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五条霊戦記(ごじょうれいせんき):

どういうわけだか、最近見に行っている邦画は「ご」がつくんですな。
そういうわけで五条霊戦記。
在原はナニ目当てだったか。アサノタダノブさん?
それもありますがなんというか、在原は中世という時代が好きなのです。
武士が台頭し始めた時代であり、同時に中古の闇をまとった時代だった。
世紀末。
今は20世紀末ですが、当時は19世紀末でした。
何故でしょうね、「セイキマツ」にはナニカがあると思うようです、人間は。
そして現代においては差し迫った危機感みたいなものはほぼなかったですが(ノストラダムスくらい)、
当時は末法思想というのがあった。
仏の教えが滅び、世の救いがなくなるというアレですね。
その混乱の中で、衆生は「なにか」に縋ろうとした、烈しく生きようとした。
故の血なまぐささが好き。

そういうわけで故事に則った話です。基本的には。
ミナモトノクロウヨシツネと、ムサシボウベンケイの話。
あと刀加治のナガセさん(役名失念<またか)がメイン。
だと思う。俺的に。

史実と違うところは、五条大橋で千人切り(いやらしいいみではない)をしているのが義経(当時は遮那王)だということ。
義経が鬼です。
ちょこちょこ違うところありますが、ナニが違うって義経が違う。とにかく違う。
判官びいき、という言葉の元になった義経の面影はない、殆どない。
影武者の少年と、家臣の青年二人を連れて、
黒い狩衣、指貫の裾に脚伴を巻いて、
烏天狗の黒い面。
「五条の鬼は源氏の遮那王ぞ」
と狩りに出る平家の軍勢を、飲むように斬る。斬る。斬る。
呆れるほど強い、見惚れるほど速い。
鳥のように身の軽い、それだけはイメージの通りですね。
「源氏再興の修行」と称して鉱山跡に潜み、平家武将を斬り、その刀を狩る。
でも本当は違う、
義経は、
狂っている。

確か、史実によると当時義経は20才以下、アサノさんはどうみても20以下じゃないですが、
その年の差を感じさせないのが彼ですね。素敵ですね、すごいですね。
だって影武者の子は15才なんだよ。
倍くらい年が違うんだよ。
でも不思議なんだよ、洞窟の隠れ家で、
真白な狩衣で座っている彼は、影武者の少年よりずっと清冽に見えるんだよ。
でも揺らがないんだよ。
そこが少年じゃないんだよ。
ゆらぎがないんだよ、人間なら誰でもある、仏門に入った弁慶の方がずっとゆれている、
でも義経は揺らがない、
霊戦記、に象徴される呪なら、弁慶の方がプロやのに、術を返されて動けなくなるのは弁慶だ。
弁慶は、18ヶ月もハハオヤの胎内にいて、生まれた時には3才くらいの大きさがあったという伝説がある。
鬼の子、と恐れられた彼なのだけれど、
彼は「俺は人間だ」という。
仏門に入るまでは極悪な盗賊だった弁慶、ある日五才ばかりの少年に斬りかかられる、
「誰だ」と問えば犯した女がのろうために産んだ子だという、
弁慶はその子を殺し、自害しようとして阿舎利に救われる。(初恋)
「お前は死んだ」と阿舎利は云う。
一度死んだと思えば何でもできるものです、人間は。
深いコトバだと思う。
「お前は死んだ」
いい言葉だ。

でも揺れる、ヒトだからゆれる、
義経がゆれないのは鬼だからだ。
鬼。
一族の再興を負わされて、
「御身はひとりのものではございません」
といわれる。
厭な言葉だ。
生は自分のものではない、と思うから迷いなく人を斬れる。
死さえ自分のものではない、と思うから人を斬る。
黒い仮面から唯一見える、
その冷たい目に弁慶は惹かれる。
弁慶は、夢枕に拠って鬼を斬りにきた。鬼を斬り、都を救おうとしていた。
奴こそが鬼だと弁慶は知る。
寺から盗み出した「鬼斬丸」もそのためのものだった。

だが敢えて在原は云う、
永瀬さんに「これなら鬼でも斬れる」と云わしめ、二度も砥がせておいてこの刀は二度とも折れる。
俺は、あっけないと思った。
どういう伏線じゃあと思った。
だからこそ俺は云う、
これは恋だ、と。

これは恋だ。
相関図で云うと、
永瀬>弁慶>義経。
というか誰も彼もが義経を求めていた。
弁慶だけじゃない、平氏もそう、源氏もそう、
求めるのイミは違いこそすれ、京の民衆も皆、義経を求めていた。
あの鬼、狂った男を。

