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かくれんぼ 2 辺りはあおいろに覆われはじめていた。 ぼくらの身体は楽になり、その代わり目がきかなくなる。 夜は、いつもなにも見る必要が、 見ることができなかった所為だろうか。 …この片目も? 「ぼくら、どこに行けばいいんだろうね」 「…あ、セス、見て」 「…………」 「あの屋根、アトゥムがいる」 「……うん」 「アトゥムと、丸い輪が真ん中で重なってるよ」 「……輪?」 「今夜は、あそこで眠ろう? あれは、アトゥムの真ん中から放たれた光じゃないかな」 「………瞳の光?」 「そうあの、あおいひかり」 鍵はすぐに開き、乾いた重い扉を開くと、 外の騒がしさの信じられない、固体のような夜がそこにはあった。 「しずか、だね」 「だれも居ない?」 「うん…なにもみえないけど……」 「点けるよ」 ふっとあかいいろが天井に渦をまいて、 飴色にひかるシャンデリアに蝋燭の火がゆれた。 「ここにも、大きなアトゥムがあるね」 「ああ、…本当だ」 そらの一番高い場所から、 雨漏りのよににじみ出した夜の色が、 壁一面の窓硝子から透いてみえた。 その前で真っ直ぐぼくらを見つめている白いアトゥムは、 ぼくらがここにきてから見たなかで一番おおきくて、 ぼくらは少し、安心した。 「大丈夫、セス?まだ目が痛いの?」 「平気…すこしだけ」 明りをともしたうでをゆっくりとおろして、彼は床の上にからだをのばした。 しぐさを、乱れる裾を指で追い、ぼくは側に膝をつく。 「ここでは、なにもかもちがう」 「うん…」 「これから、どうなるんだろう」 「……心配ないよ」 真下からみあげるように微笑み、セスは無花果の葉をやさしくなぜた。 「ホルスの眼は、きっと治るから」 「セス」 ひとつくらい、でもほかにはことばがでなかった。 ただ代わりに、遠慮なく床をいろどる髪を絡め、舌先に瞳をふれさせた。 「…こわくないよ」 夜のあいだぼくらの体液は、アトゥムの引力のせいでとても濃くなる。 首や背をそれはゆっくりと伝って、 うつぶせにしたくぼみを押しひらき、長い間ふれることができた。 木の床はすこし甘い匂いがして、あお向いた僕が眩しいと云うと、 セスは笑って片手をあげた。 …明りがなくても、こんなに濃いいろをまちがえるわけがない。 ひかりはこんなとき要らなかった。 「やっぱり、ぼくはこっちのほうがすきだな」 「なにが…?」 「黒のほうが、……セスに似合うよ」 「そうかな、ホルスも似合うよ?」 「ううん、……セスのこのことば、 ぼくなんて比べられないくらい綺麗だもの。 しろい指にも頬にも、こんなに流れているけど… ほら、衣にはついても分からないでしょう? セスのことばがそぐうのは、セスの肌だけだもの。 衣は染まらないで、 あかの映える肌をきわだたせて呉れたほうがずっといい」 「…そう、かな」 「しろいのも綺麗だけれど、 もしこんなよるに、体液を触れさせるなら」 「ふうん…」 「もっと、…呉れる?」 「……うん」 このふくの色のせいかもしれない。 気持ちをつたえるのはこんなに苦しいことだったかな? ほんの短い間きみのことばがきけないだけで、 胸がぐるぐるまわってる。 (もっと、お願い、きみのことばをぼくに頂戴?) 小さい泡を吹いて、きみのくちもとからあふれる言葉の滴を、 両のゆびさきでぼくが掬いあげる。 舌先ですすり上げたぼくのくびすじを、 きみの爪が探り出してあかく濡らす。 ……ずっと、そばにいるんだと思ってた、 なにもかわらないんだと思ってたぼくらの距離は、 あの眼に触れない今こんなに近くなり、ぼくはきみのためいきの香に眩暈する。 「なにを、かんがえてるの?」 