奈良県 橿原市吉田町
安寧天皇とは第三代天皇ということで、在位B.C549年7.3〜B.C511年12.6とされている
。 御陵は畝傍山から伸びる自然丘の一部を切り取って無理やり天皇陵を作った感じ。
初代神武陵は立派な円墳、第二代綏靖陵は一応参道が設けられているのに比べて待遇が悪い。
磯城津彦命については、こんな面白いお話もありました・・・・・・・・・・・
●第三代 安寧天皇(あんねいてんのう)
カール・グスタフ・ユングは「私の祖父はゲーテの隠し子。
私はゲーテの曾孫である」と事あるごとに話していた。
高名な心理学者ユングに真顔でこう言われたひとたちは、さぞ戸惑ったことだろう。
「曾おじいちゃん自慢」のようなものは、「それはそれは」と聞き流すほかはない。
今さら検証はできないし、かといって「ウソつき」と目くじらを立てるほどのことでもないからだ。
歴史に欄外というものがあれば、この手の話はそこに書かれるべきものであろう。
ところが、古代日本史は「この手の話」を正史にしっかりと記している。
神武が「ニニギノミコトの曾孫」を名乗ったことは誰もが知るところだが、第三代天皇、安寧の隠し子物語もその一つである。
話は第七代天皇、孝霊の御代に飛ぶ。
孝霊の三番目と四番目の后、ハヘイロネとハヘイロドの姉妹が、ある日、こう言い出した。
「実は、私たちのおじいちゃんは安寧天皇の隠し子なの。だから、私たちは安寧天皇の曾孫なのよ」
孝霊は、これは聞き捨てならないと側近を呼びつけて、「あの姉妹の言っていることは本当なのか」と真偽を問うた。
「実は、以前から姫たちはそのように仰せでしたが、確かなことは……」
側近の調べたところでは、ハヘイロネ、ハヘイロド姉妹の祖父は、羊飼の少年ならぬ
「イノシシ飼」。
その妻も、ごく普通の里の女。とても、皇子とは思えないということだった。
「しかし、あの目は本気だったぞ。あの姉妹がそうと信じるだけの何かがあるんじゃないのか」
側近は「おおそれながら」とこう答えた。
「安寧帝には、トコネツヒコノミコトと、オオヤマトヒコスキトモノミコトの二柱があらせられましたが、
今一人、里の娘に産ませた子がいたとの噂がありまして。よく狩りに行くふりをして、その娘のもとに通
われていたと……。
しかし、まさかそんな名もなき里の娘などと……」
孝霊は笑ってこう答えた。
「なにを言うか。わしがあの姉妹をみそめたのも、狩りに行った先でのことだ。安寧帝は、きっとわしと好みが同じだったのだろう。
よし、あの姉妹の言うことを信じてやろう」
孝霊はさっそく書記を呼び、ハヘイロネ、ハヘイロド姉妹の祖父、シキツヒコの名を皇族の系譜図に加えるように命じた。
記紀を見ていただきたい。古事記は安寧の皇子を三人と記している。
ところが、日本書紀は第三子シキツヒコを、「皇子」ではなく二人の皇子の「弟」とのみ記している。
日本書紀の編纂者はこう記載することで、「曾おじいちゃん自慢」を正史に残すことへの抗議の意を示したのだろう。
以下は古事記の一部です。日本書紀ではまだ詳細見当たらず。少々お待ち下さい。
シキツヒコタマデミ命は、片塩の浮穴宮(かたしほのうきあなのみや)において天下を治めた。
この天皇が、カハマタビメの兄である県主ハエの娘、アクトヒメを妻として生んだ御子は、トコネツヒコイロネ命、次にオホヤマトヒコスキトモ命、次にシキツヒコ命である。
この天皇の御子たち、合わせて三柱のうち、オホヤマトヒコスキトモ命が天下を治めることとなった。
次に、シキツヒコ命の子に二王がいた。
一人の子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置の祖である。
もう一人の子、ワチツミ命は、淡道の御井宮(あはぢのみゐのみや)で過ごした。
