小原庄助さんの国・会津


日本で一番有名な飲兵衛は誰でしょう?
各地に酒豪は数々あれど、
やはり「小原庄助さん」がNo1ではないでしょうか?
民謡『会津磐梯山』のなかの囃し言葉

♪小原庄助さん、なんで身上つぶした?
  朝寝朝酒朝湯が大好きで、それで身上つぶした、
   あ〜もっともだぁ、もっともだぁ♪


この1節がなんといっても有名で、全国に広まっています。
では、小原庄助さんとはいったいどのような人だったのでしょうか?
調べていくと幾つかの説があり、
唄の中の庄助さんと一致すると証明できるものは
残念ながらありません。
あれだけの有名人でありながらその実体がよく分からないという
不思議な人物、それが小原庄助さんなのです。

それでは言い伝えられている何人かの庄助さんをご紹介しましょう。
まずはじめの庄助さんは、唄の中の飲みっぷりががぴったりです。
江戸時代、ご城下にあった「丸正」という屋号の商人が
材木で大儲けをして、東山温泉で連夜の豪遊をしたところから
モデルとなったという説です。
『小判釣り』なる遊びをしたと言うから豪気なもので、
いかにも唄の文句のように身上をつぶすほど遊んだらしい…ですが、
それで身上をつぶしたという記録はありません。
 
次の庄助さんの先祖は、
会津藩の藩祖といわれる保科正之公というお殿様と共に
信州の高遠から会津にやってきました。(1643年)
それからおよそ二百年の時が下り、幕末に小原庄助なる人物がいたのです。
苗字帯刀を許された郷頭という身分で、かの戊辰戦役の際には
西軍と壮絶な戦いを繰り広げ、勇猛果敢に戦い戦死したと言われています。
そのお墓は現在も会津若松市内の秀安寺にひっそりとあります。
まさに小原庄助さんそのものですが、
果たしてこの人物が唄の中の庄助さんかどうかはわかりません。


もうひとりの庄助さんは
会津漆器の塗り師・久五郎なる人物だったという説です。
彼はめっぽう酒が強かったようで晩年は、
会津から少し離れた白河の友人宅で客死、
そのお墓が白河市の皇徳寺に今も残されています。
墓石のカタチは猪口と徳利、戒名は『米汁呑了信士』と、
庄助さんのイメージにはぴったりです。
その時世の句がまた
『朝によし昼なおよし晩によし飯前飯後その間もよし』
結局何時呑んでも酒は旨いということです。
このお墓の石を削って飲むと下戸も酒が飲めるようになったと
いう言い伝えがあるほどの大酒豪です。




このように「小原庄助さん」には様々な説があり、
どれが本物か決め手はありません。
しかし、どの庄助さんが本物であれ、
すでに庶民のなかに人物イメージが出来あがっているのは事実なのです。
酒をこよなく愛し、おおらかで人を愛し、誰からも好かれる好人物、
身上をつぶしたからといって暗いイメージは全くなく、
人を信じてやまない愛すべき飲兵衛、それが庄助さんなのです。
そのイメージから多くの小説や映画も創られました。
佐藤民宝の小説「小原庄助」(歴史春秋社復刻刊)この庄助さんは
元禄時代に生きた庄助さんです。

大河内伝次郎主演の映画「小原庄助さん」(東宝)は
昭和初期の大地主に姿を変えています。
しかしどの庄助さんも庶民に愛され、
庶民と共にいきる姿は変わりません。

『小原庄助さん』その実体はお酒の酔いの中に紛れたように
おぼろげですが、その愛すべき人物像はは脈々と語り継がれ、
「飲兵衛かくありたし」とする心は今も会津に生きているのです。

良い水、良い米、良い技、そして酒を愛する良い飲み手がいて初めて
良い酒が生まれるのです。
美味しい酒を育てる飲み手側の代表がまさに小原庄助さんです。
会津の酒がかくも在るのは、やはり幻の小原庄助さんがいたからこそ、
そしてその心が今も息づいているからといえるのではないでしょうか。



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