「アトゥム…」 「………」 セスはゆっくりと、窓のそばの白いアトゥムに手を伸ばす。 ぼくらをいつも見つめていたあの眼。 あの場所からもうずいぶん遠く、 見つめられないこの身はうまくうごかない。 もどかしさにきみを見つめれば、きみの姿はこんなにも遠く、 ぼくは、きみの眼のいろも忘れそう。 この場所で息をして、 この光に目を焼かれ、 一歩づつ、きみが遠ざかる。 「あのひとみたいにアトゥムに重なれば、何か、みえるかな?」 「そんなこと…」 「ホルス、はやくあの場所に帰りたいね。 …ぼく、だんだんなにも分からなくなる。 あとすこしで、なんのためにここにきたのか手放しそう」 僕のほうはもう振り返らずに、 しろいアトゥムにはいのぼる、 あかい掌の模様が上へ上へとちりばめられて、ぼくはその胴に取りすがる。 「……なんで、そんなこと、云うの」 セスはアトゥムの前に立上がり、両手を羽根のように打ちつける。 「この交わりの真ん中から」 「………」 「いつもぼくらを見つめていたんだね。 …いま、こうしてホルスをみおろすと」 「なに?セス」 「なんだか不思議な気持ちがするよ」 ほほ笑む、右の手でぼくの顔を優しく包み、 のばされたままの左手はしろい板の上、かすかに震えてみえた。 「……細い。こんなに、軽かったんだね」 僕はしろい板とひとまとめ、うでにつよくちからを込めた。 さっきひらいた傷口に、さらなる痛みがよみがえる。 傷はつけられたときよりも、ひらかれるときがつらい、なぜだろう。 …ときを巻き戻し巻き戻し、ぼくらは生きている。 きのう辿ったきみのうで、 今日もあしたも処女の怯えが、 『 好きだよ、そばにいてね 』 勇気をつみあげた今日はじめての告白も、 僕が生まれた朝、口にしたのと同じことば。 僕らは目を覚ますたび、 『 はじめまして 』 を云い交わす。 「ホルス、きみってこんなに暖かかった、っけ…?」 おともなく雪がまちをころすように、 僕にやわらかな欠片がふりつもる。 日々という、目にうつるながれ。 ものの塊、おもい浮かべたこと、 はげしい逆巻き、平坦ないろの連なり。 それを払う羽根ぼうきはもうここにない。 きみを抱きしめた痛みはどれほどたっても消えないし、 試みにきみを抱き上げれば、存在をふちどることもできる。 「ぼくと同じ形のはずなのに、 どうしてこんなに違って感じるんだろ?」 「……もっとずっと小さいと思ってたのに。 きみのうでがこんなに心地いいなんて思わなかった」 耳元に彼のはなさきがふれる。 首にまわされたうでが、ほんのすこしだけ寄り添って、 ぼくのいきはとまってしまう。 絡み合ったくろい布のうねは、どちらのものかぼくは分からない。 つつまれれば、この場所も。 覆うなら笑顔まで。 「…みせたいものが、あるんだけど」 柔らかい絨毯をふんで、窓の前まで彼はぼくのそでをひいた。 「ほら、これ。とてもきれいじゃない?」 「ほんとだ。いろが沢山、これはひとの絵かな」 「ひとを腕の中に抱いてるね。ベールをかぶってる」 「これは女の人だね。抱いてるのはこどもだよ」 「ふうん、どうして抱くの?」 「さあ、たいせつだからかなあ」 「……ぼくは、セスのこと好きだよ」 「ぼくもホルスのこと好きだよ」 「…ね、変なんだけど」 「どうしたの?」 「前にも、きたことがある…気がする」 「…………え?」 「この世界に。…なんどか」 「なんで?まさかあ、冗談だろ」 「ん…どうだろう、そうかもしれない」 「……」 「わからない。 ただわからない」 窓はあかないまどだった。 ただ向こう側のなにかのひかりのために、 硝子のうえの宝石のようないろが、床と、肩と、肌におちている。 「これは木だね」 「……」 「あかい実がなってる」 「セスはたくさん知っているね」 「うん。