主人公は弁慶だ。多分。
弁慶は鬼を斬ろうとしたという、
弁慶は人は斬らない。人に刀は抜かないと決めていた。
実際、義経を殺す気もなかったのだろう、「鬼」を、モノノケに憑かれた妊婦を祓うという場面もあるが、
丁度あのように、弁慶は鬼だけを斬りたかったのだ、
義経を、人にしたかったのだ。
阿舎利のように、なりたかったのだ。

二度も刀が折れたのは、弁慶が実は義経を斬る気などないということの現れ、
そして「義経」と「鬼」とは不可分だということの現れだ。

結局刀を喪った弁慶はまたもや阿舎利に救われる。

義経を斬れなかった弁慶は京を離れ、修行に出る。
「成仏させてくれ」と瀕死の僧に頼まれる、その手を彼は拒む。
「私にそのような力はない」
するとその僧の身体が燃えあがる。
義経だ。
義経が術で彼を殺した。
「我に挑め」(この作品のコピーですね)
義経の声がきこえる。
(なんというか、この作品がイマイチ人を引き込まないポイントとして、レイセンキというくせに「霊」の部分が徹底されてないっていうのがあるんだよね。
源氏がわと平家側の術師が祈祷対決するとこは面白いのにさ。)

弁慶が都にいない間、義経は聖職者をきってきってきりまくっていた(いやらしいいみではない)
僧、神官、修行者、仏像、ナドナド。
「神も仏もない」
義経は云う。
お前の拝む仏は無力だ、と彼は云う。
阿舎利も殺された。

弁慶は京に戻る、すると永瀬のいた五条橋近くの村は焼け落ちていた。
「末法」の絶望感で村人が騒ぎを起こし、ロクハラタンダイに鎮圧されたのだ。
だが、例の妊婦の子供と、永瀬だけ生きていた。
永瀬は弁慶をなじる。
しかし弁慶は決戦の覚悟を固める。
弁慶が修行の旅で学んだことはなんだったか?

無力、じゃあなかろうか。

とっくに、彼は僧ではなくなっていた。
義経が源氏なんかじゃなくなっていたように、
二人とも本来の指針を捨てていた、
ただ衝動に拠って動いていたんじゃないかと思う。
弁慶は、
夢枕のことも都を救うこともなにも考えていなかったのだと思う、
ただ鬼は、義経は自分だった。
嘗ての自分だった。 神などいない、お前の力を貰う、そう云って義経は阿舎利を殺した。
阿舎利は嘗て「お前は死んだ」といって自分を生かした。

自分は何者だ、
仏の教えを説くという僭越はもう彼にはない、
ただ「鬼」と呼ばれた怪力を以って、
義経に向かうしかない、自分は阿舎利にはなれない。
自分は無力なのだと知る。

義経もそうだ、家臣の言を蹴って、
身を清めるための断食に入る、
「もはや修行のためではない」
と彼は云う、源氏のためには生きない、という宣言だと思う、これは。
「なんの為の影武者だ」
と彼は云う、
源氏に必要なのは義朝の血を引く男子だろう、私ではない、という宣言だと思う、これは。

はじめからそのつもりだったんだろう、義経も。
もう二度と、「ミナモトノヨシツネ」になる気はなかったのだ。
元服をしないまま、その名は影武者にゆだね、
未元服(半人前)のまま生きて、死のうと。
遮那王のまま、
名を無くしてしまおうと。

死ぬための戦い、

だと思った。
鬼人のような、義経におされながらも弁慶が応戦できていたのは修行の所為じゃないだろう、
こころがまえだ。
剣技というのは、引いたら負けだ。
常に過剰なほど前のめりだから義経は強かった。
武器をいくつも背に負った、おなじみスタイルの弁慶はすごくすごく綺麗だった。
結局鬼斬丸はまたおれ、刀をいくらかえても義経は斬れない。
嵐がくる、
弁慶の肩を、義経の刀が貫く、
雷鳴が橋を包む、
弁慶は身を進めて刀を入れた。
刀に神鳴が落ちる。

あれは、
義経を殺すためではなく自分を殺すためだったのだと思う。
どちらかが生き残ることは有り得なかったし、
義経が鬼でなくなることも有り得なかったんだろう、
雷光に目を焼かれ、
あの赤子を抱いて永瀬が弁慶を呼ぶ、
何度も、何度も、何度も叫ぶ。

