松丘で第二十回検証会議


      今でも疼く隔離の爪痕(下)

第二十回、松丘保養園検証会議風景



 三人目は坪田多三郎さん(七十七歳)でした。
 坪田さんは十二違いの兄がおり、松丘保養園で亡くなっていましたので、両親は近所の目を
気にし、眉毛の薄くなった彼を親戚や天理教の教会に預けたりしていました。ところが、昭和
十七年五月末、警官と療養所の医師と看護婦、保健所の職員が白衣できて三日以内に入所
するように、といわれました。家は青森でした。六月三日、坪田さんは荷物をリヤカーに積み、
母親に連れられて松丘保養園に来た、ということでした。

 当時、子供舎は男女別々で、一つの建物に12畳半の部屋が四つあり、一室に四、五人が
住んでいました。ここでは食べる物のないのが辛かったです。園内の学校は、年齢やもともと
の学齢に関係なく、入学することができました。私は二年ほど勉強して、昭和十九年三月に
卒業しました。この学校では、教師も入所者で後年、全患協の事務局長を勤められた鈴木禎一
さんが、五・六年生と高等科を担当し、佐々木与七郎さんが小学一〜四年生を教えていました。
先生達は一生懸命教えてくれていましたが、子供達の中には「無理して勉強して何になる」と
やけになっていた子もいました。

 学校を卒業してすぐ、大人の健康室に移りました。雑居生活の苦労は口ではいい表せません。
しかも、健康室に入ってから、夏は朝三時に起き、畑仕事をしました。園内で食べる野菜は殆ど
畑で作っていました。そのうち神経痛を患うようになり、手を悪くしてしまいました。

 治療薬は大風子油が中心で、注射の仕方など、医師の指導は余りなく、作業賞与金や親が面会
に来た時に貰ったお金で購入し、患者同士か、自分で打っていました。油性ですので注射が痛い上、
うまく打たないと化膿することがありました。

 松丘保養園では、手術や解剖に患者を立ち会わせることがあり、私も足の切断と解剖に立ち会った
ことがあります。どうして立ち会わされたのか分かりませんが、全身麻酔の手術ではそのまま亡くなって
しまう人もいたそうです。それが原因になっているのかも知れません。解剖は、死因がよく分からない
まま亡くなった方の場合、個人と親しい人が立ち会いをさせられました。

 看護学生は断種手術も見学しました。私自身、断種手術を見学され、耐え難い思いでした。看護
学生とはいえ、右も左も分からないような女の子たち四・五人に見学され、この経験が一番いや
でした。

 男と女が好きになり、結婚したいと思うのは療養所の中でも同じことで、私も妻と一緒になること
にしました。私は昭和二十三年に結婚し、結婚した翌日に断種しました。当時はまだ「通い婚」で
した。そのうち健康室が夫婦室に変わりましたが、その部屋も三十畳の部屋に何組かの夫婦が
一緒に暮らすというものでした。

 このあと坪田さんは炭焼きや火葬もやったが、患者作業で一番大変なのは冬場の雪掻きと道路の
雪踏み、屋根の雪下ろしであったと話されました。さらに坪田さんは、予防法闘争の時のことや、自身
が癌治療で県立病院に入れられた際のことなどを話されましたが、国立療養所でありながら私費で
大風子油を購入し、患者同士で注射を打ち合っておいたことをはじめ、足の切断や解剖に立ち会わ
され、おまけに看護学校の生徒たちに見学されながら受けた断種のことが述べられた時には、みんな
驚き、聞き取り会場の松岳会館はシーンとなり、やがて静かなどよめきが起きました。
 質問によっても、何れも正当な理由は解明されず「これはひどい」という一語に尽きますし、隔離
撲滅政策の下では、どんなやり方であれ、天下御免であった証拠です。

     

 二日目の十五日は文化センターに於いて午前九時三十分より、社会復帰者のYさんからの聞き
取りが行われました。非公開でしたので、差し支えのない範囲で要点だけを紹介します。