少しだけ、この世界のことは」 「……アトゥムに尋ねたい」 「なにを?」 「すべて、を」 硝子のあかに舌でふれる、 それはすこしも甘くはなく、けれどなんの苦みもなかった。 この果実は、いったいどんな味がしたんだろう。 「さっき光の中でみた、 …この世界の小さなアトゥムは」 冷たくなった舌を、絡ませる口元が云う。 「なにかを答えてくれるだろうか?」 「悪い、夢なんだよ」 いきを弾ませ、肩を押しひらきながらぼくは夢中で云う、 なにが云いたいのか、自分でも分からない。 「……ゆめ?」 彼の目は、どこを見てるんだろう、 アトゥムを見つめるときも嫌だったけれど、 問いかけの悲しい目もなにかとてもこわい気がする。 「そう、夢なんだよ」 あたらしい傷をつける場所をまさぐりながら、ぼくはうわのそらで答えた。 体温はふたたび上がりはじめる。 と、ぼくをとらえていた、セスの腕がゆかにおちた。 「………セス?」 「ああ、つかれちゃった………」 とうめいな笑顔に、こたえることができなかった。 背中に腕をまわし、ぼくは駆り立てるように自分をつきうごかした。 なにか確かめられるように、手に入れられるように、 …ひとつでも、こわさずにいられるよう、に? ____________________________________ からだを丸め、並んでねむりながらぼくは幸せなゆめをみた。 ぼくらはふたりとも、しろくておもさのない衣をきてる。 ぼくの両目はきいていて、だけどやっぱりこの世界のこの建物にいた。 ここにあるアトゥムはちいさくてつめたくて、ぼくらを見つめない。 夜は続いてる。 ぼくは二股の階段の右にたって、セスはその向かい、左側にたってた。 階段の交わるおどりばには、二つの燭台があった。 あたりは暗くて、なにも見えない。 ぼくはおどりばに向かって歩きだした。 セスはぼくを見つめてる。 ぼくは燭台を手にとった。 燭台は銀で、蝋燭は三本。 ぼくの手元はあたたかに、 ぼくの衣は溶けだしたほのおのいろになる。 (きれいだな。) ぼくはそのまま真ん中の階段を降りていく。 この明かりの色は、深い蒼に凍り付いたこの場所の、 どんな場所にも映るんだろうか? 夜のいろは、アトゥムのいろ。 どこまで歩いても同じ場所へつながっている。 きみがゆびさきで舞い上げた炎、 めを閉じてもきみどりの残像が痛い。 このいろを胸に抱えれば、ぼくはどこまでいけるだろう? …からだは、ヌームにいたときのように軽く、 おとがいを上に向けると、ぼくのつまさきは絨毯をはなれる。 ぼくは浮かんで行きながら、もう自分の意思でもなく部屋の中を漂い始める。 ほのおは揺れ、ときどきぼくの肌をかすめる。 痛みはない、肌より少しまさったねつがあるだけ。 ふと横をみると、ほのおをかおいろに揺らせたセスがいる。 …しろい衣も、やっぱりとても似合う。 それはそうだろうな、アトゥムが彼に選んだいろだもの。 ぼくは、彼と同じ色を着てるだけ。 ゆかを引く裾をすこしからげるようにして、瞳はとてもしずかだ。 あのときと同じ。ぼくはとても嬉しくなる。 よかった、なにも変わってなんていなかったんだ。 ぼくは踊り場でセスを待った。 見ると、テーブルには、まだ燭台があった。 二つ並んで。 取り上げてもなくならないし、置いてもやっぱり二つのまま。 「ホルス」 セスが階段を上がってくる。ぼくは手をのばした。 「行こうか」 彼が燭台を置き、ぼくらは手をつないで一つの階段をのぼった。 ……うまれるまえから、ぼくはきみの鼓動をしっていた。 ____________________________________ 目を覚ますと、セスがいなかった。 