奄美和光園で第17回検証会議

将来構想が焦眉の課題に


 第十七回ハンセン病問題検証会議は五月十九、二十の両日、奄美和光園で開催されました。すでに
奄美地方は梅雨入りしており、雨に迎えられ、検証会議は例によって納骨度への参詣からはじめられま
した。

 開園以来の死亡は三百四十四人ですが、納骨されているのは分骨を含めて僅か四十三人に過ぎず、
お参りはやはり全物故者への慰霊ということであったでしょう。


 講堂における聞き取りは午後一時十五分から、二人に入所者と二人の遺族を対象に行われ、参加者は
検証会議十人、検討会五人が委員おして、これを入所者や社会復帰者、弁護士、一般理解者ら約八十人
が傍聴しました。

 全療協からは本部員(委員の神事務局長と森田中執、大竹報道、戸田書記)が参加しました。「診察の途
中、抜け出してきた」と言われながら冒頭、佐藤絋二園長が挨拶し、園の沿革や歴史的な経過、米軍政下
での状況等に触れたあと、入所者の殆ど十九%が奄美群島出身者で、家族との交流があり、家族に引き取
られていくケースが多い為に納骨堂への納骨が四十三柱に過ぎないこと、出産が認められていた時期があ
り、地域にもこだわりがなく、子供立ちが受け入られていったこと、本土の療養所と以外、地域に対して門戸
を開き外来診療を受け入れてきたが、現に一口の受診者が三十人から五十人と、入所者を上回る日もある
事など、和光園を象徴する事例について話されました。

 園長は続けて「良かった点、悪かった点、洗いざらい検証して頂き、入所者が安心できるような将来に向け
ての報告、提言に期待したい」と述べられました。


         医療は真似事だった

 聞き取りの最初は牧ひろしさんでした。

 牧さんは大正十年生まれの八十二歳、十六歳の時に敬愛園に入所しました。
敬愛園での大風子油注射の効果で、後遺症は斑紋のあったところの感覚麻痺だけですみ、和光園では本
病治療は殆ど何もしていません。

 牧さんは昭和十七年、一時外出で徳之島に帰りましたが、戦争が激化し、船に乗るのは危険でしたので家
の農業を手伝っていました。

 昭和二十二年二月、奄美群島は米軍に占領されていましたが、米軍の施政権で強制収容が大掛かりに行
われ、彼の家にも警察から呼び出しの手紙が来ました。警察に行ってみると「奄美和光園に行くから準備をし
ておけ」ということでした。その際「半年か一年で帰れるだろう」と言われましたが、彼には敬愛園での経験が
あり、半年や一年で帰れるところではないことは充分知っていました。

 出発の日時と集合場所と、患者はトラックで移動すると聞かされ、人に見られないように家を出、山の中を
歩いて行き、途中で乗ることにしました。
 
 トラックは二トン車程度で、その荷台に十四、五人乗せられ、亀得の港に着くと、徳之島だけで五十人程度
集められていました。その日、都合で船は来ず、牧さんたちは防空壕跡の穴で一晩を過しました。地元の人
から握り飯の差し入れがあり、食べました。

 奄美群島の強制収容では「金戸丸」が収容船として使われました。定期船ですので、一般の乗客も乗ります。
彼らは、一般乗客が乗る前に、伝馬船に乗り、沖合いで金戸丸に乗り込みました。船にはチョークで線が書か
れ患者はその線に沿って歩け、とうい事でした。船はすでに、与論島、沖永良部島を回ってきており、三島で
七十四人になっていました。収容室に当てられた一室は板張りで、トイレは一斗缶でしたので、女性は使うこ
とができずに困っていました。床の上に食糧の乾パンがばら撒かれていましたが、カビが生えていて食べられ
る状態ではありませんでした。

 名瀬でも桟橋はなく、はしけで港に降り立ちました。トラックで和園に向かう途中、スコールでみんなびしょ濡
れでしたが、しかも牧さんたちは浦上で降ろされ、二キロも歩かねばなりませんでした。和光園の近くの有屋町
の人たちとの取り決めで、患者が集落内を歩くことはまかりならぬということでした。だから、田んぼのなかのあ
ぜ道を通り、橋を渡ることは駄目ですので、川の中をじゃぶじゃぶ歩いて渡ったのでした。



