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NEO UNVERSE(ねお・ゆにばーす)
(注:なんだかとっても音楽に関係なさそうにはじまります)
先日、在原より5つくらい年下の子と、「ときめきトゥナイト」の話をしました。
これは少女漫画で、主人公を何代か変えて続いた話なのです。(今もあるのかな?)
そして、当然のことながら彼女がイメージとして持っている主人公と、
在原が印象に残っている期というのはちがっていて、在原は「じぇねれえしょん・ギャップだ!」と絶叫(大袈裟)したのですが、
よく考えれば在原ってヤな奴である。
漫画やアニメというのは、往々にして子供の頃に触れる場合が多いので、「その漫画を識っているか」という話題が世代を分けることが多いですね。
勿論、長生きしていれば自分のガキのころから今に到るまんが情報をすべて識っていそうなものだけれど、20過ぎてまで少女・少年誌を買っている大人は少ないし、「懐かしい」というある種特別の感慨を入れることはないから、年を取ればとるほど昔に知ったものが特別になるのが人間である。
実際には、その頃のモノは今のものと比べて秀でているわけでもなし、むしろ文化というのは進歩するもの(だと思いたい。ソフィスティケイテッドされることによりつまらなくなるのだとしたら哀しい)
だから、今のモノの方がよいかもしれない。
にも関わらず、我々はカコというものに執着する。
例のシミズヨシノリ氏のエセーに「ワカモノ」ということを皮肉ったものがある。
それは、90代のジジイから3才のガキに到るまでの、「イマドキノワカモノ」への不服不満が書き連ねてある。
90代のジジイは「今の社会を担ってるのなんて子供ばかりだ。本当の大人は日本に数人しかおらんのだよ」とかいい、
20代の女は「最近の若い子って、仕事なめてるんですよね。なんでもガマンしないっていうか。あたしたちの世代はちがうんですけど」とかいい、
3才のガキは「ぼくたちなんかとちがって、最近の子供って子供らしさがないと思うんです」とかいう。
そして最後のページには「『 』才」と、「(さあ、思う存分ワカモノへの文句をおかきください)」という白いページがあったりする。
なるほど、確かにすべての世代人は「ワカモノ」に不服を持っている。
これは自分の足の下に「ここから下がワカモノ」という白線を引き、「おれらはもう若くないからあ」という言葉と引き換えに、自分より下の世代の愚かしさを「ぼくたちオトナだもんね」という前提で「余裕をもって眺め」ようとする行為ではないだろうか。
しかしこれを以ってよし、とはどうしても在原は思えない。
何故ならこの態度…一見、確かに穏便でありオトナゲのある…態度は洗練されたものではあるだろう。
「貴様は若僧だからそういう失敗をするのだ!」
とわめき散らすよりなんぼか利口かもしれない。
が、
「キミ、ワカモノ」
「オレ、ロウジン」
という「線引き」は、互いの間に壁を築く行為のようにも思えるのだよ。
在原は20代です。
そうは見えないんですが(外はフけて、中は子供じみて)、しかしそうなのです。
決して年じゃないです。
いくら肉体年齢が40代でも(ほんまに)、20代というのは現代社会においては「若者」「青年」の部類に入るでしょう。
が、
青春というには年を取りすぎています。
シブヤのヒトナミを歩けば寄るトシナミを感じ、
山道をゆけばもうこれまでかと思います。
(ちょっと大袈裟だが)
在原的には5才くらいがひと世代かと思うのですが、
それは5才若い相手と話すと差異を感じることが甚だ多いからです。
10才違えばもうエイリアンです(かなり大袈裟だが)。
確かにワカモノと話すのは疲れるのです!
ワカモノと交際するのは大変なのです!
認めます勿論!だって俺は年の上にもよれよれな、
あらゆる意味でわかぶることのできない奴なのだから!
<努力しろ。努力。
つまり、こういった彼等との軋轢が、
「キミ、ワカモノ」
「オレ、ロウジン」
線引きによる高踏を生み、
軋轢の理由を足の下にある「白線」に託すことで楽になろうとするような…
実のところ、それは個人間の不服であるものを、
「我々」と「彼等」の
話へすりかえるような、
卑怯ではないかと思うのです。
もうひとつ、たとえばなしをしてみましょう。
清水氏はそれを「ワカモノ」でやりましたが、
すべての世代はまたあたまのうえに線を引いてしまえばその上に「オトナ」という別の世代を……
持っているわけです。
いいかえれば、ジジババどもを。
そしてすべての世代はそいつらに不服を抱いてるんじゃないでしょうか。
曰く、「アタマがカタイ」「責任を下のものに押し付ける」「非合理的である」「説教じみた」。
我々は「あいつら、トシだから」と云うことによって彼等との間にも線を引き、
逃れたがってはいないだろうか?
