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Uボート(原題:Das Boot):
そういうわけでUボートである。
見たことのない方へ、これはユーボート、とよみ、第二次世界大戦中のドイツ軍の潜水艦の事です。
大戦当初、この画期的であり、大層優れた潜水艦は多くの(主に)イギリス軍軍艦を撃沈しまくり、制海権をほぼ握っていた。
しかし、イギリス軍がUボート対策に開発した駆逐艦はソナー(超音波探査)を搭載しており、どこにおらんかわからん辺りが脅威であったUボートの居場所もバレバレ、あっというまに制海権をあけわたしてしまい、敗戦時にはUボート乗務員の三分の一が戦死していたという、
(ドイツのどこかの公園には、Uボート乗務員戦死者全員の名前を刻んだ碑がある)
悲劇のフネであります。うう。
そしてここであげる『Uボート』とはこの潜水艦を舞台にした映画のことです。
つい最近(2000年に入ってから)、『Uボート・ディレクターズエディション』という編集版がDVDとかで出たので、買いなおしてみた、という方も多いのでは。
…そう、そういうわけでこれはじぇんじぇん新作映画とかではありません。
1981年作品です。
いや、更に云うならば実はこの映画はもともと映画として作られたものじゃあないのです。
全六話のテレビシリーズとしてつくられたものなのです。
そしてこれを劇場用に編集しなおしたものが映画版のあの!あの傑作戦争映画だったのです。
でもどうも、資料によるとこの作品の放映形式はちょっと異様で、はじめに「劇場版」が公開され、そのあとに「完全版」としてテレビで放映されたらしいです。
これはなんというか、視聴者の顔色窺いということもあるのだと思いますが、
また同時に複雑な国民感情というものを…或いは対外的な反応というものを…考えての事なのかもしれません。
何故ならこの映画の製作はドイツ。
そう!二次大戦の話題に未だに非常に過敏であり、他の殆どすべての国が戦争をネタにお笑いをつくることもしばしばだというのにそれを頑なに拒み、大袈裟なほどに真摯にとりくもうとする国、ドイツ。
また一方で、ナチスに蹂躙された小国や地域(ナチスの被害は大きな国ほど小さい。実際、連合国側はそんなナチスの「よわいものいじめ」を黙殺していた向きさえある)には未だに深い深い憎しみを抱かれている国、ドイツ。
また一方では戦争をしらないワカモノがネオ・ナチズムをとなえ、ヒトラーよりも『忠誠心と不器用』とアリハラの呼ぶルドルフ・ヘスをあがめていたりなんだりする国、ドイツ。
(人種排斥という点においては、しばしば有色人種殺害を企てる輩が出る某国には及ばないが)
そんなドイツ。
びばドイツ。
アリハラはドイツ語がスキで、ドイツ音楽が好きで、ドイツが好きですが、
ドイツが好きである理由の一つにはそんな真正面な戦後処理も含まれています。
人間というのは、カチイクサはいつまでたーっても引き合いに出して自慢しまくるものですが、マケイクサというのは話題に出すドコロか、納戸に押しこんでちらり、とものぞこうとしない卑怯者なところがありましゅ。
二次大戦の敗戦国は同盟軍。
日本、イタリア、ドイツ。
イタリアは…なんつーか、ムッソリーニが殺されたあと、もともと士気も高くなかった軍はチリヂリバラバラになってしまい、まあ国外領土とかは没収されましたが、敗戦国の中で最もわだかまりのない国だといっていいでしょう。
イタリアって、「国の宗主は教皇」みたいなところがローマ帝国時代以来あるし、国民性的にも(というのは失言だろうか)ファシズムだのゼンタイシュギだの戦争だのって向かないような気もします。
日本。
日本は未だににげてますねー。
昭和30年代、「もはやせんごではない」という言葉が流行ったりしましたが、(お前いくつや)
ふざけるな、
です。
歴史というのは、条約を結んだとか裁判を行なったとかいうことで、リセットできるものじゃあないし、
勿論してはならないものだと在原は思います。
歴史のドレが欠けても現在はありえないし、今のできごとを繋ぎとめている糸というのは過去からやってきたものだと在原は思う。
だからといって、現代にあの戦争は生きているか?
