アフガンに入った日本人(戦前)2003年12月26日

(2)アフガン入国の日本人

(1)紺野厳(太)
アフガンに最初にはいった人は誰か? その候補として、紺野厳太がいる。「シルクロード事典」(芙蓉書房)のなかの「内陸アジアに燃やした日本人の青春」で春日行雄(日本モンゴル協会事務局長:当時)が次のように紹介している。

紺野厳太は会津生まれ。7、8歳のおり千島樺太交換条約を知った母から「無上の屈辱だ返還せよ」と励まされ海外進出を意識し、14、5歳で「世界周遊」の志しを立てた早熟さ。その準備に母はセッセと乾飯を貯えてくれ、これを携帯食として16歳のとき、歩いて樺太へゆき、結氷期を利用して間宮海峡をシベリアへ渡った。残念ながら記録を残していないが、その後モンゴル・中国に入り、インドに出て「ペルシアで病に倒れたところをペルシア王に救われた」といい、ボンベイから船で帰国した。
住まいの水戸から、そのつど歩いて東京に出て参謀本部付の荒尾精に会い、この「大陸南北縦断」を報告しているというのが、明治18年から19年までのこと。そのあいだ、17年には安南・貴州で劉永福の「雲南里旗軍」の総兵(少将)となり、清仏戦争に参加したという。そして19年、漢口の荒尾精あてに「劉はともに事をなすに足らず、インドへゆく」と発信して「生死不明」となった。

この中では、アフガンとの関連はないが、明治25年10月9日の朝日新聞では、「黒旗兵の旧参謀、紺野厳氏の近状」の見出しで次のように紹介されている。

先年、清仏事件の際、劉銘伝の統率せる黒旗兵の参謀にその人ありと知られたる我が邦人、紺野厳氏は爾来支那各所を漫遊して専ら攻突中なりしが、今度パミール事件の起こりしより其の実況視察として更にアフガニスタンを経て同地へ向かいたりという。
氏は旧会津藩士にして父は戊辰の難に倒れ、母と共に南部なる叔父某を便りて辛く月日を送りしが、年14の頃偶々樺太交換の事起こるに及び、氏は慨然として思ふ、今や露国南進の端既に開けり。
余の誓って樺太を□復して其の□鋭を挫くべしとて其の志しを母に告げたるに、母の素より烈婦の聞こえあるものなれば、心私に其の大志あるを喜びしも粗率にして事を誤らんを恐れ、陽に之を叱して其の言を斥けしが、氏の志しは益々堅くしばしば請ふて止まざるより、漸く母の承諾を得、夫より宣教師に就いて露語を研究すると2年、叔父某に金3円と米1斗を借り、之を背にして単身独行、札幌より樺太に入り浦塩斯徳を経て中央亜細亜を跋渉し、遂に土耳古に達したが長途の旅行素より旅費の給すべき様もあらさせれば到る所或いは食を乞ひ、或いは原野に露宿し飢寒交も迫り死に瀕することしばしばなりしが、僅かに身を全うして北地視察の志しを遂げ帰朝の後、北遊紀行を著したり。
然るに其の後、明治17年清仏事件の起こるや、氏は自ら以て為らく好機失ふべからずと直にけんきして支那に入り、某貴顕の紹介を得て劉将軍に見え語るに戦略を以てしたるに劉氏は大いに其の才器を愛し抜きんでて幕賓となし謀議に参する所多かりと、聞く氏は年紀末だ30に満たず頗る活達にして前途有為の人なりと。

このふたつの文章ではいくつかの相違がある。本人、劉の名前、千島樺太交換の時の年齢など異なっているが、最後にインドまたはパミールに向かった時期が大きくずれている。
ロシアがパミールに進軍したのは、明治24年8月頃であるから、春日氏の記述の明治19年にインドに向かったとすると5年ぐらいのズレがある。異同は別として、ここでは朝日新聞が伝えるように、アフガニスタンを経てパミールに向かった後に消息不明となったとしたら、アフガニスタンに足を踏み入れた可能性があるのではないか? そういう訳で最初に取り上げた。