「ええーっ!蘭世わかんない?
やっぱわかいんだなー」
「なに、アラカン、
アラカンを知らんのかね。彼は全く見事だった。
それ以後の役者なんてみんなカスだ」
こんな話を振られた時にひとの感慨はひとつであろう。
「知るか、ボケ」
前述したように、人間は過去に執着する生き物である。
未来を欲しがるので過去との距離がたいせつないきものである。
未来が不安なので、
過去は常にやすらぎに満ち満てる、「なつかしい」場所である。
個人にとっては「個人の過去」が美しいものである。
したがって、世代の違う相手と「なつかしい」はなしをすることはできない。
時を共有することは「今は」もうできないのだから。
しかし彼等と我々が今まさにここにいるのならば、
今ここにあるものを共有することができる。
彼等が愉しんだのとは又違う感慨で在原は落語が非常に好きだし、
在原が愉しんだのとは違う思いでパーマンを観るワカモノがいるかもしれない。
それはひとつの可能性であって、
へだたり、というものではないのではないだろうか。
何故ならいいかえれば、
あのころ、
彼等が愉しんだのとは全く違う立場から、
やはりアリアに涙することができる。
彼は、彼等はもうここにはいないのに。
それは我々も彼等も同じものでできているからじゃないだろうか?
とりあえずワカモノに「**しらないのお?」だの、トシヨリに「**しらないんですかあ?」だの云うのは、俺はやめたいと思う。
いいものはのこるだろう。
気になるなら古くても新しくても手に取るだろう。
彼等が「それ」を知らないのは、
時代の所為ではなく、個人の好みである。
出会いやすさといったものは確かに時代に左右されるが、
もし我々の知っていたものを先の世代が知らないとしたら、
それは我々の所為じゃあないだろうか?
同じ世代の人間と、
「**よかったよねー!!」
と同調し合うのは、
安らげるかもしれないがなんとなく……ウチワウケそのものだと感じる。
結局はそのあとに、なにもつくりだすことのできない、
虚しさがのこるのは俺だけだろうか?
過去と現在の距離、
長くいきればそれを辿る道程は遠く、
自分の過去への旅はますます難しくなるかもしれない。
しかしそれは
同一線上の往復、
元来過去というものは、未来を期待するために重視されるものじゃなかっただろうか?
まあ実をいうと在原は未来に期待するような奴でもないんだけどね(笑)
しかし今日、ラルクの新曲を聴いて本当に本当に本当によい曲だと思った。
在原は文章より断然音楽が好きなので、すばらしい音楽に出会うと在原のちっぽけな人生なんて擲ってしまって構わないとさえ感じる。
もうこれ以上なにもいらないと思うくらい幸福になる。
こういう新しい出会いがあると、
この先を生きるのも悪くないなと思う。
未来に期待したくなる。
新曲のタイトルは「NEO UNIVERSE」
一月十九日発売です(笑)
あっっ、御幣がじゃない、語弊がありそうなので訂正。<御幣なんてうちにあってたまるか。
文章より音楽が、というのは受け手としてね。
文章を書くことと音楽を聴くことだったら文章を書く方が全然好きです。
どっちかだめになるなら目じゃなくミミです。
目が見えなくても文章かけなくはないけれど、
在原は結構不器用な書きかたをするので、目が見えなくなったら多分書けなくなるでしょう。
ナニが困るって、文章が書けなくなることのほかになにも思いつかないくらいです。
(大袈裟ですが、最も起こって欲しくない不幸はもう起こってしまったのでその他はもういいのです。(笑)<わらうな。)
書けなくなるというのは物理的な…例えばパソやワープロがなくなるとかいうのなら、
べつにがんばって鉛筆と原稿用紙で書くからよい。
手指がきかなくなったら…これも困るな。足や口で書けるほど器用じゃないから。
<「書こう」とする努力の方に気がまわってしまって、文章に集中できなくなりそうで。
いや、しかし本当に怖いのはアタマ的に書けなくなることですね。
つまりこのあたかも砂漠の水溜りのような才能が(笑)
この上にもひあがってしまうことです。
あーこわ。
(結局音楽のはなしじゃなくなってしまった)
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