丸亀収容所(旧住所)香川県仲多度郡六郷村
1914
大正3年11月16日

324名が塩屋別院等に収容された
1915
大正4年 6月 6日

俘虜1名が病死
1916
大正5年 2月12日

俘虜2名が脱走し、二日後の14日、三豊郡辻村で取り押さえられた
大正5年10月 5日 7名の将校全員が大分に移され
大正5年10月 9日 大阪から2名、久留米から2名、青野原から13名の計17名が丸亀に移された
1917
大正6年 4月 7日

333名が板東に移された
<所長>
中佐
石 井 彌四郎

大正3年11月11日〜大正5年4月10日(T5年1月21日大佐へ昇任)
少佐
納 富 廣 治

大正5年4月10日〜大正6年4月21日(T5年11月15日、中佐へ昇任)

<リンク>
丸亀収容所−俘虜名簿(俘虜番号順)

日誌 丸亀俘虜収容所

丸亀ドイツ兵俘虜研究会より挨拶(日本語)

丸亀ドイツ兵俘虜研究会より挨拶(ドイツ語)

丸亀ドイツ兵俘虜生活略史

丸亀収容所写真集

丸亀収容所の将校

丸亀収容所俘虜郵便写真集

香川新報1(T3-10/12,23,24,31 11/12,13,14,15)

香川新報2(T3-11/15,17,18)

香川新報3(T3-11/19,20,22,23,25)

香川新報4(T3-11/26,28,29)

「丸亀俘虜収容所発のドイツ宛て書簡」

「丸亀俘虜収容所からの匿名告発書」

「米国大使館員による丸亀俘虜収容所調査報告」

「A. ゲルラッハ『丸亀俘虜収容所より』」

丸亀俘虜収容所のランツェレ大尉事件と第2ハーグ条約(1)

丸亀俘虜収容所のランツェレ大尉事件と第2ハーグ条約(2)

「指揮者パウル・エンゲルに関する新事実」

「ドイツ兵の告発 奏功」

「エンゲルの『自伝』」

「(抄訳)ヨハネス=バルト著『極東のドイツ商人として』」

ヨーハン・クロイツァー「日本における私の俘虜生活」

丸亀俘虜収容所のドイツ兵俘虜による技術指導と製作品展覧会

アードルフ・メラー著『第1次大戦中の青島守備兵らの運命―私の父の遺品より』


丸亀ドイツ兵俘虜研究−香川近代史研究会


1914年(大正3年)11月16日に開設。収容所長は石井弥四郎中佐(歩兵12連隊附)。香川県仲多度郡六郷村西本願寺塩屋別院、看護婦養成所跡、別に民家を事務所とする。海兵第3大隊の第2中隊(主として現役兵)、 第7中隊(主に予備役)の316名を収容。俘虜が下船した多度津港には、”Herzlichst und mitleidvollst willkommen”(心から、同情をこめて歓迎します)の垂れ幕が掲げられていた。

1916年10月5日、将校のみ7名が大分へ移送された。同年10月9日、青野原から13名、大阪から2名、久留米から2名が丸亀に移送された。1917年4月7日、333名が多度津から汽船で鳴門・岡崎を経由して板東 に向かう。同日付で丸亀俘虜収容所は閉鎖された。

(H17・3 高知大瀬戸先生の史料より)

俘虜が下船した多度津港には、「心から、同情をこめて歓迎します」とのドイツ語の垂れ幕が掲げられていた。市内のあちらこちらにも、同様な歓迎の垂れ幕が下がっていたといわれる。丸亀市内の西本願寺塩谷別院に下士卒を、 将校は看護婦養成所跡に収容された。やがて将校全員が大分に移されて、下士官・兵卒のみの収容所になった唯一の収容所である。収容所新聞『丸亀日報』が発行されたが、詳しいことは分かっていない。最大時の収容人員は 333名だつた。俘虜の中には、丸亀や高松の学校の音楽教師に、楽器演奏の指導に出向いた者もいた。丸亀で没した俘虜1名は、駒ケ林の陸軍墓地に埋葬され、墓碑が遺されている。

高知大 瀬戸武彦先生著 『青島から来た兵士たち』同学社 より
鳴門市ドイツ館より
鳴門市ドイツ館より
鳴門市ドイツ館より