(2)福島安正
金子民雄氏の『中央アジアに入った日本人』のなかで、福島が1896年9月ロシア・トルキスタン(アシユハバード)からペルシヤ(マシュハド)へ再入国する際、「(ロシア側係官に)これまで通過してきたペルシア、アフガン、インド、シャム、安南、東京(トンキン)、カンボジアの記載を見せると、この税関長も呆然としているようだった」とある。これは1896年9月12日の記述であるが、『中央亜細亜より亜拉比亜へ』のなかに「旅行計画略図」があり、クェッターチャマンが実線で書かれている。そしてこの周辺についての国境線は引かれていない図になっている。
このことからアフガンに入ったというのは、チャマンをさすのではないかと考えられる。実はチャマンはピシン地方のにあり、確かにアフガン領だったのである。しかし、第2次アフガン戦争後(1879年)に印度に割譲されているのである。当然1896年の時はインド領になっている。アフガンに入ったというのは、福島がそれまでの知識でアフガン領だったと思っていたのではないか、ということが考えられる。
このクエッタ〜チャマンについて記述した資料が、まだ未見だが、現在のところ、福島のアフガン入り第1号は成立しないと考えています。

(2)谷壽夫( ヒサオ) 中将(印度駐在武官)
今までアフガンに入った最初の人として田鍋安之助をあげていたが、その田鍋自身の記述で、大正14年の数年前に、印度駐在武官がカーブルに入ったと言及されている。
「『アフガン』には大正14年の頃には既に英、仏、伊、土耳其、波斯(ペルシャ)等は公使館を置き、ソ連は大使館を置き、各其国人を往来せしめしに日本は公使館を置飾るのみか、日本人は数年前印度駐在武官が「カーブル」に来りし外、会て「カーブル」に来るもの、無かりしに(余は「カーブル」に入りし二人目の日本人なり)」と「アフガニスタンの思出」のなかに記されている。
この武官を調べていたが、最近この武官が谷壽夫中将であることが判明した。
下記の「視察報告」の第3章第5款『外務諸官並びに外国代表者と小官との会見談』に国王との内謁見、外務大臣との会見、ロシア公使、イタリア公使、トルコ公使、ペルシャ公使、ブハラ総領事等との会見等があり、田鍋以前にアフガン入りしていることは確実である。

[関係図書・資料]
○「阿富汗斯担国視察報告」(1922年12月)
○「貴族院定例午餐会講演集第6 印度政情及アフガニスタン、近況
1925年5月15日於貴族院議長官舎谷壽夫講演」

(3)田鍋安之助
アフガンに入った最初の日本人(実は2人め)としては、田鍋安之助が知ら れている。1863年福岡・屋郡生れ。1924年8月、61歳で外遊の壮図槽 についた。長沢和俊「日本人の冒険と探検」に「1925年田鍋安之助、 トルコ、シリア等を経てアフガニスタン踏査」と記述され、「亜富汗斯坦」を著 したことが載っている。
1925年10月から12月の始めまでカーブルに滞在、アマヌラ・ハンに会 い、日・ア国交開設要望の天皇への親書を預かって、アムダリアを渡りテルメズ、 タシケント、モスクワを経由して帰国。
「アフガニスタンの思出」で、アフガニスタン倶楽部設立(1941年6月) についての記述がある。
このアフガン滞在について、日本・アフガン協会報27号に「中央アジア横断 記」が全文再録されている。なお経歴については「続対支回顧録下巻、列伝田鍋 安之助」(国会図書館蔵)がある。
なお(14)の斉藤積平の岳父にあたる人で1946年死去。

[関係図書・資料]
○「亜富汗斯坦」(東亜同文会、1930年)
○「アフガニスタンの思出」 (アフガニスタン協會々報第1号:1942年6月30日)
○「日本に好感を持つアフガニスタン 63歳の老齢で踏破した田鍋安之助氏の話
邦人で2人目印度国境から入国」 (大阪毎日新聞1926年1月15日号)
○「中央アジア横断記」(「列伝」の後半部所収)(日本・アフガニスタン協会報27号1992年3月)
○「続対支回顧録下巻、列伝田鍋安之助」

(4)布利秋
1926年7月、東新彊より、パルパンジィ村、フェーザバット、イスカミン、チャリカルを経てカーブルに到着。この時の旅について「パミール・アフガニスタン猟奇行」を(改造:1931年11月号)に掲載。「北支案内」の著がある。

(5)草賀一郎、山湊不二雄
飛行家、草賀一郎は陸軍予備大尉、山湊不二雄と共に、1926年10月18日東京駅を出発、ロシアを経由してアフガンに永住するという。モスコーからは徒歩で行くという。その後の消息は不詳。

