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千と千尋の神隠し:

2001.09.15、いってきましたよ!
倒産したばかりの桜木町のマイカルで…んー、正確にいうとワールドポーターズというショッピング・モールの中にあるマイカルの映画館でした。行ったことナかったんですが8フロアある映画館で別々の映画をやっているという……
倒産とは無縁に思えたんですがあそこなくなっちゃうんですかね??
とりあえず千と千尋は二つの映画館でやってたんですが、祝日ということもありすべての映画が全席指定。
席とりが嫌いな在原にとっては有難いことでありました。

さて。この映画は散々メイキングだの特集番組だのを見てから観に行ったのですが、(日記でも散々書いたし)
見に行く前の在原の発言としては
「このさあ、カオナシってのが気になるんだよー…この黒いの、すげえ日本的な感じがする」
「俺にとってカオナシってサンジくんだからね(笑)」
などがあります。
勿論、前情報で流れるものは限られているし、メイキング番組をご覧になった方ならご存知のように、映像はでてきますがストーリーっていうのはあかされてません。ネタバレもないし。
ただあちらこちらの試写会会場でずいぶん
「カオナシってなんですか」という質問が出て、監督が
「カオナシはカオナシです(きっぱり)」と云っていたことは知っている。

でもまあ監督がどういうつもりでカオナシを出したのかはどうでもよくて(おい)、俺にとって「彼」というのはあらゆる日本的な曖昧さ、不気味さ、しなやかや孤独の象徴のように思えたのです。
在原が予告で見たのは彼のなりかたちと、
(白い仮面に細い腕、体の線のわからない緩やかな黒い陰)
金を出せるということと青蛙を飲み込むことと湯屋に上がりこむところと、千尋に拒絶されてるとこと暴走してるとこ。
勿論ストーリーとしてのつながりはナイからどういうわけでそういうことになったのかは判らない、
でも橋の中ほどでぽつんと立って、誰もそれを目にはとめやしないのにじっと千尋を見てる姿、
「ここ開けときますね」でひょいと庭から上がりこむ細い足、
手のひらから溢れる金粒と、たった一人それを「要らない」という千尋。
実際、彼というのは神様ではなかったようなのですが(どうなんだろう。でもモノノケの一種には違いない)、
俺にとっては彼は日本の精霊観そのものだと思ったのです。
日本のカミサマというのは、何度も云うようですが「GOD」とは違うもので、西洋で云うなら妖精に近いものだと俺は思います。
いや、まあカミサマにも序列とか階位とかナマエとかがあるわけなんですが、同じカミサマが複数の名をつけられていたりするともうそこには「多重」の神格が存在してしまっているわけなので、特定の「神」として定義することなんて不可能だよね。
で、俺はそれでいいと思ってます。
俺日本人だしね(笑)
そういう「カミサマ」観のなかでずっとやってきた、「なんとなくスゴい、計り知れない力」っていうのが日本人にとってはぜーんぶ神様で、乱暴な言い方ですがそれが善の力であるとか悪の力であるとかはどーでもいいんです。我々には。
どんな神様にも穏やかな性質と荒々しい性質があって、人間が荒々しい性質によって傷つけられたりするようなことが無いように御奉りする、そんでその「得体の知れない力」とうまくやっていく、っていう。
「コワイ」からって追いやりもしなかったし、「スゴイ」からって近寄ろうともしなかった、ってのが日本人のすごいところだと思います。普通、どっちかだよねえ。
「神学」っていうのを学問にしてしまったキリスト教国とはまるでちがう。

彼の白い、面のような顔というのは、日本の神には特定の顔というのはなくて、「面」をつけることによって神格を表したりする(或いは面そのものが神の象徴になったりする)っていうのを彷彿とさせたし、
穴のあいたような空洞の目というのは命がナイっていうことの象徴だよな。
ああいうなにもない穴、というのはなんでも見ることのできる目だと思ったし、何も云わないっていうのは何でも云うっていうことだと思ったし。
日本文化って逆説が好きじゃない?
少なくとも俺はそうだね(笑)だからこのなんか黒くってぬぼーっとしているわけのわからない生き物(いきもの?)にスゴく惹かれたわけなのですが、
「どこがサンジさんなのよ!!」
ってことについては、映画を実際にみてますます思ったことだから大丈夫(笑)
とりあえず観る前の時点で「カオナシはサンジくん」て思ったのは、
「何でも云えるのに何にも云えない」「なんでも持ってるのになんにも手に入らない」
逆説性のことです。…いや、あくまでも俺のサンジ観なんだけど(笑)

