弔辞        池田貞子様へ   

池田貞子 遺影

俗名:池田貞子 
戒名:慈観院誡道妙貞大姉 
  
wedding
1951年8月30日 昭24歳,貞子25歳
1999年9月2日
逝去

1999年9月4日
告別式
曹洞宗:耕竜寺
山形市平清水

弔辞

佐藤わか子   金澤利子   佐藤長子  池田泉

            


   弔辞               佐藤わか子

 つつしんで池田貞子様の御霊前におわかれのことばをのべさせていただきます。
 訃報に接し、絶句いたしました。六月の末お伺い致しました節には又お会いしましょうと御いとましましたのに、あの日がおわかれの日だったとは。
 あなた様との思い出が次から次へと浮かんで参ります。
 池田農園でとれたのよとサクランボは何季楽しませて頂いたことでしょう。サクランボの鳥追いのお話も聞かせてくださいました。又ぶどうも御馳走になりました。
 八幡町にお住いの節、分けていただいた西洋小田巻はわが家の庭に毎年色とりどりに咲いてくれてます。
 あなた様とお会いする度、私はいつも生きる姿勢を正される思いと。ほのぼのとした温かいものが心に残りました。常に前向きに生きていらして、一度としてぐちを耳にした事ございません。六月のあの日帰宅の途中の車の中ですばらしい方とめぐり会い親交いただいてありがたい事と嫁と話し合いました。あのことこのこととつきることなく思い出され悲しさで一杯でございます。私も年ですので近い内次ぎの世で又御目にかかり親しくさせていただきたく存じます。
 いろいろとありがとうございました。
 御主人様をどうぞお守り下さいませ。
 御冥福をお祈り申しあげお別れの言葉とさせていただきました。

    平成十一年九月四日   八幡町  佐藤わか子
     弔辞      金澤利子

 謹んで池田貞子様の御霊前に申し上げます。
 生者必滅会者定離との定めとは申しましても、悲しゅうございました。淋しゅうございました。余りにも早うございました。
 御子息博明様手作りの思い出のアルバムの中にいままでの中で一番嬉しかった事は、婦人警察官の試験に合格したこととありました。また、その警察で御立派な御主人昭様とお会いになられた事でございましょうね。私達がお会いしたのもその頃の昭和二十二年十一月五日婦人警察官一期生として入校した時でした。
 こわいもの知らずの若さで六法全書と首っぴきで勉強、逮捕術で汗を流し、代用食のさつま芋だけの昼食を食べ、何事にも体ごとぶつかっていきましたね。
 汽車に乗りこみでのヤミ米取り締り、旧陸軍の十四年式の重い拳銃を両手で持って、耳に綿をつめての射撃訓練、非常召集で自転車で走った事など、走馬灯のように浮かんで参りました。
 平成六年十月パラシオ最上ではじめての全員同期生会をしましたね。半世紀ぶりだったので、私はお名前とお顔が一致せずの方があり、小声で貞子様にお聞きすると誰それさんだよと全員忘れずにおぼえていらっしゃいました。さすがぁ お姉様だなと思いました。
 会場に入ったとたんに皆さん同じ釜の飯を食べたもの同志、すっかり五十年前にタイムスリップ。よくおしゃべりし、歌い、お腹がいたくなる程笑い、時のたつのも忘れておりました。その時でした。
 貞子様がさりげなくお立ちになり、それでは私のかくし芸ですと、お謡 猩猩をお腹の底からの素晴らしいお声でお謡くださったのでした。はじめてきく人ばかりですので、余りの素晴らしさに声も出ません。一瞬われるような拍手なりやまずでした。そしてもうすぐ九時だからあとは部屋でさわごうと率先して席をお立ちになりました。旅館の人たちへの気配りでした。
 いつでもさりげなく心くばり、気配りです。そんな貞子様の行動に頭の下がる思いです。色々と勉強させていただきました。翌朝旅館の方から昨夜私達の隣りで宴会をなさっていた方に、夕べの集まりはどんな人達の集まりだったんですか。素晴らしいお謡でしめて九時にはさっとひきあげ、御立派でしたねとおっしゃってくださったそうでした。
 昔に婦人警察官をなさっていた方たちですと云ったら、さすがですね。お会いしたかったですと朝早く出発なさったとのこと。どんな方達でしたのとお聞きしたら警察の本部長さんと東京のお偉い方達との事。貞子様の気くばりで、御一緒している私達もおほめにあづかることも多くありました。
 内面には毅然とした信念をもち、私達にはいつも笑顔で明るく接していただきました。本当に有難うございました。
 まだまだお話し申し上げたいことはたくさんありますが、お名残りはつきません。人には永いお別れの理りがあるとすれば、心からご冥福をお祈りするしかありません。悲しゅうございます。
 どうぞやすらかにお眠り下さいませ。
 さようなら。
 池田貞子様