体液を洗われないからだは、 意識がおきてもなかなか暖まらない。 ぼくはかたい床と、かすかなひびわれたおとで朝を感じながら、 瞼をひらけず転がっていた。 いつも、彼がぼくを起こしてくれた。 暖かなみずに包まれて、気付けぬくらいゆっくりアトゥムのまわりを漂いながら、 瞼だけ閉じていつも彼の声を待ってた。 手持ちぶさたに、ときに指先で彼の衣を繰り、 「………セス?」 けれど火の消えた部屋はつめたく、 昨夜とおなじくらいに薄暗い。 どうしたんだろう?あの強い光、 …太陽は、燃え尽きてしまったのだろうか? ゆかに散る臘の残滓のように? ぼくは駆け出そうとして、ゆかに倒れた。 足の先までねつがまわらない、ぼくの踵は立たなかった。 腕だけで扉までゆき、やっとノブをまわす。 吹き抜けの、広間にも彼はいない。 この足じゃ二階までゆけない。ぼくは部屋にもどって耳をすませた。 「…せ、す」 すこし寒い。きのうの蝋燭をすこしころがしてみたけれど、 ぼくには火はつけられなかった。 ぼくはアトゥムを見上げた。 ゆかのうえからみるアトゥムは、とてもとても大きく感じる。ただしろくて、 「かみさまぼく、火がほしいな」 息がくるしくて、横になった。 そとからは相変わらず、やわらかななにかの音が続いてる。 目を閉じて、 それら幾つものおとのすきまにこまかくしたぼくを、 一つずつ一つづつおいてゆく。 するとぼくをうごかしてるたった一つの心臓はずいぶん軽くなり、 靄のような頭の痛みも、 ぼくが小さくなっただけわかれていった。 ぼくはこの音のひろがる、とおくとおくまで輪郭をひろげていく。 もっと高く、もっと軽く、 空をおおいつくしぼくは、この世界で一番おおきなものになる。 天と地をとりもち光と闇をとりなす、アトゥムへぼくはちかづいていく。 この、浮遊感はなんだろう。 衛星のようにヌームのながれを漂うのとはちがう、この安心感はなんだろう、 アトゥムの体液にのまれていくのとはちがう。 ぼくにはもうぼくと、そうでないものの隔てはわからない。 ぼくが見上げるとなにもかもがそこにあって、 ぼくが見下ろすとそこになにもかもがみえた。 「………」 そして少しずつ目をあけると、 光を浴びた瞳孔のように、ぼくの存在はちいさくちいさく、 そしてとうとう白いアトゥムのまえに目も足もきかず、 倒れているひとりのぼくになる。 「………セス?」 扉のむこうで物音がきこえた気がした。 ぼくは急いで、這っていって扉を開ける。 「セス、どうしたのセス?」 中身がないのかと思ったくらい、からだは力なくやわらかく、 抱き上げると乾いた音をしてなにかがばらばらとこぼれおちた。 「濡れて、………この怪我は?」 緑色のくちびるが少し震えて、ゆびが必死にさぐる動作をする。 髪が、手足を植物のように絡めとり、 体液をもってゆかれたように肌はしろかった。 「…セ、ス」 そばでいきをたてたらこわれてしまいそう。 息をとめてかおを近付けると、小さくおもい息が、 それでも微かに感じられた。 ぼくはほっとして、からだをはなす。 ここじゃ風がはいるから、きっとへやにいれたほうがいい。 すこし迷って、たずねようとゆびをくちびるにのばした。 「歩け、る?」 ふちを、ゆびでたどるとすこしあいた唇が、 ぱっとはなのように紅くなった。 けれどかおいろはゆきよりもしろいまま、 …ぼくはゆっくりと、自分のてのひらをひらいた。 魔法がつかえるようになったのじゃないかとおもって。 「…………」 黒い布は、ながい髪のいろが映えるから似合うのだと云った。 体液のいろがみえないからすきだと云った。 彼の髪は黒い布に鮮やかに映え、 彼の体液は黒い布に静かに殺され、 どちらもぼくは好きだった。 