ふー、前置きが長かったですなー!
そういうわけで実は在原というのは映画館がキライなのです。映画は部屋で一人で見たい。
というのも回りの反応が厭、煩さとかじゃなくてリアルタイムで周りの反応が感じられるのが厭、
俺が映画を見たい!というのは極個人的な欲求によるもんであって、ヒトサマの感想や反応なんざ知ったことか!(ヒド)だし、俺周りの意見に対して過剰に反応する厄介なタチですので、耳から知らん人の感想が聞こえてくるのってすごくキモチワルイんだよ(ヒド)。
作品というのは、作者の意図がどうであろうと受け手がどう考えたかで全部だと思うので、「なんで?」とか「ここはどういういみ」とか云い始める観客って俺にとってすっごく鬱陶しいし(ヒド)、そんなのどうでもいいだろう、自分で考えたら?って思う。
そして勿論、あたまのうしろで背もたれをける子供も嫌いだ。(きっぱり)
勿論そないなん我慢してる在原ではないので、上映中に何度も振り向いた上に手を伸ばして背もたれをさわりなどもいたしましたが(コワ)。
それを差し引いても俺はスゴい作品だと思った。
上映が終わった途端「あーこわかった」といったコドモノコエとかは俺にとってすごく不快で邪魔なものなんだけどね(笑)
「……ドコが怖かったのかききたいもんだ(にやり)」とは相方への第一声でもあった。
いや、あんたが個人的にコワいのは勝手だけど、自分の好きな作品について同意しがたい感想をきくことって不快以外のなにものでもない。
売店でカップルの女の方が劇場限定版のマスコットみて「こんなの要らない」といってましたが
あんたが要らないのは勝手ですけどそれをコトバにして表明するのってなんか意味があったのかな、このブス(にっこり)とか思いました。俺は買ったケドネ。
ああ、ちなみに映画みたあともツレと感想を話し合ったりとかはまずしないですね。
俺が感じたことで全部だよ、だからデートで映画、っていうのは相手との仲が親密じゃねえって事の証拠なんだけど。(俺にとっては(笑))
んで、↑に書いたような映画館やアホカップルへの不服がなぜ、いい作品だなー!と感動した直後などに出てくるかというと、
「俺は黙ってない」
っていうことなんだと思います。
いつものことですが、俺は、黙ってない。
最近(9月15日現在)ロクなニュースがなくて日記で毎日戦争について触れる日々で、いつものように在原はそれを必要以上に不服だと思っている、我慢がならないと思っている、
そしてその不満を、黙ってることなんて出来ないと思っている、「残念な事件だけど」の「ケド」って邪魔だと思っている、
どんなことにしたって我慢なんてスゴくナンセンスでくだらなくてつまらないことだと思っている、
俺にとって「生きてる」っていうのは「何かをしたいという衝動がある」ということで、黙ってられっかよ!と叫びだすというのは「なにもしたくない」よりずっと確かな衝動には違いが無いのですが、
こういう不服な事態について「物申す」っていうのが自分の訴えだなんてスゴく下らないし悲しいことだ。
実質的には衝動に善悪なんざないとは思ってますが、でも「思うこと」と「書くこと」って俺にとって等しいので、毎日テキストファイルを開いて打ち始める(考え始める)事柄がこんなんだなんて厭だね、俺は。
だからってあんたら間違ってるよ!って云うのをやめる気も無いし、日記だってやめないし、書くことだってやめない、
ビジレイクばかり書こうだなんて思ってるわけじゃあないですが、自分を動かす一番烈しい衝動が「それ」だとかってすげえ厭ですよ。思うことはなんだって口にするしなんだって書くけど、
本来ことばっていうのは自分を生かすもののために存在していると俺は思うので。
俺は黙ってない。クソガキやアホカップルあんた黙んなさいよ!な不服なんて、
戦争はやめやがれこん畜生、に比べたらどんなにか人間的で平和で、生にねざした不服なんだと思うよ。
心から。

そういうわけで、すごく厭!もすごく好き!も、
感情の動きとしてはなんて必要なものだと思いました。(え?これ映画の感想?(笑))
最近の陰鬱な、答えのない、自分では少しも手を出すことのできない悲劇っていうのは、勿論俺はだめだだめだ、って云いつづけてるけどでも自分じゃどうにもできないから明らかに文章が一辺倒じゃないですか、
俺みたいな素人の一市民に言えることなんてあのくらいなんだよ、ニュースと、戦争の知識と、歴史のこと、
ほんとにそれくらいしかいえやしない、だから日記長いけど、あんなの全然たいしたことのない意見だと思います。
正直な所、俺が個人としてなにか云えるっていう、エゴにまみれたそれじゃなきゃ意味がないと思うんだよ、
同じコトバで同じ不満でも、
はっきりいって俺は戦争にはなにもできない。
あんだけ語ってても足りないのは、言葉じゃなくて力の方だ。
映画をみてすごくクリアな気分になったのは
(勿論戦争はまだ続いていて、だからすぐに俺は焦れるけど)
個人として感動できたからです。個人として、ああこのキモチをコトバにしたい!!って思ったからです。
だから映画見ながら自分の書いてるハナシ(ゾロサンですけど…)のことを沢山考えた、もちろんまったく繋がりなんてありゃあしないんだけど(笑)
音楽でも映画でもなんでも、心をうごかすものにふれるとそれに感動しながら自分の文章についても思いを巡らせませんか?
俺はそうなんだよ、感動している間にものをかんがえる、
それ以外のときは寝ているようなもんで、死んでるようなもんです。
こころがうごいているところにだけ俺の価値はある。

