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「守・破・離」 |
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合気道を学ぶ人にとって合気道の稽古を成り立たせるためには、根本となる幾つかの基本の型を身につけなくてはならない。そのためほとんどの道場は通常基本技を中心にくり返し繰り返し稽古している。 「型」を身につけて行く過程を源了圓の『型』*の中の一文に拠ってみると、 個人が稽古の過程で「型」と関わってゆくときの関わり型を時間的契機を導入して把えた概念に「守・破・離」という概念がある。「守」は忠実に「型」を守って芸の基本を身につけてゆく過程である。いわゆる学習の段階である。 それらは長い間すぐれた人々の努力と模索によって形成されたものであるから、それらを身につけようとする場合、どうしてもすでに出来上がった「型」の中に身をいれて、自己を訓練するという過程をとらざるを得ない。 しかし「型」はそれがどんなに素晴らしいものであるにせよ、自分とは資質、体格そして人生における基礎経験の異なる人々によってつくられたものである以上、何か身にそぐわないことがあることはやむを得ない。 「型」を身につける学習の段階が深まると、当然そこには葛藤がおこってくる。そして自己の身につけた「型」を破壊し、「型」破りをしたいという欲求が起こってくる。これが「破」の段階である。しかし「破」はいつまでもそこに留まっていい段階ではない。それは創造的精神に支えられた行為ではないからである。「型」破りの行為が深まるにつれて虚しい気持ちがおこってくる。自分は「型」を破りながら、しかも既存の「型」にとらわれていたのだ。そのようなとらわれから解放されて真の自由な深みからなされる演技をしたい。彼はそう思う。そしてこの願望が成就した段階が「離」である。それは「時熟」して新しい型の創造がなされる段階である。そこでは修業者はもはや「型」を忘れ、しかも「型」にはなかった行為をしているのである。 合気道を学び始めている人々は年々増加している。又、長年合気道の稽古を続ける人々も増えている。 学び始めた人々は当然「守」の段階にあると思うが、長年稽古してきている人々はどの段階に自分を置いているだろうか。忠実すぎる「守」は形骸化に陥りやすく、安易な「破」は混乱を招き、軽薄な「離」は不安を解消できない。(1998年11月)
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