(6)高垣信蔵、夫人、子供
(8)の野村俊吉氏の文中に「日本人としてカーブルに唯一人の柔道家」として紹介されている。日本公使館設置前にアフガン政府から招聘されている。アフガン陸軍省の役人として、仕官学校並びに警官に柔道を教授した。(6)の尾高もカーブルで会っている。奥さんと子供が一緒だという。それによると、ひと月の給料は1500af。22、3歳の青年30人ほどに教えているという。生徒25人と高垣野村両名が写った写真が尾高の書にある。

(7)尾高鮮之助
1932年4月から5月にかけてアフガンを調査。遠征記は「印度日記 ー仏教美術の源流を訪ねてー」(1939年刊:刀江書院)に「アフガニスタン遠征」と題して91頁を費やしている。カイバル峠からはいり、ジャララバード、カーブル、ハッダ、バーミアンなどを訪ねている。美術研究のため印度西欧に向かい出発したが帰朝後、1933年3月に急性肺炎のため死去。

カーブル全景、カーブル博物館、バーミヤンの全景、大仏などの写真が遠征記に収められている。


中央左:高垣信蔵、右:尾高鮮之助

(8)実業視察団
日本貿易新興会が、アフガン、インド、ペルシヤ、イラクへの視察団を、1932年4月から7月にかけて送る。

(9)山内秀三
大阪毎日新聞・ペルシヤ通信員で1932年アフガンに入る。

(10)野村俊吉
1933年9月22日から4回連載で朝日新聞に「秘められし国」と題してアフガンについて紹介した。実業家。

(11)下永憲次
1890年7月21日生。1949年3月22日没。陸軍歩兵少佐。1934年出張を命じられ、アフガンを調査、帰国後「あふがにすたん記」を同年7月27日に発行している。田鍋安之助の「亜富汗斯坦」に次ぐ、まとまった資料となっている。陸軍省の資料に次のようにある。

「将校海外出張に関する件」(提出昭和9年1月20日)(陸普)
次官より外務次官宛照会案
本省職員陸軍歩兵少佐下永憲次アフガニスタン国ヘ出張ヲ命セラレ三月二日
銀洋丸ニテ「ボンベイ」ニ到着シ自後「カラチ」、「カンダハル」、「コブール
[カーブル]」、「デリー」、地方ヲ約四十日間ニ亘リ旅行致ヘクニ付ボンベイニ
於テ日本人通訳一、印度人ボーイ一ノ雇入竝旅行手続御配慮相煩度此段及
御依頼候也
陸普第二九○号昭和九年壹月廿参日

(12) 富田美津雄
岐阜県多治見町の人。経済人。1934年アフガンに入る。

○阿富汗経済事情英露支間に挟まれ遠く日本を慕う
大阪毎日新聞1934年8月6日ー8日

(13)北田正元、夫人、3人の子供、2人のお手伝いさん
1934年11月6日初代公使として夫人とともにカーブルに到着。夫人は首相、浜口雄幸の娘、2人のお手伝いさんは、カネさんという人と、看護婦のあいさん。

(14)斉藤積平
1908年、静岡生まれ。日本イスラム団体協議会世話役など歴任。1934 年から敗戦までアフガンに滞在。のち「日本・アフガン協会」会長を務める。「日本・アフガン協会報」4号で「アフガン犬の思い出」を寄せ、北田正元公使が離任の際、雄雌計6匹をアフメッド・シヤー殿下から送られ、その運送に携わった苦労話を記している。

1936年2月外務省欧亜局発行の『「アフガニスタン」国内視察報告』に、当時のアフガン関係邦人名簿が掲載されている。これは「在亜富汗公使館斎藤雇」の報告とあり、斎藤積平氏と思われる。
視察は、カーブル〜ガズニ〜カンダハル〜ギリシュク〜ファラー〜サブザワール〜ヘラート、そしてイランのマシャッドに入りヘラートに戻りカライナオ〜マイマナ〜アンホイ〜マザリシャリフ〜タシュクルガン〜ハナバッド〜ドゥアブ〜カーブルにわたっている。
名簿記載のすべてが実際にアフガンに入っていると思われるが編者としては未確認。(○印は確認)