生きている、と在原は思います。
だってほらー、今のコクサイカンケイって大戦の後の同盟とか連合とかの繋がりでできてはいないだろうか?
勿論、表だってそう、といわれることはないかもしれないけれど、あの戦争のカリだのカシだのでものごとが動いてはいないだろうか?
いや、戦勝国が得をしてるとかいうんじゃなくって、コトのナリユキをうまーくみはからってあれこれ恩を着せたりできるバイタリテエがないとやってけねえということかもしれんし、それもあるけどさ(笑)
(しかし今はそういう「クラガエ」根性においては「敗戦国」日本は大したもんである。皮肉な話だ)
もとい。
もうちょっとわかりやすい話でいえば、今でもあの戦争を経験し、あの戦争で傷ついた(或いは傷つけた)ヒトは沢山いるし、賠償が終わってない、詳細が明らかになっていない罪は沢山あります。
従軍慰安婦とかのはなしもそうやし(嘘みたいだが、当時のコンドームは「突撃1号」という(笑))、731部隊がネズミに植えて増やしたコレラ菌がまーだ地元の皆さんを苦しめてるとか(石井さんたちがハケるのは簡単だったが、ウイルスとかを完全にハケさせるのはとてもむずかしい。だから細菌戦争は国際法で禁止されているのだよ。)。
しかし、日本軍の話はこういう、戦場となった国での悪行の話が多いですね。
どれが本当で、どれが嘘というのを判断するちからは在原にはないけれど、国土が狭く、資源が乏しい日本が、本国からの補給を前提とせず、なんでもかんでも現地調達現地調達だったのは事実なのです。
そんな、だって連合国なんて休暇とかあったんだもん(笑)
怪我したら国に帰れたんだもん。
余裕が違うんだよね…余裕が。
負けて当然<おい。
しかあし、在原は戦争に負ける事が必ずしも悪い事だとは思わないでしゅ。
負け惜しみではないでしゅ(笑)
敗戦国は何を学んだか?
いや、下らないおべんちゃらや明言を避ける外交などの他に。
何を得たか?
領土剥奪、軍隊剥奪、他国による憲法改訂、
よいことばかりではないけれどわるいことばかりではない、戦争に負けた国だからこそ云えることがあるし、わかることがあるんじゃなかろうか。
例えば核にまつわるエトセトラ。
もし、戦争に負けたのがフランシュだったらカクジッケンはしなかっただろう。
いや、持てないじゃんとかいう問題じゃなくってね(笑)
もし、ドイツが戦争にまけていなかったら、ナチスという一見異様な組織に「偶然」…(だと、在原は思う。アレは一人の狂人、或いは天才による非・日常的思想などではなく、歴史と民族の病理が彼の口を借りて語り出しただけだと思う。)…あらわされた人間の(或いはヨーロッパ人の、或いは戦時の)本心は分析されることはなかっただろうとおもう。
そして戦後ドイツの行なった「ナチス解剖」は今後の歴史において非常に非常に有益だと在原は思う。
在原は当然ネオナチズムに傾倒しているわけではないけれど、確かに軍服好きだし(おい)、あったま悪いですがあれは、「ナチス学」という…「戦争」でも「軍隊」でも「カルト」でもない一つの学問をなしているんじゃないかと思ったりします。
そして、ドイツ軍とはナチスだけではない、というのもまた真実なのです。
内心、当時のドイツ軍人でナチスと同一視されていることを深く深く厭うているひとは多いんじゃないかと。
実際ナチとドイツ国軍というのはあんまり仲良くなかったんですが、どちらにしてもあの戦争はドイツ国民にとってカルト的な熱狂に拠るものではなく、あの巨大にして不可思議な組織の所為で忘れられがちですが、タタカイ、という、戦時下、という状況における人間心理というのはすこしも特殊なものではなかった筈なのです。
この作品の監督、ヴォルフガング・ペーターゼンはこういうてます。
「ナチスの問題や、ドイツが犯した罪のことばかり考えている映画ではなく、私たちの過去の歴史に忠実な戦争映画にしたいと思った。戦後、そういう映画はドイツでは一本もなかったからね。
ドイツ人の視点から撮った映画だということが大事なんだ。
ナチスのイデオロギーを論議するような映画ではない。主題は別のところにあるからだ。
これは男たちの物語−殺された者たち、生き残っても心に傷を負った者たちの物語だ。これは戦争のクローズ・アップなんだ」
びば!!!!(感涙)
そうなのだよ!!