      平成十一年九月四日  友人代表 金澤利子

     弔辞         佐藤長子

   しあわせを  
     語りし友よ
        蝉しぐれ
 今年の夏は殊の外暑くて。いつまでも蝉しぐれのにぎやかな年でした。
 小学校の同級生であり謡の師匠であり無二の親友でもありました貞子さん。  ふるさとの山も川も雪も友達もみんなみんな仲良く、海軍大臣とエライあだ名を貰ふ程、面倒見の良い貴女でした。山形に来てからは喜ばしい時も悲しい時も、体の弱い私を励まして下さって「丈夫になろうよ。育ち盛りの子供達に心配かけて。そんな事ではダメよ」と生きるといふ希望を心から教えてくれました。
 私にだけでなく皆様にも励ましと心のささえを下さった方でした。
 やがて年月もたって私にも時間の余裕も出来て音痴の私が、謡の勉強をお願いしたのです。謡の勉強の日はいつも二人だけの同級会がそこにありました。話題はいつでも家庭生活の事に落ち着き、「私たちはどうして、こんなに幸福(しあわせ)なんだろうネ」などとしばらくは話に花が咲き、喜びと幸福話にひたって、いつの間にか、時間が過ぎてしまふのでした。帰る時には貴女から貰ったパワーでもっとがんばろうと、満ち足りた気持ちで帰ったものでした。
 見台の前に座り
 「今日のお勉強は何にしますか」
 「ハイ 猩猩をお願いします」
 「もう一度最初からお習い(おさらい)をしましょう」
 「ハイ」
 「口を大きくしっかり使って腹から力を入れて声を出して下さい」
 夢を見るような気分で貴女との会話を思い出しております。
 もう一度丈夫になって同級会をしたりお勉強をお願いしたり、千も万もあなたのパワーを、私はほしかった。
 サヨナラは言いたくないけど
  サヨナラ 
      サヨナラ
          さようなら。

     平成十一年九月四日    佐藤長子

      弔辞          池田 泉

 おばあちゃん。
 今日、こうしておばあちゃんに永遠のお別れを告げる時を迎えることは、私たちにとって大変悲しく、信じられない思いで一杯です。
 ついこの間まで、病床にあっても優しく、はっきりとした対応をしてくれていたので、 お別れがこんなにも早く来るとは思いもよりませんでした。
 私は今年の六月に、サクランボの収穫を手伝いに来ました。おばあちゃんは採ってきたサクランボを選んで箱につめたり、宅急便で送るために荷造りするなど、収穫後の仕事をテキパキとこなしていました。
 そのとき、おばあちゃんにはサクランボの選び方や箱へのつめ方、ひものかけかたなどを教えてもらいました。
 おばあちゃんに「楽しかったよ。来年も絶対に来るからね。元気でね」と言ったら、 おばあちゃんは「大歓迎だよ。是非おいで」と答えてくれました。それなのに、それが 実現できなくなってしまいました。
 おばあちゃんは、とても心の優しい人でした。どのような時でもほがらかで、会う度にその温かい人柄にふれることが出来ました。
 まだ私たちが小さかった頃も、私たちの話を真剣に聞き、適切に答えてくれました。その、ひとに対する誠実な態度は、私たちは勿論、おばあちゃんに接した誰の心にも焼き付いていることだろうと思います。
 また、優しいだけではなく、そのなかに一本、筋の通ったところもありました。私たちには勉学に励み、正しい道を歩むようにと言っていましたし、普段の会話にもきちんとした人柄がにじみ出ていたと思います。
 入院してからも弱気なところは全くなく、病気を治そうという意志にあふれていました。弱音をはいたり、泣き言をいったりしない姿を見て、私はおばあちゃんの心は病気に打ち勝っていたと信じています。
 早く元気になって退院するのだと言って頑張っていたのに、大変残念に思います。
 おばあちゃん。
 おばあちゃんが私たちの心に残してくれたものには、限りないものがあります。
 もう、おばあちゃんは帰って来ないけれども、心の中でおばあちゃんを思うことで、私たちはいつでも会うことができます。
 私たちはおばあちゃんの優しさと思い出を大切にし、これからの毎日を過ごしていきます。
 どうかこれからも私たちを見守っていて下さい。
 おばあちゃん。
 さようなら。
 心からご冥福を祈ります。   

     平成十一年九月四日    池田 泉 (孫代表)