(イ)亜国政府傭聘技師

○池本泰兒 内務省技師・土木専門
(1899年生。熊本高工卒。1935年7月日本を出発)
○尾崎三雄 農林省技師・農作物病害虫駆除予防
(1902年生。東京帝大農学部農学実科卒。1935年10月出発)
○近藤正造 中島商事建築技師・建築(主として兵営)
(1902年生。東京帝大工学部建築家卒。1936年2月出発)
○相澤州二 農林省技師・植林
(1900年生。東京帝大農学部林学科卒。1936年7月出発)
○上ノ土實 内務省技師・土木(主として治水)
(1903年生。九州帝大工学部土木科卒。1936年9月出発)
○藤芳義男 内務省技師・土木(主として治水)
(1905年生。東京帝大工学部土木工学科卒。1936年9月出発)
○故出光勝兵衛 元九州帝大農学部助手・園芸(害虫駆除及養鶏)
(1905年生。九州帝大農学部農学科卒。)

(ロ)○谷壽夫 陸軍中将 東京[アフガンに最初に入った日本人]
黒田重徳 陸軍中将
井出鐵蔵 陸軍少将 輜重兵監
栗飯原 陸軍歩兵大佐 東京
宮崎義一 陸軍中佐 教育総監部
福地春雄 陸軍中佐 蛤爾賓特務機関
○下永憲次 陸軍大佐 張家口
松永壽雄 陸軍少将 大日本航空
居城基 陸軍主計大尉 大日本航空(北支派遣軍)
出光万兵衛 海軍中将 故出光氏叔父

(ハ)○北田正元 公使秘露国
○松島肇大使大日本回教協会理事長
○桑原鶴書記官11月22日帰朝
太田三郎同
○豊原幸夫領事黒河省黒河
○飯田正英副領事東京
○斎藤積平外務書記生東京(明春出発予定)

(ニ)  鈴木佐平 三井物産厦門支店長
堀好秋 三井物産神戸支店
○田鍋安之助 アフガニスタン倶楽部理事長
柿谷三郎 東洋綿花
○高垣信造 柔道六段中国回教連合会茂川公館気付
山本太郎 農林嘱託兵庫県宝塚
○山内秀三 元外務嘱託東京昭和通商
吉田弥七 地下水調査熊本高工教授
吉田勝吾 大日本航空
樋口正治大日本航空丁蘭駐在
野上一平
野波静雄 元関東嘱託東京
故田中逸平
○石山慶次郎 東京朝日伯林
牛窪政義 正金銀行東京支店
山元知教 和歌山県高野山大学
平野 大日本航空当時満空
故石井 柔道六段
香川壽人 三井物産1937年当時三井カラチ出張所長

(15)豊原幸夫、飯田(正英)、今川平次、浅葉夫妻
斉藤積平氏と一緒に1934年の公使館設置にともないアフガンに館員として着任。豊原書記官、飯田書記生、今川医官、浅葉はコックとして。

(16)尾崎三雄、鈴子夫人
1934年アフガンからの要請で、土木及び農業に関する専門技師1名を派遣することになり、尾崎三雄氏が送られた。妻の鈴子さんも同行。1935年10月から1938年までアフガンにあり、1938年2月に帰朝。農林省技師。
2002月2月23日の日経夕刊で、養子宅から滞在日記十数冊と写真約130枚が見つかった。日記は「カンダハル紀行」「ゼララバッド[ジャララバード]来訪」と題されているという。
[関係図書・資料]
○「アフガニスタンの人々とお茶」(アフガニスタン協會々報:第1号所収1942年)
○「アフガニスタンの暦」(アフガニスタン協會々報:第1号所収1942年
○「亜細亜の新興国アフガニスタン(述)」(日本国際協会1939年)
○「現代アフガニスタンの構成」(新亜細亜1−2 1939年9月)
○「農業を通じて見たるアフガニスタンの断片」(回教圏3−6 1939年12月)
○「水辺に憩ふアフガンの野菜売り<グラビア>」新亜細亜1941年8月)
○「日本人が見た’30年代のアフガン」2003.8.31 石風社
○「子供ノ遊ビノ呼出言葉尾崎三雄アフガン日記より」(日本・アフガニスタン協会報41号2002年)

(17) 松島肇
特命全権大使としてシヤム、イラン、アフガン、トルコ、セイロン、香港など の西南アジア及び近東地方巡閲に1935年6月出発(10月帰国)