在原が、在原がいいたかったのはこれなのだよ!!
戦争は時間的にも、空間的にも、そして心理的にも遠いものではないのだよ!
在原という20代女性(多分)が力説しても引かれるばかりなのですが(笑)、在原が戦争に興味を持ち、共感を覚えるのは前世がどうとか身内が戦争いったとか(行ってない)ではなく、あくまで個人的なレヴェル、人間的レヴェルでの共感によるものなのです。
ドイツは確かにあの時代、罪を犯しましたが、断罪も重要であるし、それを国際的に求められもしましたが、戦争を直截体験していない在原としては、過去の罪の清算よりも、当時其処にあった事実、
当時の人間がおぼえた感情、戦争という(我々からすれば)特殊な状況下においてなにがあり、なにがなく、
彼らは何をしんじていたのだろう?
すこし話を飛躍します。
人間というのは、いろんなことに関心や興味をおぼえ、感情をうごかされる生き物ですが、
では具体的に、「何」に惹きつけられてひとは動いているんじゃろうか。
それはひとによって、
音楽だったり文章だったり建築だったり、
食事だったり買い物だったり縛りだったりするのですが、
久しぶりにこの映画を見ていて在原は、
ああ、人間というのは生に関心があるのだなあ、と、
まるであたりまえのことをはじめてかんがえたのです。
在原は戦争という状況下に非常に興味があります。
別に戦争がスキなわけじゃありましぇん(笑)し、戦争はコロシアイであり、軍人はヒトゴロシだと思っています。
確かにその通りであり、在原はヒトを殺したりすることはよくないなあ、と思っていることは事実です。
そして在原にとってヒトを殺す、ということは、
そのヒトの生を奪う、ということなのです。
僕は、死、というのは生の対極ではなくて、
その一部なのだと思っているのです。
死、というのは絶対的でおおきくって、まるでそれ自体が単体で力を持っているかのようなので、「死神」というものが想像されたりするのじゃないかと思うのですが、
実際には「死」というものが存在しているわけではなくて、
「生きていない状態」が「死」なのじゃないかと。
「燃えていない炎」に名前はないけれど、「生きていない命」には名前がある。
それは、ヒトはなんで死んでしまうんだろう、テロメアがどうとかこうとかいうことが知られるずーーーーっと前から、「生きて」いることと「そうでない」こととのとてつもない落差が、人間をうちのめしてきたからじゃあないかと思うのです。
多くのヒトは、骸骨や血や死体や幽霊がこわかったりするのじゃないかと思うんですが(おれは怖いよ)、でも実は我々はそれら自体が怖いのではなく、記憶(や知識や本能)の中でそれらに結びつけられた、『死』というものが怖いのに他ならないのじゃないかと。
が、
「死ぬのなんて怖くはない」
と云い、或いは思っている人間であっても、上記のようなものが駄目だったりなんだりする。
(在原はそうだ)
じゃあ、「死ぬのなんて怖くない」云うのは嘘なのだろうか?