       喪主 挨拶         池田 昭  

 皆様、今日は お忙しいなかを 御会葬いただき 真に 有難う御座います。
 故人も 大変感謝している事と思います。
 故人と病気との関わりは、三年前の平成八年の九月、近くの東海林医師の薦めで レントゲン写真を撮ったときから始まりました。
 右の肺に二センチ程の曇りが発見され、県立病院で各種の検査を受けましたが、正体がはっきりしませんでした。
 そのため、息子の知人の医師の紹介で、国立がんセンターに赴き、診断を受けた結果、肺がんで、大腸にも腫瘍があることが分かりました。
 四月に肺の手術、五月に大腸の手術を行いました。
 手術は成功し、六月に退院して、通常の生活に戻り、その後の九月の検査では「もう大丈夫」との評価を受けました。
 ところが、翌年の二月に検査を受けたところ、ふたたびガンが動き出し、左肺と肝臓に転移していることが分かり、化学療法として5FUその他の新しい抗ガン剤の治療を受けました。これが非常によく効いて、肺の腫瘍は半分になり、肝臓のガンもほとんど見えない位によくなりました。
 四月に退院した後は治療を県立病院に引き継ぎ、治療のための入退院を二回繰り返し、日常生活に支障のない小康状態を保っておりました。
 ところが先ごろの七月十九日の診断で黄疸の症状が出て、その治療のために入院しました。
 黄疸の原因は、肝臓の腫瘍によって胆汁の流れが止まったことによるもので、その胆汁の流れをどう確保するかが課題でした。そのための治療を受けましたが、十分な効果は上がらず、腎臓やその他の臓器の機能不全により、生命を失うに至ったものであります。
 腫瘍の位置がもう少しズレていれば、あと数年は生きられたのではないかということと、抗ガン剤がかなり発達してきているので、もう少し科学的に症状を把握し、これに応じた積極的な治療を行えば、相当の効果をあげることが出来たのではないかということを反省致しております。
 故人は、私が役所をやめた後は、謡曲中心に皆様とのふれ合いを楽しみにしておりました。
 入院中も、同室の方々や看護婦、お見舞いにおいで下さった皆様にやさしい気配りをみせながら、
 「子供たちも、人に迷惑をかけずに育ってくれたし、
 皆様に大変親切にしていただいて、幸せだった」
 ということを繰り返し言っておりました。
 人は「やさしさが一番、やさしい人は強い人」の姿勢を持ち続けようとしながら、七十四歳の人生に静かにその幕を閉じたように見受けられました。

 皆様、本当に有難う御座いました。故人に代わり、心からお礼を申し上げて、御挨拶と致します。


      最期の日々       池田博明 

 山形県立病院での
 1ケ月半にも及ぶ闘病中,まったく泣き言を言わなかった母だったが,
 肝臓の腫瘍が胆汁を阻害し,腎臓に負担がかかることから起こる
 多臓器不全でしだいに体力が無くなっていった8月も28日.
 7時ごろ,私は小さいときに体が弱くて,肝油をよく飲まされた話をした.
 母は「(クジラの肝油で不味いので)いまだったら,飲まんね」と言った.
 その後,母はなんとか半身を起こして,
    急に私を抱いた.そして,
    「大きくなったなあ・・・
     (子育てに苦労したあの頃は)
     ほんとに楽しかった」と言って,泣いた.
  私には母が覚悟しているのが分かって,悲しかった.
  その日の11時ころ,ベッドの上で起き上がって,
  母は突然『花笠音頭』を歌い始めた.
  その場に居合わせた私達
   (私,妻・小百合,弟・雅夫,弟の妻・倫子)も唱和した.
   音頭の一節を3度唄った後,母は
    「・・・わたしは,もっと唄いたかったなあ」と嘆息した.
  闘病中,母が唯一,発した嘆きだった.

  私には母の無念の思いが理解できるような気がする.
  謡の師範になってから,発病するまで数年間しかなかった.
  もっとたくさんの人に謡いを教えたかったと思う.
  好きな唄も歌いたかったと思う.
  あと5年くらい,いやあと3年でもいい.
  生きて,唄って欲しかった.

  8月28日の16時半ごろ,かねか園のおばさんが来た.
  その夜,父が山形に来たころの思い出話をした.
  母は「あの頃は住宅事情が悪くって・・・」とつぶやいた.

  翌8月29日,午前中のこと.
  寝ているのがつらそうな母の半身を起こしたとき,
  母は言った.「・・・みんな,もう準備が出来て,
   (自分が死んで運ばれて来るのを)待っているんだか?
   ・・・死ぬというのは,どういうものなんだかな・・・」.
  私は仰天して,何を言ったらいいのか,わからなかった.
   「何を言っているんだ,おかあさん.直るんだよ」と言ってしまった.

  もっと別の言い方があったのかもしれない.
  例えば「(死ぬのは)眠るようなものだよ」とか・・・・.   

  これ以降,母はほとんど話さなくなった.
  ほとんど話せなくなったという方が正しいのかもしれない.
  母は死を覚悟したのではなかったか.

  8月31日に私は泉と一緒にいったん神奈川へ帰って,
  徹夜で2週間分の授業の課題を作成し,
  クラスの生徒全員の調査書を書いた.
  山形へは私の代わりに29日に千洋と一緒に神奈川へいったん
  戻った妻の小百合が看病に行った.

  私は8月31日の夜に実家から持ち帰ったアルバムで
  『母のアルバム』のホームページを作り,
  9月1日に山形へ送信した.母になんとか見せたかったのだ.
  しかし,父も妻も弟も病院につめていて,自宅にホームページを
  受信できる人間がいなかった.
  一瞬遅く,母に届けるのが間に合わなかった.

  9月2日早朝,母は息を引き取った.
     


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