けれど、ゆっくりと開いていく、 ぼくの手のひらがいまそれと同じ色に染められて、 なぜちいさなかおがこんなにしろいのか、 なぜほそい肩がこんなにつめたいのか、ぼくはやっと理解する。 片手だけでへやまで這いもどって、ぼくは自分のむねをひらいた。 ほかに熱をもったものが見当たらない。 「……ばかなことしないで」 微かなこえがうでのなかでした。 瞼がくるしげにゆがみ、突然暖炉に大きな火柱があがる。 彼はくちびるを噛んで首をあずけ、 ぼくは驚いて、揺れるひかりのかたまりをみた。 「きず、…塞がらないんだよ」 「セス」 どうしたらいいのかわからない。 座り込んでゆかをよごしてくぼくのむねの血、 これもふかなくてはならないけれどたぶん、一番いけないのは彼の怪我で。 ……だってぼくら、怪我なんてしたことなかった。 「さむい?脱がすよ、セス」 戒めを解いてゆきながら、はだに浮かんだしるしに顔をちかづける。 傷口は、額と肩と、背中。 それからあかいあとが、くびすじと手足のあちこちに。 「い、たい?」 「………雨が」 「あめ?」 「さむいよ…」 ぼくはふくを脱いで、ぬれた肌をそっと撫ぜた。 くびすじはぼくの踵よりつめたくて、 はだで直截ふれたりしたら、跡がついてしまうかもしれない。 肌にはりつく髪はゆかに散らせ、 傷は、…どうしたらいいんだろう、 目が覚めたらいつも、傷口というのは癒されてあるものだった。 「セス」 いつもするように、ぼくはそこに口をちかづけた。 壊しそうな、恐れがぼくのこえをささやきにする。 「…痛い、よね。 ぼく、怪我ってどうして治すのかわからない」 「うん………」 「いつもこうして触れて、眠って朝がくれば、ふさがるものだと思ってた」 「………」 「どうしよう、つらい?ぼく、どうすればいい?どうすれば、楽?」 「…いつも、するよう、に」 「……」 ぼくをみて、彼は壊れそうにわらった。 「泣かないで。大丈夫、火があるからあたたかいよ。 からだは痛むけど、…ここ、ヌームじゃないけど、 いつものように傷に触れて、いっしょに眠ろう? ……きのうみたいに、ふたりならんで、アトゥムの前で」 「…いやだよ、もういやだよ。 さむくても、火を呉れるのはセスだし、 きみが苦しくてもたすけてなんてくれないじゃないか」 「そんなこと、云わないで、ホルス。 …ぼくら、アトゥムがないと生きられない」 「なんで、わかんないよそんなの」 「くるしいんだよ。…そばにアトゥムがないと。 ぼく、ほらきょうもこれを取ってきて」 かたく、握ったてのひらからなにかが落ちてゆかで鳴った。 「これ」 「ちいさい、アトゥム。 これが一番気に入ったんだ。 きれいでしょう、真ん中にあかいいしが入ってて、丸い輪がついていて、 ほんとうの、アトゥムに一番にてるよ」 「これをとりに行ってたの?」 「ん。ほかにもたくさん、そでに入ってるよ。 それに、さっき幾つかこぼれちゃった。 …拾いに行かないと」 「…僕が、いくよ」 からだの上にふくをかけて、 ぼくは扉のまえと、濡れた服のなかのアトゥムをセスの前にならべた。 彼はほほ笑む。ぼくはほんの、少しだけほっとする。 「…………いたい?」 「大丈夫、…あたたかくしてくれたほうがいい」 「きず、なにかで縛っておこうか。 ふくを裂いて」 「どうして?」 「縛っておけば逃げられないでしょう? きずも、痛みもそうかなって」 「……ああ、そうだね…」 ぼくは額のほうから順番に、きずに触れては一つ一つ、布で覆っていった。 炎はときおり大きく舞い上がり、 彼に覆いかぶさるかげの起伏に、僕のほうが馴れずにおびえた。 踵のきずから起き上がるといつのまにか、 桜色のくちびるをして彼はねむってしまってた。 