愛生園で第16回検証会議 下

     隔離と懲戒の構造・俎上に


三人目の聞き取りは、邑久高校新良田教室に昭和三十八年六月から六十三年三月の閉校時まで、教諭として勤務された横田廣太郎さんでした。

教員について、新良田教室では横田さんが赴任する以前は、結婚への支障や家族の反対等により、転出を希望する教員が多かった反面、危険手当として給料は二割増でした。給料を含め、お金は県からではなく、厚生省から出ていました。
 
通勤について、横田さんは島外から船で通勤していましたが、昭和四十五年頃からまで、入所者が乗った後で職員がら乗る際には消毒作業が行われました。

予防衣等について、園職員の指導で昭和三十九年頃までは着ていました。教室への出入りに際しては「無菌地帯」である教務室で消毒を行い、「ベル制廃止」まで、生徒から受け取った答案や紙幣も一旦、消毒箱に入れました。横田さんは、そんなに厳重にすることに疑問を感じつつ、「ベル制」について、次第になれていったそうですが、沖縄県からの入学生の増加や世間に一般の学生運動の高まりなども反映し、生徒の反対が強くなっていったといいます。なかなか廃止されず廃止に際し「無菌地帯」として更衣室を設けるという交換条件を伴ったのは年配の教師に「理屈として危険がないことはわかっているが、どうしても感覚的に違和感がある」とういう意見が根強かったからということでした。

このあと横田さんは、修学旅行について、卒業生の社会復帰について、それぞれ実現の困難さや障害、生徒や卒業生、教師の苦労について述べられ、最後に「開校記念誌」への思いと、その批判に対する覚悟について話されました。やはり、責任感と大きな勇気を要したことでしょう。


ラストは卒業生で社会復帰者の匿名さんでした。会場では名前を明らかにしていましたが、この際、Mさんとします。

昭和二十年七月二十日、石垣島で生まれましたと、Mさんの聞き取りは始まりました。小学生の始めの頃、手足や顔に斑紋が出ました。母親に連れられ病院という病院を回ったあと、兄と本島に渡りました。診察が終わったら一緒に家に帰るつもりでしたが、その時あ、兄はいなくなていました。結局、私が入所したのは昭和三十一年の春でした。

中学に上がった頃、岡山に高校ができことを知り、行きたくてたまりませんでした。しかし、愛楽園から高校に入るには、恵楓園か敬愛園に転園しないと受験ができず、本土へ渡るにはパスポートが必要でした。私は恵楓園で一年過した後で受験し、合格しました。

希望に胸をふくらませ、いざ岡山へと向かいました。私たちが乗ったのは、かもつに列車客車の連結された−「お召し列車」で、何と「患者輸送」と張り紙がしてありました。

高校生活はというと、先生は白い予防着を着て白い帽子を被っていました。その先生たちは授業が終わって職員室に帰る前、手を消毒していました。私たちの使った物は何でも消毒されました。

生徒は職員室に絶対入ることは出来ませんでした。用事のある時は呼び鈴を押して先生を呼びました。当然先生と生徒の間には距離があり、私たちはいつも世間の人とは違う存在として扱われ、無意識のうちに劣等感やひけ目を感じそれを植え付けられていきました。

それからMさんは、高校二年の時に同級生で沖縄から一緒に来ていた女の子が自殺したことや七期生としての卒業文集を「起点」と名付けたこと、就職の苦労や秘密を抱えての社会生活の不安などを述べたあと、「妻には結婚する前に病気のことを打ち明け子供が二人できました。今では上の子供が結婚し孫も生まれました」と続け、さらにこう話されました。

九州では訴訟がおこされました。気持ちはわかるけどそこまでしなくても。もうそっとしておいて欲しい、という気持ちでした。でも判決の時は本当に嬉しかったし、涙が出ました。それでも、自分の病気を明かすよりひっそりいようと思っていました。けれど、退所者の集まりに顔を出すようになり、だんだん気持ちが強くなってきました。開き直りも出てきたのです。
今では、子供達にもし聞かれたら、その時にはきちんと答えようと思っています、と。