映画ねえ、だからよかったですよ。
監督は、「日本の民俗的空間」っていう、(「民族」じゃない)俺はそのとおりだと思う、
懐かしくて、懐かしくて、美しくて涙が出る。
宮崎作品においてはストーリーそっちのけでいつも映像に涙が出ますが
(例:紅の豚の、あの赤い機体が青い空をまっすぐに飛んでゆく冒頭!)
泣いても大丈夫なようにしっかりフラン・フランで矢鱈縞のオレンジのタオル買って行きましたが(笑)
はじめに涙がこぼれたのは船から神々が下りてくるシーンだ、
美しい、美しい!そしてなんて懐かしいんだろう!方相氏みたいな春日様の列は勿論、どうみても妖怪な形の、だけど「神々」!在原はのたうちまわりましたよ、なんて格好いいんだろう日本の空間って!
そして、「いきなりやってくる夜」っていうのにもぞくぞくしました。
主人公がハクに見つかって見咎められて、
「もうすぐ夜がくる」って云われるんですが、もう本当に、あっというまに空が暗くなるんだよ、
水がよせるように暗闇がやってきて、湯屋のほうから順に赤提灯が点って行く、
(あの「おいでおいでおいでおいで」な赤提灯はものすごく怖かった)
誰も居なかった町には黒くてぼんやりとした影がうごきはじめていて、闇が濃くなるごとにそれははっきりとしてゆく、
「昼」と「夜」の明らかな区分、湯屋というのは夜の町だよね、勿論客は神様だし宮崎作品だからそういうニュアンスはないんですが、湯女っていうのはそういう意味だからそうとっても差し支えはないだろう。
よくわからないものがうごめいている、そういう夜の世界というのがものすごく綺麗で、怪しくて、昼のうち「too flat」として崇められてる神様がいやされにくるならこういう無意味に派手でわけのわからない場所だろうな!とか妙に納得しました。
なんかこう、これは俺の勝手なイメージなんだけど、八百万の神様って別に仲悪いわけじゃないんだけど良くも無くて、
それぞれが勝手に適当に振舞ってて、どっちが偉いとかどうでもよくて「あんたはこっち、俺はこっち」みたいな、ほんとは結構かぶってるんだけど役割分担して、個人主義的にうまくやってるって気がするんだよね。
だから互いに全く声なんてかけないで愛想なく擦れ違うのに、なんとなく道をゆずったりなんとなく距離が近かったりするあの湯屋ってすごくらしいなあ、と思ったんだよ。
他の国の神様だったらこうはいかないですよ、仲がイイとしたら延々と話し合ってそうだし、悪いとしたら喧嘩になる、このいいかげんさ…いやフラットさがよいんだよなあ……おしらさまもなんだかんだ云ってやさしいしね。
日本の神様って本質的には別に善ではないんだけど、悪でもない、気に入った人には親切にするし、気に入らなければ悪いことするし。
ニギミタマとアラミタマってやつですね、どんな神様にも穏やかな面と荒々しい面がある、ひととおなじですよ。
オクサレさま、というのは多分、汚物の神っていう意味なんだと思います。日本の神様はキレイなものばかりですらないのだ(笑)
実際には彼は有名な川の神だったのですが、湯婆婆の「これはオクサレサマなんかじゃない」っつって、音頭をとるシーンは格好良かったなあ…吹き抜けの階上でみんなが扇子を振って応援してたりして。客であるカミサマまで。ああいう感覚ってすごくスキだ。
あと、「外的なものを飲み込んで要素を変える」神様、っていうのもとても日本的だと思った。
ゴミで汚れてしまってあんなに形がかわってしまって、でも湯屋にくるだけで自分ではその穢れを祓えないっていうとことか。
勿論力があるから神様なんだけど、むしろものに宿る力、が日本の神なので、物自体が弱くなってしまえば力も衰えるっていうところがさあ。
これは多分、ハクも同じことなんだと思います。
彼は実は川(の神)だったわけなのですが、千尋と同じように突然やってきて、魔法使いになりたいって云ったっていう、
でも普通に考えてそういう存在が湯婆婆の元にくるわけが無いから、これは一種神の零落なのでしょう、
多分、彼の本体である川が埋め立てられてしまって力を失った、だからもういちど力が欲しくて湯婆婆の魔法の力を教わろうと思ったんじゃなかろうか。
結局名前を奪われてしまうんですが、彼の本名…忘れちまいましたが<おい。
確かニギ***コハク(**)ノカミ
だったと思います。ニギ***というのはニギミタマのニギでしょう、「穏やかな」とか「よい」ということで、
コハクというのはコハク川のこと、実質的に彼の名前。
カミ、というのはまあ「神」というかむしろ「守」じゃないですかね、川に宿ったチカラ。
日本の神様の名前というのは面白いもので、どこの、どういうカミサマかっていうのが名前に現れるんですよね。
ハクは穏やかな琥珀川の神、というような意味なんでしょう、
千尋は「すごい名前、神様みたい」って云ってましたが、すごい名前なんだ。カミサマなんだよ!(笑)