そうかもしれない。
が、在原の場合で云い訳をするならば、それは嘘ではないのです。
死がこわいわけやないです。
ただ、イヤです(笑)
勿論、いずれは死にたいけれど、今んとこは、まあもうちょっとまっとってや、という気持なのです。
「生きたくない」という理由で死が怖くないのではなく、
「(今は)死にたくはない」という理由で死が怖くないのです。
わたしはしにたくない、
そう、これなのだよこれ!!!
すべての(自殺願望者も含めて)生物が本能的に持っている、最も優先せられるべき欲求!
しにたくないから死を想起させるものが怖い。
それは換言すれば、「生きたい」ということじゃないだろうか。
(長い長い前振り終わり。)
いうまでもなく、生命の危機に近い生き物ほど、
「しにたくない」という生への渇望は強いです。
そして在原は生への渇望というのは単に生命を保護する防衛手段とか、食べることとかだけでなく、
「しなないため」の「切実な活動」すべてがそれに当てはまる、と思うのです。
それは、
他のヒトからすれば「なくてもいきていける」ことだけれど特定の個人にとっては「なくてはいきていけない」もの、「失い得ないもの」であるナニゴトか。
うたうこと、はなすこと、はしること、かくこと、
「生」をまもるのはなにもカラダだけじゃないので、我々はそういった防衛手段を常に必要といるのです。
例えば非常に肉体的な危機に瀕すると、肉体を守るための能力(運動能力であったり、食欲であったり)がすごく高まったりなんだりするですよね。
卑近な例でもうしわけないが、ずーっと文章かいてて食事でんでんしてなかったりすると、無意識に足が台所に行って冷蔵庫のものをてづかみでもりもりくってたりする。
そして例えば非常に精神的な危機に瀕したりすると、精神的にもとめているものがとても確実に、わかったりして貪るようにそれにのめりこんだりする。
(あんまり健康的な例が思いつかないので具体例却下(笑))
在原は、そういった人間の本能というのはスバラシイと思うのです。
いや、冷蔵庫からナマトマトだしてがしがしくってるのはあまり美しくないけれど(笑)
「生きつづける」ために活動する生き物の姿は美しい。
音楽をつくりだす音楽家はうつくしい。
(自分が生きるために音楽をつくっているので)
絵画をつくりだす画家はうつくしい。
(自分が生きるために絵画をつくっているので)
勿論、オカネとかナマエとかのためにそういうことをしているのは論外として。
そしてそういう、否応なく「自分にとって必要な一番」を選ばざるをえない状況というものに在原はすごく惹き付けられる。
なぜってそれは、冒頭にもかいたけれど、
「人間が惹き付けられるのは「生」」だからなんじゃないか、と。
当然のことだけれど、人間も(動物も)生きることがだいすきのはずです。
勿論、生きることは困難で痛みに満ちている、とても辛い、
スキだ、と云うことはなかなかできないことなのだけれどそんな風に苦しむのも、
生に価値があることを判っているからじゃないかと思うのです。
で、これは今回Uボートを見て思ったことなのだけれど、
こんなふうに必死に人間(生き物)が生を守ろうとするのは、
生が、
我々が所有している唯一の価値だということを識っているからじゃあないかと。
それも、
ぼくらがしえるすべてのことは、生というエネルギイがなければできない、とかいうことではなくて、
我々が心を捉えられるすべてのものは、「生」を守るための必死の足掻きなのじゃないか?
という意味で。
ひょっとして、必死であればあるほど惹き付けられるのやないか、とか。
死は生をのむものであり、
血や骸骨は死を連想させるというのに、しばしば魅力的なのは、
それは、
我々の、「本能」に逆らうモチーフとして、
我々の、「渇望」から自由になれる鍵として、
ほんとうは生きたいのだ、と云い難い躊躇いの為に?
