福岡収容所(旧住所)福岡県福岡市柳町
1914
大正3年11月

開設
将校は洲崎の日赤支部に、下士官・兵卒は柳町の遊郭跡に収容した。
将校収容所には、ワルデック総督以下の幕僚が収容された。
1915
大正4年

将校の脱走事件
1917
大正6年

フォン・ザルデルン事件(福岡市内で借家住まいをしていたフォン・ザルデルン大尉の妻が、侵入した強盗に刺殺され、これを知った大尉も収容所内で後追い自殺した)が発生する。
それもあって、福岡収容所は段階的に移転・解消される。
1918
大正7年3月

将校収容所は、習志野に移転。
<所長>
中佐
久 山 又三郎
大正3年11月11日〜大正5年 1月14日
中佐
白 石 通 則
大正5年 1月14日〜大正5年11月15日
中佐
江 口 鎮 白
大正5年11月15日〜大正7年 3月13日
大正7年 3月13日〜大正7年 4月12日

<リンク>
福岡収容所−俘虜名簿(俘虜番号順)


1914年(大正3年)11月13日開設。所長は久山又三郎中佐。物産陳列場及び柳町の旧遊郭跡の一般収容所(下士官・兵卒)と福岡日本赤十字支部(瀟洒な洋館)の将校収容所に分かれていた。全部で9棟あった。

1915年7月10日から11日にかけ7棟、8棟の俘虜133名が久留米へ移送された。1915年9月15日に95名が習志野へ、20日に124名が名古屋へ(両方で1,2棟の半分)、9月25日(?)に90名が青野原へ 移送された。1916年10月18日に69名が大分へ、20日に74名が青野原へ、20日に37名が大阪へ、21日に2棟の70名と同行将校1名が名古屋へ、22日に69名が習志野へ、1918年3月22日に マイアー=ヴァルデック総督等74(80?)名が習志野へ移送された。

1915年11月中旬、4人の将校の脱走事件が起こった。収容所長久山中佐は左遷され、法廷に立たされた。また俘虜夫人が強盗により殺害され、悲観した夫は収容所内で自殺した。犯人は絞首刑に処されたが、この事件は全国の 新聞で報道された。

(H17・3 高知大 瀬戸先生の史料より)

士官と兵卒は物産陳列場及び柳町の旧遊廓跡に、マイアー=ヴアルデック総督を始めとして、青島ドイツ軍の幹部クラス将校は、福岡日本赤十字支部の瀟洒な洋館に収容された。大正5年(1916年)11月21日の大正天皇即位 大典の日に、4人の将校の脱走事件が起こり、収容所長は左遷されて法廷にも立たされた。当初は850名を収容する最大の収容所だったが、やがて大分、久留米、名古屋、習志野、青野原の各収容所に五月雨式に俘虜が移されて、 収容所は段階的に縮小して閉鎖された。収容所に関する資料はほとんどなく、その実態はよく分かっていない。

高知大 瀬戸武彦先生著 『青島から来た兵士たち』同学社 より
鳴門市ドイツ館より
鳴門市ドイツ館より
鳴門市ドイツ館より