そうなんだよハク!!
カオナシのツギにハクがツボです。
アキラきゅん!!と思ったことは云うまでもないが(お陰でヒカ碁アニメにもあの声を期待している)キレイなコだなあ。
なんで川だった彼が、自分の名前を忘れてしまっても千尋のことなんて覚えてたんだ??
とかは云ってはいけない(笑)
だってカミサマだから!(笑)カミサマというのは飄々としてなににもこだわらない存在だからこそ、自分のうちでおきたことというのは決して忘れないのです。
川におちた千尋のことを覚えていた、っていうのは彼がカミサマだった、っていう証拠だよな。
ハクさま、と呼ばれていたのは湯婆婆の弟子だからでしょうが、彼にはその風格があった。
またあの白い竜が異常にキレイでさあ……燃える碧の目とか、血を吐く仕草とか。
地下牢(多分。落ちてきた奴を喰うであろう霊みたいのがいたし)に落とされて、横穴に飛び込んでうろこがべりべりはがれちゃうシーンとかいたたたた!!!って感じでした。
少年の姿で、冷静でいるハクも綺麗でしたが、呪いに憑かれて獣みたいに暴れる、薬棚にしがみついて身を建て直そうとする龍の姿とかもめさめさ綺麗でした。
…でも人間に戻ったときになんで服きてるんだ、とかは思わなくもなかった。<あんた……
あと銭婆のとこからの帰り道、
「あなたの本当の名前は、琥珀川」
とかも泣きましたねー、真っ白な鱗が総毛だって、竜の形がばらばらになる、すげえヴィジョン!
名前というのは日本的文化においては魂のことですから、
名前を取り戻してくれた相手というのは生かしてくれた相手のことなんですよ、
「ありがとう」
ってギャー!なんて顔で笑うの!(じたばたじたばたじたばた)
ハクの声は同い年くらいの男の子がやってたそうですが、それにしてはそのへんの男の子にはとても出せない、照れの無いこう…色気っていうんですか?艶っぽさがまた、男の子なだけに嫌味がなくって、
在原さんくらくらしちゃいましたよ。ハクはよい…

けど、
けど俺的にはあの話の主人公はカオナシ。
そういうわけで、間違っているかもしれない沢山の勝手な想像を抱いたまま映画をみたわけなんですが、
やはりカオナシはサンジくんだった(どーん)。

ええと、正体というのは判らないです。
多分監督の云う通りカオナシはカオナシなんでしょう。湯婆婆の「客じゃない」というコトバからして、彼は神とかそういう代物ではないんでしょう。じゃあ何かっていうとわからん。なんか、モノノケ的なもの。
モノノケと神の差ってどこにあるかって云うと、多分大した違いはないんですが、
名前があるかどうか
ってことなんだと思います。

Q:カオナシは何か?
A:カオナシです。
という監督と客席のやり取りっていうのは映画を見て、紛れもない答えであったのだと思いました。
カオナシっていうのは、カオのない、名前のない、自分のない存在なんだよ。
だから湯屋のあった世界の生き物でもないし、勿論こっちがわの世界の生き物でもない。
そういうのがなんで橋のとこに居たのかは判らないですが、多分「橋」といういろいろなものの行き交う場所に居たかったんでしょう、だって彼には行き場所もありはしないから。
ああいうにぎやかな、あらゆる人と、価値のある場所がうらやましくてぼんやりと眺めていたのです。(多分)

で、この時点で俺にとってかなりサンジくんなんだよ(苦笑)
橋のとこで、誰にも気づかれずにぽつんと立ってる、千尋がたまたま会釈をして、
それでもう、千尋ばっかり見るようになる。
何もない、とはいっても誰でもいい、わけじゃないのです。でも自分に何もないので、たとえ偶然だとしたって自分になにかして呉れた、っていうことが絶対になってしまう、
じゃあ千尋はゾロかい(笑)?
いや、ルフィかも…
まあいいや続ける。(もうやめとけ…)