ああ、この恋も美しいと思う。
この恋も好きだと思う。

でも俺は、弁慶と義経がすきだ。
義経の方にはひとかけらの執着もない恋、
でも彼が替えのない彼自身であることができたのはあの一戦のあいだだけだった、
ほんの僅かの自分、
その間に自分を殺して呉れた、
弁慶をその瞬間愛しただろうと思う。

「我に挑め」
は告白だと思う、
鬼である義経が口にできた、
たった一つ対象物への率直な意思だと思う。

現実には有り得ないことだけれど、
神鳴にうたれた橋が一瞬に炎上する、
消えられたからいいのだ。
死の瞬間を、その死体を、
誰にも咎められないからいいのだ。

結局、
影武者が義経ということになり、伴の青年(この人も好き)が弁慶ということになり、
奥州へ彼らは逃れる。
でもそんなことはどうでもよいのだ、と観客在原は思う。

俺的には、この映画に描かれようとしたものは歴史ものではなくて、
誰も報われない恋なので。

映画でしかできねえなあ、この話は。
文章にしたら絶対売れないよ(笑)
というか席もすいてましたがね、大体わかりにくい。
これは俺的解釈だし。
ここまで解釈しないとどうこうできないといういみではエンターテイメントではない。
46点。

でも火のつかいかたがうまかったな、
映像美はよい。
鬼をてらすために、平家の放った火矢が橋へおちて、
イルミネイションのようにむこう岸まで橋を浮びあがらせるところとかはぞくっとしました。
あと永瀬んちで雑魚寝するとこの火皿の配置とか絶妙。
あとOPもよかったかな。
まあ評価すべきところはあるんだけどさ、後半胃が痛かったし…(関係無い)
弁慶とナガセサイドも色々あるんですけどね、
結局「人間」だった永瀬の話なのかな、生き残れたことを良しとするのならね。
ラストの慟哭は流石だと思いました。
あの声で呼ばれたら俺地獄からでも這い上がるよ。
愛する人を探せるっていうのはいいね。

「鬼」の居た時代だったけれど、「鬼」が生き続けられなかったっていう話なのかなあ。
世紀末、新世紀には鬼は生きられないっていうことなのかなあ。
とかいろいろ(そういうこと考えてるから胃が悪いんだという説もあり)




御法度(ごはっと):

ごはっとみてきました。
いろいろあるようですが、なんか俺はすごく勉強になった。
てれあさ(多分)でやってた、ドラマのしんせんぐみけっぷーろくのイメージが強かったんだけど、うむうむ、成るほど、主人公が変わったのねっていうか。
てゆーか、ごはっとの主人公って沖田じゃん。
(超俺的解釈)
いや、間違いないでしょう。扱いの大きさが全然違っているし(ドラマでは「あのふたり、キライだな」<ちょっと不服そうに。というくらい)、彼の言葉だの行動だのが、ヒジカタもコンドーさんも誰もつかみきることのできなかった、「隊に吹きぬけた一過の騒動」の起承転結を握っていると思う。
武士道とかって興味があるわりに、ちらっとしかしらないんですが(勉強しましょう)、オーガイの「阿部一族」思い出しました。<いいはなしだ。
これはまあ、お家断絶にされる阿部一族の話なんだけど、隣人の対応がさあ…(読んでない方はゼヒどうぞ。長くないし、例の文語体じゃないです(笑))
ああ、これを士道(武士道と士道はちがうのだよ)というのだろうか、と目からうろこがぼたぼた落ちたのよ。
ああいう感覚は、日本人独特のものかもしれない。全く理論的ではなく、けれど感情的、発作的な衝動とも遠い、……御法度のラストシーンの桜の散華が象徴していると思うのだけれど、「ただこの一時の誠実」っていうのかなあ… ああ、これは作中に出てきた雨月物語の「菊花の約(ちぎり)」にも通じるのかなあ。
注:上田秋成作、『雨月物語』の中の一章。
播磨の国で、病に倒れた侍を助けた儒学者の青年は、やがて侍と深い仲になり、義兄弟の杯を交わす。
しかし侍は出雲の国の騒動を収める為、軍学の修行に来ていた身であったため、国に戻らねばならなかった。
そこで重陽の節句(菊の節句のこと。9月9日)に戻る約束をし、侍は出雲に戻る。
やがて重陽の節句が来、青年は朝早くから酒と肴を用意して待っているが、侍は現れない。
深夜になったので、母を先に休ませ、若者は門のところまで出ていくと暗がりに人影がある。
よろこんで招き入れると、侍は酒にも手をつけず、沈んでいる。若者が問い質すと、
「私はこの世の人間ではないのだ」という。
侍が国に戻ってみると、謀反を起こした者が権力をにぎっており、侍は姦計にはまり、投獄されてしまった。
このままでは重陽の節句の約束を遂げることができない、と思った侍は「人一日に千里をゆくことをあたわず、魂よく一日に千里をゆく」という言い伝えを思いだして自刃し、魂魄となって冥土の風にのり、約束を果たしにきた、という話。
(ご法度では語られなかったが、この後、若者は侍の仇を討つ)

