池田貞子(旧姓・加藤) 思い出のアルバム
その1
池田博明 作成
大正15年7月5日 山形県西置賜郡小国町大字北203番地に生まれる
昭和8年4月4日.7歳.小国本村尋常高等小学校に入学.
昭和17年3月24日.16歳. 小国町国民学校 特修科 修了.
昭和17年4月4日. 小国町青年学校 本科2年 入学.
![]() 国民学校令実施記念 写真 小国本村 (前列最左が母) |
昭和15年6月.14歳 小国町国民学校特修科. 色が黒いのでエチオピヤ人と仇名. |
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昭和16年.16歳.弟・治郎右ヱ門と.戦地の兄に送った写真. |
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昭和21年3月15日に研究科を修了すると白沼国民学校の助教となった.しかし、家の農業を手伝わねばならず、勉学をあきらめ農業に従事した. |
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昭和19年6月12日.(右の写真も) |
農作業の合間の貴重なスナップ. 前列:姉・千代、弟・治郎右ヱ門、貞子の父親源吾(この年の冬に脳溢血で倒れる.昭和25年逝去)。 後列:姉の夫市蔵、男性(不明)、母・貞子、弟・貞雄. 最後列・貞子の母親晴代. (一町3反部の水田と2反部の畑を牛を使って作っていたころ) |
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昭和21年7月5日.兄源佐ヱ門と. |
昭和23年.22歳.小国町警察署にての写真.最後列右から2人目が母.昭和22年11月5日付で警察書記生および山形県婦人警察官を命ぜられる. 母がいままでで一番うれしかったことは?=婦人警察官の試験に合格したこと。 |
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昭和24年.小国の地区警察署勤務となった巡査部長の父・昭と小国町の県社山公園にて撮影.父が撮影した1枚.所帯をもとうかという話題が初めて出た記念の日. |
昭和25年10月.新潟県境付近の鷹之巣 河畔にて.父と.二人そろって写っているのは少ない. |
和泉屋食料品店の裏で所帯を持ったころ. |
博明は生後1ケ月と11日め(早産だったため、この子が死んでも仕方がないぞと諭されたという).助産婦の伊藤ちよさんから、小国の4月はまだ寒く、行李に湯たんぽを入れて簡易保育器とし、棒のように硬くなる脚を必死でもみほぐしたという。 |
通い帳という「つけ」で食品や雑貨を購入する記録帳があった.和泉屋では通い帳の記録を店でつけずに母の記録に一任していたという.あるとき払いの催促なしというような状況だったとか.それだけ信用されていたということだが、大変ありがたかったという. |
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△右の写真は昭和30年4月.父が長井署に転勤,山形署に移る前のもの.長井市白山神社境内にて.子供たちの背広は母が自分の小学校・中学校時代に着ていた青いセーラーを縫い直して作ったもの.もともとはこのセーラーも伊豆下田の鼈甲屋の叔母が母が小学校で成績優等になったお祝いにくれたものだったという.袖を継ぎ足して六年間着た愛用の服を子供用にリフォームしたもの. |
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山形市で最初に住んだのはお茶屋のかねか園の裏の土蔵.これは珍しく母の撮影した写真で茶箱の中で遊んでいる. 左が雅夫、右が博明. |
子供たちは母の手製のセーラーをきている. 一緒に写っいるのは伊藤ひろ(現姓・新関)さんと母の実母. 山形市に転勤したころのことを母は「あの頃は貧乏で....住宅事情も悪くってなあ」と話していた. 土蔵に住んでいたのは昭和31年頃までか. 博明が小学生になる年、昭和32年に松原の市営アパートの入居抽選に当選した.博明は、この当選日の父母の喜び様を昨日のことのように記憶している.母は専業主婦.父の給料だけで、しのいでいた頃. |
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右の写真は昭和35年7月.市営アパートに住むようになって、自宅のアパートの2階で子供たちを集めて、日曜日に習字をやっているところ.母は父の給料をやりくりして、貸し本屋から毎月すべての雑誌を借りて子供たちに与えていた.時期が来ると返却しなければならなかったので新本が来るとすぐに読んだ.アパートのほかの子供たちも母が借りた雑誌をむらがって読んだ. |
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母は1999年(平成11年)9月2日、73歳で息を引き取りました。
葬儀の際の弔辞 を紹介します。
『母のアルバム』第2集 にリンクします。
『母のアルバム』第3集 にリンクします。
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