だから「ここ開けときますね」って云われたとき彼はものすごく嬉しかったのだと思う、
ここから入ってもよいのかな、何かが手に入ったりするのかな、はじめのうちの、すごく怖ず怖ずとした彼の態度というのはなんだかもう、いじらしくていとしくて仕方ない(泣)
番台から札をいっぱいかっぱらってきて、千尋に差し出すとことかすげえかわいい。
でも「こんなに要らないの、一つでいいの」って云われて消えちゃう、でもオクサレさまがやってきて、あの札が役に立って、
千尋は人に喜ばれることの価値を知り、それをみてたカオナシはすごくうれしかったのだと思います。
あの湯屋の者たちっていうのは目はあまりよくないようですな、まあもとが蛙だのナメクジだのだったりするのであたりまえかもしれませんが、目とかじゃなくて気配とかにおいでものをみる、
だからカオナシは誰にも見られなかったし気づかれなかった。彼は「存在」じゃないから。
自分がしたことが千尋の為になったので、彼は自分の持ってる力をもっと使おうと思ったのでしょう。
だって彼にはなんにもないけど、なにも出来ないわけじゃあないから。
なにも所有していないのと、出来ないこととは違う。カオナシは何もないと思っていたし、何もできないと思っていたからあんなところで何もせずぼけっとしてたんでしょう、
でも出来るんだ、と気づいたので彼の行動は大胆になる。
彼はなにもなくて、そしてひとりで、
望みはだれかとつながることだったのだと思います。
(この辺がもうサンジくんだ<おい)

自分はゼロだからダレカとつながりたい、一つになりたい、
サンジasアバズレ説を唱えるひとは(そんなのお前だけだ)この考えに頷首するんじゃなかろうか。
彼は別に淫乱(あわわ)なわけではなくて、ただ寂しいのです、一人は厭で、ダレカがそばに居て欲しい、つながりを感じて居たい。孤独にはすごく敏感なコだと思います。
だから自分を助け、夢を終わらせまいとして呉れたゼフにはものすごい恩義を感じていたし、離れたくもなかった、
それはこの人を手放したら俺は一人になっちゃう、というあの孤島でのおびえと同じものだったと思います。

カオナシは、自分の望みをかなえはじめる。
彼には「価値がない」ので、「価値を生み出す」ことはできない、でもそれを「装う」ことなら簡単だった、
だって彼そのものがフェイクだから。
手始めに彼は青蛙を飲む。
自分の差し出した金に惹かれて、青蛙は自分を「欲しい」と願ったから。
カオナシは誰でも飲み込めめるわけじゃない、でも自分を欲した相手は飲み込める。
他者を飲み込んだことで彼は青蛙の声を手に入れて、彼のこえで望みを語り始める。
(声のない頃の彼の、「う」とか「あ」とかいう声が俺はスゴく好きなんだけど、あれ誰だったんだろう。
カオナシはカオナシであるから、何役、とか出ないんだよ。)
金をばらまく、となれば湯屋にとっては客だ、上客だ。
湯につかり、酒を飲み食い物を山のように喰らい、
かれはどんどん大きくなる。
だって彼にはほんとうは体なんてないから。あのくろい、ゆったりとした影は入れ物で、彼そのものなんかじゃない。
彼そのもの、なのはあの白い顔と口と、細い、細い手足。
体があんなに大きくなっても手足はものすごく華奢で折れそうで、
叶うからといって抱え込んだ価値(体)にくらべてあまりにも貧相で痛々しかった。
彼の容量は、価値に耐え切れるようなものじゃあないからだ、本当は。

皆が自分をスキだという、欲しいという、
望みがはじめて叶ってカオナシは幸福だったと思います、でも人は飲まなかった。
(二人飲んだけど、あれは弾みだ)
何故かというと、彼はもう誰でもいい、わけじゃなくて誰か、とつながりたいと思ってたからだ。
それがルフィ…いや、千尋だ、
自分の価値を気づかせてくれたひと、「彼ら」じゃなくて千尋に欲されたいとカオナシは願う。
「金をやる、もう千にしかやらないって決めたんだ」
「千は何が欲しいんだ?」
とかもう涙なしでは観られません(泣)
誰に欲しいっていわれてももうそんなことは意味がなくて、その人が必要だっていってくれなくちゃ意味がない。
ダレカがそばに居て欲しい>アイツじゃなきゃヤダ
への転化。涙が出ます。いとしいですコイツ。
でも千尋はハクを助けに行くって決めてるから迷わない。
「私が欲しいものはあなたには絶対に出せない」
失恋です。
皆が欲しいって云ってくれた自分なのに、なんでも出せる自分なのに要らないって云われた、
這入ってもよいって云われたのに要らないって云われた、
悲しくて彼は暴れる、でも千尋は彼が「手に入れた」と思ってる価値こそフェイクだってわかってるから、例の川のカミサマダンゴを食わせる。
ハクの例がそうだったように、これは「自身でないもの」を吐き出すチカラがあるようですな、こんなもん持ってるんだったらあの神様は自分でこれを食って川を浄化すりゃいいんじゃねえか?と思いがちですが恐らく川の汚れってのはその程度のレヴェルじゃなくなっていたか、
でなきゃカミサマっていうのは他の奴には力を出せるのに自分にはからきしうまくいかなかったりする、
ってやつじゃないですかね。
シロウサギに治療法を教えてくれたおおくにぬしとかも確か、焼けた石を転がされて重傷をおって、ハマグリの女神に助けてもらったんじゃなかっただろうか(うろおぼえ)。
さて。
そういうわけでカオナシは飲み込んだものを全部吐いてしまう、
「小娘が何を飲ませた」
彼は、一度手に入れた価値を失うのが厭だった、怖かった。
別に千尋がにくかったわけじゃない、こうなったらもうまた自分はなにもない、くろい、華奢な、何も云えない身に戻ってしまう。
居場所がなくなってしまうから千尋を追った。
「おいで」
銭婆のところにいくのに、千尋はカオナシを呼ぶ。
ずるずるとおいかけてきて海におっこって、カオナシは一生懸命ついてきた。
すっげえかわいい。
はじめに飲み込んだ青蛙も吐き出してしまって、もうまともに口もきけない、黙ってついてくる。
千尋が手に入らないことはわかるけど、このコが自分を導くものだってわかるからついてくる。
ほら、
千尋はゾロってかルフィだよね(笑)
俺にとってルフィとサンジの関係っていうのは某スピッツの曲でいうところの
「限りある未来を搾り取る日々から 抜け出そうと誘った 君の目に映る海」
みたいなところがあるからね。(何のハナシだ)