ぼくはしろいアトゥムに寄り掛かって、 ここからだとただのきらめきとしかわからない、 彼の拾い集めたちいさなアトゥムをながめた。 もう、夜なんだろうか。 ここに降りたときとは全然ちがう、 ぼくの呼吸する音と、かれの寝息が聞き分けられるくらいしずかだった。 窓は濡れて、曇り硝子から外をうかがうと、そらからちいさなみずがふってる。 「……………雨…?」 窓をつたう、しずくのひかりがぼくのはだにもうつる。 触れてはいないのに、ゆびで輪郭をたどられる、 かたちを確かめられている感覚が、たしかにあった。 硝子はつめたい。 ぼくはおとをたてないようにセスのそばに戻った。 上がりはじめた体温、僕は黒い布のしたにからだをすべりこませた。 上がりはじめた体温、それでもぼくのほうがあたたかい。 まだ硝子みたいなゆびさきをにぎる、 ぼくらのかおのあいだにはいくつものアトゥムが散らばっていた。 いろいろな大きさがある。 ゆびのつめくらいのものもあるし、てのひらくらいのものもある。 そのなかにはあのひとのついたアトゥムもあったし、 へびのからんだものもあった。 ほとんどがきらきらとひかる金属でできていて、 目のおくを眩ませるかがやきは、 ヌームのゆらめきのむこうに広がるあのすがたと、似ていないこともなかった。 「…………」 セスが好きと云ったのはどのアトゥムだっただろう。 たしか真ん中に、あかい眼のある… 「………」 アトゥムの目は、なにいろだっただろうか。思い出せない。 ただ蒼い光をのべていたけれど、 ひとみは青くはなかったし、 赤くもなかった。 なぜ、思い出せないのだろう。 そして、なぜセスは青ではなくあかい石のアトゥムを選んだのだろう? ぼくはふと思い付いて、軽くにぎったかれの手をひらいた。 「……………」 それはそこにあった。 関節ふたつぶんほどの、目を囲む光輪のあるアトゥム。 ぼくはそれを窓に透かせてながめた。 あかいいろ、ぼくらの体液を洗い出す生命のひとみ。 「もし……」 あの瞳のむこうがわをみることができたなら、 そこにはいのちのみなもとがあふれているんだろうか。 世界を統べ、力を支配する、ものごとのはじまりがあるのだろうか。 あかは恐ろしいいろ、 ぼくらのからだをめぐり、しはいするいろ。 いのちをあたえるいろ。 「……ホルス…?」 「あ、ごめん。起こした?」 「ん……なにをしてるの」 「…アトゥムを見てたんだ」 「……綺麗でしょう」 「うん……」 「こうやって、交わりの四隅にゆびをかけてね、」 かれは一つをとって真ん中をにぎるようにした。 「心臓にあてるでしょう? そうすると、触れたところからあのあたたかさが流れこんでくるきがする。 あの眩しいひかりもこめかみの痛みも悪い夢で、 もいちどふかいふかい、しあわせな眠りにつけるような気がするんだ」 「………」 「うん、気の所為だってわかっているよ?…だけどね、」 「明日は……」 「え?」 「ぼくも行くよ。だからもう寝よう?」 「………ホルス」 「たくさん、たくさん並べよう?かがやきが視界を縦横に切り裂くかたちに。 そでにもいれて、髪にもつけて、首をかざって手の中につよくにぎろう」 「……」 「…手足の先、まだつめたいよ。 だから今夜はアトゥムはここにおいて、セスの手はぼくが暖めるよ。…ね?」 「うん。…そうだね」 ほほ笑むまぶたにくちづけて、その向こう側にきずつかない薄茶の目を見ていた。 ゆっくりと上下する肩、呼吸のしかたがスイッチをいれたように変わり、 彼の目がかれの内側に泳ぎだしていったのをたしかめて、ぼくは上体を起こした。 手のなかには、握り締めたままのあのアトゥムがある。 ぼくはそれをちょっと見つめ、そして火のなかにつよく放り込んだ。 いったいそのことで、世界のなにが変わるというのだろう? >次へ <前へ |