(18) 亀山六蔵、渡辺弘、井本英二、川崎圭二
日本アフガニスタン協会の理事長、会長を務めた亀山氏によると(1998年 4月の手紙)、「1930年? 公使館開設以来の人たちを記憶をたどり書いてみ ますが、北田正元初代公使、渡辺弘公使代理(帰国後カーブルで7年間に集め た中央アのコインと目録を日銀に持ち込み一室を作りましたー編者注:「アフ ガニスタンの古代貨幣」-「考古学雑誌」1951年の論文あり)。斎藤書記生、 公使に付ききりでアフガンに行き、未だに存命です。現在アラビア協会の会 長にあると思います。90歳ぐらい。
あとは私と一緒に在た小川亮作、井本英二(イラン専門家)、川崎圭二などみな故人ですがわたしと一緒に居ました。私は1940-43年までカーブル公使館に居ました。真実の任務は参謀本部の駐屯武官ですが、その前に参謀がやたらと新彊省あたりに電報を打ち英国から日本陸軍軍人の退却を命ぜられたあとで、朝香宮参謀□□殿下と打ち合わせして陸軍とまったく関係のない人間として駐在しました。この間の事情は今だ生存中の当時の代理大使・勝部俊男氏がすべてを御存知です」

(19) 小川亮作
1937年頃書記生の資格で日本公使館に赴任。1941年に帰国。1951年41歳で死去。「ルバイヤート」(岩波文庫)で著名。日経新聞(91.12.27)に本間次郎の「「名訳ルバイヤート」の熱き心ー中東の重要さ力説した外交官・小川亮作をしのぶ」参照。

「カーブル綺談二編」回教圏7−1 1943年
「カフィール人の習慣」民俗学研究9−3,4 1943年3,4月
「ヒンドクシの山と人」新亜細亜4−10 1942年10月
「アフガンの国語パシトウ語について」新亜細亜3−8 1941年8月
「アフガンの幽霊」ハルブーザ35 1974年9月
「カーブル綺ー怪蛇ユーハ」ハルブーザ51 1976年1月譚

(20)山本智教
1938年9月にアフガンにはいる。バーミヤンにはいけなかった。
「バーミヤーンの仏跡」(密教文化26 1954年03月)
「アフガニスターン考古学旅行記」(仏教研究1941年)などがある。

(21) 桑原鶴、勝部俊男、リリアス・勝部(夫人)、息子照雄・道雄
1939年8月19日、外務辞令で、アフガン二等書記官、桑原鶴がエジプト在勤を命じられ、後任に勝部俊男(後代理公使)が命じられた。
勝部俊男は1907年生。1940年代理公使を務め、1943年帰国。帰国の旅はアムダリアを渡り、タシケント、ノボシビルスク、チタ、満州、ハルピン、平穣を経て帰国した。この旅については「リリアス・勝部さんの旅」(日本・アフガン協会報」28号参照。

(22) 石山慶治郎
1938年11月に大阪朝日新聞・経済部、石山慶治郎を、仏領インド支那、□羅(シャム)、海峡植民地、ビルマ、印度、アフガンに邦人海外発展調査班として派遣され、この時バーミヤンにも行っている。戦後再訪し1953年7月31日から3回にわたり「アフガニスタン記」でバンディーアミールなどを紹介している。

(23) 守屋和郎、相沢(州二)、出光(勝兵衛)、印東、池本(泰兒)、松原、坂本
守屋和郎は公使として2年余在任。その著書「アフガニスタン」(昭和16年11月刊)に次のようにある。
「アフガニスタンでは産業開発の為に、ドイツその他より多数の技師及び教師等を招聘している。その中に日本からも4人の農林技師及び延べ人員にして8人の土木技師が招聘された。一時残っていたのは土木技師の4人に過ぎなかったが、最近に至り数名の土木建築技師が招聘せられた。
農林技師は相沢[州二]君が林業、尾崎[三雄]君が農業、出光[勝兵衛]君が畜産、印東君は害虫駆除等について、それぞれ実地に指導し、また学校で教鞭を取ったり、研究報告を書いたりした。いずれも2年ないし3年の任期で赴任せられたので、すでにそれぞれ帰朝している。惜しいことには、出光君は帰朝を前にして病を得、福岡の郷里に着く2日前に長崎港を前にして逝去されたのである。
また農林技師の後任はアフガニスタン政府の考えもあり、政策の変更もありしてついに任命を見るに至らないのも遺憾なことである。その後に土木技師では池本[泰兒]、上ノ土[ ]及び藤芳[義男]の三君が水利事業、近藤君が建築で實招聘せられいずれも先年帰朝された。 一時アフガニスタンにあるのは、小林[源次]、多田[弘]、渋谷及び松原の四氏であった。主としてカンダハルで働き、随時カブールに出張してくる。四人の技師に図工として若き坂本[春枝]女史が随行したことは、日本婦人として気を吐くものである。」