「あなたもくる?」
おずおずと電車に乗り込んでくるカオナシにはもう、あのときの面影はない。
「ここにいちゃ駄目、もと居たところに戻ったほうがいい」
と千尋が言うのは、カオナシが「ゼロ」だってことを判ってるからだ、彼は孤独で、一人じゃいられなくて寂しくて、相手の価値を欲しがってる。
湯屋みたいになんでもあってどんなものも手に入るような、享楽街にいたら駄目なのだ、
欲望におぼれてどんどん膨れがって、でも自分はゼロで、何か得たつもりになってもやっぱりゼロなのだ。
なんでもある場所だからこそ、カオナシは惹かれてぼけっと見とれてたんだろうけど、でも享楽の只中に飛び込むってのは、余程自分が揺らがない奴じゃないと身を減らす。
金というフェイクをばらまいて、「好き」と云ってくれる相手じゃ駄目だし、もらったものを身体につめこんで、自分が変わったつもりになるのも駄目だ。
でもカオナシはなにもないから、そして貪欲だから、あそこにいたらありったけのものを入れようとしてしまう。
あるインタビューで監督が、「カオナシはボクだって云われましたけど」と微笑ってましたが、
これはカオナシの「なんでも欲しい」属性を云っているんじゃないかと今は思う。
楽しいものがあったら欲しくなる、いいな、とおもったらすぐしたくなる、
だからあえてストイックなとこに自分を持っていかないとなにかを作り出すなんてムリだ、って云いたかったのだろうか。
わかんないけど。
でももしそうだとしたらそれは共感できる。
在原は目先の楽しさにすげえよわくて、あったまわるくて(笑)
でも勿論駄作が一番なんですけど、でも誘惑には弱いんだよなあ、なんでも欲しいから、集中するにはそういうのをシャット・アウトしなくちゃならない。自ら。
てのはしばしば感じるからなあ…って監督と俺を並列に論じちゃいけないんだけど、勿論。

で、カオナシにもそういうわけで、欲しくなっちゃうから、あそこにはいちゃだめ、って云いたかったんじゃないかな。
カオナシがついてきたのは、千尋の行く先に「ほしいもの」があるかもしれないと思ったわけじゃなく、
「何処かへ」いきたかったんじゃなかろうか。なにもないのも厭で、がむしゃらに入れるのも駄目で、
はじめよりずっと寂しい境地に居たのだと思う、
千尋のとなりにちょこんと座ってる、カオナシはめさくさかわええ。
運命を青い海と行方のしれない線路に委ねて、おずおずと彼女のあとをついてくる。
頼りなくて、でも必死で、
「なんでもいいわけじゃなかったんだ」
っていう、湯屋でたった一つ学んだことを胸にして、なにかを信じようとしてる。
銭婆のうちの戸口から、這入りたそうにしてもじもじしてるとことか、お茶のんだり、ケーキ食べたりしてるとことかたまらん!
たまらん!!
ああいうのいえにいたらいいなあ……(本気)

ええと、銭婆というのは湯婆婆とは対照的な、でも本質的には同じな魔女で、
湯婆婆というのは「魔法の力があるんだからそれを最大限に利用する」というひとで、銭婆というのは「魔法の力なんてあるんだから、あえて魔法をつかわずにやる」という人。
カオナシが銭婆んとこに残ったのはいいことなんでしょう、糸つむいだりしてさーかわいいよなー。
カオナシだって力はある、でもその力で相手を引き寄せて食ったってしょうがない、
使わずに自分が価値になる、ってことを学べると思う。
あー。かわいいなー。