会場から大きな拍手がありましたが、彼らが味わい、乗り越えてきた屈辱と苦悩のうち、明らかに回避できたものがあったはずです。国立第一号であり、離島隔離の牙城とも言うべき愛生園です。その光田イズムの城下町に若者たちの将来と可能性を託した矛盾にどれほどの人が気付いていたでしょうか。

瀬戸内に三園を擁し、東西五園ずつを振り分けに、その中心に位置していたことが主たる理由であったらしく、らい予防法闘争のなかで高校の設置を要求し、実現させた全患協も当時、立地に対する問題意識を持っていたかどうかは疑問です。



 二日目の四月二十二日は午前八時半、園内五か所の見学検証が公開で開始されました。

@昭和十五年にお召し列車と、運転席との間にだけ格子の入った窓のある護送車、更には貨物専用船で運ばれてきたという鏡さんが患者専用の収容桟橋と収容所の説明を行い、食事は一日二食、一食はお握り一個と沢庵二切れ、コップ半分の水だけでした、と加藤さんが感冒の経験を倒れかかった塀の前で話されました。

加藤さんは昭和十九年、十八歳で入園しああと、好きだった女性が女の子を産んだが、結婚はできないのだから赤ん坊は引き取った、と母親から連絡があった由。矢も盾もたまらず帰ったが、病気のお前が父親では不憫だから縁を断ち、里子に出したので会わせるわけにはいかないと言われ、すごすごと帰園し「逃走」で十日、監房に入れられた、ということでした。

A十坪住宅は、山を削って、僅かな平地を造成しながら、建設のための寄付金を「社会の同上に依り、その建築は入所者たる大工、左官者の奉仕」で次々に完成、「祖国日本よりライを潔めんとするため」定員を無視し、入所者を増やし続けていった無ライ県運動の時代と、愛生園を象徴するものといってよく、神谷さんが案内に当たられました。

B新良田教室は一期生であった一之宮さんが大変詳しく話されましたが、二人の聞き取りと内容が重なりますので省略します。

C豚舎跡では当時、住み込みで働いていた山下さんの説明で、五百頭から七百頭も飼っていたという事でした。勿論、飢餓の時代には、豚の餌にも事欠いていたはずですが、あとで鶏舎も移って来ましたので、大変な賑わいになったことでしょう。
「愛生園を逃げ出すか、芋や塩を自分で作って食いつなぐか、何もできない者は死んでいくか」と言われ、自給自足を目指したーかつて溜池であり、農耕地であった周囲の斜面も今は緑の木々に覆われ、鶯の鳴くもとの自然にかえっていました。

D恩賜記念館に通じる坂道の途中には小川正子女医の「夫と妻と親とその子が生き別れる哀しき病世になからしめ」の歌碑があります。


恩賜記念館はどこよりも早くからあった展示資料館でしたが、旧本館における歴史館の開設により、こちらは倉庫然となっていました。しかし、それでも早くから収集に当たってきただけに、貴重な資料がいっぱいでした。

記念館の背後は断崖で海に面し、俗に自殺の名所と言われているとか、愛生園の自殺者は確かに他よりも多いらしく(昭和17年〜平成15年、26人)三か所をまとめて中尾さんが案内と説明に当たられました。

現地検証を終え、午前十一時過ぎから午後一時過ぎまで、公会堂で再び検証会議が開かれ、@聞き取りについての意見交換、Aワーキングチームについておの確認、B検討委員増員について、などの協議が行われました。ただし、愛生園で期待していた問題に一つだけ、検証会議が遂に触れることはあれませんでした。


夥しい数の解剖が行われ、臓器や症状を呈した部位、胎児等、沢山の標本が残っていて当然ですが、実に手際よく処理され、国賠裁判でも、今回の検証会議でも、その対象にはなりませんでした。一体いつ、入所者が立ち合い、手厚く葬られたのでしょうか。いや、どこかの海岸へ埋めたらしい、という噂でした。果たして本当か、確かめる必要があるでしょうし、そうでなければ浮かばれない人たちがいるはずです。