沖田がさあ、「作者も、このように、確実にしんじられる相手でなければ約束を交わしてはならないと書いていますが、私はこれを、衆道に身をやつした二人の物語だと思ったのです」(意訳)みたいなことを云うのよ。
御法度作中では、沖田は明らかに土方のことが好きなんだが、(ドラマではそんなことはなかったと思う。沖田役の某氏は俺は結構好きで、沖田の「快活で無邪気」な面の演技が俺は結構好きだったのだが、沖田の「純粋で残酷」という点においては魔性の美形、武田氏には如かないと思った。)彼の口説き方(という云い方が許されれば)は口説きではないのだよ。
肺労咳で死ぬことを知っているからなのか、天性の血がさせるのか、
一番いいたいことは決して云わないで微笑っているような男だと思いました。
在原は、「菊花の約」のたとえで沖田がいいたかったのは、「衆道というのは、(士道のように)一時の真をつくしてこそのものではないでしょうか、少なくとも私はそうありたい」だったんじゃないか……だからこそ、沖田は惣三郎を斬りに行ったのではないか、と思ったのだよ。
というのも、ドラマ(恐らく原作でも<読めよ)加納惣三郎を斬るのは土方だからなのです。
御法度では、土方が斬るのは桜の木。
惣三郎は沖田を懸想していたのだ、というオチ(これもドラマにはないんだが)、その惣三郎を沖田が斬る、というエンド、……やはり主人公は沖田じゃないっすか(笑)

ええと、加納惣三郎について。
BOBAりんも云ってたけど、「せがたかーい」「がたいがいーい」「顔がこのみじゃなーい」<これは個人のシュミでしょうが。とか色々不満があるようで(笑)
まあ勿論、「魔性」「美少年」という言葉の解釈は多分に個人の憧憬が投影されるから当然の感想ともいえる。在原も、これが藤原竜也くーんだったら映画館をとびまわってハナヂをまきちらしただろうといわれていますが、結局見終わってみたら、彼でよかったような気がします。
いや、演技力がどうのとか松田父がどうのとかは関係なくて(在原さんはお父上に感慨がない)、ほら、彼、やはり独特じゃないっすか……
藤原くんも武田くんも(しんとくまるつながり)魔性で独特で美形ですが、龍平君には更に「非人間」なところがあって、それが渚監督は欲しかったのじゃないか?とか勝手に思ってみたり。
たとへば、彼の笑顔。
アルカイック・スマイルというのですか?
「問いを拒む微笑」っていうんでしょうか、あれは生きた人間ができる微笑ではないでしょうとかおもったり。
あと、俺基本的にはキャスティングじゃなく脚本を「見」ているので……というのもあるのだけれど、納得しました、俺は(笑)

でもでもでも!!ビートたけしの土方は、そらもちろん「ええっ!」とか思ったけど、はまってると思いました。年齢的にも無理があるんだけどね、ほら、基本的に彼一人称の物語じゃないすか。
あのナレーショニングを聞いた途端、「あ、トシ(土方の愛称)」とすとんと落ちつきました。
ドラマの村上さんも、おっとこまえでぐーですが、土方はあんなに伊達な男っぷりではないと思ったので。
それから近藤さん。ドラマではわたりてつやで、さすがに太刀さばきはうっとり…でしたが、御法度の某方(名前を失念)はすごく、目が動くのだよ。話しながら。
当然、演技だと思うのだけれど、そこが「ぐああっ!総長!!」って感じでした。うーむ。プロ。
あと、ゲンさん(井上)の坂上さんもにあってたねー。
斎藤一が出てこなかったのはいささか不満だが、きゃすてんぐには不服なし!
伊藤(甲子太郎)の伊武さんもはまってたわー(笑)
ドラマの方の芹沢鴨もよかったけどね。

はっ、すいません。
歴史的にはわかりませんが、新撰組好きでさ(////)
いや、ほんとはくわしくないんだけどね。

しかし雅さんの(役名失念)「加納君、加納君」がかわいくってかわいくって、ついつい「すきです」とかいいたくなりました。

その加納君の解釈については……これまた色々ありそうなのでうかつにいえないんですが、
以前、ドラマ見てた時に知り合いの女性(在原とちがってちゃんとした歴史的新撰組・時代劇フリーク)と話していた時、
在原:「あれで襲ったり斬ったりしたってことは、抱かれたくなかったってことでしょ?」
彼女:「いや、そういうわけじゃあないんだよね」
つまり、「抱かれたくないわけではなかった、が、…
という解釈なのだ。在原はこれにすごく衝撃をうけ、且つ、納得した。
これも、一筋縄でゆかない士道の考え方に似てやしないだろうか?