というわけでここまでくるともうラスト・シーンで、見所といえば先にかいちゃった二人のスカイ・ダイビングシーンなんですが、
坊ネズミもかわいかったし、石炭につぶされてぴーぴーいってるススワタリもすげえかわいかった。

「振り向かずに」
っていって手を離すハクはすごく綺麗だったし、振り向きそうになってこらえる千尋もかわいかった。
でも俺的には主人公はカオナシ!!
というわけで(どういうわけで)。
勿論いつものように美術も音楽もいうことなし。木村弓さんの主題歌もすばらしい。
文句のつけどころは基本的に見当たらない。だがカオナシのその後はどうなったんだああ!!
というところで98点(笑)
すばらしい映画だった。またみたい。

ところでパンフを買ったんですが、はじめは「霧の向こうの不思議な町」を映画化しようとしていて、イメージにあったとか。
ウワ!
俺この話めさめさすきなんですよ!童話なんですけど。
確かにいじわるで口の悪い魔女とか、「仕事のない奴は居場所がない」とことかぴったりですなー。
あと坊の声をやったコって、メイキングでみたんですがめさめさかわいいんやで。
ほんまに。こんなコが近所におったらや、や、や、やばいで!ってくらいかわいい。
8歳だそうですが演技もさすが天才子役の名の通り…てな感じで。
あとなあ、散々えらそう(そうでもねえか)な感想かいといてなんですが、
「(ハクは)湯婆婆にやばいことやらされてるらしいよ」ってせりふがあるんですが………
すいません。
ウリ
だとか思いました。ええ。(だって…)
あと湯屋のイメージが目黒雅叙園だとかいうとことか「なるほど!!」とかね。
俺建築ブツフェチーやからね。

売店ではカオナシストラップがなかった(売り切れ?)ので絶対に通販したる…!とか思いました。
まだ在庫あるかな…あとサントラもかわねばねば。
そういうわけでかなりベタボメです。


シックス・センス(six sences)

19991114、BOBAりんとトミーさまと銀座のマリオンで
「これきっと絶対面白い」とか無茶をいって見にいきました(笑)

在原は、映画というのを「ストーリイ」と「演出方法」と「音楽」の3つで評価するのですが、
音楽はまあ普通。それほど印象に残る曲はなかったけれど、映画に合った音楽だと思いました。70点。
演出方法は結構在原のタイプでした。
カメラ・ワアクとか建築ブツとか。(在原は絵画・彫刻より建築ブツの方が好きだったりなんだり)
この映画の建築ブツはかなり在原のドツボポイント高しでした。80点。
そしてストオリイ。

在原が映画に求める最大のポイントは、映像作品にもかかわらずやはり筋です。
映像はすばらしいけれど筋は珍しくもないし面白くもないという映画はやはりあまり好きではないです。
スジです。スジ。。
シックス・センスはスジの素晴らしい映画だと思いました。
筋は97点。

実はブルース・ウィリスには今まで興味がありませんでした。
某ダイハアドシリイズの印象も強かったし、「フィフス・エレメント」はアクションじゃないっぽいがどうかな?と思ったら後半しっかりアクションものだしさ…
在原にはフィフス・エレメントは面白くなかった。
細部が凝っている割にストーリーは一行で書けるほど単純なものだし、山場がナイ(ひょっとしてラストのアクションシーンだったとでもいうのだろうか)ので煩い割に退屈。
勿論映画にもいろんなジャンルがあって、「筋」に重きを置く映画というのはむしろ古典的なのでしょう。
でも好きなんだよー。人間心理がメインの話が、映画だろうと小説だろうと漫画だろうと建築だろうと(ハア?)。
サイコ・ホラアといわれる『羊たちの沈黙』も「人間心理的」にすっごく面白い映画だと思いました。
ホラアの部分はどうでもいいんです(おい(笑))
シックス・センスも「サイコホラア」という触れ込みで、脅かしもあるしどっきりもあるしひっかけもあります。
しかしそんなことはほんの前菜に過ぎないです。
脅かしやどんでんがえしに、ストーリーそのものが埋もれてしまうことはよくあることです。
が、この話はそんなことナイです。在原が保証しよう!(お前に保証されても)

能動的映画として、すばらしいものだと思いました。
在原は自分にとって、芸術には能動作品と受動作品があるように思います。

能動作品というのは、見た(読んだ、聴いた)人間がなにかを自分の中で「再構築」することに価値のある作品、
受動作品というのは見る(読む、聴く)ことを無抵抗に受けいれることによって得る感動に価値のある作品、かなあと思います。

