全療協ニユース889号転載

     連れて菊池恵楓園で第18回検証会議 (下)

          四大事件と私立二施設も

 二日目の十六は午後一時より恵楓会館において四人からの聞き取り調査が行われ、前日に続き、十二人の検証会議委員と五人の検討会委員をはじめ、準備や記録、傍聴のための弁護団や入所者、職員、支援の人たち百人余りが出席し、マスコミの取材の多さも目立ちました。

   

 最初、入所者の志村康(全原協幹事)さんから藤本事件についての聞き取りが行われました。
 志村さんは、藤本算宅ダイナマイトが投げ込まれたとされる事件で、菊池恵楓園における出張裁判で有罪の判決を受けた藤本松夫が、留置場を逃げ出したあと、算が何者かに殺され、松夫が犯人として逮捕されたことに続き、裁判の特徴や救援活動、不当判決や処刑に至る経過を詳しく話されました。同時に、救援活動を中心で支えた増重文さんや、入江信さんのこと、面会に行ったり、文通で知り得た松夫の心情にも触れながら、志村さんは死刑の執行された日のことを、「なんでそんなひどいことをするのか」と思い、胸が張り裂けそうであったといわれていましたが、そのあと、各委員の質問により、、志村さんとの間で大変、重要な問題が明らかになりました。

@裁判長自身が証拠品をピンセットだ扱っていたこと、A国選弁護人は一審で全く弁論を行わず、現地検証もしていなかったこと、B再審が行われるべきであること、C園内で傍聴人もいない状態で行われた出張法廷は、公開の原則に反し違法であり、松夫は憲法の外におかれていたこと、従って、D憲法違反を裁判にかけることが再審の中身であること、E松夫は「神経らいの軽症」との診断をうけたとの説があるが、園に聞いてもはっきりしないこと、F再審は家族の請求でなければならないこと、などです。

  

 二人目の坂本克明さんは現在、社会福祉法人神召会理事長の職にある教会の牧師さんすが、熊本をはじめ福岡、長崎、大分などの刑務所で講話等の奉仕活動をしていたことがあり、昭和三十六年六月からは菊池医療刑務所の教誨師も引き受けていたということでした。

当時、受刑者のなかに、死刑判決が確定した藤本松夫がいました。死刑の判決を受けたのは彼だけでしたので、藤本だけは講話の後、毎回一時間ほど個人面接をしていました。教誨師としての話は聖書に関することばかりで「再審申立」や、救援活動の状況などは立場上、話せませんが、「経験からして、藤本さんは、無実の罪ではなかろうか、という気がしておりました」ということでした。

 ところが、その年の九月十四日、突然死刑が執行されてしまいました。面会に行く直前でした。この死刑は、通常の手順を無視しただまし討ちでした。当時、死刑を執行するには、前日の午後二時頃に法務大臣から電報が来て、翌日執行することが本人に伝えられます。死刑になる前に、一晩思いを巡らせる時間的余裕を与えられるものと理解されます。藤本さんの場合、執行当日、福岡刑務所にいきなり連れて行き、そのまま執行されました。死刑の執行には教誨師が立ち会うのですが、私には連絡もありませんでした。

 あまりのひどさに私はむしょうに腹が立ち、これ以後は教誨師として刑務所に関わることはやめました。
 ホルマリンの匂いがプンプンしていた菊池医療刑務所内の状況や藤本松夫の、その時々の様子などについて述べながら、坂本さんは委員の質問に答えるなかで「日本は全く法治国家ではないのではないか、と思いました」と、多くの人がびっくりするようなことを言われました。しかし、不当判決から処刑に至る経過を見ていれば「憲法はどこへいったのか」誰もが思ったことでしよう。

 坂本さんは、更にこう言われていました。「再審は、家族の請求でなければならないとは知りませんでしたが、やって貰いたい。この裁判だけはやり直して貰いたいものです」と。

   

 森美代子さんは、昭和二十八四月、龍田寮に保母として採用されましたが当時、同寮には、一歳から中学生まで、六十七人の子供たちがいたということです。親が強制収容され、「未感染児童」として預けられた子どもたちです。

 龍田寮の敷地内には黒髪小学校の分校があり、一年生から六年生まで、昭和二十八年十二月、恵楓園の宮崎園長が法務局に、子ども達を普通の学校へ通学させないのは差別だと申し立て、新聞で取り上げられると、にわかに黒髪小学校のPTAが騒ぎ始めました。
 
入学式の日から反対派が同盟休校を強行しました。
反対派は,「黒髪会」という住民組織を結成し、龍田寮の廃止を要求するようになってきました。寮の前には反対派の車が来て、拡声器で「でていけ」と怒鳴りました。その都度、「また来た」と不安がる子ども達に、私たちは「そんな人ばかりじゃないから」と励ましていました。