 私は昭和十四年、秋田市に生まれました。昭和二十六冬、私と母は病院で診察を受けました。
翌二十七年春、保健所の人がきて打ち合わせをし、母と私、弟が入所し、父と二人の兄が家に
残りました。私は入所の時に三年くらいで治るといわれ、それを信じ、頑張って治して出てやろう、
と考えました。
 その後邑久高校新良田教室に進学、将来のために自動車運転の練習に励んだり、在学中は
松丘に一度も帰りませんでした。
 松丘保養園に帰ってからは、しばらく「甲田の裾」の編集などをやっていました。私は、プロミンの
効果で、曲がっていた指が伸びるようになっていました。
 園長に相談しました。正式の許可ではありませんが、出ていいよ、頑張ってみな、と言われました。

 退所してからは父の仕事を手伝ったり、クリーニング店の見習いをやったり、その後、木型店で
住み込みで働かせてもらうことになり、そこで約十年働きました。良い仕事先はきちんとした履歴書
が必要でした。ところが私は蓄膿症にかかり、保険証がないため、松丘保養園で治療を受けました。
お金もなく、仕方がなかったのですが、そのことを木型店の親方にひつこく聞かれ、やむを得ず本当
のことを言いました。親方の奥さんの態度ががらりと変わり、お風呂には家族の前に入るな、最後に
入れ、遂には入るなと言われ、木型店を辞めるきっかけとなりました。

 運転技術を生かして清掃会社に入り、母に相談し、同郷でふる里に帰りたがっている女性と結婚
しました。妻はC型肝炎に感染していました。結婚当初から肝臓が悪く、秋田の病院に通い、週一回
位、点滴を受けていた時もありました。その後、病状が悪化し、入院していたところ、本病が騒ぎ出し、
松丘保養園に再入所するしかありませんでした。肝臓の治療を打ち切り、秋田の病院から無理矢理
退院したのでした。

 Yさんは最後に「最悪の選択であると思います」としながら、「あるいは将来再入所するのだろうかと
考えています」と、その不安を述べられました。

     

 続いて午前十時五十分より、藤崎会長の案内と説明で、園内各所の見学が行われました。

 @渡り廊下。松丘会館の前から売店を迂回し、寺社通りの手前まで、福祉棟や治療棟、病棟や不自
由者センターに沿いながら百六十メートル、中央通りともいい、どんな雪にも平気なアーケードとし、
関係車両は勿論、場合によっては消防車も通れるということでした。

 A少年・少女舎。双葉分校分教室跡地は図書娯楽室になっていました。

 B松栄山楓林寺と聖公会松丘ミカエル教会の間に地蔵堂があり、昭和四年に近所の篤志家
寄進してくれたとのこと。一人では寂しいのでは、と入所者で最近、寄進された人がおり、お地蔵
さんは二体でした。

 C寺社通りの最後は天理教みちの友会布教所ですが、その手前の松丘カトリック教会とキリスト
教松丘聖生会の間の坂道を登ると逃走防止のための土手に突き当たりました。1メートル程の
土手の上にはアカシアの木が植えられ、バラ線が張られていたそうですが、今では両側との高低差
は余りなくなっていました。自動車が行き交い、道路の向こう側には民家が並んでいましたが、
何と思ったのか、犬がしきりに吠えていました。そういえば、最寄りの駅では患者を見つけると
園にすぐ通報していたんです、と。

Gの光景、当時植樹された場所 D石の杭


 D園の南端を白樺の木立に沿って下ると北部療養所時代の境界線がありました。石の杭の外側
の約二万坪は慰安会の所有地として拡張したのだそうです。

 E火葬場はその財団法人慰安会の所有地にあり、昭和三十八年まで使われていました。跡地の
「松丘慰霊の塔」は昭和三十五年、入所者自治会が建てたものです。

 F松丘は園の東側を幾つもの沼によって囲まれており、自治会が「鯉」の養殖行ったことがあり
ましたが、沼は国のものです。冬には鴨や白鳥が来ますが、今はヨシキリと蝉の声が聞こえるだけ
でした。

 G中央通りの渡り廊下を挟んだ福祉棟の反対側の路肩に昭和九年九月から十三年まで、外島の
風水害によって委託患者となってこられた人たちが、邑久へ帰られるに当たり、記念として植えて
行かれた牡丹が二十数株残っていました。北国の寒さに驚き、ちょうど松丘では、施設を全焼させた
大火にも見舞われ、来たときの五十人が、帰るときには、半分の人数になっていたといいますので、
大変な苦労だったのでしよう。六十五年を経、牡丹は毎年、どんな花を咲かせるのか、誰でも見て
みたかったに違いありません。