「河水の利用より見たる中亜殊にア国の作開発」棉
(藤芳義男:アフガニスタン協會々報第1号所収)

(24)池本喜三夫
1899年生。北海道空知農学校卒。及び仏国「ナンシー」大学にて農政経済学修。東京農業大学教授。1937年2月アフガンに出発予定とある。

(25) 伊城文学士、吉川逸郎文学士
前出の守屋和郎の「アフガニスタン」で仏教考古学の研究に参加しているもの として三名が紹介されている。 「伊城君は現に出征して張家口にあるらしいが、元は軍人で主計少佐、東北大学から巴里へ出て、考古学を研究せられたアッカン博士の友人である。数年前アフガニスタンに半年ぐらい滞在して行かれた。吉川君も東京帝大卒業後巴里で考古学等を勉強し、一昨年私の招きに応じて仏国よりの帰途アフガニスタンに立ち寄り、ベグラム発掘中のアッカン博士の下で1か月半見学して行かれた。山本君は高野山大学派遣の印度留学生であるが、仏教考古学の研究家で一昨々年印度からアフガニスタンにきて研究して行かれた。」

(26) 小林源次、渋谷龍夫
1939年6月より2回目の土木派遣技術者として招聘され、カンダハール州ヘルマンド渓谷のボゴラ運河工事に従事、1943年10月に帰国。神奈川県土木部より。

(27)多田弘技師、坂本春枝
(20)の小林技師とともに運河工事に従事(読売新聞:1940年1月12日) さらに6名が派遣されているが査証待ちでインドに足止めとなっていることが記事にある。多田弘の「アフガニスタンの生活」が日本・アフガン協会報29号に掲載されている。

(28)伊東秀、きみ子夫人、節子(娘)
農林省農政課技師、農作物の病虫害駆除につくす。2年余の滞在の後、1941年8月帰国。「日本人は公使館員12名と土木、水利工事のため招聘された内務省技師がカンダハールに4名いるだけ」と記事にある。(読売新聞:8月9日)

(29)岩崎信太郎、小林亀久雄、吉田少年
1941年4月7日、臨時代理公使の岩崎信太郎の後任に、小林亀久雄を公使に任命。氏は9月23日カーブルに赴任したが、10月9日カーブルで心臓マヒで死亡。正子夫人、令嬢恒子、英子の遺族はカーブルに向かった。(アフガンには入っていない)
吉田少年は「大谷光端氏より白鳥大使に御依頼ありたるに依り、守屋公使が御赴任の時「カーブル」に同伴せられ、爾来同地の学校にて「ペルシヤ」語及「パシュトー」語を研究して居りましたが、最近健康を害しましたので一時帰朝療養することとなり、日枝丸にて帰航中であります」

「最近のアフガニスタン情勢」(岩崎信太郎:アフガニスタン協會々報第1号所収)

(30)岩崎英子
1941年8月3日、10日付けで、岩崎信太郎と夫人が、アフガンについて語った記事を掲載している。この中で、カーブル市に16人の日本人がいることを語っている。岩崎公使の話として、昨年から5カ年計画でボドラ運河の工事を始めた。神奈川からきた小林(源次)技師が主任。さらに10名の日本技師がアフガンの土木工事のために招聘されるという。

(31) 七田基玄
1942年7月27日、空席の公使に、七田基玄を発令。東京出身。

(32) 近藤正造
アフガン国軍省の建築技師として1936年4月から2年猶予過ごす。当時カーブル在住の日本人は、公使以下13名で、政府招聘の日本人技師は2名。近藤氏は軍務省に属した。帰国後「アフガン記」を1943年5月に出版(相模書房)

- 了 -