小さいし(そこが可愛いのだが)。
しかあし!
歴史的には似てないからこそ、彼がモデルだったんじゃないかと思われるんである。
つまり、彼の人生をうらがえしたものが佐為に近いのではないだろうか?

ちなみに、一つだけ佐理と佐為の間には共通点がある。
藤原佐理(ふじわらのすけまさ)は、書家だったのだ。アーチストつながり。
彼は三蹟(さんせき・平安朝の名書家)の一人(他、小野道風(おののみちかぜ(俗にとうふう))、藤原行成(ふじわらのゆきなり。道風の書体を受け継いだ))であり、通称を「さり」と云った。

ますます、えええええっ!である。


□ Who is Sari ?

いやあ、おれは知らなかったけど、佐理って有名な人だったのですね。
実はもう一人、藤原佐世(ふじわらのすけよ)という平安中期の学者がいるのだけれど。
彼は式家の出身、すっごく頭がよくて、宇多天皇が藤原基経(↑にでてきた)に与えた勅の『阿衡(あこう)』の語について「実権のない地位」であると進言、勅の筆者である文章博士(自らもそうなんだけど)橘広相(ひろみ)とはげしい論争を行なって、天皇と広相を屈服させたとかいう。ひえー。
これは『阿衡事件』と呼ばれていて、日本史の人は知ってるのかもしれない。
しかし佐世は跡継を残さなかったらしく、式家は彼の大伯父の8代後、明衡で断絶している。
また佐世は生年が不明(没年は898)、佐為の時代背景とはすこしずれるんじゃないかなーと(多分10世紀辺りかと)いうことで、佐世モデル説は却下してみました。
ちなみにスケヨをサヨ、と呼んだという説は見ませんでした。
他に「佐」とか「為」のつく人はいなかったので、まあ佐為≒佐理説ってことでお願いします。

そういうわけでフジワラノサリ、である。
テイカの例もそうだけれど、アーティストが音読みで呼ばれることはままあったらしい。
そして彼の筆跡を『佐蹟』(させき)といったりした。
佐理の筆跡だから『佐蹟』。「アムラー」、「キティラー」みたいなものか…?
書芸は生前から名高く、一条天皇も大宰府に赴任していた佐理にはるばると手本を求め、また入宋する僧侶に託して、日本書芸の代表として佐理の筆跡を贈ったという。
で、そういう有名人だったので、性質が歴史書である『大鏡』に書かれています。
なまけもの(懈怠者)とか、だらしない(如泥人)とかあるが、それは一種の芸術肌と云えなくもないらしい…三蹟の一人、藤原行成の書が悪くすると卑俗の気を生ずるのに比べ、佐理の書は気骨を見せたところがあるとか。
大宰大弐としての任地から都へ帰る途中海が荒れたが、それは伊予の三島の大明神が佐理をひきとめるためで、扁額を揮毫(きごう)(<字を筆で書くこと)すると海が凪いだという逸話があるらしい。おそるべし、佐理。
在原も彼の筆跡を見てみましたが、確かにきっぱりはっきりとしている…(と思う)友人曰く、「絵みたいで読めない」
でも小野道風や藤原行成に比べて資料が少ないですね。それに彼の手によるといわれる草仮名は概ね信じられないそうです。


□ 佐為はいつの時代の貴族だったのか。

時代背景とか、史実に忠実なわけえ?というツッコミがきそうですが、とりあえず以前に書いた「平安時代考」もこの「藤原佐為考」も、「小畑先生とほった先生のおかきになることはとりあえずすべて正しいのだ!」という前提においてすすめております。
だって「漫画だし」つったらきりがないからね(笑)

そういうわけで、佐為がいったいいつの時代に生きていたのかということが、どーしても必要になるわけですが、この大前提こそ、最も決定しがたいものだったりするのです。
平安時代というのはとっても長くて事件が少なくて変化が少なくて、その上佐為の回想シーンなんてすごく少ない。ちょっとでも歴史的背景がうかがえる発言があればいいのに。
なので、在原は友人に相談したり資料をひいたりしまくり、大体の時代を設定してみました。
それが10世紀です。
根拠としては、
1:佐為のモデルとみられる佐理の時代が10世紀であったこと。
2:平安時代で囲碁が盛んだったのは10から11世紀であったこと。
3:院政期から上皇の力が大変につよくなり、天皇の権力が衰えること。
が上げられます。

3については、どうやらヒカ碁を見る限り、天皇の発言力が強そうだったこと、権力の流れが、「天皇→藤原氏→上皇(院政)」だったことが一応根拠です。
平安基礎知識でも触れましたが、院政期というのは武家社会への転換期の時代でもあり、世情が不安定で、御前試合どころじゃないんじゃないか、と思われまして。
そして藤原氏全体の力がつよかったなら、あれしきの事件で、仮にも藤原氏である佐為があっさりと失脚することは考えにくいんじゃないか、と。

平安時代が風雅な時代といっても、政治的な権力争いは常にあったのだねえ。
じゃあ、その国風文化が最も栄えたのはいつだったのだろう?
政情が安定していたその時代ならば、囲碁指南役決定戦とかいうのんびりとした(失礼)争いが御前試合として行われることが自然なのじゃないか?ということになりました。
するとそれは、「延喜・天暦の治」ってことになるらしいのです。
国風文化全盛のこの時代は親政(天皇が直截政治をすること)だったから、その天皇の囲碁指南役なんてすっごいことだった。それならば、あのちょびひげくんが権力に執着してもおかしくない。


□ 延喜・天暦の治とは?

「えんぎ・てんりゃくのち」と読む。(ぢでもいい)
友人曰く、「10C前半、醍醐天皇及び村上天皇時代の政治。醍醐天皇は父宇多天皇の意志を継いで、天皇親政を実施。
その子村上天皇も親政を行ったので、後世、天皇政治 の理想とされ、それぞれの年号をとって延喜・天暦の治と呼ばれた。」
だってさ。
『延喜式』とか律令も完成され、『古今和歌集』も作られた時代で、代としては、60代醍醐→61代朱雀→62代村上帝。
ってことは醍醐帝の即位年897年から、村上帝の死亡年967年がそれにあたり、さらに佐理の生年が944年であったことを参考にすると、佐為の時代というのは村上朝ということになる。
10世紀だし囲碁全盛期だし時代は穏やかだし、んもうぴったり。
ってことで佐為は村上帝の先生。
そう決めました。納得しましょう(笑)


□ 佐為と佐理

藤原佐理が佐為のモデルだとして、共通点と相違点をあげてみました。
共通点は:
貴族であった。
アーチストであった。
才能を帝に認められていた。
一歩譲らないところがあった。

対照点は:
出世しなかった。
姦計にはまって左遷された。
のを苦に夭折した。
後世にその名がのこらなかった。
奔放というよりは繊細で神経質。
(動揺負けするし)

容貌とかは資料が残ってないのでどうしようもないんですが、比べてみるとやっぱり似てないところの方が多いですね。
じゃあどこが根本的に違うのかといえば、やっぱり決定的に、政治的手腕がゼロに近かったことでしょうか。
佐理も、大喧嘩で左遷されたりしてますが、これは佐理の方が悪い。
でも佐為は売られた喧嘩を、後先も考えずにうかうかと買い、しかもウデはあったくせに精神攻撃に惑わされて負けて都を追われて入水!
坂をころげおちるような転落っぷりです。(なさけな)
じゃあ何故、彼はこんなにも情けない儚げな人生を歩まなければならなかったんでしょうか?


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