在原はどっちも好きで、どっちもないといやっす。
そして勿論、前者の方が好きになるのはつかれます(笑)
エヴァは在原にとって前者ですね、在原がこんだけ文章にしちゃってんだから見たまんまです。
ハンタアは後者だな。ああ、勿論受動的作品ていうのはいろいろ考え(妄想とか…)たりしないことじゃないです。
待ち受けたいか、つくりたいかというか。

シックス・センスはそういう映画でした。
トミーさまとも話してたんだけど、テエマは見る人によって全然ちがうと思います。
そうして在原の抱いた感想というのは異端なものかもしれない。
でもねえ、ヲレはすごく感銘をうけました。感動という、感覚に訴える感情というより、
価値観に訴えかけるショックがありました。

新作やし、見て欲しいからネタバレはでけへんねんけど、
アクションではないブルース・ウィリス、素敵でしたです。
少年も、決して美形ではないけれど演技力は尋常じゃあないですね。
繊細に過ぎる、すこし特殊な精神と、柔軟さと笑顔。
ラスト近くの、窓の傍で微笑む彼はほんとうにきれいでした。

そういうわけで、見るように(笑)


サクラ大戦(さくら・たいせん)

とは在原がらぶらぶらぶ!なサターン用のゲームです。
時は『太』正、蒸気機械と魔物の共存する文明の夜明けに、社会の闇と霊力で対峙する少女達がいた!
その名は帝国華撃団!
通常時は「帝国歌劇団」として帝国劇場の劇団員として歌舞にて人々のこころをいやし、
有事には霊子甲冑に身をつつみ戦闘体制に入るのだ!
隊長は大神一郎、帝国海軍少尉!(今は中尉)

あ、あくまで俺の説明なので不備があるかもしれません。
しかし桜!軍服!近代建築!という在原のドツボをつきまくった設定がめろんめろんです。
キャラクターも多様で魅力的、ストーリーも面白いし、絵は藤島さんというオススメのゲームなのですが、このゲームの「3」がドリキャスででることになりました(泣)
貧乏在原はきっと買っちゃうのですが、「3」は大神が留学した巴里が舞台らしい。
そして星組は出ず(泣)ニューキャラが五人らしい。
というのが19991224現在、在原の持っている情報です。

そこで!「3」のストーリー及びニューキャラを大胆予想!!
…HUNTER×HUNTERコーナーでやってるような無謀予想(っていうか願望)だと思ってください)


2のニューキャラは織姫とレニでした。
レニは一見少年?と思わせておきながら女の子…!!(でもかわいいけど)

ということはこんどこそ男の子が出るにちがいありません。ええもう決定事項です。
根拠としては、大神のトシです。彼ももう23、さくらだって登場時こそ16でしたが次は18でしょう。そろそろ平均年齢があがりつつあります。これも人気シリーズのサガです。
ということは!世代交替として、大神の後継者にあたる少年がでてくるはずなのだよ!
次期帝国華撃団隊長として!!

米田:「このたび、大神の補佐役として、陸軍幼年学校から転属となった、 渚 カヲル(仮名)くんだ」(米田のクチマネ。似てる?)
大神:「よろしく、渚くん」
渚:「……宜しくお願いします…」
米田:「渚くんは陸軍幼年学校主席で、おまけに大神とおなじく霊力を持っている。
しかしはじめての転属だからな、大神、面倒をみてやれよ」
とかなんとか。
渚(仮名)くんは緊張していてあまり大神を見ようとしない。
いわんや隊員をや、である。
すみれ:「なーんですのあのがきんちょ!愛想がありませんこと!」
さくら:「まあまあすみれさん…でも、とってもきれいな子ね」
大神:(はじめてで緊張してるんだろうな、夜の見まわりにでも誘ってみよう)
<サクラでの口説き常套手段(笑)

■ 夜
大神:「渚(仮名)くん?おきているかい?」
渚:「………」
大神:「?あれっ、鍵が開いてる…入ってみよう」
<サクラでの常套手段。

灯りをつけたまま、机の本の上で寝入っている渚くん(仮名)

大神:(つかれているんだな…)
灯火にてらされた銀の髪に、思わず触れる大神一郎。

渚:「……っ、」
大神:「…ごめん、おこしてしまったね」
渚:「どうして入ってきたの」
大神:「様子が、気になったから…」
渚:「…隊長は、隊員のことを気遣っていればいいだろ」
大神:「何故?きみだって隊員じゃないか」
渚:「ぼくはあなたの補佐役だ!
…いつかあなたの隊長のポストをとるかもしれない」
大神:「地位に執着するつもりはないよ、
どんな役職だって継ぐ者がいるから続いて行くんだ。
だからこそ俺はこの二年間で学んできたすべてをきみにつたえたいし、
きみを理解したいと思っている」
渚:「あなたは……あなたは軍人ではないようだ…」
大神:「そうかな?そうかもしれない」

暗転

とかいう展開が待っているに違いありません!!!!
ああニュウキャラしょうねーん!!!!!(ハナヂ)


………っていうか多分全員女だろうな…(ハア)