 和光園では、牧さんたちが到着したことで人数が増え、共同炊事となりました。
 炊事も風呂焚きも全部自分達の仕事でした。

 牧さんたちが住居として入れられた建物には天井がなく、屋根はぼろぼろ、雨漏りがしました。天井板は防
空壕に使ってしまったのでした。十五畳の部屋に十数人、隣は治療場で、解剖もそこで行われていました。
ちゃんと解剖室などなく、独立した治療棟は昭和二十七年頃までありませんでした。火葬場モなく、野焼きで
遺体を焼きました。この露天による火葬は八十体にのぼります。

 夫婦部屋が整備され、入るには断種が条件とされていました。その為、六十歳や七十歳になる人たちが断
種手術を受けいました。和光園では幾組もの夫婦が子供を産んでいました。医療が貧弱で、断種も堕胎もす
ることができず、産んでしまうしかなかったのです。

 昭和三十年頃、カトリック教会のパトリック神父が、その教義に従って断種や堕胎は認めるべきではないと
いい、それがきっかけで公式に入所者に「どんどん子供を作りなさい。私が育てます。」といいました。そしてカ
トリック教会は、生まれてすぐの子供を引き受ける乳児院「天使園」を浮くリ増した。また年長になった子供たち
は「白百合寮」と言う児童施設に入、そこで育っていきました。




 二人目は作田隆義さんでした。因みに、牧さんは自治会の副会長で、作田さんは会長です。従って、作田
さんは「関係各位の大勢の来園」と「意義深い検証会議』の開催に感謝しながら、立場上、和光園における
医療の現状と「将来構想」について、およそ次のように話されました。

 私は、場違いかと思いますが、ハンセン病問題対策協議会および各作業部会においても、在園保障の問題
として療養所医療の充実が叫ばれています。特に医師の定員についてですが、和光園は三人です。けれど、
三人の医師の配置ではなかなかありません。現在でも園長と国立国医療センターから三ヵ月の条件で派遣さ
れている医師一人の状況で、園長先生が夜の当直もやらなければならないとか、これは大変無理なことでご
ざいまして、入所者にしてみれば、緊急時の対応とか、不安がいっぱいです。

厚生労働省では、この事態を重く見て一日も早く三人の医師の充員を図って頂きたいと思っています。

 次は将来構想です。現在の入所者は六十九人、平均年齢七十八歳、将来構想の問題は緊急の課題となって
います。入所者と職員、地域とが一体となって取り組まなければならない重要な問題ですが、残念ながら和光
園では、自治会の維持が精一杯で独自の委員会は設置されていません。幸い、名護市では昨年来、委員会が
組織され、奄美群島における唯一の国立医療機関として和光園を如何に存続させていくか、熱心に討議し、
先日(三月三十日)「国立長寿検線あー(仮称)」を園内に併設するおいう提言がまとめられ平田市長に報告
される見通しです。

 この問題は、国の行革の厳しい折りだけに難しいところもありますが、地域におきましても、難病その他、
筋ジスとか、重度の障害を持った方々、また最近増加しつつあります高齢による痴呆症、病に苦しみ、
不自由な生活をやむなくされている人々も少なくありません。

 この素晴らしい環境と和光園が、これからも国の医療機関として存続させて頂き、或いは群島全体の
リハビリのセンターとして広く活用されていくことになればいいと私どもは願っています。

 和光園の将来構想につきましては、何処におられましても、ご理解とご支援を頂きたく、検証会議に臨み、
お願い申し上げる次第であります。
 
 将来構想の問題は焦眉の急を告げていますが、誰かがいっていたように、和光園は小規模だから舵が
取りやすい、という面があるかも知れません。とに角、医師は園長だけに等しく、これでは施設長議会に
出席するこおも覚束ないでしょう。しかし、和光園の問題はどこの園にとっても、他人事ではないはずです。