かくれんぼ



目を閉じたまま闇の中をまさぐると、
必ず白い布のはしがぼくのゆびに触れた。
さらに辿ってゆくと、
内側で息づく乾いた肌、
上下する暖かい胸、
僅かに開かれた赤い唇と、ぬれた二つの海がある。
 
僕は暗闇で身を起こし、暖かな海に自分の意識を投げる。
深く、深く、ぼくは小さな頭を抱え込み、
じれる舌で中へと入り込んでいく。

「セス」

「ホルス?どうしたの」

「おかしな夢を見たんだ」

「夢?」

「そう、とても、怖い夢」

「どんな夢?」

「分からない。
…忘れちゃった」

「大丈夫、もう一度眠ってしまえば怖くなくなるよ」

「でもセス、」

「おやすみ、ホルス。
目を覚ましても、僕が側にいるから」

「………目、閉じると…」

「え?」

「…おやすみ、セス」

ここ暫く、ぼくはずっとセスより早く寝付くことができなかった。
肩を丸め、顎をうずめる彼の寝顔を眺めながら、
ぼくは細く細く息を殺し、
白い布のはしを握り締めて眠りが訪れるのを待っていた。

眠りの間に、この身体からぼくは抜き出されて、
アトゥムがその体液を注ぎ込む。

この場所、ヌームを満たし、時を永久にとどめる生命の源。
この眠りによってぼくらは全身を濾過され、
砂時計を返すようにもとの身体へと戻る。

目を覚ませば、すべての細胞が入れ替わったぼくが居て、

「……おはよう、セス」

そしてまた、すべての細胞が入れ替わったきみがいる。

「もう、怖い夢はみなかったでしょう?」

「うん。有り難う、だいじょうぶだよ」

「ホルス……?」

「ん…」

「お前の、目……」

「え?」

瞬きを一つすると、片方の視界が幕を引いたように赤く染まった。

「痛…」

体液の色だ。
思いを通わせるため流すあの赤いいろが、
昨夜触れたばかりの瞳から流れている。

「……アトゥム!」

一瞬だけ、ふるえる手でぼくを強く抱いて、セスがそう叫んだ。
天空を覆った十字の中央に、大きなひとみが開かれる。
ぼくがこれをみるのは、どれくらい久しぶりだろう。

「ホルスが、目に怪我をしたんです!
何故ですか?」

目は、ひとまわりしてセスをねめつけた。

「瞳を損なったものは、この世界から追放されなければならない」

「アトゥム!」

「ホルス、忌まわしき世界に赴き、
忌まわしきものどもと、忌まわしき行為を為せ」

「………」

ああ、下界、か。ぼくは小さくそう思う。
遠い昔にかみさまが創り、そして見放した世界がある。
こことは違う場所。
なにかが違う場所。

「その行為は、彼等の生命の源。
それによってホルスの瞳は、再び光を取り戻す」

「…………」

その言葉を、セスはうなだれて聞いていた。
今まで、ぼくが見たことのない顔だった。
唇を噛み、顔色はいつもより青ざめて見える。

「セス。ぼく行くよ」

「嫌だ、危ないよ。下界なんて」

「うん、でもこの目がないと君と居られないもの」

「………」

柔らかい指が、躊躇うように頬を往復した。
ぼくの目を、まっすぐに見ようとしない。
まるで、自分の所為と思うみたいに。

ぼくは手を上げて流れる血をぬぐい、その色をみた。
多分、彼が思うほどの痛みじゃない。
だけど片目でみたそのいろは、いつもより確かに濁っている。
アトゥムのいうことは本当だろう。

この色が濃くなれば、やがてぼくは彼と触れ合う資格をなくす。
手のひらに滴りをうけ、微かに混ざる泡の粒。
味がいつもとはわずかに違った。

「わかったよ、行こう」

「…セスは」

「ひとりで行かせられないよ。
そうでしょう、アトゥム…」

「………」

「……セス」

「大丈夫、お前の目はきっと治るよ」

彼はいちじくの葉を取ると、ぼくの左目に強く巻き付けた。

「…………」

「大丈夫。
すぐに戻ってこられるから」





彼はぼくの誇りだった。
目をあけたさきにははじめから彼がいて、いつも彼がいて、
後姿を、ぼくは眩しいような目をして眺めていた。

ヌームは、安らかなところだ。
なにもない。

アトゥムとセスとぼく、そしてあたたかな水。
彼が片手を伸ばし、指をひらめかせると、
その水はさっと舞いあがってどんなかたちにもなった。
それは緑をおびたむらさきになったかとおもうと、
金を混じらせた黒になり、
空中でひとつ旋回すると、
つばめのようにまっすぐ落ちてくる。
そして彼の直上までくると、不透明な蜜蝋色をして散り、
そのしずくはやけにゆっくりと、
果実のようにぼくをかこんだ。