 昭和三十年には、熊本商大の高橋学長が間に入り、新一年生四人を学長の官舎に引き取り、そこか本校に通わせることを提案し、最終的にはこれが受け入れられました。しかし、龍田寮は昭和三十二年いっぱいで閉鎖と決定されました。龍田寮には三十八人の子ども達が残っていました。その全員を親戚や県内の児童擁護施設に分散させることになりました。

 とてもつらい仕事でした。ある子は、親戚の手に渡し、ある子は施設まで連れて行きました。二十四時間一緒に過ごし「お姉さん、お姉さん」と本当の家族のように慕ってくれた子ども達です。泣いてしがみ付き、離れようとしない子を振り払うようにして帰ってきたこともありました。

 森さんは、龍田寮の廃止後、菊池恵楓園へ配置換えになると同時に、子ども達から連絡があれば、それに応じる係りもつとめ、盆や正月には何人もの子ども達が訪ねてきて、狭い官舎でごろ寝をしたり、語り明かしたり、そういう関係がずっと続いている、ということでした。

 質問の際は、同僚であった木村チズエさんも一緒でしたが、子ども達のことを思い出し、涙で話が何度もつかえ、助け合って答えられていました。実際、結婚しても、夫や妻や子どもにも話せないような秘密を背負い、かっての子ども達は今でも、森さんたちの居場所を内緒の「古里」として生きているのでしよう。
 
   

 最後は入所者で自治会中央執行委員(渉外委員)の杉野芳武さんでした。
 杉野さんは熊本県が実施している「ふるさと訪問事業」で菊池恵楓園入所者のうちの同県出身者がアイレディース宮殿黒川温泉ホテルへの宿泊を拒否された事件を取り上げ、事件の経過と自治会の対応について話されました。

 何とか理解をという一心で黒川温泉ホテルに昨年十一月十七日、自治会役員がおじゃまをし、お願いしたのですが、「会社の方針でお断りする」とか「他のお客様に迷惑が掛かる」と誠に確信に満ちた態度であり、何をかいわんやの思いでホテルを後にしたこと、次いで県の素早い対応により、ホテル名が公表されるや、一転、謝罪にきたいといってきたこと、当日、(十一月二十日)ホテル総支配人の言葉には、社長名も本社のことも一切なく、ただ「自分の理解不足でご迷惑をおかけしました」の一点張りであったため、謝罪を拒否したこと、そしてその報道により、自治会の電話が鳴りっぱなしになり、誹謗中傷のハガキや手紙の束が、たちまち事務所の一角を占めていったこと、二次被害の発生と、その後の経過を述べられたあと、杉野さんは重要な問題提起をされました。

   

 啓発というのは、それこそ「無らい県運動」のように山間僻地の、末端の一人々々まで、量と共に質の面でも徹底が必要なのではないでしようか。啓発にはこれといった特効薬はないかも知れませんが、特にマスコミにお願いしたいのは、事あるときにだけ甘い蜜に集まる蟻のように群れてオーバーヒートするだけでなく、日常においても、啓発に資するように心掛けてほしいものです。
 「宿泊事件の報道合戦で自治会事務所がまるでどこかの記者クラブのようになったとき、私たちはその様を隅の方で横目で見ながら囁きあった」と。

 杉野さんが提起した問題とはいえ、各委員の質問により、杉野さんはサンドバックのような状態になっていましたが、そこに、かってない理論の深まりを見せたのも、きっと杉野さんのおかげでしよう。
 啓発とは何だったのか。啓発とはどうあるべきか。啓発を以て問題を把握することができるのか。各県による里帰りやふるさと訪問は、単なる観光であり、本当の里帰りはどうあるべきか。国の責任とは如何なるものであるべきか。その他、議論はマスコミのあり方にも及びました。

   

 十七日は午前十時より熊本市島崎の待労院を参観しました。定員が百二十人という時代もありましたが、新法施工にともない琵琶崎待労病院は待労院診療所となりました。有床診療所ということで現在の入所者は十人です。
 
 一行はシスターの案内で旧診療棟、聖堂ほかを見学した後、非公開で入所者八人と面談、入所のきっかけや待労院での生活などを一人ひとりから話して貰いました。但し、治療については菊池恵楓園に通っている、ということでした。

 待労院からも仁王門が望めましたが、続いて本妙寺へ行き、みんな汗を拭きふき石段を登って下り、かって患者部落(常題目)のあったあたりの新地を見学し、三日間にわたった日程を終え、そこで解散でした。