また脱線しました。
これからみるかもしれない方のために簡単に説明すると、物語は従軍記者の少尉がUボートに取材のため、乗船するところからはじまります。
そして全編に渡って、殆ど軍人しか出てきません。
彼らは、
とても綺麗です。
四文字コトバがんがん発してても!!何週間もフロにはいってなくても!!
この世で軍人が一番綺麗な職業だと思いました。
何故って何故ってそれはね!
生の輝き!
花火のような生!
とらえがたい空中の火花!!
あんな風に生きたいね!
いまこのために生きていると感じたものが人生の勝者だと思ったよ心から!!
戦争はコロシアイで、軍人はヒトゴロシです。
コロシとはあいての生を奪う事、
自分の生を賭けること、
それを自覚し、そして命以上のなにかのために(なんのために?)
戦える人間、それが在原の中での、軍人の基準です。
戦争ってなんだ、戦うってなんだ、
シナナイデってどういう意味だか識っているかい?
生以上のものはないというのにそれを何故天秤皿にのせるのだ、
そのとき何が見えていたのだ??
浸水しまくっている艦内で、皆が修理に追われている中、神に祈る若い兵士、
「主よお救いください」
先輩兵が彼を殴りつけ、血がぼたぼたと滴る。
「仕事をしろ!!」
イエスイエスイエス!!!
そうなのだ!命というのは神がきまぐれに入れたスイッチかもしれない!
しかしそこで何をするかはきみが決めるのだよ!
そして「そのときなにをするか」が生死を分けるのが戦場!
だから在原は惹かれるのだ!
在原は軍人でなく、いまは戦時中ではない(あたりまえ)。
在原の選択は在原の生死を(大抵は)決しない。
持ち場を離れたかどで、軍法会議にかけられるかと艦長のところへくる古参兵士、
「軍法会議には…」
「行っていい」
何故彼はそれを厭うたか?
さばきが一般の裁判よりもきびしいからか?
ノウノウノウノウ!!!!
その後、彼が船の危機に際して捨て身の働きをしたのはナゼか?
失敗の挽回か?保身の為か?
違う!
「なにものにもかえがたい」信頼に応えるため、
自分の積み上げてきたプライドに応えるためなのだよ!
命を決する場所だから戦場が特別なのに?
生命以上のなんの為に彼はあんな目をしたんだろう?
彼らは、なんの為に戦っているのだろう?
敵ってなんだ?勝利ってなんだ?
生ってなんだ??
戦争に関係するあらゆる疑問のすべてをなげつけ、
そしてそのこたえをすべて内包している(ハズ)作品です。
在原にとって。
ただ、在原がおばかさんなのでまだまだわからないことが沢山あるのです。
浸水する船内でむさぼるオレンジ、
塩素ガスが発生し、ボンベをつけて眠る部下、
はずれてしまったそれを船長がはめなおしてやることは何を意味するか?
主人公の最も印象深い一言、
「女性たちのぬくもりを離れ、極限状態に身を置こうと思ったのは私自身です。
……けれどこれが、そのこたえなのですね」
(この台詞の訳が、バージョンによって全く違うのは、作品解釈の違いなんだろうと思う。
在原は見るたびにこの言葉の意味が違ってとらえられてならない)
いやもうそれに、艦長男前です。
ネモ船長にみえます。(ナディアの)<っていうか機関長がナデアの総舵長にそっくり。
あれを男というならその他はみんなフニャチンのコシヌケ野郎だってくらいです。
ああいう人と戦死できるなら本望だね!!
んとうをとったらホモですな!!(は)
どうでもいいんですが、勿論そういう見方もできまくる映画です。
完全版におけるケジラミの話といい<おい、
艦長と例の従軍記者といい。
ああもう、すばらしいでっせダンナ。
ちなみに完全版のLDは何年か前に限定発売されたので、
もうないとおもいます。多分。
ドイツ、オーストリア、スイスでビデオ化されている他は日本だけであり、LDでは世界初だそうです。
(当時の情報)
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