ぼくは彼から、いろんなことを教わった。
そらの飛びかたのように、その殆どは巧くゆかなかったけれど、

たとえば、おもいは体液に流れこむこと。
交わすとき、つらいくらいに互いが伝わること。
めのたまの表面から、周りの世界をかんじとっていること。
その微かな甘い膜がどんなにか掛け替えなく、敏感なばしょであること。
それだけ覚えていればそれがぼくのすべてだった。

アトゥムはめったにその目を開かなかったから、
ぼくにとって相手というのはセスだけだった。

「どうしてアトゥムはいつも目をとじているの」

そう尋ねたことがあった。
セスは首をかしげて、

「ねむっているようなものだよ。
昔は、あの瞳を始終あけていたんだけれど」

「眠いの?」

「…そうかもしれないね。あれは昔のことだから。
アトゥムは、ながいながい戦いを終えて、つかれてしまったんだよ。
いまは、お休み中なのさ」

「戦い?」

「たとえばなしだよ」

アトゥムはなんでも知っていて、誰よりつよいんだと彼は云った。
だけどぼくにとって、すごいのはセスだった。

ときどき、四角い箱を取り出して、下界のことも教えてくれた。
黒っぽい、四角い箱は、
セスが板の上の、ちいさなボタンを続けざまに押すと、
いろんなものが映った。
ぼくらに似た生き物がいることもそれで知った。

彼らは、ぼくらとあまりちがわないように見えた。
ぼくがそう云うと、

「アトゥムには云わないで置くんだよ」

セスはおかしそうに笑った。
教えられたのだけれど、
彼らとぼくと、なにがちがうのか今でもよく分からない。
ただ、彼らはたくさんだった。
ぼくらは二人だった。

「行くよ」

そう云ったのは、あの世界への興味も幾分あったのかもしれない。
赤い目をしたのりものは、どんどん早くなる。
ぼくはそんなことを思い出した。





やけに身体がいたい。

あつくながい槍が、絶え間なく突き刺さる痛み、
それが光なのだと気がつくのには、ずいぶん時間がかかった。
指の間から薄目をあけると、
人間のたくさん居るけしきと、
セスの肌を流れるくろい衣のいろがみえた。

…黒?

まばたきをくりかえすと、
膚と目のさかいから、切れ切れになったけしきの断片がとびこんでくる。

「………」

より分けより分け、ぼくはそのなかに彼のすがたを探した。
どんな、とおく離れたって、
このほしといっしょにコンクリに落としてしまったって、
きっときみの破片だけ、選び出せるとおもってた。

ぼくの視界の中で、きみだけが息をするものだった。
ぼくの世界の中できみだけが善いものたりえた。
きみだけが、…ぼくの存在を肯定してくれるようなきがしていた。

だからいつもきみを探してた。
名前をよんで、ゆびを伸ばして、
そしていつもきみは、悲しげにふりかえった。

「大丈夫?セス…」

流れ込んできた体液は、いつもよりずっと冷たかった。
そうしてどうしてか、その肩はずっとずっと細く、震えていた。

「…からだ、重いね」

「うん…苦しいの?」

「目がよく見えないし、音がすごく……重たい」

きつく目を閉じ、彼はあたりをふりはらうようにした。
長い髪は、細くひかりを絡めて、あんまりしなやかに景色を引き裂いた。
…ぼくはすこしだけ、ことばを無くす。

「……ホルス、もっと、静かな場所に行こう」

「危…」

駆け出したうでを、ぼくは急いで引き戻した。
傍らからかけてきた、滑らかでおおきなものが、
彼に触れそうにして止まったのだ。
そして、高くおおきな声をはりあげる。
……ぼくに、わからないことばを。

「なに?」

「……行こう、セス」

どこかへ、行かなければいけないと思った。
あのくろい曲面に、立ち尽くした彼がしろく映ったことが、
どうしようもなく苦しかった。
ぼくに引きずられてく彼の足はもつれ、
息をきらせては不安げに顔をあげる。
空気の所為か光がつらいのか、布を巻きつけるようにしていた。

