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著作:家族の肖像について


1996年,らい予防法が廃止されたことと、その二ヶ月の6月11日、たった一人の兄を
お粗末な医療故病死させました。残念でなりませんでした。兄は最後の言葉として
「実母を・・・」探せと言っているようでしたが、はっきりと聞き取れませんでした。
兄の没後、私は、私と兄を生んでハンセン病に罹患した母(1935年頃)兄の発病
(191941年)のことから、犯罪者家族的差別偏見を受け始めたハンセン病家族が、
音を立てて崩れて行った家族の崩壊というこの事実。
 
ハンセン病患者家族として迫害を受け続けながらも、それでも生き抜くために小さな
日本を逃げ回った家族。ついに私も1948年に発病し、1950年11月に静岡県の
「駿河療養所」へ強制収容され、園内名を強要されながら、いままでの生き方の
全てを捨てようと決意した時期でした。

兄弟が別々に強制収容された中で兄の危篤を知らされ、多磨全生園に転園を
願い出て以来、多磨全生園の一員として療養生活が始まり、隔離された施設で
兄の看護に努めました。その甲斐があり兄が元気になりました。
 
それから私の第二の人生が始まります。数十年後、兄を多磨全生園の納骨堂へ
納めてから、2000年1月、入所者自治会が発行する月刊誌「多磨」に、私の家族が
受けてきた被害を自分の個人史を含め記録として訴えるために連載を投書しました。
それが「家族の肖像」という表題となりました。
 
1998年九州で提訴されたハンセン病違憲国家賠償訴訟、1999年3月東京組の
私たちも提訴しました。2001年5月、勝利判決を迎えた12月、連載は完了しましたが、
勝利判決後、市民の皆様、若い高校生・大学生の皆様が、長年隔離された事実を
真摯に受け止め、啓発活動の一環として講演依頼を受けるようになりました。
 
奈良県・愛知県等からハンセン病問題を理解する講演依頼を受けて聴講者の方々から
貴重な感想文を頂きました。そのことが切っ掛けで、先に多磨誌連載していた
「家族の肖像」を本にせよ。と励まされ、私たちも含め、家族への偏見・差別も
解消されていない現状ですが、意を決して「家族の肖像」の出版依頼を皓星社へ
依頼、2002年4月に初版を出版し、ハンセン病問題解決の動きに関して加筆しました。
その後の2002年11月の第二刷、2003年12月第三刷を経て現在に至っています。




改名について: 平野暉人、凡太郎、平野 昭の釈明


2003年2月から親が付けてくれた本名の平野 昭に戻らせて頂いたのを
切っ掛けに、何時か改名しようと思いながら、なかなかチャンスがなく、
改名には何という名前にしようかと散々迷いました。

ふとしたことから、メールでお付き合い願う皆さんが、ホームページに
立ち寄ってくださいますことを閃きとして凡太郎にしました。

駿河療養所に入所することで、私の過去を葬り去った1950年11月でした。
施設には園名でなく本名での療養生活を申し出ました。しぶしぶ了解されて
私は比較的健康度が高いので健康舎に入居しました。入所して間もなく私は、
凡太郎というあだ名を先輩たちから頂きました。当時平野凡太郎という芸人が
活躍しており、親しみ深くするため、私にあだ名として付けてくれました


生まれたときの命名のごとく駿河療養所の皆さんが親しく呼びかってくださいました。
いまでも時々第二のふる里である駿河療養所へ出向きますと、当時の先輩や
仲間たちが、一斉に「凡ちゃん」と呼んでくれます

多磨全生園に転園したときは園内名強要され、やむなく平田 昭としました。
しかし、馴染めませんでした。兄の病気回復もあり、自分がハンセン病でなければ・・・

人生の大半をハンセン病のために隔絶され、菌陰性となっても、療養所生活を
強いられた半生でした。肉体的、精神的迫害を受け続けた人生でしたが
「俺たちも人間だ」。そんな思いで施設監視員の目を盗んで社会へ飛び出しました。


ハンセン病元患者であることをひた隠しにして、社会の片隅で生活した24年間の
実生活でした。それでも社会生活を実感できました。そんな楽しい社会生活を国は
真から歓迎はしていなかったようです。なぜなら、私たちの身体は予防薬を常飲する
必要がありますが、その予防薬は保険適用外で一般の薬局では購入できません。


それが原因で私は再発の憂き目に遭い、再入所という社会生活から挫折して
療養所へ舞い戻ることになりました。1987年12月でした。

そのとき、また、園内名を言われ、平野暉人と名付けました。

再治療の結果、また元の健康に戻りましたが、この社会復帰期間中に変化した
所内の環境もあり、間もなく自治会活動に参加することになります。

世の中の進歩発展に遅れまいと、ワープロからパソコンへと様変わりするなかで、
メール交換という技術を習得し、@niftyに申し込みましたら、昭、暉人では先着があり、
咄嗟に凡太郎が浮かび申し込みましたら受け付けてくれました。

そして現在に至っています。

こんな尊い名前をメールだけでは・・・と思い、此処に「凡太郎のホームページ」に
改名させて頂きました。どうぞ、今後ともよろしくお付き合いをお願いします。






下記のリンクコーナーに、講演会の際にお寄せ頂いた感想や出版時から現在までに

頂いている感想文を掲載していますのでどうぞ、ご覧下さい。

HPを立ち上げご質問に答えていくことにしました。  「家族の肖像」は裁判中非公認原告としての自分の行動制約、社会復帰中の書き記すことのできない様々な事実等ありますので、ここに 国家賠償請求訴訟が九州から火の手が上がり、私も同意して運動に立ち上がりました。同時に生母(兄と私を生んでハンセン病に罹患、離婚)の消息がおぼろげながら判明してきました。 しかし、法廃止及びその後の政策は、これまでの誤った政策によって引き起こした人生被害を償うものではありませんでした。この強制隔離政策は、国が物理的な力を行使するだけでなく、社会的・心理的に追い込む政策を作り出し、助長し続けてきたハンセン病に対する偏見や差別を解消するものではありませんでした。そんな不満が沸騰した矢先、「法廃止」には人権侵害の保障、人生被害の賠償はない。これでは法廃止の意味がない。と訴えながら最愛の兄は他界しました。医療の貧弱さもさることながら、67歳で他界した生涯の60年を隔絶された療養所で送り続けたこと、ついに結婚する機会も与えられず、一生を独身で過ごしたこと、そんな兄が最後に「生母を捜せ」と言い残したことでした。これが執筆の動機です。



「家族の肖像」感想文

「家族の肖像」感想文  二病棟看護師 匿名2名様
「家族の肖像」感想文  ちこ様
「家族の肖像」感想文  yuiko様 
「家族の肖像」感想文  浜田麻子
「家族の肖像」感想文  中村裕美様
「家族の肖像」感想文  川崎・杉野様