確かに土方の云うとおり、「男たちになぶられているうちに化け物が住みついた」のかもしれない。
抑圧された憎しみが暴走したものなのかもしれない、けれど同時に彼は相手なしではいられなかった、んじゃなかろうか、と。
浅野忠信(役名失念)にいいよられて、彼は拒んでますよね。
でも結局、できてしまう。
これはまた、本心でもあったとおもう。
田口トモロヲ(役名失念)にいいよられて、結局彼は流されてますよね。
これもまた、拒むつもりはなかったのだと思う。
そして雅さん(役名失念<おい!(笑))にいいよられてると思ったときも、交わしながら結局は誘ってますよね。
吉原に行き、女には手もつけず、後に夜道で雅さんをおそうのは、
浅野さんに田口さん殺しの罪を着せる伏線でもありますが、「恥をかかせた」という意識がつよかったんじゃないかと在原は思った。
何故なら浅野さんと逢った最初の夜、浅野さんが自分に手をかけているのを知りながら、彼は正面へ寝返りをうち、横顔を見せたのです。
沖田に懸想をしていたというなら何故そんなことをするのか、と。
それが血なんですってば。ヴァンプの血、魔性の血。
自分に惹かれた男は、釣り上げて陸の上でびちびちいわせたい血(あぶねえ)。
田口さんは、計らずもそんな魅力にひっぱられてしまった一人じゃないでしょうか。
加納から田口さんにモーションをかけるということはなかったようだから。
彼はそういう…狙った獲物はかならずしとめてきたわけです。だからこそ、雅さんが自分を抱かず、女をあてがったことを「屈辱」と感じたのです。本命でなくとも。
じゃあなぜ、釣った魚である浅野さんや田口さんを死なせしめなければならなかったのか?
これも血です。
土方の言葉を借りれば「化け物」の血。
過去の男たちへの復讐に替え、自分を自由にしたものを成敗したい、血をみたい、人を斬りたいという血。 裕福な商家の息子が剣士になった理由を、彼は「人が斬れるからでしょうか」と云っています。
彼が血に飢えているのは、いわば「過去に流されるべき血」をあがなうためなんじゃないか、と。

本心ではそうと思っていないようですが、土方も沖田に惹かれています。
その土方なので、ふと、沖田と加納がなんらかの繋がりがあるような直感を抱きます。
加納は誰にもあかすことがなかったその相手は、沖田だったのです。
ではなぜあかさなかったのか?
あんな誘い方を知っている加納が、何故沖田にはそうしなかったのか?

では沖田はどうでしょう。
沖田は土方への好意をあらわしたか?
いや、最初にもかきましたがじぇえんじぇえんです。
目をそむけたくなるほどかなしい笑いを見せるくらいで。

在原は、加納と沖田は似ていると思いました。
本当には、沖田の喩えた「菊花の約」のような、音のなく、真摯な懸想掛をする人物なのだと思います。二人とも。
しかしかわべりで沖田の云う、「なんか、見てるだけで…声をきくだけでぞっとするっていうか」。
これは沖田が自分と加納との共通点、そして二人を絶対的に隔てている「化物」のことに気づいていたということじゃないでしょうか。
似ている、からこそそのズレが、狂いがわかる。
だから、気持悪い。

「きみとぼくとはちがう」

そう云いに、彼は加納を斬りにいったんじゃないですかね。
いいすぎかもしれませんが、この先も「自分が加納のようにならずに土方の傍にいられるように」、
自分の影である加納を、斬ったんじゃないか、と。

かんがえすぎかもしれましぇんが(笑)
士道って究極の精神愛だと思うので、在原はとっても好きです。
勉強になりました。

教授の音楽もよかったです。特にお寺に逗留しているときにきこえてくる、コーランのようなお経の響き。<あれは普通のお経ではないと思う、音楽的干渉が入っているのでは?
勿論秒針の音の印象的なテーマ曲も。
衣装もよかった。階級ごとに数の違う矢印型の線は、アメリカ軍軍服がモチーフ?

そういうわけです。60点くらい。