ぼくは、やわらかな手をきつく握った。

「………」

堅い地面のうえに、足音がたかくうたった。
髪がといかける、衣がうでを絡める。
ぼくらをつなぐ掌は少しずつ熱くなり、そのうち溶けてひとつになった。

傷口も合わせないのに、
振り向きもしないままぼくにはくるしげな彼の表情がわかったし、
あたりを見渡す心の震えが伝わった。

「………」

ぼくはますますはやく、とおくにと駆けた。
この世界をこの肩が切り裂いてゆく、
そばから白い歪みが後ろへたなびいていく。

どこまで行っても、なんの変わりも見えないけしき。
けれどぼくが息をするたび、なにか思いかけるたび、
景色のどこかが少しずつ入れ替わる。

視界がきれる場所、
そこから一枚ずつ、なにかがはがれ落ちてゆく。

そしてその向こうに、もっと強い光、もっと青い空、
もっと鮮やかな、ひとの声がする。

「………………」









「……さっき」

「え?」

「ぼく何か悪いことしたのかな」

「………うん」

「怒ったような声だった」

「…ここまでくれば平気だよ、きっと」

「そう、だね…」

ぼくらは陰に腰を下ろし、乱れたいきをなだめていた。
膝の上にはセスのちいさな頭、
褪せたかおいろは、眠るときのように瞼を下ろしている。

「……」

ヌームにいるとき、ぼくらは白い衣をまとっていた。
長く冷たく、滑らかなしろ。

そしていま、セスの長い髪が鮮やかに散る、
くろい衣がぼくの身体を覆っている。

なにとはなく、こっちのほうが好きだな、とぼくは考えた。
くらべたこともなかったけれど、
こっちのほうがセスの白い顔と、髪の色が映える。

…そらから、真っ直ぐなひかりのいろがさしている。
薄闇のなかに、
不思議な蒼さをしてそらをふり仰いだかおいろと、
似ている気がしてぼくはその境目にみとれた。

ふたつの色は、
ぼくの目のなかでどちらからともなく浸食し、境目を消す。
冬の窓硝子がとけだして、ゆきと凍り付くみたいに。

…そしてせかいの始まりのような不安定のなかに、
ふとはじめのひかりがふたつ、ぼくを見あげる。

「ねえ、この世界にもアトゥムがある」

「…うん。気付いてた」

ヌームの空を覆ったのにくらべればはるかに小さい。
だけど、町に並ぶさまざまの交わりのかたち、
知らず、視線が中央に引き寄せられるあのちからは、
ぼくらの見知ったアトゥムにまちがいがなかった。

「アトゥムは……」

「………」

「ぼくらは、どうしたらいいんだろう」

「……うん…」

「わからない、よ…」

ぼくは困って、額に手をおいた。

「アトゥムのそばに、行ってみようか」

「……そば?」

「ほら、すぐそこに、アトゥムが輝いている」

「………ああ」

人間が一人、くろい布を前に腰掛けていた。
あの場所ににた闇色の上に、
いくつものちいさなアトゥムが、大きなアトゥムを形作っている。

そらをおおきく暗く封じ込めるぼくらのアトゥム。
陽炎のさきにみえるアトゥムは、それと逆の色をして、
銀色に輪郭を広げながら、たしかに少しずつ、こちらに立ち上がっていた。

「……ほら、ね」

ひとつを取り上げて、ぼくは彼へかざした。

「本当だ。アトゥムだね」

「………」

「どうしたの、ホルス」

「うん、…でもこれはなんだろう。人が…」

「え?」

「アトゥムの上に、人が」

「…そうだね、なんだろう」

「あの、瞳なのかな。
ぼくらにいろいろなものを呉れる、アトゥムの心臓」

「アトゥムが、ぼくらのような姿を?」

「それとも、このひとはアトゥムを隠しているのかな」

「どうして隠すの?」

「分からないけれど…」

「…………」

「セス。
このひとは、悲しそうな顔をしているね」

「………そう?」

「ほら、みてごらん」

「……」

「ひょっとしたらこのひとは、アトゥムのうえに縋っているのかもしれない」

「……彼に、訊いてみようか」

「そうだね。
…ぼくが、話してみるよ」

彼の指はぼくの頬に触れていた。
ことばは、遠ざけると、すぐに冷たくなってしまう。
ぼくの肌よりもまだ暖かかったきみからのことばが、
ぼくの指からしたたるときにはもうただの、体液になってしまう。
ただ少し赤いだけの。
ただすこし、美しいだけの。

『うわ、ああぁぁぁ…ぁあっ』

「?」

ぼくの手を振り払って、そのひとは額を押さえた。
指の間から、彼の、
ぼくとは交わらなかった言葉があふれ出している。

行き場のない、体液。

立ち上がると足が彼の血にすべり、ぼくはとっさにセスを振り返った。

「…彼も怒っているのかな」

呟いた足元をみる。
あかい体液は、まだ彼には触れていない。

「逃げよう」

また、ぼくらは駆け出した。
道には、ぼくのあしあとがあかくついてゆく。
左の手でもう一度彼の指を繰り、
右の手でつまさきからはねた血をぐいとぬぐった。
セスに彼の体液を、触れさせたくなかった。
その足跡を、あかくしたくなかった。

「あ、ホルス…」

ながい髪を風に乱し、血溜りをふりかえるセスから、
肩の布が一枚ふわりとはなれた。

「おいで」

呟くと、とりのようにそれはもどってくる。

ぼくより、セスはなんでもできる。
ぼくよりはやく生まれて、ぼくよりかみさまに愛された。

「……」

アトゥムに重なる人の姿。
両手をひろげ、悲しげにうつむいた顔。
……拒まれる、ぼくの体液。




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