そして、この王には二人の娘がいた。
姉の名はハヘイロネ、またの名はオホヤマトクニアレヒメ命と言う。
妹の名はハヘイロドである。
天皇の御年は四十九歳。御陵は畝火山の美富登(みほと)にある。
オホヤマトネコヒコフトニ命は、黒田の廬戸宮(いほとのみや)において天下を治めた。
この天皇が、十市県主の祖であるオホメの娘、名はクハシヒメ命を妻として生んだ御子は、オホヤマトネコヒコクニクル命である。一柱。
また、春日のチチハヤマワカヒメを妻として生んだ御子は、チチハヤヒメ命である。一柱。
また、オホヤマトクニアレヒメ命を妻として生んだ御子は、ヤマトトモモソビメ命、次にヒコサシカタワケ命、
次にヒコイサセリビコ命、またの名はオホキビツヒコ命、次にヤマトトビハヤワカヤヒメである。四柱。
またそのアレヒメ命の妹ハヘイロドを妻として生んだ御子は、ヒコサメマ命、次にワカヒコタケキビツヒコ命である。二柱。
この天皇の御子たちは合わせて八柱である。男王五、女王三。
そして、オホヤマトネコヒコクニクル命が天下を治めることとなった。
オホキビツヒコ命とワカタケキビツヒコ命とは、二柱そろって、針間の氷河の岬に忌瓮(いはひへ)を据えて、針間を道の口として、吉備国を説得し平定した。
そして、このオホキビツヒコ命は、吉備の上道臣の祖である。
次にワカヒコタケキビツヒコ命は、吉備の下道臣、笠臣の祖である。
次にヒコサメマ命は、針間の牛鹿臣の祖である。
次にヒコサシカタワケ命は、高志の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、角鹿済直の祖である。
天皇の御年は百六歳。御陵は片岡の馬坂の辺りにある。
安寧天皇の第三子磯城津彦命の系図は、下記のとおり。
安寧天皇―磯城津彦命―和智津彦命―蝿伊呂居・・・・・(系不詳)・・・・【十市】勝良―春宗―【中原】有象
(十市流中原氏へ)―致時―師任−師平―師遠― 西大路】師清―師直−師方―師朝―師弘―師冬―師緒―師利
―師仲―兼保
兼遠
安寧天皇の第3皇子、磯城津彦命の後裔の十市宿禰有象が中原姓を賜姓されたことに始まると伝える。
子孫は大内記、少内記を世襲職とする。 また明法道、明経道の家としても著名である。
須坂市の隣町小布施町には、今井兼平の子孫と称する今井家があり、(今井兼平は、中原兼遠の4男)その昔は、神主であったとか・・・・・
まさしく中原家が古来より日本での明経道・明法道を伝える家系であったことの証でしょう。
文献長野県姓氏歴史人物大辞典より抜粋
上高井郡小布施町福原で13代を数える今井家は菩提寺の文書によれば、木曽義仲の四天王の一人今井四郎兼平が開祖と言う。
後裔は寿永年間、水内群倉井村(現在の三水村)に金胎寺を創建し、天正11年の兵乱で小布施に移住。
現住地に金胎寺を中興。江戸末期の栄寛(号素牛)は八世神職栄周の長男で神官と成り、寺小屋も開いた。
明法とは、奈良中期に明経道より独立。古代の法律学の称。律令、格式の学。平安中期より坂上・中原家の世襲となる。
何が真実か作り話か判らないほど大昔のお話になってしまいました。
このHPをごらんになっていらっしゃる貴方自身もこの日本に2000年以上の根っこを残しているのですよ。
たまたま、ある時代の先祖の名前がわかったので前へ前へ・・・・と調べたらこんなことになってしまいました。
でもこれって日本人の名前に見えませんね。殆ど韓語ではないでしょうか。それと殆どの天皇は、4人以上の妻を持ち自分の姪を妻にしていたようです。
なんとも理解し難い世界ですね。
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